4.ヒラエス
その晩、懐かしい夢を見た。母がまだ元気だった、幼い頃の夢だ。
『わたしにはどうしてパパが居ないの?』
父なし子というものは、この不安定な時世に珍しいものではなかったが、子は父と母が居て生まれるものだと知れば不思議に思うものである。わたしが無邪気にそう尋ねると、母は決まってこう言った。
『パパは今、私たちの自由のためにイングランド軍と戦っているのよ』
『だけどママ、イングランド人とウェールズ人がたたかっていたのは、わたしが赤ちゃんだったときなんでしょう? いまではもう、“こぜりあい”ていどだって村のおじちゃんたちが言ってたわ』
『いいえ、だってまだ、あの人がイングランド軍に捕まったという話は流れてきていないもの。だからまだ、戦いは終わってないの。あの人はきっと、今もまだどこかで戦っているのだわ』
寝物語のように何度も何度も聞かされたせいだろうか。今も父が、どこかで生きている気がするのは。
母は、最期まで信じていた。いつか父が、イングランドの支配を退けて、再び母の元へ会いにくることを。
同時に、憂えてもいた。恐らくは、父の内心を慮って。
『だけどあの人は、本当は争いたくなんて……、いいえ』
独り言のようにそうこぼした母の言葉が、幼心にずっと引っ掛かっている。
『さぁ、もうおやすみなさい。明日も早くから、薬草を摘みに行かなければならないでしょう』
『はぁい』
そうして母の腕に抱かれて、狭いベッドの上でふたり、丸くなって眠りについた。
そんな、つましくもささやかで幸せな頃の夢を。
▽ ▲ ▽
短い眠りから覚めたとき、板戸の隙間から二日ぶりの陽の光が迎えてくれることを期待していた。けれどどうやら、神というものは常に人を試すのがお好きらしい。
空が泣くことを止めたのは、本当に束の間の休息だった。
ぼんやりと頭をもたげたわたしの意識を現実に引き戻したのは、夜明け頃のように薄暗い室内と、トツトツと板戸を叩く雨音だ。
身体が痛む。地べたに座ったままベッドに腕を組んで、それを枕にして眠っていたせいだ。どうしてそんな体勢で、と考えが至ったところで、明け方近くまで看病していた相手のことを思い出した。
昨夜、熱で浅い息を繰り返していた男は、小康状態に落ち着いたのか、健やかな寝顔でときおり寝返りを打っている。額から落ちて乾いた布が、枕元でくしゃくしゃになっていた。
朝食を摂らせるために彼を起こすと、男は板で塞がれた窓を見て、腑抜けた顔で嘯いた。
「まだきみと話していたいという私の願いが、主に届きたもうたかな」
「ええ、そうでしょうとも。眠る時間が勿体ないと、こどものようにぐずっていたものね」
「……その節は、お手を煩わせて申し開きもできません」
今度はばつが悪そうに毛布を顔半ばまで引き上げた男から、くたびれたそれを半分ほど剥ぎ取る。困惑した様子の彼をよそに、額へ、頬へと手のひらを当て、薄闇の中でわかるほどまで顔を近づけると彼の涙袋を押し下げた。
昨夜の薬が効いたのか、咳や鼻水は出ていないけれど、まだ少し熱が残っているようだ。朝食を食べてもういちど薬湯を飲んだら、またひと眠りするように――そう伝えて食事の支度を始める。
今朝はウサギの干し肉と根菜を、一昨日つんできたハーブのいくつかと一緒に煮込んだスープにした。汁は少し多めに作って、今晩はこのスープで押し麦を煮込もう。ミルクのない押し麦粥よりは、いくらかましだろう。
ノスには根菜やハーブを加える前の、肉の欠片を茹でて薄く塩で味を付けたスープを与える。立ち上る湯気が見えなくなるまで、彼女はそれに口をつけなかった。
朝食を済ませると彼が――病人だというのに――後片づけをしようとするので、慌ててベッドに押し戻した。昨日ほどよたついていないにしろ、まだ微熱はあるのだ。油断してまた熱がぶり返したら目も当てられない。
代わりに薬湯を煎じて飲ませると、苦みに慣れないのか、眉間に皺を寄せてそれを飲み干した。
「頭と顔を洗えるようにお湯を沸かすから、それまでじっとしていてちょうだい」
そう言いおいて、彼がまたベッドを抜け出す前に碗を洗い、溜めていた水を大きな釜に移して竈の火に掛けた。空っぽになった水瓶は新しい雨水を溜めるためにそのまま軒先へ出す。
黙々とこなされる一連の作業を、男はベッドに横たわったままじっと見ていた。物珍しそうにと言うよりは、わたしが為すことを逐一、頭に記録するように。
人恋しいのだろうということは、昨日の彼の言動で充分に理解できた。何もするなと散々釘を刺したので、手持ち無沙汰のせいもあるかもしれない。
ノスでも抱えて撫でさせれば注意が逸れるかと思ったけれど、彼女はいち早く危険を察したのか、既に誰の手も届かない薬種棚の上へ避難して寛いでいた。薄情な猫だ。
お湯はまだ沸かない。それなのに、彼はじっとこちらを見つめている。
「あなた、家はないの? 名前を呼んでほしいと思うほど、誰にも名前を呼ばれない生活を続けていたのでしょう」
居た堪れなくなって戯れに問いかけた。黙ってこちらを見ていた男は、突然尋ねられて驚いたのか不思議そうな顔をする。
返ってきたのは、あまりにも頓狂な答えだった。
「……すまない、なんて? お茶?」
「違うわ、家よ。帰る場所。あなたには帰る場所はないの? と聞いたの。聞こえなかった?」
渋い顔で英語に直すと、彼は頬を掻きながら、一昨日も聞いたようなことを恥ずかしげに口にした。
「カムリーグに慣れていないんだ」
「カムライグ、よ。それでよく“吟遊詩人”なんて続けられるわね」
「ああ、今のはわかった。“吟遊詩人”だね」
「いちいち英語で言い直さないで」
噛み合っているようで噛み合っていない。不揃いな歯車をぐるぐると回すように、わたしたちの会話は不器用に進む。
出会ったときから、この瞬間まで約二日。どうやら進歩はないらしい。
歯にものが挟まったような気持ち悪さを抱えながら、それでもこうして言葉を交わしているのだから、人の心と運命とは奇妙なものだ。
男はもぞもぞと毛布の中で身じろいで、やがて適当な形容を探りながらわたしの問いへ答えた。
「帰る場所、か。あると言えばあるし、ないと言えばない……かな」
「謎かけ?」
「いや、ううん。故郷は今もある。……けれどもう、私はきっとそこに帰れないから」
「ふぅん」
何故かと問うにはあまりにも無意味で、代わりに気のない相づちをひとつ返す。彼はこの家を訪ねてきたその瞬間から、何か訳ありのようだった。
彼が自ら明かした数少ない身の上を思い出す。――『私の母も、魔女と呼ばれた人だったから』と、彼は過去形で言ったのだ。そこに、彼が答えを濁した理由の一端があるのだろう。
「帰れなくて、寂しいと思ったことはない?」
ふと、わたしは彼に聞いてみたくなった。“帰る国”を失ったわたしの、ほんの興味本意だった。
「ないとは言えない。けれど、こうして流れ行く生活も悪くないとは思っているよ」
男は躊躇うことなくそう言った。
「ずっと歩いていると足は疲れるし、お金を稼げなくてひもじい思いはするし、この地の人々に混じって英語で話すと、敬遠の目で見られて居心地の悪い思いをすることもあるけれど……」
「それだけ散々な目に遭っているのに、それでも悪くないと思えるものなの?」
「うん。この国には存外、温かい人たちも多いからね」
彼の言う“この国”がどの範囲を指しているのかは気になったけれど、そこには触れずに、「そうね」と控え目に相づちを返した。少なくとも、わたしの知る範囲の人たちは、懐が広くおおらかだ。
それはイングランド人でありながら、目の前で床に伏す彼も例外ではない。
(……“わたしの知る範囲”なんて、たかが知れているのにね)
自嘲するように頭の隅で考えていると、まるでわたしの思考を透かし見たかのように、今度は彼が問うてきた。
「きみは、世界を旅してみたいと思ったことはないの?」
内心、どきりとした。たった今、自分の見識の狭さに思いを巡らせていたところであったから。
「さぁ、どうかしら。わたしはこの小さな場所で事足りているから」
僅かにさざめいた気を落ち着けるために、わたしはそっけなく答えた。事足りている、と告げた気持ちは嘘ではない。
過分を望むのは、常に危険と隣り合わせだ。より多くを得ようと思えば、今ある何かを捨てなければ身動きが取れなくなる。
わたしは、僅かに残った手の中にあるものを守るので精一杯だった。
「事足りることと満たされることは、同じではないよ」
知ったような口ぶりで、男が言う。実際に知っているのかもしれないけれど、それはわたしの知るところではない。
「同じなのよ、わたしにとっては」
思わず突き放すように言ってしまってから、ふと、昨夜見たこどもの頃の夢を思い出した。
「でも、そうね。小さい頃は、この国を自分の足で隅々まで巡れたらと考えたこともあったわ」
「ほら、やっぱり」
「あなたが考えているような、夢のある理由じゃないわよ」
彼が嬉しそうに頷くので、予め断っておく。彼が毛布の間で、首を傾げたのが見えた。
彼の瞳に促されるようにぽつりぽつりと口からこぼれたのは、母が生きていた頃、断片的に聞き齧った話だ。
「わたしの父は、わたしが生まれる前に居なくなってしまったの」
「それは……先の反乱で?」
「ええ。亡くなったわけじゃない。ただ、誰もその行方を知らないわ」
ちらと釜の中を覗くと、ぷくぷくと小さな泡が釜の底から浮き上がっていた。大きな釜の水が煮立つほどに長話をしていたようだ。
このお湯がすっかり沸き上がるまでの時間を考えて、わたしは一度閉ざした口を再び開いた。
母は昔はもっと遠くの、別の町で薬師をしていたの。宿屋の一角を間借りしてね。女が身ひとつで生きていくには、体を売るか知識を売るしかない世の中だもの。幸い、母には知識があったからそれを生業にできたのね。
その町に、ウェールズの反乱軍だった父が訪れたそうよ。その頃はまだ、反乱は“反乱”ではなく、“革命”になりうるほどの勢力だったわ。だけど戦いは激化していてね。勝つ戦もあれば、負ける戦も少しずつ増えていたのですって。
ウェールズ中を飛び回るように戦から戦へ身を投じていたのだから、怪我も増えれば疲労も溜まるわ。負傷して倒れていた父を見つけて看病したのが母だった。父を看病する内に、互いに情が芽生えたのね。それもまぁ、自然な成り行きだわ。……父が既婚者でなければの話だけれど。
母は――これは誰にも秘密よ。でも、あなたは流れの旅人だからいいでしょう――未婚のままわたしを身籠り、産む決心をしたわ。内実がどうあれ、誉められたことではないのでしょうけれど。父はカトリック教徒だったそうだから、妻と別れて母と一緒にはなれなかった。ただ、それだけのこと。
世が世なら、母は父の妾にでもなっていたかもしれないけれど、生憎、反乱の渦中に身を投じていた父にその決断はできなかったのですって。
連れていくことは、戦地に伴うことと同義だったから、優しくて実直なあの人はわたしを危険に晒せなかったのよ、と母は笑っていたけれど。さて、互いの本音は今となっては知りようもないわね。
――そんな話を、幼い頃に繰り返し聞かされた。だから、ほんの少しだけ、考えてしまった時期があったのよ。
「お父上を、探しにいきたい、と?」
一息つくと、それまで黙って話を聞いていた男が口を挟んだ。わたしはそれに、おもむろに頷く。
「小さな頃の話よ。母に薬草の扱い方を習うようになったら、忘れてしまったような馬鹿げた願望」
くつくつと、釜が小さな音を立てていた。その様を眺めながら、壁に立て掛けていた火かき棒を取る。じきに泡が大きくなって、水面が波打つことだろう。
ぞんざいに話を結ぶと、彼はすっかり上半身を起こして首を振った。
「だけど、きみは今も覚えている。こうして思い出せるくらい、心に引っ掛かっているものなのではないのかな。……きみがまだ見ぬお父上を慕っているのか、それとも恨んでいるのかは、私にはわからないけれど」
「……父を、恨んでいるわけではないわ。顔も見たことのない人を慕えるわけもない。どちらかと言えば、まるで噂しか知らない他人の話をしているようよ」
真実、幼い頃からわたしにとって、父というものはどこか異国の言葉のような存在だった。生まれたときには既に母しかおらず、物心がつく頃には、この隠者の小屋のような家で母とふたりの生活をしていたのだから。
「けれど……そうね」
わたしは彼がたったいま示した可能性を頭の片隅で反芻して、呑み込んだ。何故、他人ほどにも遠い父を探したいなどと思ったのか、改めて考えてみれば答えは明白だった。
「わたしはもしかしたら、聞いてみたかったのかもしれない。母とわたしは、父にとってどんな存在だったのか。反乱の先に父の見ていたものは何なのか。父の進んだ先には何があったのか。そんな、父にとってはつまらないことかもしれないし、とても大切かもしれなかったことを。――わたしはわたしの生まれ出た道筋を知らないから、どこかへ帰りたいと思っても、どこへ帰ればいいのかわからないのだわ」
ぼこぼこと、釜の中身がわたしの代わりに叫ぶように沸き立った。手にした火かき棒で釜を下ろすと、棚から厚めの布巾を取って外の瓶の水に浸した。よく冷えた布巾で釜を掴むと、じゅっ、と水の蒸発する音がする。熱が布巾を通してわたしの手のひらを焼く前に、古びた木目のたらいへお湯を張った。
さすがに少し冷まさなければ、一瞬で火傷をしてしまいそうだ。たらいをベッドの足元まで引っ張ってきて、そのままそこに座り込み、冷めるのを待つ。
彼はまだ、返す言葉を探して何かを考えているようだった。
「でもいいの。これがわたしの“ヒラエス”だから」
返ってくる言葉を待たずに、わたしは自分の胸をひとなでする。聞き慣れない言葉だったのだろう。しきりに瞬いた彼がわたしを見下ろした。
「ヒラエス、とは?」
「なんて説明すればいいのかしら。郷愁のような、憧憬のような、悲哀のような、そんな感情を表す言葉よ。もう帰れない場所に、帰りたいと願う気持ち。多かれ少なかれ、ウェールズ人が胸に抱く感傷と切望よ」
「それは……私たちが安易に踏み入って良い領域ではないのだろうね」
「踏み入ろうと思っても、きっとイングランド人には踏み入れないわ」
これは皮肉ではなく、動かしようもない事実だった。遥か昔に失われ、見たこともない故郷へ思いを馳せる気持ちなど、国を奪われ、それでもなおその地の民として生きる人間にしかわからない。
この感傷を抱えるわたしたちにだって、その明確な輪郭を捉えきれてはいないのだから。
ひとしきりの話が途切れたところで、わたしはたらいのお湯へ恐る恐る指先を浸した。水面に波紋がいくつか揺れて、じんと痺れる熱が伝わってくる。
まだ少し熱いけれど、火傷するほどの温度ではない。
「さ、そろそろちょうどいい温度になったでしょ。髪と顔を洗って、ついでに足も温めるといいわ。髪を拭くときはそこの棚の布を使って」
話を切り上げるつもりで、てきぱきと指示をする。ベッドの脇の小さな棚を指さすと、彼は視線で辿って、それ以上追求せずに頷いた。
「汚れ落としのための灰はここに置いておくわね。終わったら声を掛けて。わたしは薬棚の整理をしているから」
「わかった。ありがとう」
沈んでいた表情に、微かな笑みがのぼる。彼の柔らかな微笑みは、ひととき郷愁の灯ったわたしの心を少しだけ軽くした。
▽ ▲ ▽
薬棚の整理が終わるころ、彼の行水も終わったようだった。たらいを回収したついでにわたしも髪と顔だけ洗って、すっかりぬるくなった残りのお湯を戸口の外へ引っくり返す。長雨でぬかるんだ山路を、ぬるま湯が勢いよく下って行った。
小屋の隅にたらいを立て掛けると、男はまだもたもたと髪を拭いていた。
「また熱が振り返すわよ」
「久しぶりに髪を洗ったから、勝手を忘れてるみたいだ」
「そういうのは、襟足をよく拭けば早く乾くの」
「こう?」
「そう」
自分も髪を絞りながら、彼が襟足を念入りに拭く様を眺めていた。温かいお湯で小綺麗になったことで、わたしも少しばかり気が抜けたのだろう。
ベッドの足元に腰を下ろすと、どっと疲れと眠気が押し寄せた。
体感で明け方近くまで彼の看病をしていたので、薄暗い空が白むまでの少しの時間しか寝ていないのだ。おそらくまだ日が中点に掛かるくらいの時間だが、靄がかかったように頭がぼんやりしてくる。
しっかりと考えが回らないので、「またきみにひとつ親切にしてもらったね。ありがとう」と彼が礼を述べた言葉には、「どういたしまして」とウェールズ語で返してしまった。
彼には通じないかと思ったけれど、これは聞き知った言葉のようで、こくりと頷き返される。
それから神妙な顔をして、男はわたしに語り掛けた。
「きみはウェールズ語に、ことさら執着しているんだね。ウェールズの通用語が英語になってから、もう何百年も経っているのに」
「当然じゃない。言葉は一等だいじなものだわ」
「けれど南の方では、英語で話す地域も多かったよ」
それもそうだろう。南部の方が、よりイングランドの支配力は強い。わたしが生まれるよりもずっと昔――スウェリン・アプ・グリフィズがイングランドに敗れた時世、ウェールズ語を使うことが禁じられたこともあり、今では英語を使うことが一般化していた。
彼がウェールズの地に居ながらこれほどウェールズ語に不慣れなのもそのせいだろう。
けれど、だからと言って故国の言葉を捨てられるほど、ウェールズ人は心までイングランドに従属しているわけではない。
「――Cenedl heb iaith, cenedl heb galon」
「ケネ……? 今のは?」
「ウェールズ語のことわざよ。“言葉のない国は心のない国”という意味の」
「へぇ……」
髪を拭く手をすっかり止めて、彼は感嘆の息をこぼした。その様子に気をよくしたわたしは、夢うつつの心地でベッドを背に寄り掛かる。
「私たちの故郷は、遠い昔になくなってしまったもの。だから、言葉を一等だいじにするの。故郷の心を忘れないために」
「それはウェールズ語が、君たちにとっての故郷ということかな」
「ちょっと違うわ。そのひとつ、かしら」
どんなにウェールズ語を口にしても、この地に根付き、息づいても、常に故郷を求める心はつきまとう。
それはさながら、渇いた喉が水を求めるように、飲んでも飲んでも癒せない渇きがそこにあった。
そういったものを、わたしたちはヒラエスと呼ぶのだ。
「だからグウェンは、禁じられた今も臆することなく祖国の言葉を使うのだね」
イングランド人にその在りようを肯定されることは、少なからずの屈辱と、相反する誇らしさをもたらした。
「肉親も故郷も失ったわたしをわたしたらしめるものは、これしか、この国を想う心しかないから」
「きみには稀有な薬草の知識と、命を尊ぶ心があるじゃないか。見ず知らずの人間を助けてくれる優しさと、臆せずに意見する意思も持ってる。それにノスだって」
男は熱心に語り掛けながら、わたしの顔を覗き込むように身を乗り出した。彼がさりげないふうを装って慌てたことに、不思議とおかしさが込み上げる。
自分のことには、たとえ熱が出ようと病を患おうと焦りをおくびにも出さなかったのに、こと他人のこととなるとそうはいかないらしい。
わたしは緩く、首を横に振った。
「それはすべて母から学んで、母から受け取った母のものだわ。わたしだけのものじゃない」
その答えを聞いて、彼は一瞬、目を瞠る。男の手が何かを為そうと宙をさまよって、結局、何にも触れずに毛布の上に落とされた。握られていた布巾がベッドの足元に滑り落ちる。
それを拾って、わたしは自分の髪を拭いた布巾と一緒にたらいの上へ掛けた。晴れたら洗濯しなければ。夏至が終われば梅雨もじきに明けて、そうしたら、からりと晴れた夏になる。ウェールズの夏は短いから、秋になる前に掃除もしっかりしなくては。
そんなことを考えていたわたしの背中に、囁くような、掠れた男の声が刺さる。
「きみはまるで、自分の誇りで自分を縛り付けているようだね」
振り返ると、彼はじっとわたしを見つめ返していた。憐れみではなく、厳かながらもどこか寂しそうな、秋色の瞳で。
しばらく、そうして見つめあっていた。動けなかったのだ。彼の言葉に、背筋を氷柱でなぞられたような冷たさが這った。
わたしはわたしを、自由だと思っていた。――自由でいた、つもりだった。この隠者のような生活を自ら選び、誰にも、そう、イングランド人にも、ウェールズ人にも干渉されない日々を過ごすことで、心の安寧を得ているのだと。
しかし彼は、それを誇りに縛られているようだと言う。それに反論も怒りも示せなかったのは、どこかで、自分自身がそうだと理解していたからなのだろうか。
心の安寧を得ることと、心が凪ぐことは、似ているようでまったく違う。果たして、わたしのそれは、後者だったのではないか。
そのことに気付いて、わたしは呆然とした。
「明日の朝、晴れていたら、ここを発つよ」
彼は、わたしの止まった思考を置いてきぼりにしてそんなことを言う。のろのろと言葉の意味を飲み下している間に、彼は二度三度、毛布を軽く叩いた。
「だけどまだ、夏至の明けたばかりの夜は寒いから、どうかこの一晩は、共に寄り添って眠らせて」
「まだ夜にもなっていないわ」
「でもグウェン、きみ、とても眠そうだよ。私にも、用心のために薬を飲んだら寝るようにと言っただろう?」
眠たくないわ。強がりの意味を込めて、声もなく首を横に振ると、彼は困ったように上掛けを剥ぐ。もう一度、ぽんぽん、とベッドを叩いた。
「二晩も家主をベッドの外に追い出すわけにはいかないよ。きみが共に寝てくれないのなら、私は今度こそ板張りの上で眠ることになる」
そうとまで言われては、断固として板張りの上に寝そべることもできなかった。
藁を詰めたごわつくベッドに膝をつくと、男は安心したように目を細めて、反対側の端へ身を寄せる。空いた半分の毛布の間に滑り込むと、細く骨張った手が肩まで上掛けを引き上げてくれた。
(……温かい)
服越しに触れた膝から、肩から、男の体温が伝わってくる。鼻孔のすぐ先から、彼のまとう湿った土の匂いがした。
よく馴染むような、嗅いだことのないような、異国の風を含んだ草木と雨と、森の匂い。
ひやりと冷めて縮んでいた心臓の音が、次第に緩やかに規則的になっていく。
そこに男や女や、あるいは大人の関係のようなものはなかった。ただひたすらに、わたしたちは、傷ついた穴ウサギがラビットホールできゅうきゅうに体を寄せあって眠るように、温もりをわかちあった。
ふたりで丸まって横たわるベッドは、こどもの頃よりずっと狭く、窮屈に感じられた。