18.父の足跡
一通りの薬の調合を終える頃には、外も薄暗くなっていた。
馬車の外ではメァラたち一家が、今日も騒がしく夕食の時間を過ごしている。薬種を広げていた布のそばには、魚の揚げ物が木をくり抜いた皿に乗せられて置かれていた。エディがもらって来てくれたのだろう。
その本人は先に食事を取ったのか、馬車の木枠に背中を預けて寝入っている。
腹がくちくなったら眠くなる、とは、本能で生きているこどものようだ。
ご丁寧にロウソクまで立ててくれていて、随分前から燃えているのだろう螢燭の明かりは、もう間もなく尽きようとしている。
これが消える前に、戻ってきたレシピの落丁は無いか確認しておこう。唐突な思い付きで調薬レシピを引っ張り出して表紙を開いた。
紙やインクというものが贅沢品であるこのご時世に、母が残してくれた、たった一冊の手引書。
木の板に挟まれた擦り切れそうな布には、母とわたし、ふたり分の筆跡が所狭しと綴られている。
ぱら、ぱら、と最後までページを捲り終えてから、しかしわたしはヒュッ、と息を詰めた。
本の落丁は、幸いなことに無かった。けれど明らかに足りないものがひとつある。
常に本の間に挟んでいた筈の、父から母へ宛てられた書簡だ。
あれは、あれだけは、誰の目にも触れてはならないのに。……一体どこで落としたと言うのだろう。
ゴゥワーさんがこれだけ抜いて持って行ったとは思えないけれど、そう言えば、彼がどこでこの調薬レシピを拾ったのかも聞いていなかった。
――探さなければ。
あれを置いては、ここを発てない。
エディを一瞥したわたしは、彼を起こそうか迷って、結局手を止めた。今日も朝から騒がせて、あちらこちらを駆けずり回らせてしまったのだ。こんな早い時間から寝入ってしまうほど、疲れているのだろう。
ひとまずゴゥワーさんの元に行くだけだと言い訳をして、わたしは静かに馬車を抜け出した。
念のため、外で酒盛りをしていたメァラたちに行き先を伝えて、日の落ちていく宵の道をゴゥワーさんの家へ急いだ。早くしなければ完全に真っ暗になってしまう。
紫がかったボリジ色の空がインディゴの藍に染まる前に帰り着けなければ、エディがまた心配するだろう。
息を切らしながら村外れに建つエルダーの家にたどり着いて、忙しなく木戸を叩いた。
間もなく扉が開くと、昼に別れたばかりの大男が家からのそりと顔を出した。その首にポマンダーがぶら下がっているのを見て、硬かった表情を少しだけ緩める。
「グウェンさん……? こ、こんな時間になした?」
「な、何度も、ごめんなさい。あの、さっき調薬レシピを返してもらったでしょう? その、その中に、手紙が入っていませんでしたか? さっき、確認したら見当たらなくて」
あまりにわたしが咳き込むので、家の中に引っ込んだゴゥワーさんは慌てて水を注いだマグを持ってきてくれた。ゆっくりと呷りながら呼吸を整える。
わたしからマグを受け取ってから、彼はゆっくりと首を振った。
「悪んだども、おいらは知らねぁなぁ。昨日、小間物屋のじっちゃとこさ行ったとぎ本をみっけたから、そのままたがいで来たんだ。んだども、手紙、みてぇなもんは最初がら挟まってねがったよ」
「そう……。わかったりました、ありがとうございます」
隠し事をすれば、彼は顔にも挙動にも出る。本当に心当たりが無さそうなところを見ると、ゴゥワーさんの言っていることに嘘偽りはないのだろう。
もしかすると、彼が持ち去った時に落としてしまったのかもしれない。
ゴゥワーさんに礼を言って踵を返すと、彼は突然、「あっ!」と叫んでわたしを引き止めた。
「あの、あのな、グウェンさん」
「どうかしましたか?」
「さっきのおめさんの言葉。あれ、あれな、なんだがずぅっと気になってでな」
「さっきの?」
どの言葉かしら、と昼間の記憶を探ってみるけれど、様々言葉を交わしたせいで、どの言葉を指しているのかが思い当たらない。
けれどゴゥワーさんはわたしの疑問を気に留めることもなく、とつとつと思ったことを思ったままに続けた。
「考えだら、思い出したんだぁ。もっとずっと前さ聞いだごどがあるよ。……おめさんと似だごど言った人が居だ」
「似た、こと? 一体誰が……」
じりじりと日が落ちていく。ボリジの空がインディゴに近づくたび、焦燥感を駆り立てられる。
わたしの胸の内など知らないゴゥワーさんの声は、変わらず落ち着いて、思い出をなぞるように紡がれた。
「知識付げなさい、って。東のイングランドさ押さえづげられねように。ウェールズ人どして、胸張って生ぎでゃなら、って。その人は、きっといづが、ウェールズさウェールズ人の大司教取り戻して、みぃんな勉強できる学校作るがら、って。
ずぅっと忘れでだけど、グウェンさんのお陰で思い出しだ」
たった今潤したばかりの喉が、急速に乾いていくような気がした。
吸い込んだ空気が痛い。真冬でもないのに。
「それは……何年前のこと、ですか?」
「何年……? うん……いづ、だべな。じゅうと、いち、にぃ、さん年、じゅうよん、年? それぐらい。あの、ケシのさいしょの種くれだ人だったよ。ひどぇ怪我してだがら、それで薬作るべで思ったんだっで」
十三年、あるいは十四年前。つまり、グリンドゥール率いる反乱軍が組織として瓦解して、反乱が収束に向かいつつある頃のことだ。わたしがまだ、母と慎ましやかに暮らしていた頃。
そして、母がよく憂い顔で、グリンドゥールの身を案じていた頃でもある。
反乱を鎮圧されつつある中、それでも尚イングランドに抗えと言える者が、果たしてどれほど居ただろうか。
ざわざわと肌が粟立った。そうと決まったわけではない。けれど、早計に結び付けてしまえるほど、その時期に発されるその言葉はウェールズ人にとって大きな意味を持つ言葉だった。
(父か、或いは当時、父に加担していた人々の誰か、か)
ぞわぞわと波打つ自分の肩をぎゅっと抱きしめて、「その旅人はどこへ行くと言っていた?」とゴゥワーさんに尋ねた。
「あの人は――」
▽ ▲ ▽
籠を抱えてのろのろと走る。随分とくたびれた靴が村境を越えていくつかの民家を通り過ぎた時、ふいにわたしを呼び止める声が聞こえた。
「君は……グウェン、だったか。どうしたんだ、こんな時間にお嬢さんひとりで出歩くなんて」
何故か養鶏所の中からひょっこりと顔を出した男性の姿に、わたしは驚いて足を止めた。その場所と声の主が、あまりにも不似合いな取り合わせだったのだ。
「グラムさん? どうしてあなたが牧舎なんかに」
「夕食に卵とミルクを分けてもらおうと思ってね。朝産んだ卵の残りが無いか訪ね歩いてたんだ。朝一番に買うよりもずっと値切りが利く」
「そういうことは従者がするものではないんですか?」
「あっはは、面白いことを言うな。君の目に俺がどう映ってるかは知らないが、従者なんて持てる身分じゃないさ。どちらかと言うと俺の方が使われる側だ」
見れば、なるほど。彼の片手には革袋の口が覗く、小さな籠が握られていた。量的に見てもひとり分の食事量だ。彼はひとりでこの村を訪れていたらしい。
「そんなことより、良かった。会えたら良いなと思ってたんだ」
「何かありましたか? 薬のご入用とか。……あ、そういえば昨日はごめんなさい。小間物屋でお会いしたんですってね。わたし、気が付かなくて。もしかして、その時にわたしが何か粗相を?」
「違う違う。最初に小間物屋で会った日、手紙を落として行ったようだから、発つ前に渡せればと思ったんだよ。ほら、インクを分けてくれたとき。壷を引っ張り出すのに籠から色々出してたろう。今日会えなきゃ、村役場に預けて行くつもりだったが」
「え……っ!?」
まさしくたった今探していたものの話を切り出されて、思わず大きな声が出た。静まり返った辺り一帯に、わたしの頓狂な声がこだまする。
慌てて口を手で押さえたけれど、飛び出た声は口の中には戻らない。すみません、と恥じ入るわたしに、彼はまたくつくつと笑って手にしていた籠を漁った。
「じゃあ、これ。お嬢さんので間違いないな?」
「はい。ちょうどさっき、無くなっていたことに気付いて……慌てて探していたんです。拾って下さってありがとうございます」
「いいや。俺がお節介を焼いただけだ」
あの時――つまり、彼にインクを分けたとき――わたしが言ったことを、そっくり言い返される。意趣返しされたことに気付いて、わたしはたまらず笑ってしまった。
けれど、漏れた笑いはすぐに喉の奥に引っ込んだ。文字を読める彼が手紙を拾っていたことで、別の懸念が生まれたからだ。
「あの、この手紙の中身を、読まれました?」
あまりにわたしが鬼気迫る顔をしていたのだろう。つられて笑っていたグラムさんも笑みを引っ込めると、神妙な顔で腕組みをする。
「趣味で他人の手紙を覗くほど、俺も落ちぶれちゃいないさ」
「そう、ですか。……ところでさっきの口ぶりだと、グラムさんも、もう町を発たれるんですか?」
彼の返答に肩の力を抜いたわたしは、もののついでのように世間話でお茶を濁した。
彼はそれ以上深く突っ込まず、その話題に乗ってくれた。優しい人だ。……単に、そこまで他人の事情に興味が無いだけかもしれないけれど。
「“も”、ということはお嬢さんも?」
「ええ。明朝一番に」
「そうか。行き先はもう決めてるので?」
「ええ……あ、いいえ。これからどうするか決める途中です」
本当は、昨日の時点で行き先は決まっていた。アングルシー島をぐるりと一周したら、南からカーナーヴォンに抜けて南下しようと話していたのだ。
けれど、さっきのゴゥワーさんの話を聞いて、少し寄りたいところができてしまった。それを、今夜エディに話してみるつもりだ。
「なるほどな。せっかく知り合った縁だ。俺も用事が無ければ途中まで同道したかったところなんだが、これでも忙しい身でね」
「良い仕立て物を着られる方は、皆いそがしいでしょうからね。道中、お気をつけて」
「ああ、お嬢さんも」
互いに手を取り、握手をひとつ交わして別れる。先日会えた、今日もまた会ったからと言って、次に会える機会が巡ってくるとは限らない。
それを、旅回りの彼もよく知っているのだろう。だからわたしは振り返らずに、メァラたちの馬車へ向かって駆け出した。
▽ ▲ ▽
馬車に戻ると、エディはまだ眠っていた。焚き火を囲むメァラたちは酒が入ってだいぶ出来上がっているので、戻ったことだけを伝えて馬車に乗り上げる。
彼の肩に毛布を掛けようとしたところで、エディはようやく目を覚ました。
「ん……あ、ごめん、寝てた……?」
「疲れていたのでしょう。今日は朝から騒がせてしまってごめんなさい。それから……わたしの大切なものを一緒に探してくれてありがとう」
「どういたしまして」
ふぁ、とあくびを噛み殺しながら、ウェールズ語で返事をしたエディにおかしな気持ちになった。少し前までは、「わざわざ英語で言い直さないで」とこちらが腹を立てていたくらいなのに。
まだうつらうつらと前のめりになるエディの隣に腰を下ろして、わたしは恐る恐る先ほど考えていた行き先の変更を切り出した。
「あの、ねぇ。こんな土壇場で悪いのだけど、行き先を変更しても良いかしら。ちょっと、寄ってみたいところができたの」
「うん? うん、良いよ。きみがどこかへ行きたいと主張するのは珍しいものね。どこに寄りたいの?」
「エラリ――アル・ウィズヴァへ」
わたしの次の目的地を聞いて、エディはぱちりと目を瞬かせた。今度こそ目が覚めたようだ。
「アル・ウィズバ……って?」
「あなたたちがスノードン山と呼ぶ場所よ。ウェールズで一番高い山。冬になると一面を雪が覆う、白峰の主峰」
「スノードン山に? コンウィ方面からバンガーに向かう際に迂回してきた山だったね」
「ええ」
「けれど、あの辺りは村も町もないのでは……」
「父と思しき人が、そこに向かったかもしれないの。十三、四年前に」
エディはふ、と口を閉ざして、わたしの顔を凝視した。すっかり暗くなった闇の中で、色の薄い彼の瞳ばかりが僅かな星の明かりを吸い込んで輝いて見える。
思い出すのは、ゴゥワーさんから最後に聞かされた話だ。かつてこの村を訪れた、旅人が語った行き先の話。
『あの人は、“身ぃ潜めるだば北の山岳が”っつってだよ。よぐわがらねげど。アングルシーの最北はこの辺りだんだども、北の山岳ってどごだべね?』
アングルシーは海に囲まれた起伏の少ない島だ。元々山と呼べるものが少ないウェールズで、およそ山とは無縁の地でもある。
ウェールズで山岳と呼べるほどに立派な山と言えば、本土北西はいくつもの湖と切り立った岩肌で作り上げられた、スノードン山に他ならない。
(わたしが隠れ住んでいた山でも、山岳と言えるほど大きくて高いものではなかったもの。……いいえ、それどころか、あの場所でさえ、スノードン山から伸びる尾根の一部にすぎない)
だから、きっと。その旅人はスノードン山に向かった筈なのだ。
十年以上も昔の出来事である。今さらそこへ行ったとして、その旅人に繋がる何かが見つかるとは限らない。ただでさえスノードン山は、標高も高ければ一帯の土地も広大なのだ。
それでも、わたしはそこに行ってみたかった。
父かもしれない人が歩いた地を。その地で、彼が何をしたのかを、何を成そうとしたのかを、この目で見るために。
「わかったよ、行こう」
エディの静かな声が耳に染みる。わたしは一度、目を見開いて、それから「ありがとう」と掠れた声で呟いた。
遠目には幾度となく見た、あの遥かな巨峰に思いを馳せる。
季節は夏。今はすっかり雪化粧の気配も消え失せた。ならば山歩きは今が最良の時期だろう。
そこでどのような発見が、それとも何ひとつ見つけられないのかも知らないけれど、今はただ、歩みを止めずに前へ進もう。
緩やかに、一歩ずつ。あの子守唄のように穏やかな歩みで。
DIWEDD
『ヒラエスの魔女の唄』3作目・リンディーロンの子守唄、ここまで読了ありがとうございました。
話の内容的には正直もうちょっと何とかならんかったかと作者自身頭を抱えておりますが、色々詰め込みすぎて収集つかなくなっちゃった反面教師とお思い下さい。
代わりに今回で書きたい物はぜーんぶ書きました。新たな出会い、友情、吟遊詩人の意識改革、グウェンとエディの関係の変化などなど。
3作目冒頭のあとがきで走り書いたように「4作目(以降)へ繋げるための10万文字越え番外編」とでも思って読んで頂けましたらば幸いです。
1作目「ヒラエス」、2作目「クッチ」はそれぞれ独立しての完結区切りでしたが、そろそろ何か話を動かすべと思って今回、クリフハンガー気味に話を締めました。
次作4作目の構想もふわっとあるのですが、まずは来月・再来月辺りに閑話を2本ほど書きたいのと、全く別の作品や公募作品など他にも書きたいものがあるのとで、ひとまずここでまた完結マークを付けさせて頂こうと思います。
毎日更新の度に読んでくださった方々。
3度目のエンドマークが付いてから一気に読んで頂けました方々。
それから作品に「いいね」や評価を下さった方々や、Twitterの更新宣伝をRTしてくださった方々。
皆様に感謝と愛を込めて。
ありがとうございました!




