17.もうひとつの探しもの
投げ出されたわたしの背中を受け止めるのは、硬い地面だと思っていた。いくら下生えがあると言っても、大した緩衝材にはならない。
だから覚えのある温もりがわたしの肩とお腹を包み込んだとき、何が起こったのか理解が追い付かなかった。
「まったく、きみは本当に私を頼ってはくれないね」
困ったこどもを窘める声で、目を開くよりも先にそれが誰であるかを知る。
ここ数週間、誰よりも多く、誰よりも間近で聞いてきた声だ。今更聞き間違うはずもない。
「エ、ディ……?」
「頼り甲斐のない自覚はまぁ、あるけれど、せめて風除けくらいにはなれるのだから、どこへなりと伴っておくれ」
恐る恐る瞼を持ち上げると、両腕でわたしを抱え込むようにして尻もちをつく彼の姿が目に飛び込んできた。その額には玉の汗が浮かんでいる。
頭上から覗き込んでくる茶色い眼差しに、これほど安堵を覚えたのは初めてのことだ。
「あり、がとう」
「うん」
呆けたお礼に短い相づちで答えると、彼は立ち上がってわたしの手を引っ張り上げる。その一連の動作の素早さに、先ほど発覚した思わぬ事実の衝撃も相まって、頭を整理するので手一杯だ。
他方、わたしを突き飛ばしたゴゥワーさんと言えば、こちらも思わず手が出たようで、自分のしてしまったこととエディの登場という立て続けに起きた不測の事態に固まってしまっている。
そんな彼の頭を無理やり揺り動かすように、エディは言った。
「ゴゥワー、と言ったね。その本はきみのものじゃない。グウェン自身が学び、得てきた彼女の財産だ。それを黙ってくすねておいて、返せと迫られたら彼女に危害を加える、というのはよろしくないのじゃないかな」
彼が珍しく、ゴゥワーさんを睨み据えた。こんなに険しい顔をするのは、あの故郷の山中で兵たちに追われた夜以来ではないだろうか。
あの時だって、危機感と焦りがそうさせただけで、これほどに怒りをあらわにしてはいなかった筈だ。
睨まれて怯えるゴゥワーさんは、気圧された様子でおどおどと後退る。可哀想に、蛇に睨まれた蛙のようにそのまま固まってしまった。
この隙にレシピを取り戻すことも考えたけれど、また先ほどの二の舞いになっては意味がない。エディの袖を引っ張って、彼の注意をこちらに向けた。
「彼よ、見つけたわ」
「見つけたって、きみのレシピの他に何を……?」
「あの、ペンロスヴェイルーで預かったポマンダー、今も持っている?」
メァラたちの馬車に置いてきてはいないだろうがと思いつつ尋ねると、エディはこちらに怪訝な目を寄越して、半信半疑ながらも腰の飾り紐から結び付けていた小さな革袋を外した。
「まさか、だって髪の色が聞いていたものと違うだろうに」
「きっと色褪せたんでしょう。あなたと近い歳だとすれば、ご婦人が共に居たのはもう二十年近く昔のことでしょうから」
盛年期を迎えると子供の頃より目や髪の色が薄くなることは、そう珍しいことではない。
彼の腕の痣も似たようなことだ。まさか肘の付け根にあるとは思わなかったけれど、成長して手足が伸びたことで、腕だか手首だかにあった痣が少し肘寄りに動いたのだろう。
彼に渡された革袋をひっくり返すと、わたしはゴゥワーさんに一歩近づく。一歩、同じ分だけ彼は後退った。
「その左肘の付け根にある痣で、やっとわかりました。ゴゥワーさん。わたし、あなたのお母様らしき人に会ったわ」
「え……おっかぁ?」
ころりと手のひらに取り出した、ネックレス型のポマンダーを彼に差し出した。また一歩近づいてみたけれど、ゴゥワーさんは今度こそ逃げようとはしなかった。
「それはあなたのお母様と思しき女性が、幼い頃に手放してしまったお子さんに渡してほしいと言って、わたしたちに託したものです。ウェールズ中を旅しているなら、もしかしたら、彼女のお子さんに会うこともあるかもしれないと」
今度は、ゴゥワーさんが一歩、こちらへ踏み出した。慎重に、慎重に。さながら余計な動きでもすれば、たちまち逃げ出してしまう猫のような警戒心で。
「何でおっかぁがこれを……? だっで、おいらを置いでっだのはおっかぁだべ。おっかぁは人魚だがら、陸じゃ生ぎてけねって」
「あなたのお母様は人魚なんかじゃないわ。あなたを捨てたわけでもない。ただ、あなたを助けたい一心で手放さざるをえなかった、ひとりの人の親だった」
「おいらを助げる?」
わたしは、ペンロスヴェイルーの女性から聞いた話を掻い摘んで伝えた。
二十年ほど前に起きた、ウェールズの反乱のこと。
それに巻き込まれたアングルシー島のいくつかの町や村が、イングランド軍によって焼かれたこと。
ゴゥワーさんと彼のお母様はその戦火から逃げようとして、崖からメナイ海峡へ投げ出されそうになったこと。
「彼女はあなたを助けた代わりにメナイ海峡へ流されて、それで足を悪くしたの」
きっと彼は、その光景を無意識下で覚えていたのだろう。お母様を人魚と呼んだのは、そのせいもあったのかもしれない。
最後に見た母親の姿が、海に消えていく光景だったから。
「だからあなたを探しに行けなかったし、知人に頼んであなたと別れた辺りを探してもらったそうだけれど、既にその頃にはあなたは拾われてこの村に来ていたのね。
お子さんは緑の目だと聞いていたから、きっと共に過ごしていた村は海辺にあったのでしょうーーそれも多分、パリス山にほど近い、ここから東の方の村のどこか。たとえば、鉱夫だったというお父様が通えるほどの場所――。だから内陸のあの家に住んでいた栗色の瞳のあなたを見ても、お母様の知人の方は気付かなかったのね。名前も違っていたし」
グロゥ――ゴゥワー。
これは彼の養祖父母に聞くことができないので憶測でしかないけれど、まだ幼かった状態で名前を聞かれたゴゥワーさんが、「L」の音を発音できずに「グオゥ」と言ったせいではないかしら。
それでゴゥワーと別の名前を付けられて、ゴゥワーさん本人は直後に高熱を出して、それまでのほとんどの記憶を忘れてしまった。
人はあまりに高い熱を出すと、髪の色が薄くなることもあるらしい。もちろん一過性のものなので、新しい髪が生えてくれば元に戻るものだけれど、タイミング悪くも熱を出した直後にお母様の知人とやらが訪ねて来ていれば、彼には気付かなかっただろう。村外れの内陸の家で育った彼は、その頃既に、栗色の瞳になってしまっていただろうから。
そうして、お母様の知る“グロゥ”とは何もかも変わってしまった。
ゴゥワーさんのお母様が銅製のポマンダーを持っていたのは、日常的に銅が手に入りやすい環境にあったからに違いない。
「グロゥ……おいらの名前は、グロゥ……?」
「ええ。でも、ゴゥワーの方が耳慣れているでしょうから、わたしはこれからもゴゥワーさんと呼ばせてもらいますね」
それで、とわたしは手のひらに乗せたポマンダーを差し出したまま言った。
「良いんですか? ここでこうして、いつまでもお母様を待っているだけで」
びく、とおっかなびっくり近寄っていたゴゥワーさんが身を竦ませる。
「まだ互いに生きているのに。会いに行けるのに。このままで本当に良いんですか?」
問いに答えるための言葉を求めるように、彼はわたしを見下ろした。そこにもう恐れは無い。ただ、戸惑いと僅かな疑念だけがある。一歩、また一歩。今や彼は、ポマンダーに吸い寄せられるように自ら近付いて来ている。
だからわたしは、彼の言葉を導くようにこう言った。
「会いたいのなら、探してもらうのを待つのではなくて、探しに行くべきではないでしょうか?」
ゴゥワーさんの手が伸びる。わたしの手のひらから受け取ったポマンダーを見つめると、「セージ」と呟いた。
「タイム、ローズマリー、ミント、ラベンダー……」
「ええ。そのポマンダーに込められているハーブは、あなたがこの村に広めた唄にある薬草です。あなたと、あなたのお母様を繋ぐものだったんですね」
ずず、と鼻を啜る音がする。目の前でくずおれた大男は、「ごめんなさい、ごめんなさい」と何度も謝りながら、腕に抱いていた調薬レシピを返してくれた。
▽ ▲ ▽
わたしの探し物のせいで、結局、騒動が収まったのは昼を少し過ぎた頃だった。
出立は明日の朝早い時間へと持ち越しになって、代わりにわたしはその日一日を調薬作業で潰すことになった。メァラたちの馬車の中は、今や薬草の爽やかな緑の匂いで溢れ返っていた。
エディが駆け付ける前に、わたしがゴゥワーさんへ語った話を、薬草をすり潰す単調作業の合間にエディへ語って聞かせる。ついでに、ゴゥワーさんが“祖父母を焼き殺した”と言われていた、あの件の真相も。
レシピを探して真っ先に小間物屋を訪れた時の話だ。
『そう言えば、ゴゥワーさんのことですけど……先日、とても信じ難いことを聞いたんです』
『……何を、と聞かずとも、おおよそ何を聞いたかは想像がつくのう。なんぞ聞きたいことでもできたかね』
『ええ。その……彼が、病に罹った祖父母を……焼き殺した、と』
小間物屋の去り際に、わたしは先日から腹の中で燻っていた問いをとうとう口にした。ゴゥワーさんに比較的親身なこの店主なら、明確な答えを与えてくれるのではないか、と考えて。
彼はわたしがその話題を持ち出すなり、「村のもんにでも聞いたか」と諦念を交えて語り出した。
『……そうじゃな。事実だけを述べるならば、確かに間違っちゃおらん。病に倒れたあの子の祖父母を焼き殺したのは、他ならぬゴゥワーの坊主だ』
『それは、本当に彼の意思でしたか?』
『あんたさん、目敏いな』
髭に埋もれた顔で苦笑した老爺は、暗にわたしの疑問を肯定しているようだった。
『白痴とは言え、彼が本当に人を手に掛けたのなら、それを村中の人が知っていながらお役人に突き出さなかったのはおかしいと思いまして。もしも……たとえばそれが、彼の自発的な意思ではなく誰かに無理強いされたのなら、それも納得できると思ったんです。だって、ゴゥワーさんをお役人に突き出せば、彼はきっと黙っていることはできない。彼に指示をした人のことも、お役人に尋問されれば洗いざらい吐いてしまうでしょうから。
それにあなたは今、『事実だけを述べるなら』とおっしゃいました。それはつまり、事実以外の真実があるということでしょう』
『さよう。あれはあの子の意思じゃあなかった。爺さんも婆さんも、死の病に罹っとったんだ』
死の病、と聞いて真っ先に思い至ったのは肺病や血屎だった。らい病もじわじわと弱っていき、やがて死に至る病で、治療手段が無いと言えばこれもそうだ。
根治できない病は、この時代に至っても圧倒的に多い。けれど小間物屋の店主が語ったのは、片端から挙げたどれよりも遥かに恐ろしい病だった。
『もっと恐ろしいもんさ。発症すりゃあ十日と保たん。――黒死病だよ』
『あぁ……そんな』
『一度罹っちゃあ、もう治す方法はない。村中に被害を出さんために、隔離した小屋ごと焼き払うのは村人たちの総意じゃった。それを、自分の祖父さん祖母さんだろうと、後始末をあの子に押し付けたのは、わしらのエゴじゃよ』
店主は言った。まるで懺悔するように。
泣いて嫌がるあの子を、「一思いに息の根を断って苦しみを長引かせぬのが優しさだ」と唆し、「そうせねばお前がこの村を滅ぼすのだ」と脅して動かした、と。
せめても祖父さん祖母さんが苦しまんように、眠り薬を与えて深く眠らせ、小屋ごと焼いた。病が外に漏れ出さぬうちに、病ごとすべてを灰にしてしまったのさ、と。
誰もがそれを望んでいたにも関わらず、誰ひとり自ら手を汚すことを厭った村人たちが、ゴゥワーさんひとりにその罪を押し付けたのだ。
『今、あの子につらく当たる者は、己の残酷さを村を守るためだったと正当化して見ぬふりをし続けた者たちだ。
今、あの子に同情の目を向ける者は、己のさもしさを受け入れ、負い目を背負って生きる者たちなのさ』
誰かひとりが感染すれば、またたく間に広がっていく死の病。壊疽を起こしたように肌が黒くなり、あるいは浮腫のようなぼこぼことした大きな出来物が体中に現れる。体の内側から瞬く間に蝕まれ、あっと言う間に命を落とすのだ。
そうして一体何百、何千、何万の人々が亡くなっていっただろう。歴史を鑑みれば、治る見込みのない者を病と共に封じ込め、小屋ごと諸共灰にしてしまうのが、感染を食い止める一番手っ取り早く確実な対処法であることも理解はできた。
……理解はできたけれど、薬師の端くれとしては、早々にそのような手段に打って出たことが遺憾でならない。かと言って、当時わたしがここに居たとしても、何も解決策を提示できなかっただろうけれど。
彼の養祖父母は、遠くの町の流行病をもらったと言っていた。きっと薬種や薬の新たな製法を求めて、村を離れている間に感染してしまったのだ。
この村の人々が奇跡的に感染しなかったのは、罹患した彼らの家が村外れにあったことと、ゴゥワーさんのあの酢漬けレシピを村人たちが重用していたお陰だろう。彼は誤用で赤ん坊たちを死の淵に追いやってしまったけれど、一方で、確かにこの村の多くの人を守っていたのだ。
「彼に、母君の居場所を教えなくて良かったの?」
すべてを聞き終えた後で、エディが言った。
「良いのよ。わたしは彼のお母様からの頼まれごとをきちんとこなしたわ。お願いはポマンダーを渡すことであって、ふたりを引き合わせることじゃないもの」
「それって屁理屈……」
「それに、そんなに簡単にふたりを引き合わせては、いくら彼の親切心だったとは言え、事故で亡くなった赤ん坊たちが浮かばれないでしょう」
「グウェン、実はその件、相当怒っているよね」
彼が何とも言えない顔でこぼすので、そうねと率直に答えておいた。話を聞いたときはただただ愕然としたけれど、頭が冷えて冷静になれば、毒物を振り撒いて無差別殺人を犯した殺人犯だ。どんな意図があったとしても、その事実は変えられない。
「彼は良かれと思ってしたことなんでしょうけれど、結果、親は生まれたばかりの子を失って、子はこれから先、受け取れる筈だった多くの愛情と生の喜びを得られることなく亡くなってしまったのよ。
それで、彼だけが幸せにお母様と再会できるだなんて、そんな理不尽はないわ。世の中、そんなに甘くないの」
甘えは悪ではないと知った。けれど、過ぎれば怠惰となり、毒となる。
ゴゥワーさんは、白痴という建前で守られるままに甘えすぎてしまったのだ。思考を放棄し、己の扱うものがどれほど有用であり、また危険なものであるかを理解しなかった。
母と養祖父母との絆に囚われて、薬草というものに固執するには――自ら学びを放棄した彼に、薬草はあまりに繊細すぎた。
取り返しのつかないことをしてしまったのだ。ならば彼には、それを償う義務がある。かと言って、彼の罪を一方的に裁くような権利も義務も、わたしには無い。
「世の中はいつだって理不尽なものだよ。それはグウェンもよく知っているんじゃない?」
「ええ。よぉくね。だからわたしも、ほんの少しだけ理不尽に加担するの」
本当に会いたいのなら、本当にお母様を愛しているのなら、どんなに時間が掛かっても、どんな苦行に耐えても、彼はお母様の居場所を自分で探し当てるだろう。――そうするべきだと思うもの。
ゴリゴリと乳棒で乾燥ハーブをすり潰しながら(あぁ、薬研が無いのは本当に不便だわ)、わたしはにべもなく言い切った。こどもだって、迷子になったら道を尋ねる分別くらいある。
聞くための口と丈夫な足腰があれば、たどり着けない道は無い。白痴であることが彼の足を引っ張るだろう。けれどそれは、安全な場所で、安穏に甘んじて知識と心の使い方を間違ってしまった彼が乗り越えるべき辛苦なのだと思う。
あとは、道中盗賊や追い剥ぎに会わないことを祈るばかりだ。
そして願わくは、母親の元で正しい薬の知識を身に着けて、彼が奪ってしまった命以上のたくさんの命を救ってほしい。心からそう思った。
「それに、彼がこの町を去って苦境を強いられるのは、なにも彼だけではないでしょうし、ね」
「どういうこと?」
「よく考えてもみてちょうだい。この町のすべての薬と多くの薬草は、彼が作って世話をしているのよ。生活に用いられるような簡単な薬草の使い方は伝え聞いていても、その手順も効能もろくに知らない村人たちだけで、これからどれほどの病を取り除いていけるかしら」
「それは……」
「数年前までは彼の養祖父母が、彼らが亡くなってからはゴゥワーさんが。この村の、特に人づてに伝染るような病を防いでいた。だからこの町は、戦火を抜けても長らく大きな病が流行ることはなかったのでしょう。病を防ぐのにちょうど良い酢漬け薬の唄も広まっていたのだし、ね」
「きみが好きだと言ったあの唄かい? 薬のレシピだったのだね」
あの寝言じみた夢うつつの呟きを聞かれていたのか。酔っていたとは言え、口元が緩みすぎていた。不覚だわ。
「ええ、どれも衛生管理に良い薬草で、風の病……感冒や、外から取り込んだ体の内側の不調にもよく効くのよ」
極め付けはお酢だろう。栄養も豊富で、セージやタイム、ローズマリーの持つ薬効と似た効能を持っているから、互いの効能をより強めるのだ。
このお酢を肌に塗って布で鼻口を覆えば、少なからず黒死病の有効的な予防だってできるだろう。……あくまでも気休めで、完全に防ぐようなものではないけれど。
「きっとゴゥワーさんのお母様は、元々住んでいた村でそういう、高い薬効の薬をいくつも作っていたのね。それと同じことを、お祖父様とお祖母様が亡くなってから彼がひとりで、村全体を担って行っていた。記憶に残るお母様からの僅かな知識と、新たに養祖父母から得た知識で」
彼は肌に合わない人たちにとっては得体の知れない妖精のような存在だったけれど、それ以外の人たちにとっては、とても優秀な薬師だったということだ。……そう認識されていなかっただけで。
「単純に北は寒いせいか、南よりもある程度、病の広がりが鈍いけれど、それだけでここまで防げるものではないのよ」
「この時期なら、食中りや水回りからの病の蔓延も少なくないだろうからね。虫も湧くから、虫刺されから酷くなることもある」
「ええ、そう。そうして長年、病の予防を一手に引き受けてきた者が突然消えればどうなると思う?」
「病による地域混乱が起きる?」
「そういうことよ。まして、この町には薬屋と呼べるものがないのだもの。大変なことになるでしょうね」
後々のことを考えると、後顧の憂いも無いなんて言えない。そんな本音を見透かすように、エディは首を傾げた。
「そこまでわかっていて、グウェンはそれを放っておくのかい?」
「……そういう言い方、あなたときどき意地悪だわ」
「私の知っているグウェンにしては、珍しくシビアなことを言うから。そうやって今、出立を目前にしてせっせと作っているものも気になるしね」
わたしの作業を飽きもせず眺める彼の目が、どこか含みを持って柔らかく細められていることが歯痒い。
わかっていて言っているのだろう。よもや彼も、ひたすらすり潰し続けた何種もの薬草を布に空け、端から並べるわたしの所業を、ただのいつものルーティンワークだなんて思う筈がない。
わたしは別の布にそれらの薬草の名前と処理の仕方、混ぜ合わせる手順や分量、時間を書き記してから、粉末にした薬草を匙で掬って調合する。
これは腹下しに良い丸薬。こちらは喉の炎症に効く液薬。粉にせずに葉だけを千切ったものは薬草茶用。酒屋で買ってきた酒精には、マジョラムとタイム、ローズマリーを漬け込んでチンキ薬にする。感染病の増える季節に重宝するだろう。
「これは何の薬を作っているの?」
「ホアハウンドとソープワート、イヌニンジンを合わせた去痰薬よ」
「待って、イヌニンジンって毒性の強い草じゃなかったかい?」
「そうよ。だからこそ、薬と毒は表裏一体なの。大丈夫よ、これは量を調整しているから、体に大きな負担は出ないわ」
去痰薬とは、病の温床となる痰を体外に排出するための薬だ。だから体にとっての毒を逆に取り込むことで、それを吐き出そうとする人体本来の防衛反応を促す効果もある。ただ、一度毒を体内に含む以上、その量の微調整が重要になる。
これもまた、毒をもって毒を制すということだ。
「体が拒絶反応を起こすような劇物を取り込んだとき、一番最初に必要なのは、その劇物をいち早く排出するための薬なの。お腹で濾過して体外に排泄するよりも、胃の中を洗浄して吐き出してしまった方が早いのよ」
「たとえばメァラの言っていた、金属を取り込んで発疹や呼吸困難を起こした時のような?」
「そう。イヌニンジンはお乳に特に反応するから、オキシメルを飲む前にミルクを飲んでいればなお良いわね」
「そこに準備している他の薬も、薬のレシピと処方の仕方を書いた布も、すべてこの村の人たちのためのもの?」
問われたことには、聞こえなかったふりをして作業に没頭した。わかっていて聞くような人に、予想通りの答えを提示することほど無意味なことはない。
薬も薬種も薬箋も、すべてゴゥワーさんに預けておこう。もしも彼がお母様を探して村を出るときは、これを小間物屋の店主に預けるように言い置いて。店を切り盛りしているのだから、多少は文字も数字も読めるだろうし、彼が読めなくとも、村長や役場の人のような、店を利用する村人の誰かが読めるかもしれない。
同時に、彼が何かの折に誤って使ってしまわないように、店主にも伝えておかなければ。
そうすれば、薬や薬草を扱う者が居なくなっても、急に病が蔓延することはない筈だ。問題は、村の人々が薬箋通りに正しく作って服用できるかどうかだけれど。
病の見極めは、慣れた人間でさえも間違うものだから。
「結局グウェンは、少し立ち寄っただけの村の小事だって他人事と割り切れないのだから」
「お人好しって言いたいんでしょう」
「そうだね。きみの甘さは好ましいけれど、反面で危ういとも思う。いちいち心を砕いていたら、すり減ってしまうよと言ったばかりなのにね」
それは以前、バンガーを発つ時に聞かされたあの話だろうか。
心を砕けばその分すり減る。そうしていつか無くなってしまうのだと。だから彼は、本当に懐に抱えておきたいものは僅かだけ心に留めるのだと言った。そして、心を傾けるのはひとりきりだと。
そのひとりを、彼はわたしに定めたのだとも言っていた。あの時は別の話題に移って有耶無耶になってしまったけれど、改めてそれを思い出すと何とも言えない気持ちになる。
彼自身のことを心底嫌いかと言われれば、今はノーだ。けれど、彼がイングランド人であることを端々思い出すたびに、わたしの中のウェールズ人である誇りと自意識が反発を起こす。
素直に心を傾けられないわたしなどに、彼はいつまで心を砕いてくれるだろうか。
愛は消耗品だ、と彼に告げたのは自分自身だ。だと言うのに、わたしは今も、彼の優しさを甘んじて受けている。
(心を砕いてもらえるほど、自分が立派な人間ではないことはよくわかってる)
ただ、あの時――ゴゥワーさんの振り払った手から、彼が助けてくれたとき。なりふり構わず駆け付けてくれたことは、素直に嬉しかった。
いつも春の陽のように穏やかな佇まいの彼が、あんなにも汗水垂らして駆けてくる姿は初めて見た。
たった一言、わたしが口にした“お願い”という言葉のために、どうしてそこまでしてくれるのだろう。わたしはいつも、彼にそっけない態度で接しているのに。
それを、いつか聞くことのできる日が来るだろうか。
考えて、今は、彼のぼやきに答えるに留めた。
「……違うわ。心を砕いているわけじゃない。わたしはこの思い出ごと、わたしの心を持っていくのよ」
「きみのそういうところ、やっぱり好きだなぁ」
気の抜けた顔で微笑んで、彼は臆面もなくそう言った。その言葉に、わたしは返せる言葉を持たない。
座り込んだ膝の上で頬杖をつく、そんな姿さえ品性のかけらが窺える。
彼はそれっきり口を閉ざして、ただ黙々と作業するわたしの様子を眺めていた。
▽以下、はみだし与太話▽
ヒラ魔女の時代より2世紀ほど後の時代ですが、フランスで黒死病が流行した時代の、ペストの予防薬に関する伝承が残っているそうです。
「四盗賊の酢」(または、四人の盗賊の酢:Vinaigre des Quatre Voleurs)と呼ばれるもので、当時火事場泥棒よろしく、黒死病の混乱に乗じて町の家々から盗みを働く四人の盗賊が居たそう。
彼らは黒死病が大流行しているにも関わらず町のいたる所を渡り歩いても黒死病に掛からない。そこで彼らを捕まえた際に、無罪放免で釈放する代わりに理由を聞き出したことには、「酢にセージ、タイム、ローズマリー、ラベンダー(またはミントという説も有り)を漬け込んだ液を体中に塗って犯行に及んでいた」とのこと。
これ以降、黒死病予防のためのハーブの酢漬けレシピが様々考案されていった、というお話。
黒死病に対する効果のほどはわかりませんが、使われるハーブはどれも殺菌力が高く、酢の効能も現代では健康に良いことが広く知られているわけで、免疫力を高めつつ外から入ってくる菌を殺菌・除菌するという意味では感染症予防に最適だったよう。
グウェンたちの時代にはまだ「菌」「殺菌」という概念が無いため、敢えて殺菌とは表記していませんが、黒死病はともかく風邪予防にはピカイチ効きそうですね。




