10.化け物の名で呼ばれる所以
納屋に戻ると、まだ日も高い内から、連れの男はハープの手入れをしていた。
「今日は外に出なかったのね。珍しい」
毎日興行に出るわけでもないけれど、それでも村の散策や、目新しい話題を拾い歩くのが日課の彼のことだ。また夕日が出る頃まであちらこちらをうろついているのだろうと思っていたので、意外にもそこに居たことに驚いた。
「グウェン。お帰り」
「……ただいま」
お帰りと言われることにまだ慣れなくて、居心地の悪さをウェールズ語で返事することで紛らわす。
勉強の成果か、彼もそれが帰宅の挨拶であることに気付いたようだ。ひとつ頷いてから、わたしの疑問に答えた。
「さすがにそろそろ実入りが悪くなってきたから、吟遊に出るのは暫く見合わせようと思って」
「そうなの」
「それに少し、ハープや歌の練習にも、もっと力を入れないと、と思うところがあってね」
こういった小さな村では、流れ者も少ないから最初は持て囃されるけれど、熱が冷めるのも早いんだ。人の入れ替わりが無いからね。
そう付け足して茶色の瞳を細めて微笑んだかと思うと、けれどすぐに、彼は不思議そうな顔で首を傾げた。
「きみこそ珍しいね。調薬中でもないのに髪を纏めているなんて」
「あぁ、これ……今まで使っていた髪結い紐が千切れてしまって。代わりのものを頂いたのだけど、変わった結び方をされてしまってひとりでは解けないから、そのまま戻ってきたのよ」
「頂いた? 変わった結び方って……」
怪訝そうな顔をするエディに、飾り紐が見えるように彼の前で屈んで見せる。気安い仲なら「綺麗でしょう」とおどけて自慢するところだけれど、そこまで気心の知れた仲ではない。
ついでに解いてもらおうかと口を開きかけたところで、彼が籠もった声でぽつりと呟いた。
「これ、エギュイエットじゃないか。……男物の」
その声がいつもの彼より一段低いものだったので、たまらず驚いて顔を上げた。彼は先程と同じように怪訝な顔をしていたけれど、わたしを見下ろす瞳に複雑なものが見え隠れして口を噤む。
エギュイエットは男の人しか身に着けないのだから、男物なのは当然でしょう。……なんて軽口を叩ける雰囲気ではなかった。
「解けないなら解いてあげる。ほら、後ろを向いて」
たじろいだのが伝わったのか、彼は何でもないように口元を緩めてわたしに後ろを向かせる。どこをどのようにくぐらせているのか、引っ張っても解けなかった飾り紐が、襟足でシュルシュルと音を立てて解かれていくのを感じた。
あっと言う間に開放された自分の髪が、耳ごと首元を覆う。途端に、隠された肌に熱気が籠もった。
「ありがとう。お陰で助かったわ」
さっきのあれは何だったのだ、と思いながら振り返ると、彼は困ったような顔で飾り紐を握りしめている。
返して、と言葉なく手を差し出すけれど、彼が飾り紐を離す様子はない。それで手から溢れている紐を引っ張ると、どういうわけか、彼は握る手の力をことさら強めた。
「ちょっと」
「ねぇ、グウェン。エギュイエットは髪を結うようなものではないよ」
「そんなこと知っているわ。でも、これはわたしが親切のお礼に頂いたものよ」
エギュイエットは付け袖と並んで、ちょっと生活に余裕がある人にとってお洒落のポイントにもなるものだけれど、本来の用途は下着に結び付けたホーズを、ダブレットの上から固定するためのベルトなのだ。
彼の言わんとすることもわかる。男の人が、それも服を縛るため腰に巻くような代物で、女の髪を結わくのは如何なものかと言いたいんだろう。
けれど、だからと言ってこの飾り紐で髪を結わいてはいけないという法律もないのだし、紐は何かを束ねるためにあるものだ。それ以上でもそれ以下でもない。
「親切のお礼? 誰かに薬でも分けてあげたのかい」
「何が言いたいの?」
――インクが切れて困っていた旅人が居たから、分けてあげたの。一言、そう言ってしまえば良かったのだろう。
だけど、この時に限ってやたらと食い下がってくる彼の言動も、一向に飾り紐を返そうとしない様子も、いつもの彼らしくなくて考えるよりも先に問い返してしまった。意図の見えない彼の言動に、わたしこそ、多少苛立っていたのかもしれない。
質問に質問で返されるとは思わなかったのだろう。彼は薄い唇を引き締めて、答えを見失ったように口を噤んだ。何かを堪えるためか、ぎゅっと手を握り締める。
(手が何よりの商売道具のくせに、そんなに力を込めたら傷になるじゃない)
場違いな心配が頭をよぎったけれど、今、それを素直に口にできるほどの気持ちの余裕はなかった。口を開けばささやかな棘が飛び出しそうで、結局、言葉にしないまま呑み込む。
睨み合いと言うには途方に暮れたこどものような顔で、ほんの短い間、その膠着状態は続いた。
「言いたいことがあるのなら、言ってくれなきゃわからないわ。わたしはあなたの考えを察することができるほど世慣れてはいないし、まだ、あなたという存在を丸ごと受容できるほど人間ができてもいないの」
先に焦れたのはわたしの方だった。できるだけ冷静に聞こえるようにゆっくりと言い聞かせたけれど、彼は一度強く目を瞑ると、ふるふると首を横に振る。
「……すまない、どうかしてた。自分でも何が言いたいのか上手く纏まらないんだ。しばらく頭を冷やすよ」
「……ええ。それがいいわ」
緩みもしない表情筋を強張らせたまま、彼の一応の謝罪で話が畳まれる。未熟なわたしは、一度不機嫌になった感情のやり場を見つけられないまま、半二階に上って干しっ放しの薬草の具合を確かめることに専念した。
気まずい空気が納屋の中に立ち込めていた。彼も自分の何らかの感情を処理することに集中しているのか、気持ち半分といった様子でハープの手入れを再開している。
こんな空気になるのは、彼がわたしの家に居たあの三日間以来だった。頭を冷やそうにも、冷たい雨はとうに海の向こうへ去った後だ。
だからわたしたちは黙々と、各々の手仕事を進めるしかなかった。
そんな調子で、いくらか日が傾くほどの時間が過ぎたころだ。突然、納屋の戸を叩く音が響いた。
わたしが返事をするより先に、下で作業をしていたエディが「どうしましたか?」と戸を開ける。来客が気になって半二階から顔を出すと、戸口の外にしかつめらしい顔をした壮年の男の人が立っていた。この間、ここでゴゥワーさんについて悪い噂をこぼしていた農夫だ。
あまり良い印象が無いので降りて挨拶をするのを躊躇っていると、彼はわたしとエディを交互に見回して重く口を開いた。
「悪んども、今すぐこの納屋がら出で行ってたんせ」
「どういうことですか?」
前触れのない退去勧告に驚いて、挨拶をする前につい口を挟んでしまった。農夫はこちらをこわごわと見上げてから、眉間に深い皺を寄せて言った。
「おめぇさん、ここ何日かあの化け物の所さ行ってらだべ? 村中で噂されでらな。まんず悪んだども、これ以上ここさ居られちゃがおるべな」
どうやら、わたしがゴゥワーさんの家に通っていることで村人がわたしたちを不審視し始めたようだ。村の鼻つまみ者と懇意にしている者を泊め続けるのは憚られるので、出て行ってくれということらしい。
ただ同然で寝床を貸してもらっていた以上、村人の迷惑を押し切って居座るわけにもいかない。エディには申し訳ないけれど、わたしは農夫に向かって頷いた。
「わかりました。……ですが、ひとつだけお尋ねしても良いでしょうか?」
「何だべ」
「彼はなぜ、そこまで村人たちに嫌われているんでしょうか。言動や行動に少し奇妙なところがあるというのは理解できます。でも、小さな年頃の子たちが恐れるならともかく、大の大人が寄ってたかって爪弾きにすることに疑問が拭えなくて」
彼は噛み砕いて話せば、こちらの言うことを理解する。決して話の通じない怪物ではないだろうに、彼らはそれでもゴゥワーさんを忌むべきものと閉め出そうとしているようだった。
どうせ出て行くならば、これくらいの疑問はぶつけてみてもバチは当たらないだろう。そんな、ささやかな気持ちでの問いだった。
軽率に尋ねるべきではなかったと後悔したのは、長らく葛藤するように口を噤んでいた農夫の、苦悶に満ちた答えを聞いた後のことだ。
「そりゃあ、おめぇさん……あいづが自分のじっさとばっさどご焼ぎ殺しだからだべ」
「焼き……殺し、た…?」
一瞬、何を言われたのかわからなかった。飛んだ思考が戻ってきてからも、己の耳を疑ったわたしは、一緒に話を聞いていたエディへ視線を寄越す。
彼は口を挟まなかったけれど、珍しく丸々と見開かれた茶色い瞳が、空耳ではないことを裏付けていた。
「ま、待って下さい。でも、彼の祖父母は流行病で亡くなったって小間物屋のご主人が」
「んだぁ、正確にゃあ、病さ罹っだじっさばっさを隔離した小屋ごと焼いだべな。あれで村中のやつらは竦み上がっちまっただ。拾われた恩さ忘れで、育ての親ぁ殺しちまっだんだがらよぅ」
がん、と頭を巨大な木の幹にぶつけたような痛みが襲った。もちろん、物理的な痛みではない。けれどそれほどの衝撃が、わたしの思考を掻き混ぜてぐちゃぐちゃにした。
「あいづはそういうモンだ。わがっだら、あんまし関わるでね。さっさと村を出てくのが一番だぁ」
その後、農夫になんと答えたのかは覚えていない。気付けば戸口は何も起こらなかったかのように閉まっていて、荷物をまとめ終わったエディが、降りてきたわたしの手を引いているところだった。
「あ……、干していた薬草は……」
「自分で整理して、籠に詰めてしまっただろう? 梁に張ったロープだけ、私が片付けたから後で返すよ。それより、これからどこで寝泊まりしようか」
「この調子じゃ、村の他の家も泊めてはくれないでしょうね。前に寝る場所がなければおいでって言ってくれたから、夜はメァラたちの馬車へご厄介になりましょう」
回らない頭をどうにか動かして、村に着いた日のメァラとの会話を思い出す。確か、雑魚寝で良ければ毛布くらいは貸してくれると言っていたはずだ。彼女たちも、まだこの村に滞在しているだろう。
そう答えると、彼は「了解」と自分の鞄を背負い直して納屋の扉を開けた。
「……わたしのせいね、ごめんなさい」
手を引かれながらぽつりとこぼすと、彼は苦笑して、何も言わずに引いていた手を離すと肩を叩いた。気にするなということだろう。
『気にしてないよ』とか、『きみのせいではないよ』などと、口先の慰めを言わない辺りが彼らしい。それで、さっきまで気まずくなっていたふたりの間の空気は、有耶無耶になってしまった。
それよりもあまりに信じ難い話を聞いてしまったせいで、ささやかにささくれかけた感情は温度を落としてしまったのだ。人間、大きな衝撃を受けると、その他のことはどうでも良くなってしまうらしい。
ぽっかりと大きな隙間のできた頭の隅で、微かに残った冷静な自分が納得の声を上げる。
キャス・パリューグ。ゴゥワーさんが、悪意と恐れの籠もった化け物の名で呼ばれていたのは、そういうことだったのか。
それが何らかの行き違いで生まれた勘違いにしろ、事実にしろ、火のない所に煙は立たない。
信じられないと思う一方で、未知の深淵を覗くような恐れがわたしの中にも確かに生まれてしまったのだ。




