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ヒラエスの魔女の唄  作者: 待雪天音
リンディーロンの子守唄
30/41

9.ひとつ扉が閉まることは、別の扉が開くことと心得たり




 わたしの顔よりも大きな手が、細かな種を器用に小さな壷へ流し込んでいく。細長い緑褐色のそれは、フェンネルの種だ。


 ゴゥワーさんはそこへ、昨年末収穫して干したというセロリの葉を千切り、ひたひたになるまで葡萄酒を注いで漬け込んだ。


「最低でもまる一昼夜漬け込んでくださいね。熱も無いのに空咳が続く人には、これを食前に飲ませると良いわ。フェンネルは胃を強くする作用もあるから、そういう意味でも食事の前に飲むのは効果的なの。

 ただ、そうね……葡萄酒は日曜礼拝や特別な祝祭日でもないと平民(わたしたち)が手に入れるのは難しいから、こまめに作るなら林檎酒で漬けるといいかしら」


「んだ。おめぇさん、いろんなこと知ってんだなぁ。(さが)しなぁ」


 先日の約束通りに、薬草をいただく代わりの薬の製法を教えている最中、感心したように彼が呟いた。無垢な瞳で褒められるたび、やはりこの気の良い大男が村人の言うように胡散臭げな存在だとはとても思えなかった。




 ゴゥワーさんと出会った日の夕刻、一抱えの籠いっぱいに薬草を持ち帰ったわたしは、ちょうど興行から戻ってきたエディに乞われてその日起きたことを話して聞かせた。


『ゴゥワーさんは、あなたよりも更に浮世離れした雰囲気の人だったわね』


 白痴と思しき人に会ったのはこれが初めてだったので、素直な感想としてそう言うと、彼は『きみの中では私も“浮世離れした人”の括りなのだね』と苦笑していた。ーー彼こそ浮世離れしていると形容せずして、一体誰がそうだと言うのか。


 呆れを滲ませたわたしの視線が彼を捉えるより早く、仮住まいにしている納屋の扉が音を立てて開く。


 第三者の声に驚いて戸口へ目をやると、壮年の男の人が、鋤と鍬を担いで入ってきたところだった。この納屋を寝床として貸してくれている、村人のひとりだ。


『今、ゴゥワーっで言っだか? おめぇら、あんましあの男に近づくでねぇぞ』


『それは一体、どうして』


『あれは取替え子プレンティン・ネウィードじゃ。あいづが来てがら、この村じゃあ良ぐねごとが度々起ごる』


『彼が来てから……? いいえ、それよりも。良くないこと、ですか?』


 如何を尋ねるわたしの声に食い気味で答えた男の人が、納屋の端に農具を立て掛けながら手を払った。心なしか、その表情は鼻白んでいるようにも見える。


 恐らくはわたしたちへではなく、話題の渦中の人物に対する心情が隠しきれなかったのだろう。


『んだぁ。小っせぇ頃は(だァれ)も居ねとごに話しかげだり、ブツブツ独りごど言うような不気味なこどもでなぁ。かと思えば変な唄ぁ歌い出して。

 狂っだように同じ言葉ァ繰り返しで、同じ年頃の村のこどもたち追いかげ回しちゃ転ばしだり、よう泣かせとった。

 そいでもあれの爺さん婆さんがいっぺんに亡ぐなるまではそいだげのごどだったんだどもよぉ。ここ数年は特に(ひで)もんだ。妊婦に薬湯さ飲ましたら流産しちまうし、沸かした水飲んだ村の若ぇのは全身真っ赤に腫れ上がらせてよぉ。

 最近じゃ、村中の赤子が滅多に泣かなくなっちまった!』


『それは……奇妙なことですね』


 エディがなんと言ったものか迷った様子で相づちを打つ。たった今わたしから聞かされた人物の悪評に、居心地が悪そうだ。……座りが悪いのはわたしも同じだったけれど。


『墓掘りなんぞしとるような奴だ。悪いもん撒き散らしとるに(ちげ)ねぇ』


 幼い頃のことはともかく、その後のことはどれも言いがかりの範疇を出ない村人の言い分に、もやもやとした不快感が胸を埋めた。


(そんなもの、起こった不幸を逐次誰かのせいにしないと気がすまない人間の、ただのこじつけなのではないかしら)


 そんなことを考えたけれど、わたしは賢明にも、なんとか口を閉ざしておいた。開いたが最後、公平性に欠ける返事しかできないことは目に見えていたからだ。


 やれ牛乳が腐ったから隣のあいつが魔女だの、重石を付けて水に沈めたら浮き上がらないからこいつが魔女だの、そう言って罪もない人を糾弾する魔女狩りと同じような――すべての悪いことを、弱い立場の人間ひとりに押し付けて、己の心の安寧を保とうとする者の、言いがかりのようにも思えた。


 それを、この村の実情も知らないわたしが口にするのは、ゴゥワーさんを一方的に毛嫌いしている彼らと同じようなものだとおぼろげに自覚していたのだ。




「グウェンさん?」


 声をかけられて、回想に耽っていた己の頭を揺り起こす。思考に没頭すると周りが見えなくなるのは、長らく独りで居たわたしの悪い癖だ。


「あぁ、いいえ、わたしが賢いわけじゃないわ。母が残してくれた薬の製法書のおかげよ」


「んでもよぅ、おっかあ残しでくれたもん読めるんは、おめぇさんが字ぃ読めるぐらい賢しおかげだべ? おいら、字ぃも読めねがら、それ見てもなんもわかんねだ」


 それ、と言いながら、ゴゥワーさんが手元のレシピを覗き見た。墨で黒ずんだ布切れのページひとつひとつに、薬草の名前と量数と、ときおり簡素な図解が描き込まれている。


 太い筆致や滲みは木炭で書かれたためのもの。木炭が無ければインクを作って、落ちていた鳥の羽で書いた。決して情報量は多くないけれど、最低限の記述でわかりやすく書かれた製法書は、この世にたったひとつのわたしの宝物だ。


 そして、今となっては現状、唯一わたしと母を繋ぐ絆にも等しいものだった。


「そうね、ええ。ありがとうございます」


 そうまで言われて謙遜すればそれはもう謙遜ではなく、ただの卑屈というものだろう。彼の称賛を素直に受け入れて、さて帰り支度をしようかと、作業のために結わいていた髪を解いた時だった。


 ビリ、と布を割く嫌な音が響いて、手元に微かな衝撃が走った。うそ、と思った時には、手の中の布と分かたれた端切れが足元に落ちていた。髪結いに使っていた布が千切れたのだ。


「あいー、紐さ破けちまっただな」


 おろおろとわかりやすく狼狽えたゴゥワーさんに大丈夫と軽く笑って、レシピと薬草を籠に仕舞う。


「もともと破れそうだなと思ってたんです。切れ目が入っていたから。帰りに小間物屋へ薬を売り込みに行くつもりだったから、ついでにちょうどいい紐がないか見てくるわ」


「んだが」


「ええ。それじゃあ、さようなら(フーイルヴォウル)。続きはまた、明日か、明後日にでも」


 薬草の採集は昨日今日で済ませてしまったけれど、分けてもらった分量に対する対価をまだ渡し終わっていなかった。読み書きができない相手に文字で書き残せない以上、こうして実践しながら教えるしか、覚えてもらうすべが無いからだ。


 分量と処理方法を指示しながらの作業は遅々として進まず、一日に教えられるレシピもふたつかみっつが限界である。彼の記憶力的にも、あまり一気に詰め込んだところで覚えるべき箇所を取りこぼすのが関の山だろう。


 それでわたしは、こうして連日ゴゥワーさんの家を訪れては、少しずつ、簡単な薬の製法から教えることにしたのだった。


(リンディーロン、ね)


 ゆっくり、のんびり、悠長に。そんな意味のウェールズ語(カムライグ)だ。急ぎの旅ではないのだから、たまにはそんな日々も良いだろう。


 別れを告げてから、アムルフの村で唯一の小間物屋へ向かうと、杖をついた老爺(ろうや)が快く迎えてくれた。背筋こそ曲がり気味ではあるが、目も濁りのない矍鑠(かくしゃく)とした好々爺で、辺鄙な村には珍しく外部の人間にも好意的なご老人だ。


 薬を売るならここの店主に頼むと良いと、ゴゥワーさんから紹介された。それを伝えると、店主のご老人は諸手を挙げて喜んだ。


「こんな田舎じゃ薬なんぞろくに手に入らんからなぁ。行商人も寄りゃしない辺鄙な村だろう。普段はゴゥワーの坊主から仕入れるくらいしかできんもんでな」


 彼はゴゥワーさんが作る薬も買い取っているようで、村人の多くがゴゥワーさんを煙たがっている現状に心を痛めているようだった。


「彼は今や、唯一この村で薬草を扱える(もん)でなぁ。元は坊主の祖父母がこの村で薬師や産婆の真似事をしとったんだがね。三年だか四年ほど前、町の方に遠出した際に流行り病で亡くなってしもうてな」


「まぁ。……では、今はゴゥワーさんとお母様で村の医薬を賄ってらっしゃるんですか?」


「いんや。あの子に母親はおらんよ」


「……え?」


 店主の口から飛び出した予想もしなかった言葉に、わたしは思わず間の抜けた声で聞き返してしまった。


 ゴゥワーさんと会話を重ねる中で、彼は度々母親について話していたので、まさか他人の口から「居ない」だなどと聞かされることになるとは、つゆほども考えていなかったのだ。


「あれは拾われ子でなぁ。まだほんの小さい頃に捨てられたようで、それをあんたさんたちのような旅人が拾ってきてな。自分は旅のもんだから育てられんと言うので、こどものおらん老夫婦が引き取って育てたんだ。それがあの子の祖父母さ」


「そうだったんですね。じゃあ、彼がしきりに話すお母様についての話は……」


「ああ、恐らく拾われるより前の断片的な記憶なんだろうなぁ。養祖父母に聞いた話じゃ、拾われてきた直後にひどい熱を出して、それまでの記憶もほとんど忘れちまったってぇ話だ」


 店主の話を聞きながら、そういえばと、先日、納屋に来た村人が口走っていた言葉を思い出した。


“あいづが来てがら、この村じゃあ良ぐねごとが度々起ごる”――彼の「来てから」という表現に引っかかりを覚えた理由は、こういうことだったのだ。


 わたしが納得した様子で相づちを打つと、途端に彼は、普段は口にできないだろう不平をこぼし始めた。


「まったく、この村の住人ときたら、風の病が流行れば真っ先にここに薬を求めに来るくせに、それがどこから仕入れられとるかも知らんと、拾われ子だからとあの子の陰口ばかりを言いよる。

 坊主のとこの庭木や薬草は、あの子の祖父母が唯一残した財産だが、それを扱える者がおらなんだら店に薬が並ぶことも無いと言うに」


「お祖父様とお祖母様が……だから彼の家の庭にはあんなに薬草や薬効のある樹木が豊富なんですね」


「あぁ。家の裏にも、なんぞここらじゃ珍しい植物が生えとるらしゅうてな。あんたさんは見たかい」


「いいえ。今度行ったときに聞いてみます。それで、今日お持ちした薬ですけど」


 こうなっては、ご老人の世間話は切がなくなってしまう。わたしはさり気なく話題をすり替えた。


 口を動かす間にも、籠から調薬した薬壷をカウンターに並べていく。さっそく商談に入ろうとしたところで、店の古びた扉がギィと軋んだ。


 入口を振り返ると、この辺ではちょっと見ないような小ざっぱりとした身なりの男性が店内を見回していた。


 ウォールナットの良い材木のような髪色の男性は、その前髪と目元を隠すようにくすんだ青のシャプロンを被っている。頭に布を巻いたような形の帽子で、長い裾布を背に垂らしたり、襟巻きのようにできる被り物だ。


 服装は袖のゆったりとしたダブレットに、スラリとした生成りのホーズ(※タイツのような下衣)といった簡素なものだけれど、農漁民はシャプロンなんて被らないので、彼もわたしのような流れ者なのだろう。腰に幾重にも巻いた飾り紐を見るに、ちょっと羽振りの良い商人くらいの身分だろうか。


 案の定、店の主を見つけると、彼は下層民にあるまじき要望を口にした。


やあ(シュマイ)。商談中に悪いな、店主。この店にインクは置いているか? どうしてもすぐに必要なんだが、携帯壷の中身を切らしてしまって」


「旦那。インクなんてもの、こんな北端の田舎にあるとお思いですかい。修道士でもなきゃ、そんなもん使わんよ」


 声の感じから察するに、年の頃は二十そこそこから半ばほどだろうか。南部訛りのウェールズ語(カムライグ)を繰る男に、考えるポーズも無駄とばかり、間髪入れず店主が答える。


 やっぱそうか、といくらか砕けた調子で独りごちた男は、「どうしたもんかな」とこめかみを押さえながら肩を落とした。


 ウェールズ本土の、どこか大きな街の商家のお坊ちゃんが、物見遊山にでも来たのだろうか。常識的に考えて、荒波の海峡を隔てた島の端っこなんていう辺境の小間物屋で、インクなど売っていようはずもない。言ってはなんだが、この村で文字がまともに書ける人間が居るのかすら怪しいところだ。


「無いものは仕方ないな。冷やかしで悪いが帰るよ」


「今度は何か買ってっとくれよ」


「今度があったらな。今日来たばかりだが、すぐに発つ予定でね。インクが無いなら尚更、次の町に行ってさっさと調達せにゃならん」


「そりゃ残念だ」


 気安い口ぶりで踵を返した青年は、軽く手を振って、入ってきた時と同様、突風のように出て行ってしまった。


 呆気に取られていたわたしは、彼が去ったあとでやっと、籠の中で眠っていた薬壷の存在を思い出す。個人的に使おうと思っていたものなので、商品を広げたカウンターの上には出していない。


 わたしは店主の老爺へ少しだけ待ってくれるよう頼むと、青年の後を追って店を飛び出した。


「おや、お嬢さん。君もお目当てのものが見つからんかったかね」


 扉の音に気付いて振り返った青年が、すぐ近くで立ち止まったわたしにそう言った。世間話でもするような気安さは、初対面にも関わらず相手の口を軽くするものだ。


「いえ、わたしは……商談ついでに髪結いのための端布(はぎれ)を探しにきただけなので」


「それなら、お嬢さんみたいなかわいこちゃんが好みそうなレース編みのリボンが店の隅にあったぞ。薄青の花染めのようだったから、君の白金の髪にさぞお似合いだろう」


 ともすると軽薄なようにも聞こえそうな言葉がそのように聞こえないのは、きっちりと着込んだ服装や居住まいのせいだろうか。近頃は、ダブレットの胸元を少し開けて着崩すのが流行りのようだけれど、彼にそういった緩みは見受けられない。


 かと思えば実用性の一辺倒でもないというのは、腰の飾り紐の数を見れば一目瞭然だ。適度な無駄……もとい、余暇を取り入れつつ隙を見せない立ち居振る舞いは、彼の言動にも滲み出ていた。


「レース編みだなんて、わたしの手持ちではとても手が出ませんから。ところで、あの、インクをお探しだとか」


「あぁ、そう。急務でこんな辺境まで来たんだが、上司に書簡をしたためてる最中でインクが切れちまってね。まさか、いくら田舎の村だと言って、インクが売ってないとは思わなかった。とんだ誤算だ」


 肩を竦めて大仰に嘆いて見せる男性に、つい笑いが漏れる。うっかりを誤魔化すように口元を押さえて目の前の男性を見上げたけれど、気分を害した様子は見受けられなかった。


「あなた、南部のかたでしょう。ただでさえ字を書く文化が浸透していないウェールズの、それも行商人も滅多に来ないような北部の寒村に、ペンやインクがあると思ってはいけませんわ。

 字を書く文化を持つイングランド人の多い南東部では、そうでもないのでしょうけれど」


「なるほどね。文化の違いってやつか。盲点だったな。……それで、お嬢さん。わざわざ世間話をするつもりで俺を追ってきたわけじゃあないんだろう。一体、俺に何の用で?」


 いつ本題を切り出そうかと思っていたところを、世間話の流れでさらりと問われたものだから、思わず、開こうとしていた口が閉まった。


 あるいは、そう指摘する彼の目が、気安い口ぶりに反して何かを見定めるように眇められていたせいかもしれない。彼には確かに、こちらが気圧されるような雰囲気があった。


 けれどすぐに本来の目的を思い出して、籠に掛けていた布をめくる。


「……その、インクが必要だと言ってらしたでしょう。手製のものでよろしければ、少し手持ちにあったので。よかったらお分けしようかと声を掛けました。こんな場所では商品にもならないと思って、小間物屋に卸すつもりは無かったんですけど、お困りのようでしたから」


「インクを? ……お嬢さんが?」


「はい。灰と油ではなく、キノコで作ったものですので、羊皮紙にどれほど馴染むかはわかりませんが」


 普段、羊皮紙なんて高価なものは使わないので。そう添えながらいくらか空いた籠の奥から、インクの入った壷を引っ張り出した。アムルフへの道中で摘んだヒトヨタケのインク壷だ。


 翌日には溶け出したキノコの傘は、更に一晩経つ頃にはきれいに液化してドロドロになっていた。漉して水を差してしっかりと練ったインクは、数日経って水分が飛んで、固形物になっている。


「少量の水で溶けばまたすぐに液体に戻りますから、よろしければどうぞ」


「これは有り難いが……いいのか? 商品じゃないんだろ。いくらになる」


 目を丸くしながらも損得勘定と適応力が高いらしい青年は、さっと自分の携帯壷を引っ張り出した。腰の飾り紐の内の一本に別の紐で引っ掛ける形で、腰元へ留めていたようだ。


「商品ではないので、お代は結構です。同胞(カムリ)が、インクを必要としていることが気になってお節介を焼いただけですから」


 足りなければ分け合って、欠けていれば補い合う。それが同胞というものだから。そうやって、わたしもコンウィの近くで同胞に育てられた。


 母が亡くなってからはひとりで生きてきたけれど、薬と食料や日用品と物々交換をしてくれる麓の村の人々が居なければ、とうにこの命は尽きていただろう。わたしひとりでは家畜を育てることも、布を織る糸を紡ぐこともできないのだから。


 固形のインクを半分ほどこそいで携帯壷へ掻き入れる。青年はじっとその様子を見ていたけれど、わたしがそう言った途端、鼻を鳴らして不満を訴えた。


「それだと俺の気が収まらないんでね。そうだな……それじゃ、この飾り紐(エギュイエット)と物々交換ってことでどうだ? ちょいと長いが、髪留め代わりにはなるだろう」


「え? 飾り紐って……」


 パチンと携帯壷の蓋を留めた彼は、その手で腰に巻いていた飾り紐の内の一本をほどくと、


「少々失礼」


 言うが早いか、わたしの髪をその紐で結わきだした。


 襟足で緩く幾重かに巻き付けられた、濃い灰色の光沢ある飾り紐がしっかりと結ばれる。毛先の房が首元に掛かって擽ったかった。


「こんな値の張りそうなもの、対価には頂けないわ」


 慌てて解こうとしたけれど、特殊な結び方をしているのか、引っ張るほどに組まれた紐が締まってうまく解けない。結び目を指先で辿ってみるけれど、幾重にも紐をくぐらせて花びらのように沢山の輪ができているようだった。


「溺れる人間にとっちゃ、掴めるなら藁でも有り難いもんだよ。良いから取っときな。借りは作りたくない性分でね。俺はインクが手に入る。お嬢さんは髪紐が手に入る。互いに互いの利を交換しただけだ」


 な? と念を押されて、思わず解こうとしていた手を止める。どこか飄々として人を食ったような雰囲気とは裏腹に、男性の言葉には頷かざるを得ない説得力があった。なんだか丸め込まれた気分だ。


 貸しを作るつもりで申し出たお節介ではなかったのだけれど、どうも相手はそのように捉えなかったらしい。


 無理に押し付けるのも憚られて、わたしは気後れしながら、彼からの飾り紐を受け取った。


「……それでは、有り難く頂戴します」


「有り難いって顔じゃないなぁ。ま、要らなきゃ捨てるなり換金するなりすればいいさ」


「とんでもありません。人に頂いたものを換金するだなんて。大切に使わせてもらいます。ただ、こんなに質の良さそうなものは手にしたことが無いから、気後れしてしまって」


「別に高価なものじゃあないけどな。まぁ、農民が普通に買うには、ちっと心構えが要るくらいの品ではあるか。じゃあ、君。名前は」


 唐突に名前を尋ねられて、わたしはぱちりと目を瞬かせた。飾り紐の品の良さについて話していた筈なのに、まさか自分の名前を聞かれるとは思わず、反応に迷う。


 けれどわたしの答えを待つようにじっと見つめてくる視線に、このまま閉口していても埒が明かないことを悟ってたった一言、名を告げた。


「グウェンです。旅の薬師をしています」


(グウェン)か。白金の髪の君にピッタリの名だ。俺はグラム。よろしく。薬師ってことは、さっき小間物屋のカウンターに並べてた商品は全部薬だな」


はい(オィス)


「俺も方々旅回りの仕事でね。いつかまた会うことがあったとき、お嬢さんの商品を買わせてもらおう。それで気後れはチャラにしてくれ」


 シャプロンの間から見下ろしてくる瞳が、悪戯っぽい光を宿して細められた。切れ長ゆえに、刃物のような印象を受ける濃いグレーの瞳に反して、笑った顔は人好きのするものだった。


 つい、身構えたこちらの肩の力も抜けてしまう。


「ええ。その時は、ぜひご贔屓に」


 わたしが首肯すると、彼は満足気に頷いて左手を差し出した。握手を求められていることに気付いて、グラムと名乗った彼の手を取る。その時、ちらりと覗いた左腕に包帯が巻かれているのが見えた。


 怪我だろうか。けれど薬が入用なら、わざわざ「いつかまた会うことがあったとき」などと前置きをせず、今すぐに薬を買い求めるだろう。そう考えて、敢えてその話題に触れずにおいた。


 ――そういえば、ペンロスヴェイルーで出会ったご婦人のお子さんには、左腕に痣があるのだったか。あるとしたら、きっとあの包帯と同じ辺りの位置だろう。


 そんな考えに行き着いたのは、グラムさんと別れて、小間物屋の店主と商談を再開した後だった。




ひとつのドアが閉まっても、別のドアが開く

(When one door closes, another door opens.)

 →捨てる神あれば拾う神あり

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