3.名を呼ぶ意味
瓶の水が半分溜まるだけの時間を置いて、やっとわたしは家の中に戻った。
その頃にはハープの音色も、泣きたくなるほど綺麗な歌声も止んでいて、わたしの心も少しだけ冷静さを取り戻していた。
改めて、とつぜん激昂したことを謝れば、彼はなぜ謝るのかと問うた。
「きみは要らないと言ったのに、私が無理に押し付けた。だから、きみが怒るのは当然のことだよ。寧ろ、謝るべきは私の方。そうだろう?」
「あなたの問いに“はい”とは答えられないわね。わたしのこれは半分以上八つ当たりだもの」
「それなら痛み分けにするべきだ」
すまなかったね、と、男は申し訳なさそうに言った。それから、これで仲直りかな、と笑った。初めから、直るほどの仲にもなっていないのに。
すべてを彼のように単純に考えることができれば、世の中はもっと生きやすいのだろうに。それでもわたしは、この生き方を捨てられないのだ。
「邪魔さえしないでいてくれれば、それでいいわ」
「うん、……わかった」
改めて釘を刺して、再び調薬に取りかかる。今度こそ、彼は何も言わずにわたしの作業に見入っているようだった。
わたしも小さな頃は、このテーブルの端に座って延々と母が薬を作る風景を見ていたものだ。
ともすればその辺りに生えているような野辺のハーブが、水を注され酒を注され蜂蜜を注され、種を砕かれすり潰され油を搾られ、塗り薬や飲み薬になっていく過程は、いくら見ていても飽きることがなかった。
今はわたしが同じように、あの頃母から教わったレシピで薬を煎じている。いつかの過日を繰り返しているようだ。そう思うと、なんだか不思議な気持ちになった。
竈に火を起こして鍋を掛ける。沸騰した湯にスベリヒユを入れて更にひと煮立ち。小さな葉が双葉状に連なるこの薬草は、茹でることで粘りけが出るのだ。
解熱や解毒作用があるので、同じく解熱や防腐作用のあるミントの葉をすり潰してスベリヒユの茹で汁と煎じた。
つんと鼻の奥をつつくような、清涼感と少しの刺激。薪の燃える乾いた木の香りに混じって、瑞々しい緑の匂いが狭い家を満たした。
薬草の香りを肺いっぱいに収める。頭のすぅっと澄み渡っていくこの瞬間が好きだった。
腕の良い薬師だった母ふうに言えば、植物と対話する瞬間、とでも言うのだろうか。
その本質を己の鼻と舌で味わって、別の植物と混ぜ合わせ、調和の配分を見極める。毒性のものは胃や肺が気持ち悪くなるので、よく換気できる晴れた日にしか調薬しない。
教会に属さない薬師が魔女と呼ばれる所以は、毒も薬も等しく調薬する知識を持っているからだ。毒を以て毒を制すと言うように、毒が毒を中和する薬になることもある。またある時には、害獣被害に悩んで殺鼠剤や殺虫剤を求める者も居る。
これは胃薬、これは解毒薬。怪我を治す軟膏に、睡眠を誘う薬。
鎮痛効果のある薬は、量が過ぎればあらゆる感覚を麻痺させて死に至らしめるし、瞳を大きく美しく見せるベラドンナの汁は、美しさと引き換えに失明の危険性を持っている。
命懸けの出産を恐れてか、あるいは不都合を隠すための堕胎薬――は、命を扱う領域なので、わたしは作らないけれど。
昨日からずっと乱されっぱなしだったペースを取り戻すように、わたしは調薬作業に没頭していた。
どれほどそうして無心に薬を作っていただろう。
あれほど激しく戸を叩いていた雨足は緩やかになり、しずしずと泣く寡婦の泣き声ほど小さくなっている。
とうに朝食を食べ終わったノスは竈の前で丸くなって寝ているし、テーブルの隅でわたしの手の動きを追っていた男の瞳は、半分以上が長い睫毛の下に隠れてうとうとと微睡んでいた。
「眠いのなら寝たらいいのに」
薬を薬壷に詰めていた手を止めて切り出す。それに、彼は小さく身じろいで首を振った。
「嫌だ。勿体ない」
「見ていても楽しいものじゃないでしょう」
だからさっさと寝てしまえばいいのに、と追い立てるわたしに、男はまた二度首を振った。
「楽しいよ。知らないことを知ることは、それだけで楽しい」
楽しい、と、素直に口にできる彼を、少しだけ羨ましいと思った。楽しい、と感じるあの胸の弾む感覚を、もう何年も味わっていない。そのことに、たった今気付いた。
ノスとのひとりと一匹の生活は、波風もなく心が凪いで平静だけれど、同時に、新たなものを発見したり、腹を抱えて笑うような出来事とはとんと無縁なのだ。
ただ自然に与えられる恵みを享受して、日々を生きるために生きている。満足かと問われれば疑問が残るが、他に行く宛てもすることもないわたしは、その生活に甘んじていた。
「もしも、」
「うん?」
「……いいえ」
もしも数年前に収束した反乱が成功していたとしたら、わたしももっと違う生活をしていたのだろうか、と考えた。わたしだけでなく、ウェールズ全域に住む同胞たちも。
直接関わった反乱ではないけれど、それが成功していれば、ウェールズ人が今ほど肩身の狭い生活をする必要もなかっただろう。
想像してみようとして――やめた。
叶わなかった夢に溺れるほど、無意味なことはない。母が亡くなったときに、散々思い知らされたことだ。
テーブルの端に置いていた乳鉢を取ろうと手を伸ばす。それに気付いた男が、手元の目的のものを取ってこちらに寄越した。
「あ……」
ありがとう、と喉元まで出かかった礼は、瞬く間に胃の腑まで逆戻りした。イングランド人である彼へ、素直に感謝を示すことへまだ抵抗があったのは事実だ。けれど大幅の理由はもうひとつ、まったく別のところにあった。
乳鉢を受け取った時に触れた彼の指が、その一瞬でわかるほどに熱かったせいだ。
空いている方の手で、引っ込められる彼の手を咄嗟に掴んだ。
「グウェン?」
「あなた、熱が出てるじゃない」
「そんなことは……」
「まさか薬師の手と目を誤魔化せると思っているわけじゃないでしょうね?」
それまでまじまじと彼の顔を見つめることがなかったので――意図的に目を逸らしていたとも言うけれど――気付かなかったが、教会の塑像のように白かったはずの彼の顔は、今や耳まで濃い赤みが差している。
照れや怒りで顔に血が上っているのではないことは、泳いだ彼の目が物語っていた。
「まったく、言わんことじゃない! だから昨日も横になるように言ったのよ。駄々をこねないで眠りなさい。ベッドに、横になって、今すぐに!」
思えばこれほど声を張り上げているのも久しぶりのことかもしれない。朝の出来事からこちら、わたしの心は休む暇もないほど忙しなく色を変えている。
落胆して、呆れて、苛立って、憤って、そして今、驚きと焦りがわたしの心を占拠していた。イングランド人であるよりも前に、今の彼は病人だ。抵抗感や敵愾心よりも先に、薬師としてのさがが勝った。
その後で、わたしが居ながら彼が熱病を患ったことに自分の不注意を詰った。イングランド人を敬遠することは、彼が病を患ってもいいということと同義ではないのだ。
男はわたしの剣幕に圧倒された様子で、「でも」と板張りの上のベッドを一瞥した。
「家主のきみを差し置いて、私がベッドを占領するわけには」
「そう言って板張りに横になることも遠慮した結果がこれだって、わかってらっしゃいます?」
「……返す言葉もございません」
迷惑を掛けたくないと選んだ行動が、結果的に更なる迷惑に繋がってしまった。その事実に項垂れた背中を押して椅子から立たせた。ほんの二、三歩あるいて、一段高くなっている板張りへ上がる。
どさりと腰を下ろしてブーツを脱ぐ彼の手付きは、今朝のハープを取る動きよりも幾らか鈍かった。
自覚していなかった身体の重さを、病を指摘されたことで自覚したせいもあるのだろう。とは言え、足取りはまだしっかりしていたし、呼吸も浅くはない。
男の首から顎の付け根近くへ触れると、彼はびくりと肩を震わせてわたしを見上げた。茶色の瞳には、あらゆる種類の困惑を混ぜ込んだ感情が浮かんでいる。
「じっとしていて。血の流れを測っているのだから」
「いや、その、手が、冷たくて……驚いて」
「わたしの手は熱くも冷たくもないわ。あなたが熱いのよ」
そうか、そうだね、と曖昧に相づちを打って、彼は今度こそじっとベッドに横たわった。
「きちんと寝るのよ。寝たふりは駄目。今ゆっくり休めば、明日の朝には良くなっているでしょうから」
「迷惑に迷惑の上塗りで、本当にすまないね。きみには情けないところしか見せていない気がするな」
「それこそ今更だわ」
肉刺の潰れた痕がいくつも目立つ足を毛布にくるみながら、彼の肩までそれを引き上げる。身じろぎした男が、蹲るように背中を丸めた。
「安心なさって。わたしの中で、今以上にあなたへの評価が下がることはありませんから」
わたしの皮肉を聞いても、彼は気の抜けた微笑を毛布に埋めただけだった。
寝息はほどなく聞こえてきた。本人は慣れていると言っていたけれど、やはり無理をしていたのだろう。
緩やかとは言え山道を歩き、何時間も雨に打たれ、挙げ句、椅子に座ったままの体勢で一晩を明かしたのだから当然だ。兵や騎士ならいざ知らず、彼はどう見ても体力が有り余っているようには思えない。
彼が寝入った隙に、竈に火を入れて家の中を暖める。隙間だらけの小屋だけれど、窓は板戸で閉めきっているので、多少は寒さを和らげられるだろう。
それから、今朝調合したばかりの解熱薬を用意した。まさか作ったその日に使うことになるとは誰が思おうか。
(夕食時になったら、白湯に溶かして飲ませよう。そうだ、夕食の準備もしなくちゃ)
いつになく目まぐるしい一日だこと。けれど不思議と、面倒だとは思わなかった。この男ときたら、面倒事しか運び込んでいないというのに。
▽ ▲ ▽
熱は、時間が経つにつれて緩やかに上がっていったようだった。呼吸が浅くなった頃には、昨日から降っていた雨が束の間の休息とばかりに止んでいた。
さしものわたしも、いくら雨が止んだからと言って、熱の引かない人を外に放り出せるほど冷血ではない。母から譲り受けたのは、薬草とそれを調合する知識だけではないのだ。
ノスに夕食を与えて、自分たちの分の押し麦粥を作る。ミルクは悪くなるといけないので、昨日と今朝の分で使いきってしまった。代わりに今日は蜂蜜に少しの塩を入れて、細かく刻んだリンゴとミントを混ぜた。
宵の口に彼を起こして、薬湯と一緒に食べさせる。苦そうに渋い顔をしたけれど、彼は昨日と同じように綺麗に平らげた。
そうしてまた寝入る彼の脇に水桶を持ってきて、ベッド脇の敷き布に座り込む。いつもは夕食のあとにすぐ消してしまう火も、今日は部屋を暖めるために遅くまで焚いていた。
何度、額の汗を拭っただろう。薄い毛布が上下するたび、胸の内に抱えた懸念が大きくなっていった。
今ゆっくり休めば、明日の朝にはよくなっているから――彼にはそうは言ったものの、半分は自分に言い聞かせるための気休めだ。
熱病が時に厄介な病になることを、わたしはよく知っている。
母もまた、熱病を拗らせて逝ってしまったのだから。
こうして看病をしていると、否応なくそのときのことを思い出す。もう何年も前。あの頃わたしは今よりもっと薬の知識に乏しくて、母が指示するに任せて薬を作り、飲ませた。
けれど声を出すこともつらいほど病が進行すると、母の知恵すら借りられなくなった。
薬棚を漁って、母の書き残した調薬のレシピを見ても、今ほど内容を理解することはできなくて、時間ばかりが過ぎることに焦りが募った。あのときほど、自分の無力さを情けなく思ったことはない。
たとえ相手が見知らぬイングランド人であっても、あんな思いをするのは二度とごめんだ。
(吐き気はないようだから、胃は大丈夫。お腹も下していないようだし、喉か、鼻に来てるのかも)
念のために、痰が詰まって咳が出ないようクロニガハッカで薬を煎じよう。よく眠れるようにオレガノを少しだけ混ぜて。
彼の呼吸が落ち着いてきたのを見計らって場を立とうとすると、男が呻き声を上げて身じろいだ。
「……ウェン」
舌足らずにわたしの名前を呼ぶので、浮かせた腰をまた下ろす。
「起きたの。体調はどう」
「からだがギシギシいってる」
寝返りを打ってこちらを向くと、彼はぼんやりした顔を痛みに顰めた。身体が重く錆び付いたような感覚が苛んでいるようだ。
「熱が上がったせいよ。解熱薬を飲ませたから、これ以上は上がらないでしょうけど」
「うん、ありがとう。それから……すまない」
「こんな時でも、あなたは謝るのね。心配しなくても薬の対価なんて求めないし、そんな状態のあなたを追い出すようなことはしないわ」
元は雨の中閉め出したわたしにも、原因の一端はあるのだし。
渋々呟いて彼の額に滲んだ汗を拭えば、その手を取られた。拘束とも言えない縛めは力なく、緩い。
「うん……知っているよ」
振りほどこうと思えば簡単に離れるだろう彼の手をそのようにしなかったのは、肌寒さに、手拭い越しに滲む彼の高い熱が温かかったせいだろうか。
「あなたがわたしの何を知っていると言うの? 歳も、素性も、どうしてこんな山の中にひとりで住んでいるのかも知らないでしょうに」
離して、とも言わずに尋ね返すと、男はぼんやりとした眼差しを細めて、ゆうるり、こどものように無邪気な顔で微笑んだ。
「きみが私を追い出さないことを。だって、こんな状態の私を追い出すのなら、きみはわざわざ雨に濡れた私を家に入れたりしなかった」
彼の答えは単純明快で、もっともなものだった。確かにここで放り出せるくらいなら、昨日、彼の前で閉めた戸を再び開けることはなかっただろう。
彼はわたしのほとんどを知らないのに、何もかもを見透かされているようで居心地が悪くなった。さっきから握られている手が、座りの悪さに拍車を掛けている。
手首が熱かった。彼の手の熱か、額の熱が移ったのか。
それとも、これはわたしの手の熱なのだろうか。
うつらうつらと夢うつつを彷徨う彼は、わたしの泳ぐ視線に気づいたのか、先ほどからぴくりとも動かせないでいる手の甲を掠めるように撫でて、手首を掴む手を離した。
逃げるように――そうとは思われないように手拭いを桶の水に浸す。もう夏の入りだというのに、冬の真水のような冷たさが指先を刺激した。
「手を伸ばせば触れられるところに誰かが居るというのは、幸せなことだったのだね」
熱で掠れた声がぽつりと漏らす。語りかけられたようにも、単なる所感のようにも聞こえた。
「……そうね」
そうね。自称旅人のあなたにとっても。
それから、わたしにとっても。
黙殺することもできたのに、相づちを返してしまったのは、彼の声が途方にくれた迷子のように聞こえたからだ。
実感のこもった呟きは、わたしにもまた覚えのあるもので、安い幸せだと笑い飛ばすこともできなかった。
「あなたはどうして、身ひとつで旅をしているの?」
まるで寂しがりの子どものような目をした男に、ふと湧いた疑問をそのまま問いかける。彼はとろんと半分下りた瞼を瞬かせて、小さく唸ってから答えた。
「必要に迫られて、かな。きみは?」
「わたし? 何が?」
「何故、こんな山奥でひとりで魔女の真似事を?」
今朝、問われてはぐらかした疑問を、彼はもう一度尋ね返した。一度答えた問いをもう一度向けてきたのだ。今度こそ、誤魔化されてはくれないのだろう。
「わたしも似たようなものよ」
一言、簡潔に答えてから、
「昔は母と住んでいたの。母が病で亡くなってからは、わたしとノスのひとりと一匹」
あまりに言葉少なだっただろうかと、そう付け足した。
「……言いづらいことを聞いてしまったね」
「別に。もう何年も前のことだもの」
本当は今も――彼の熱病で思い出して気に病んでしまうくらいには――気にしているくせに、なんでもないふりをした。
気負わせないようにだとか、気を使ったわけではなかった。同情されるのは好きじゃない。ただ、それだけのこと。
わたしの本意が伝わったのかはわからなかったが、彼はそれ以上、理由を聞こうとも、謝ろうともしなかった。
ぱちり、竈で焚いたままの火が爆ぜる。その音で、薪がだいぶ少なくなっていたことを思い出した。もしも明日晴れたなら拾いに行かなければ。明後日には底をつくだろう。
板戸の隙間から忍び込む雨の残り香で肺を満たして、睡魔に抗う男の視界を手のひらで覆った。
「無理しないで、もう一眠りするといいわ。熱も下がっていないのだから」
彼の病状を鑑みて諭せば、手のひらにもぞりと男の顔が揺れる感触が伝わった。
「けれど、勿体ないよ」
首を横に振ったのだと気づいたのは、彼が一言、そうこぼしたからだ。
「勿体ない?」
「眠ってしまったら、朝になってしまう。夜が明けたら、雨が上がっているかもしれない」
「そうかもしれないわね」
今の天気のまま日が昇れば、彼の熱病がこのまま鎮まれば、あくる朝には彼もここを発つだろう。元からそういう約束だったのだから。
何食わぬ顔で頷くと、手のひらの下で瞼が伏せられる感触がした。
「もっと、きみと話していたい。久しぶりなんだ。こんなに長い時間、誰かと居るのは」
わたしもよ。きっと、母が亡くなって以来。同調しかけて、喉元まで込み上げた言葉を噛み殺す。
これでは、まるでわたしが彼との会話を楽しんでいるようだ。
そんなことはない。そんなことは、あってはいけない。彼が追い立てた国の者で、わたしが追われた国の者である以上、決して相容れないのだもの。
「好意的とは言えない返事ばかりの女相手じゃ、つまらないでしょう。いいから、早く眠りなさいな。さっきから喋ってばかりじゃないの」
駄々をこねるこどもに言い聞かせるように嗜めると、彼は眉根を寄せた。夜更かしをするこどもよろしく嫌だと答えるかと思えば、彼は予想外にも「わかった」と渋々ながら頷く。
ただし、言葉尻に条件を添えることは忘れなかった。
「では、せめて、グウェン。名前を呼んで」
「名前? どうして?」
「もう何年も、誰にも呼ばれていないから。きみに呼んでもらえれば、安心して眠れる気がするんだ」
首もとまで毛布に埋もれた男が、うとうとと微睡みながらこちらを見上げる。放っておいても、彼はじきに眠りに落ちるだろう。わたし自身も、このまま彼の願いを黙殺してしまいたかった。
「嫌……と言ったら?」
「それなら、まだ起きてる。きみが呼んでくれるまで」
試しに願いを退けてみれば、男は唇を引き結んでつぶれかけた瞼を引き上げた。無理をしているのはあきらかだ。わたしは視界の外へ彼を追い出してため息をついた。
名前を呼べば愛着が湧く。こうして一晩看病していれば、なおのこと。だから名乗られても頑なに名前を口にしなかったのに、今さら名を呼ぶことは躊躇われた。
けれどまた、彼が名を呼んでほしいと願う不安にも理解できるものがある。長く名前を呼ばれていないからこそ、わたしにも覚えがあるものだ。
わたしは彼の額の布が生ぬるくなるまでたっぷり葛藤したあとで、
「……エディ」
虫が鳴くよりもよほど小さな声で男の名前を口にした。
そのとき、彼がどんな顔をしていたかなんて知りたくもない。ただ彼が、うん、と満足げに返した相づちだけが耳に残る。
長いこと手元の水桶にうっすらと映る自分の情けない顔を見つめていた。
やがてすぐそばから、先ほどまでよりも一段ゆるい寝息が聞こえてきた。約束通り、きちんと眠りについたらしい。
すっかり熱くなった額の布を冷たいものに取り換えても、目を覚ます気配はなかった。
今度こそ、日が昇るまで寝入ってくれるだろう。そのころ熱が引いていれば、やっと厄介払いできる。
(厄介……そう、厄介なのよ)
勝手にこの地へ入り込んできたはた迷惑な闖入者を、暗闇の中で見下ろした。顔の赤みも先ほどよりは引いてきた気がする。話している間に薬が効いてきたのだろう。人知れず胸を撫で下ろす。
わたしは占拠されているベッドの端っこに自分の両腕で枕を作って、その上に突っ伏した。ほんの少し、彼が目覚めるまで仮眠をとるために。あといくらかは眠れるだろう。
朝はまだ、遠いのだから。