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ヒラエスの魔女の唄  作者: 待雪天音
リンディーロンの子守唄
26/41

5.違和の芽吹き




 乗り込んでからずっと揺れ続けていた馬車が止まったのは、また少し日が傾いた頃だった。日の位置を見ると、真昼と夕方のちょうど間くらいか、夕方に差し掛かる辺りだ。それまでメァラや彼女のご家族と、最近の天気の話やこれまでどこを旅してきたのかといった話をぽつぽつと交わしていたので、初めは馬車が速度を落としたことにも気付かなかった。


「村についたの? オヤジ」


 メァラが御者席側の幌を捲り上げて尋ねる。


「いいや、ちぃと休憩だ。もうちっと早く走らせりゃ今日中に着くだろうが、この人数に荷物まで乗せてんだ、馬に無理はさせられんからな」


 親父さんはそう答えると、御者席から降りて馬の手綱と轡を取り外しに掛かった。すぐそばには碧く日の光を浴びて照り返す湖が口を開けている。大きな水場を見つけたので休ませることにしたようだ。


 ついでに遅い昼食をとるように勧められたので、ご相伴に(あずか)ることにした。昼食にしようかと考えていた矢先にメァラたちと会ったので、結局、朝に昨日の黒パンの残りを食べたきりになっていたのだ。


 食料は現地調達だった。パンは食べてしまえばそれまでだが、弓と矢、あるいは釣り竿があればいくらでも獲物が取れる。馬車ひとつで三世代の家族が移動する以上、余分な食料や道具を蓄えておく場所もない。それ故の彼らの生活様式なのだろう。


 釣りも狩猟もできないわたしは、湖の周りで食料になりそうな野草や薬草がないか探すことにした。――初めて見た湖は、海ほどの雄大さはなく、しかし想像に描くお姫様のように静々とそこに佇んでいた。


 呼んでもいないのについてきたわたしの連れは、意外なことに多少のキノコを採取するのに役に立った。


「吟遊詩人の師が教えてくれたんだ。稼げなくて食料を買えないときもあるから、そんなときは湿地ならキノコ、森林があれば木の実や野草を探すといいと。……野草は、その、あまり見分けが上手くないので、できるだけ控えているけれど」


「あなたはそれが賢明ね」


 植物の見分けは、慣れない内はとても難しい。彼がうっかりお腹を壊してのたうち回る様を想像すると、なんとも言えない気持ちになった。


 できればわたしが同行している内には、そのようなことにならないよう願っておこう。


 野草を探すうちに水辺から少しずつ草地へ移動する。今はさすが、植物がよく伸びる季節だけあっていくつもの野草や薬草を摘むことができた。


 野草探しに没頭していると、あとから追ってきた彼が「見てご覧」と肩をつついた。


「ヒトヨタケが生えてる。あれも食べられるものだったよね」


 彼の指差す先を見れば、珍しくも湿地や木陰ではなく、草木の茂った野辺に灰白色のキノコが生えていた。高さ四インチ弱(※約十センチ)の中型のキノコは、傘の部分が卵型でまだ開ききっていない。これが開いていくと婦人のスカートのような形になるのだ。


 彼の言うようにそれは確かに可食キノコだけれど、食用かと言うと難しいところだ。つるりとした見た目のそれを石突ごと摘み取ろうとしたエディに、少し迷ってから待ったを掛けた。


「今回は食用にはしない方がいいかもしれないわ」


「何故?」


「メァラたちはよくお酒を呑むと言っていたから。ヒトヨタケは確かに食べられるけれど、これを食べてまる一日はお酒を呑まない方がいいの」


「まさか、呑むと毒になってしまうのかい?」


 ヒトヨタケへ伸びていた彼の手が、反射的にピタリと止まった。毒と思えば、それを遠ざけようとする危機管理能力と生存本能が勝ったのだろう。


 わたしは彼の手の隙をすり抜けて、密生するヒトヨタケから傘の開いているものをぷちりぷちりと摘み取った。


「中毒、と言うには弱いものよ。ただ、とても悪い酔い方をするの。吐き気や二日酔いがひどくなって、頭痛や、場合によっては呼吸困難も起こすわね」


「呼吸困難?」


「ええ、稀にね。食べ合わせ……のようなものかしら。同じヒトヨタケを食べるなら、傘がガサガサでささくれているササクレヒトヨタケの方がいいわ」


 そちらはもっと乳白色で、無味無臭だが傘も厚く、ヒトヨタケよりも一回りは大きくなる。もちろんお酒を呑んでも体調を崩すことはないので、エールを呑みながら美味しく頂くこともできるというわけだ。


 これらのキノコは湿気の少ない場所でも堆肥になるものや埋もれ木の茂みがあれば生えるので、よく家の周りや市の開かれる村に降りては摘んで回ったものだ。


 おそらくそう遠くない場所に生えているだろうと伝えると、彼は早速近くの草場からササクレヒトヨタケの群生地を探し出していた。


「こんなものかしら」


 傘の開いた成菌や縁が既に黒ずんでいるヒトヨタケを両手いっぱいに摘んで、軸を切り離しては空いている壷に押し込む。


 その様子を、ササクレヒトヨタケを収穫していた男が横目に見ながら首を捻った。


「ヒトヨタケは採らない方がいいのでは?」


「今回は食用にしない方がいい、と言ったの。お酒を呑まない人なら食べてもなんら問題はないし、これは別の用途に使うものだから」


「別の用途?」


「インクを作るのよ」


 ヒトヨタケは|彼らイングランド人の言葉イングリッシュで、通称『インクの傘』とも呼ばれる。その由来は、傘が開いて一晩経つと、先の方から黒ずんでドロドロと液状化していく現象にあった。


 この液状化したものを()して、丁度いい濃度になるよう水を差せばインクとして使えるし、水分を飛ばして固形化すれば持ち歩くにも便利なのだ。


 旅の道中、何度か調薬レシピを加筆する内に木炭片も小さくなってきた。素材があるうちに、ここいらで補充しておいた方が得策だろう。それで、わたしはヒトヨタケを手持ちの空っぽの壷に詰めたのだ。


 説明すると、彼は「なるほど」と頷いてササクレヒトヨタケだけを食用キノコの籠に放り込んだ。


 馬車へ戻ると、車体から少し離れたところでメァラが火を起こしていた。彼女の隣では、親父さんとメァラのお義兄さんが湖で釣ってきたらしい魚を捌いている。


 良い茶マスが釣れたそうで、わたしたちの採ってきた野草やキノコと一緒に蒸し焼きにしてくれた。


 彼らの食事の輪に混じりながら、そういえばこんなふうに大勢で食事をするのは初めてだな、と少しだけ居たたまれない気持ちが湧き上がる。それを、勧められたエールを丁重に断りながら、茶マスと一緒に飲み込んだ。


 少し遅めの昼食が終わってから、馬を休ませる間、残りの時間でエディにウェールズ語(カムライグ)を教えることにした。


 馬車の中では文字を見せるにも不便だったし、貴重な木炭と端布(はぎれ)を使うのは勿体ない。


 それで、芝生の雑草を少し抜いて(なら)した地面に、拾ってきた木の枝で文字を書いて見せる。最初に簡単な挨拶を、それから物の単語を少しずつ教えはじめて数日。いくらかの単語は師から聞き齧っていたようで、そろそろ並行して簡単な文章に取り掛かろうかというところだ。


 呑み込みの早い彼は、拙いわたしの説明を自分なりに噛み砕いて、着実に己の内へ蓄えていた。それはさながら乾いた土が水を吸い込むように。……なぜ今まで覚えられなかったのかと、首を傾げるほどに。


(意欲の差、かしら)


 歌は言葉がわからなくとも美しい。そう言った彼は、これまでこちらの言葉を積極的に覚えようとしていたわけではなかったようなので。その気になれば物覚えの良い頭も、使おうとしなければただの飾り物だ。


 あるいは、慣れない暮らしに生きることで精一杯だったのだろうか。共に城を抜け出した乳母は、途中ではぐれてしまったと言っていたから。外で生きていくすべを持たない彼は、そのほとんどを吟遊詩人(バルズ)の師から教わったのだろう。


 ガリガリと地面を削る音が耳につく。紙代わりにした地面には、いくつもの単語が不規則に並んでいた。


(字は綺麗なのよね。これが教養の差というものかしら……)


「Y、N、Y、S。で、アニス、だったかな」


 真面目くさった顔で書き取りをする様子を眺めていると、彼が確認のために顔を上げる。わたしはおよそ間違いの見当たらない単語群に頷いた。


「そう。Yが複数入った単語は、一部の特定の単語を除いて、音の最後……ええと」


「子音の後につく母音、かな。アニスのニの“イ”にあたる発音部分」


「そう、その、子音のあとの母音。そこに付くYはイの音で発音するの。例外もあるけれど、基本的にはそれ以外がアの音になる。頭文字につくYは大体アの音よ。

 でも、気を付けて。Yの字がひとつしか含まれない単語のY……たとえば指を表すbysや本を指すllyfrのようなYは、北部ではイの音になる。ビース、やシヴル、のようにね。アニスも、北部の訛りが強すぎるとイニスと発音することもあるわ。

 南部は単音でもアの字で表すことが多いみたい」


「へぇ。単語ひとつとっても、北と南でだいぶ違ってくるのだね」


 英語でうまく説明できない部分を、教わっている側の彼が補った。彼に言葉を教え始めて、もう何度か繰り返したやり取りだ。


 わたしだって、決して英語が堪能なわけではない。ことウェールズ北部(グウィネズ)においては、イングランド人相手でもなければ英語で話す必要はないのだから。


「アニスは島を表すの。このアングルシー島はアニス・モーン。今朝まで居たホリー島はアニス・ガビ。聖者の島という意味よ」


 聖者キビの名前から、Cの文字がGに転化して、いつしかそう呼ばれるようになった。人に歴史あり。また文字のひとつにも歴史が込められているものだ。


「なるほど。ん、そういえば前に吟遊詩人をウェールズ語で呼んでいたことがあったね。あれはなんと言っていたかな」


「吟遊詩人はバルズ。英語のbard(バード)にもうひとつdを付けてbardd(バルズ)。覚えやすいでしょう」


「バーズ」


「違うわ、伸ばすのではなくルを小さく発音して」


「バルズ」


「そう。“歌”はカネイオン」


「カネイオン?」


「それで、“歌う”はカニ」


「では、『歌を歌う』はカニ・カネイオン?」


「その場合、ラドゥ・イン・カニ・カネイオンね。名詞と動詞と接続詞だけで短くまとめるなら、カナ・イ・ガネイオン。名詞と動詞が変形するの」


 ひとつ覚えたらまたひとつ。ふたつ覚えたら今度はみっつ。ウェールズ語を咀嚼するたびに、彼はわたしへ次の知識を求めた。


「教本があればいいのにな。ひとりで学ぶことができれば、きみの手をこれほど煩わせることもない」


 矢継ぎ早に教えを乞うことに、彼自身も気が引けているのだろう。辺りに書き散らかした単語を靴の裏で消しながら、エディがぼやいた。


 そうしてもらえたならわたしの方こそ楽なのだけれど、残念ながらそうもいかない。ことは、書物が高級品だからだとか、そのような単純な理由ではないのだ。


「ここがウェールズである以上、それは無理ね」


「ウェールズである以上? アングルシーは本島との物流が行き届かないから、とか……物流の問題ではなく?」


「違うわ。もちろん、本というもの自体がわたしたちのような平民にとって、無縁の高級品であるということもあるけれど……そもそもこの土地には、記録を文字に残すという文化自体が根付いていないのよ」


 わたしがそう答えると、彼は想像もしていなかったのだろう。理解し難いことを聞いたように、しきりに瞬きを繰り返した。


 そもそも、このウェールズにイングランド人の王が手を加えるより何百年も前、この地を治めていたのは王ではなく、ドルイドと呼ばれる――今で言う司教のような――存在だった。


 空の色を読み、時節の儀式を執り行う上で、言葉を文字として記すことは、すなわち力を込める行為だとされた。言葉が文字として起こされることで、そこに特別な力が宿ると当時の人たちは考えていたのだ。


 力は、使い方を誤れば大変な凶器になる。それが物理的なものであれ精神論であれ、力の使い方を知らないものに与えられるべきものではないという点は変わらない。


 故においそれと文字を記すことは禁忌とされて、文字という知識はドルイドを始めとする、ごく僅かな、地位の高いものたちにだけ許された。そして彼らはその代わりに、記した文字で国の歴史や人々の営み、教養、知恵を広く民衆に教え、与えることを義務付けられた。


 遥か遠いわたしたちの祖は、そうして文化を文字通り語り継いできたのだ。


「だからわたし達ウェールズ人には元々、歴史や技術を文字で残す、という習慣が薄いのよ。あなたたちのような吟遊詩人が職として高い地位で成り立っていたのはそのため」


 文字を記せない者、読めない者が情報を得る手段は口伝だけだ。吟遊詩人たちはそれら史実や物語や、遠い異国の伝聞を知らせ伝えるために文字を読み、記すことを許された数少ない“地位の高いものたち”だった。


「そんな背景があったのだね。師は、今ではもう吟遊詩人も肩身が狭くなったと言っていたけれど」


「それはイングランドの――もっと言うなら、その礎を築いたローマの――文化や宗教が流入したからよ。文字にしたためることの少ない世だからこそ珍重された職業詩人は、けれど、文字を記して後世に残すという文化が広まりはじめた今、無用の長物になりつつある」


 もちろんそれだけが理由ではなく、あらゆるウェールズの文化を抑え込もうとするイングランド側からの抑圧もあるのだろう。彼らにとってドルイドの“文字に魔力が宿る”という考え方は、魔女の使う魔女術のようなものだ。


 けれど、時代が変わってきていることがひとつの大きな要因であるのは間違いない。


「新しい便利なものと引き換えに古き良きものが駆逐されることはままあることだけれど、やるせないものだね」


 ――あなたがそれを言うの。


 どろりと、普段は胸の底に押し込めている澱が波打つ。


 咄嗟に口を突いて出そうになった言葉を、奥歯を噛みしめることでやり過ごした。イングランド人でありながら、彼は今、たとえ生まれがどうあろうとウェールズの吟遊詩人なのだ。


 不自然に口を閉ざしたことを怪しまれるかと思ったけれど、彼は書き取りに夢中で特に何も言わなかった。


 代わりに、そろそろ切り上げ時かと馬車の方を窺い見たとき、彼が「あれ」と違和を含んだ声を上げる。


「どうしたの」


「いや、ええと。さっき、ウェールズの人々には、基本的に文字を記すという風習自体がなかったと言ったね」


「ええ。言ったけれど」


 慎重に、確かめるように彼は尋ねた。わたしはそれに訝りながら頷く。何故そのようなことを、と最初に生まれた疑念は、彼の問いで湧き溢れた次の疑念にまるごと食われた。


「それでは、グウェンの母君はどうして、きみに薬草のレシピを本として残したんだろう」


「は」


 言われて、初めて気づく。そう、初めて。この十七年余りの人生において、一度くらいは不思議に思ってもよかったものを。


 物心がつく頃には、母はこうしてレシピを端切れに綴り、したためて、書に綴じていた。わたしに残すためではなく、恐らくは、母がわたしと生きていくために。飯の種にするための知識を、忘れないよう書き留めるために。


 それが当たり前のことであったから、考えたこともなかったのだ。


 この地(カムリ)に暮らす母がなぜ、文字を書き留めるのかについてを。


(いいえ、そもそも……)


 どうして母は、ウェールズの辺鄙なあの地において、満足に読み書きができたのかということを。




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