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ヒラエスの魔女の唄  作者: 待雪天音
リンディーロンの子守唄
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4.旅は道づれ




 北西より斜めに伸びるホリー島(アニス・ガビ)の南東から、カマラン海峡が一番狭く、少しばかり大きな川のように隔てられている場所。そこからアングルシー島(アニス・モーン)へ再び渡って、わたしたちは北を目指した。


 本来の目標通り、北西周りでアングルシー島を一周して東側からウェールズ本土へ抜けるためだ。ここから北の端へ着くまでは、あまり目立った集落はないようだった。


 ひたすらに海と草地の続く道を、太陽の光が色を変えるなか進んだ。朝靄の青褪めた午前は、いつしか明るい正午へと差し掛かる時間へと移っている。熱を孕んだ夏の風が草木を揺らす音と、遠く波打つ海の(さざなみ)が無言のわたしたちの間を絶えず通り抜けていった。


 日は空の中頃まで上り詰めようとしていた。


 突然、隣を歩いていたエディが何かに気づいた様子で振り返る。つられて足を止めたわたしは、彼の視線の先を辿った。


 ガタゴトガタゴト、キシキシ、ジャリン。


 はじめは空耳かというほど小さかった様々な物音が、やがて徐々に騒音を伴って近づいてくる。目を凝らすと、わたしたちが来た道から一台の幌馬車が緩い歩調で走ってきた。


 一頭立ての栗毛の馬が、黒い幌で覆われた木製の台と車輪の、小さな車体を引いている。御者台には黒い髭を蓄えた四〇絡みの厳つい男が座っていて、御者台の奥から顔を出す女の顔が男の脇からこちらを覗いていた。


「あ」


 わたしが呟くのと、その女が声を上げるのはどちらが早かっただろう。


 こちらが目を瞠るのを見て取った女が、御者の男の脇腹を勢い叩いて馬を止めるように叫んだ。「止めて止めて!」


「えぇい、耳元で騒ぐな! このバカ娘!」


 髭面の男は女に負けず劣らずの声で喚くと、叩かれた脇腹が痛かったのか、仕返しのように女の頭を小突いた。


「いったぁあああ! もぉおお! そのすぐ手が出るクセなんとかしろよオヤジ!」


「だったらまずテメェの手癖の悪さをなんとかしやがれ! ……ったく、遠慮なくバシバシ叩きやがって」


 そのように騒がしくやって来た馬車は、エディに手を引かれて脇道に避けたわたしたちのすぐ目の前で動きを止める。


 呆気に取られて御者台を見上げるわたしたちに、御者台へ上半身を乗り出して頭をさする女は、バツが悪そうに笑った。


 新緑の眩しい瞳が弓なりにしなる。気持ちの良いはきはきとした口ぶりと、屈託のない笑みには見覚えがあった。名前は確か――。


「メァラさん、だったかしら」


「グウェンの知っている人?」


 彼女の名前を記憶から掘り起こすように口にすると、エディがわたしと彼女を見比べて尋ねた。


「ええ。昨日、薬を買ってくれたの。ほら、言ったでしょう。北西の海向こうから来た旅人がヴァイキングと勘違いされていたって」


「あぁ、彼女が」


 彼もまた、昨日の週市でのやりとりを思い出しながら頷く。あまりの騒々しい登場に、気持ち気圧された様子だった。


「やめとくれよ、メァラさん(・・)だなんてかしこまって呼ぶの。背中がむずむずしてしょうがないや。メァラでいいよ」


「それでは、メァラ」


「うん。そういうアンタはえぇと、グウェン、だっけ」


 そうよ、と首肯すると、メァラは満足したように大きく頷いた。


「ん? するってぇと、嬢ちゃんがうちのバカ娘に薬を売ってくれたってぇ流れの薬師か」


 話の流れを静観していた御者の男性が、たった今思い至ったと言うように口を挟んだ。メァラを娘と呼ぶからには、彼が例の火傷した親父さんなんだろう。


 親父さんにもうひとつ首肯を返すと、彼は「ガッハッハ」と豪快に笑ってメァラの背中を無遠慮に叩いた。先ほど脇腹を叩いていたメァラと言い、似たもの親子のようだ。


「そうかそうか、あんたが! ありがとな、あの薬のおかげで、まだ腫れちゃいるが痛みがちぃっと楽になったんだよ。おまけに酔い止めや胃薬やなんかも付けてもらって大助かりだ!」


「いえ。どれも頂戴した金額の分の品ですから」


 彼の隣で、メァラが「いってぇよオヤジ!!」と親父さんの腕を力いっぱい払い除けている。これ以上背中を叩かれるのが嫌だったのか、彼女はとうとう幌の中から這い出して来て、御者席から降り立った。


「アンタも今日、出発だったんだ」


「ええ。ペンロスヴェイルーを見に寄って、それから北へ向かう最中」


「どっか目的地はあるの?」


「いいえ。あてのない旅よ。とりあえず北西回りでアングルシー島を一周してから、ウェールズ本土に抜けるつもり」


 気安く話し掛けられるので、こちらも当たり障りのない範囲で答える。わたしたちが北に向かうと知るや、メァラはいいことを思いついたとばかりに笑った。


「そうなんだ。じゃあさ、アンタたちもうちの馬車に乗って行きなよ。アタシたちは北のアムルフって村に行く途中なんだ。アンタたちも北に行くならちょうどいいだろ?」


「え? でも」


 彼女の提案に、わたしは咄嗟にエディを一瞥してから親父さんへ視線を向けた。こちらとしては願ったり叶ったりだけれど、こればかりはわたしの一存で決められるものではない。


「なぁ、いいだろオヤジ? どうせ二、三日かそこらでつくキョリなんだ。いまさらギチギチの馬車にひとりふたりふえたって変わんないだろ」


「そうだなぁ。ま、うちとしては構わんが、嬢ちゃんと兄ちゃんはいいのかい? この小っせぇ馬車にあと五人乗ってっから、快適とは言えねぇぞ」


「ごっ……にん」


 親父さんが言う『小さい馬車』とは、決して比喩や謙遜ではなかった。木製の柱と背丈の半分ほどの板を組み合わせた四角い枠に長い幌を縦横で交差して被せた半箱型の馬車は、大人ひとりが精一杯両手を広げたほどの幅で、奥行きがその二倍程度という、馬車としては比較的小さなものだったからだ。


 両脇側面部の幌は明かり取りのために一面ずつ捲り上げられるようになっていて、今は片面だけがほんの少し捲り上げられている。柱のいくつか突き出た突起に、紐で幌を括り付けられるようになっていてあまり見たことのない造型だった。


 わたしはエディを仰ぎ見た。彼が果たして箱詰めの馬車移動に耐えられるのか気になったのだ。


 彼は問題ないと言うように、少しだけ微笑んで肩を竦めた。


 突然止まった馬車が動く気配を見せないことに焦れたのか、馬車の中からまたひとつふたつ、こどもの顔が外を覗き見る。あまり足止めさせるわけにもいくまい。


「では、お邪魔させていただいてもよろしいでしょうか」


 そう告げて頭を下げると、メァラ親子は声を揃えて「グラァルチャ!」と言った。どういう意味か尋ねると、歩く人々(ロフト・シュール)が独自に使う言語で「ようこそ」という意味らしい。


 どうやら歓迎してくれたようだ。




 ▽ ▲ ▽




 馬車に乗り込むと、中には女性がふたりと男性がひとり、それから小さなこどもがふたり乗っていた。五人ともメァラの家族で、母親と姉夫婦、十にも満たない歳の甥姪たちということだ。御者台側には生活用品や仕事道具の木箱がいくつも積まれていて、わたしたちまで乗り込むと膝を折って座っているのが精一杯だった。


「アムルフはこの辺りだね」


 エディが鞄から取り出した地図を広げて指さした。薄暗い中で目を凝らすと、ひし形に近い円形のアングルシー島の中央から北端に上った場所に小さくアムルフの名前が記されている。


「村としては大きい方なのではないかな。主立った産業がないから町と言えるほど栄えてはいないけど、太古の昔から銅が採れる鉱床が、近くにあると聞いたことがある」


「銅の鉱床? アングルシーの北の方なら、ええと……この、パリス山(マニズ・パリス)、かしら。鉱物が採れるのに、産業にはならないのね」


「銅は使いやすい反面、あまりお金にならないからね。何千年も前には銅が豊富に採れたと聞くけれど、精製施設の整っている鉱山ほども掘り出せるわけじゃなかろうし、安定して大量の鉱物が採れないと産業としては成り立たないんだよ」


「そういうものなの」


 鉱物の産出する場所はそれだけで栄えるものだと思っていたけれど、そう簡単なものでもないらしい。その日暮らしのわたしのような人間には、考え及ばないことだ。


 わたしにとって鉱物は、毒になるか薬になるか、精々宝石はお金になるかどうか、その程度の認識でしかないのだから。


 こういう話をするすると吐き出すとき、彼は確かに学のある人種なのだと実感させられた。


 さておき、鉱物が採れること自体は、この辺りではそれほど珍しいことでもない。ウェールズ北部は、そもそもがよく鉱物の採れる坑道や鉱床に恵まれているのだから。


 特に粘板岩(スレート)の産出は多い方で、北部の地域では防水性が高く耐久性に優れるこれを、よく屋根に敷き詰めた。わたしが住んでいた家も、だから石蔵のような小屋でさえ雨風をよく遮ってくれたものだ。


「アムルフへ何をしに行くの?」


 疑問をそのまま口にすると、これにはメァラが答えてくれた。


「もちろん、鋳掛のための材料を仕入れに行くのさ。ほら、アタシら仮にも鋳掛業もやってるだろ? だから金属は切らしちゃおけないんだ。安く手に入るならそれに越したことないしね」


「けれどパリス山は銅鉱床なのでしょう? 移動式の鋳掛業と言ったら、鉄が主な資材ではなかったかしら。それに、銅は大したお金にならないとたった今、彼が」


 強い火がなければ溶けない鉱物では、大きな竈を持たない流民だと手に余るだろう。そう思って尋ね返したのだけれど、彼女はチチチ、と舌を鳴らして首を振った。


「修理を頼まれるのはなにも鉄製品ばかりじゃないよ。まぁ、鉄のほうが固いぶんもろいから修理のかずも多いんだけどさ。とけやすいのは鉄よりも銅のほうなんだ」


 へぇ、と思わず興味深げな声が出た。この頭に多少の知識があるのは薬草に関することばかりで、だからこそ、彼女の語る未知の話は面白い。


 故郷の小屋を出て、まだほんの少し外の世界を見聞きしただけであるのに、世の中には知らないことばかりが溢れているものだ。


(きん)にならないものを多少なりと(かね)に変える。それがアタシたちの仕事さ」


「そう聞くとまるで錬金術師みたいね」


「やめとくれよ! そんなこと言って、教会のシサイさまたちに魔女だなんて難クセつけられたらどうすんだい。たまったもんじゃない!」


 膝を抱えたメァラがすり減った踵の靴を不機嫌に踏み鳴らす。馬車の底が抜けそうな軋みを上げて、親父さんが御者台からメァラを怒鳴りつけた。


 こちらを振り返ってもいないのに、的確に名指しするものだ。実はもうひとつ、背中に目が付いているのではないだろうか。


「それはさておき。で、だ。そっちの兄さんは? ぜんぜん似てないけどアンタのアニキかい?」


 馬車に揺られ始めてしばらく。ようやくメァラが、わたしの隣で成り行きを見守っていた男へ水を向けた。「あぁ、いや、私は」と、なんと言ったものか迷った様子の彼を放って、わたしは一言「いいえ」と答えた。


「えっ!? アンタ、アタシとおんなじくらいのとしに見えるのに、まさかダンナいんのかい!?」


 男女のふたり連れと見るや、誰も彼もそちらの考えに飛躍するのは如何なものか。アングルシーに渡る前に訪れた、バンガーの村でも同じようなことを聞かれたな、と不意に思い出す。


 あまりにも簡単に人が死んでいくこんなご時世じゃ、(つが)うことに重きを置くのも仕方ないのかしら。こぼれそうになるため息をこらえて、わたしはもうひとつ首を横に振った。


「旦那でも恋人でもないわ。成り行きで旅に出た、ただの旅の道連れよ。エディというの」


「ウソだろぉ〜……いやぜったいウソだろぉ……」


「そういうあなたこそ、わたしと同じくらいの歳に見えるけれど旦那さんは居ないの?」


 お姉さんには旦那さんが居るのだから、彼女に居ても不思議ではないだろうに。早ければわたしよりも歳の小さいうちに嫁ぐ人だって少なくないのだから。


 けれどメァラは大袈裟に肩を竦めると、わたしと同じように首を振った。


「いないよ。だってとしが釣り合う男、この旅団にはいないんだ。甥っ子じゃ小さすぎるし、血が近いだろ。姉ちゃんのダンナは居るけど、ほら、それで寝取ったり共有したりすんのは……なんだ、さすがにアレだろ。それこそ蛮族じゃん……」


「まぁ……そうね」


「ホリー島に船でこぎつけたときは、まだ他のいくつかの家族といっしょだったけどさ、としのちょうどいい男たちはみぃんなお手つきだったんだよ。それぞれ馬とか馬車とかちょうたつしてちらほら旅立ってったしさぁ。ハァ、ツイてねぇや」


「あぁ、だから例の、ヴァイキングに間違われたという船が見当たらないのね。他の家族が引き取ったの?」


「そー。三家族くらいがよりあつまった、すこし大きめの旅団が引いてったよ。ウチの馬車と馬じゃ、いくら小さい船っても(オカ)を引いて旅はできないからね。アタシもそっちについてきゃ良かったかな。すこしとしがはなれてても、このさい……」


 尚も未練がましく婚期を逃したと語る彼女に、わたしは適当に相づちを打った。同調するには自分に縁の薄い話であり、かと言って、彼女にとっては笑い事ではないのだろうから安易な慰めは意味がない。


 旅先での出会いもあるのではないの、という言葉は、浮かんだ瞬間に掻き消した。ホリーヘッドでの様子を見れば、この北ウェールズで望むべくもない話だ。だからと言うのもおかしな話だけれど――倫理観の問題が無ければ義兄を寝取ったのだろうか、とこっそり思ったことは、胸の内に仕舞っておくことにした。


 喋るだけ喋ると、一通り満足したらしい。彼女はまた幌の間から御者席へと首を出して、親父さんと何やら目的地について話し始めた。ときおり会話がこぼれ聞こえてくるけれど、ウェールズ語でも英語でもない彼女たち独自の言語のようで、何を言っているのかはわからなかった。


 幌の隙間から、放牧された羊の群れが馬車の脇をのたのたとすり抜けて行くのがちらりと見える。


 牧歌的な光景だ。わたしの居たなだらかな山の麓では、海が近かったせいか牧畜よりも漁業の方が盛んだったので、羊の群れをよくよく見るのはこの旅が初めてだ。


 ウェールズでは羊が人の三倍は居ると言う。肉や乳や毛織物に仕立てるため、人の手で飼い慣らされ、増やされた羊たちだ。


 その殆どが保安官や領主や、更にその上の人々に納められてしまうので、肉や乳がわたしたちの口に入るのはほんの僅かな残り滓だけだけれど。


 白茶けた羊毛が押し合いへし合い移動する様は壮観だった――あの羊毛で布団を作れば、さぞ全身がとろけるような寝心地だろう――。


「よく喋る女性だね。口を挟む隙がなかった」


 圧倒されたのか、隣でエディがぽつりと呟いた。わたしはそれに、「彼女の口はカタバミの種とばしだから」と答えるに留める。


 彼は意味がわからないと言うような顔で瞬いたあと、広げた地図とまたにらめっこを始めた。




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