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ヒラエスの魔女の唄  作者: 待雪天音
リンディーロンの子守唄
24/41

3.ペンロスヴェイルーの跛行者




「羽虫がよく涌くようになった? そうですね、これから夏も盛りですもの。でしたら、このミントを水に煮出して冷ましたミント水で家の中をよく拭いてみてくださいな。虫が嫌がって寄り付かなくなります。

 飲み水の瓶に入れておくのも良いですよ。虫も涌かないし、防腐効果があるので真水のまま溜めておくよりも悪くなりにくいの。

 飲み水に漬けるならローズマリーやセージも一緒に漬けると良いですよ。体の外から入ってくる悪い病を遠ざけてくれるから」


 慌てて駆け付けた露店の端では、グウェンがいつになく饒舌な語り口で、お客さんに薬草の束を勧めていた。


 ――通りの奥の方でヴァイキングの略奪騒ぎがあってるぞ。


 そのような、なんとも物騒な話を聞いたのがついさっきのこと。今日の稼ぎも上々で、これを最後の一曲にしようと歌いだしたところにその風聞だったので、まさか巻き込まれてはいまいかと急ぎ切り上げてきたのだが、やはり杞憂だったらしい。


 今朝と変わらない調子で接客をしている姿に、ひっそりと胸を撫で下ろす。辺りを見回しても、略奪はおろか、乱闘騒ぎが起きたような荒れようには見えなかった。


 半分ほど空きのできた染め物露店は、日が中天から傾き出した頃でも布織物の品が残っていた。


 グウェンの語り口に乗せられたお客さんが、ミントの束と薬草茶の調合ハーブを二ペンスで買っていく。それだけでは金額に見合わないからと、彼女はおまけにローズマリーの薬草束を包んでいた。


「水の方を使うんだ。蒸溜液や、煎じたミントを直接使うのではないのだね」


 客足が途切れた頃合いを見計らって、露店の隅から声を掛ける。怪訝な顔をする露店の主人らしき男性に、彼女は驚いたふうもなく「旅の連れです」と短く答えてペニー硬貨を籠の壷に仕舞った。


 別に隠れていたわけでもないので、彼女からは近付いてくる私が見えていたんだろう。


「効果が強すぎるの。人間ハエ取り機になりたいのでなければお勧めしないわ」


「人間ハエ取り機……?」


「いまいちピンと来ていない顔ね。あなた、スペアミントの抽出液を五滴も垂らした布を頭巾にして掃除してご覧なさいな。瞬きの間に周囲の羽虫がぜんぶ落ちてくるから。

 それに、蒸留した精油の原液をそのまま人肌で触れてみなさい。あっという間に肌が荒れて、酷ければ炎症になってしまうわよ」


 彼女のとてもわかりやすい説明を聞いた瞬間、頭で考えるよりも前にゾッとした。その光景がありありと目に浮かびかけて、慌ててかぶりを振る。


 なるほど、と力なく返事を返すと、今度はグウェンが訝しげな顔で首を傾げた。


「ところで、どうしたの? あなたの方が先に切り上げて来るとは思わなかったけれど」


「あぁ、いや、そうだった。『どうしたの』はこちらの言葉だよ。広場の方で歌っていたら、市場通りでヴァイキングの襲撃騒ぎがあってるってその場が大混乱になったんだ。市場にはきみが居るのだし、まさか巻き込まれていないかと思って」


「あら、ずいぶんと大きな尾鰭が付いたのね」


「と言うことは、まさか本当に?」


 彼女の心当たりのありそうな物言いに、収まりかけた心臓の早鐘がまたドキリと音を立てる。襲撃騒ぎと言う割には、グウェンの様子はやけに落ち着いたものだった。


「違うわ。町の人の勘違いで口論に発展していたの。北西の海向こうから来た旅人を、ヴァイキングだって言って騒いでいたのよ」


「それはまた……」


 彼女に身の危険はなかったと安堵する一方で、何とも言えない気持ちになる。勘違いや疑念、人種の違いから来る批判や糾弾の大衆心理は、古くから人間に根付いた防衛反応だ。


 まだ城に居た頃、腹違いの兄たちと同様に学んだ周辺諸国の史学によると、この辺りは随分むかしに外海からの襲撃がままあったらしい。歴史を鑑みれば、勘違いと騒ぎの理由は知れたことだった。


 武力を持たない市民にとっては、たとえ個々に非がなくとも、“自分たちの害になるコミュニティ”に属するものを排斥しようとするのは、当然の流れなのだろう。


 彼女も思うところがあるのか、それ以上は口を閉ざして語ろうとはしなかった。私も同様に、余計な追求の手を止める。そうやって、私たちは共に旅を始めた日から互いの距離を測り合っていた。


(それにしても……)


 新たな客の呼び込みを始めたグウェンを横目に、私は自分の身のうちで芽吹いた些細な危機感を拾い上げる。それほど小さくはないこの町は、どうやら小さくないからこそ、話の回りが早いようだ。


 随分と誇張されてはいたけれど、外海からの放浪者のこと、その人をヴァイキングと非難した人のこと、そのふたりの口論の噂が、ほんの少しの間に市場から離れたところまで行き渡っていた。


 ここしばらくはグウェンと行動を共にしていたので露銀と寝床の確保を優先していたけれど、そろそろ少し、息をひそめて大人しくしておいた方がいいかもしれない。


 いつどこで、“榛色の髪のイングランド吟遊詩人(バルズ)”の噂が、国王に近しい者たちへ届くとも知れないのだから。


 追手が掛かっているかもわからないし、そもそも私が吟遊詩人として渡り歩いていることを、私の縁者は誰ひとり知らないだろうけれど、悪目立ちをして目を付けられて、そこから素性が割れないとも限らないのだ。


「あなた、どうしたの?」


「ん?」


「眉間に皺が寄っているわよ」


 気づけば、私は自分でも知らないうちに険しい顔をしていたらしい。グウェンに呼び掛けられて、思わず眉間に手を伸ばした。


 皺と言うほどのものではなかったけれど、眉頭に力が籠もっていたことをそのとき初めて自覚する。


「あぁ……うん。この辺りでは特に、人の口に戸が立てられないようだから、そろそろこの町も発った方がいいかもしれないと思って」


 曖昧に濁してそう答えると、さすがのグウェンは意図を汲み取ったように目を瞠った。そのまま露台に並んでいた薬の残りを手早く片付け始める。


「旦那さん、露店の隅を使わせてくださってありがとうございました。とても助かりました」


「お前さん、もう行くのかい。店じまいにゃ少し早いんでないかい」


「思ったよりは売れたから大丈夫。余り物で申し訳ないけれど、これはほんのお礼です。お茶にして、夜に飲むとよく眠れますから」


 そう言って、グウェンは露台に取り残された薬草茶を一束、隣の男性に差し出した。立派な顎髭の初老の方は、数種の薬草の編まれた束を受け取ると、それ以上の詮索はせずに「気を付けてお行き」とだけ告げる。


 まるで幼い子をお使いに出すような挨拶で、彼女たちの別れは日常の風景の中へ溶け込んだ。


「もう日が傾きはじめたから、もうひと晩だけ納屋に泊めさせてもらって、明日の早い時間に発ちましょう」


 特に感慨もなさそうに、グウェンはそう言った。彼女の何食わぬ横顔を見て、今更ながら、急かしすぎただろうかと申し訳なくなる。


「私の方から町を発ったほうがいいと言っておいてなんだけど、良かったの?」


「何が?」


「急に発つことを決めてしまって。数日とは言え、きみは私と違って町の人たちと親しくしていたようだったし」


「元々、週市場を待ってから発とうと決めていたでしょう。今日がその週市場よ」


 彼女は、良いとも悪いとも言わなかった。ただそれだけを答えとして、荷物をまとめ終えたその足で酒場の方へ針路をとる。


 すまない、と謝るのは卑怯だろうか。一から十までこちらの都合で振り回していることを、引け目に感じないほど傍若無人にはなれなかった。


 けれど謝ることもまた、彼女に許しを求めることに違いない。私は結局、「やっぱり、朝の遅い時間にゆっくり発とうか」と言うに留めた。


「明日になったら、見知った人たちに出発の挨拶をしておいで」


 譲歩しているようで、その実、彼女に妥協を求めるためのしたたかな言葉は、


「何を言っているの」


 私の後ろめたさを見透かしているぞとばかりに一蹴された。


「ホリー島を出る前に、ペンロスヴェイルーの立石を見てから北へ行くのでしょう」


「……うん」


「だったら、早起きして朝一番に出ないと」


 うん、ともう一度、私は周りの雑踏に埋もれないように相づちを返した。




 △ ▼ △




 その立石の話を聞いたのは、週市場の開かれる二日前のことだった。ホリーヘッドの町を見て回りながら旅に入り用のものを支度していると、店の主人から「旅人かい?」と話しかけられたのだ。


 史跡や城郭や、土地土地の謂れのある場所を巡りながら旅をしているのだと告げると、「それならペンロスヴェイルーまで見ていくといい」と教えてもらった。それでその晩に、町を発つときにはそこへ寄りたい、とグウェンに告げたのだ。


 やっとこれから日が昇り始めるかという頃、私たちはホリーヘッドから南西へ向かった。その場所は詩を何篇か歌っているうちにたどり着く、それほど遠くない距離にあった。


 緩やかな丘陵をのぼり、羊たちが草を食む長閑な牧草地へ抜けると、やがて二柱の立石が見えてくる。


 丘ほどの低い小山を遠目に臨む、その一対の石柱こそがペンロスヴェイルーと呼ばれるものらしい。想像していたよりもこぢんまりとした佇まいに、私とグウェンは揃って目を瞬かせた。


 幅は人の胴体より半分ほど大きい程度で扁平、高さも人の倍くらいだろうか。さほど威圧感を感じさせない石だ。


 先日、旅の途中で立ち寄ったタ・ニュイッズの支石墓(ドルメン)の方が、どっしりとしていた分、はるかに存在感が強かった気がする。この場所を形容するならば、近寄り難さを感じさせる史跡と言うよりは、閑散とした場所に物悲しく佇む、歴史に忘れ去られた遺物の欠片のようだった。


「本当に、ここで合っているのよね?」


 そうあれかしと思っていたものと、相当かけ離れていたのだろう。横目で彼女を盗み見ていた私を、グウェンが見返す。


「その筈だよ。目立つ木の一本もないような牧草地に、二柱の縦長い立石が地面から突き出ていると言っていたから」


「何と言うのかしら、その、思ったよりも……」


「凡庸?」


「と言うより、随分とコンパクトで……」


「期待外れ?」


 彼女らしからぬ言葉の濁し方に、その先を継いで探り探り聞き返す。とうとうグウェンが口を噤んだところで、私は苦笑した。


 確かに、見に行ってみるといいと言われて来てみた手前、偉大さを感じさせるでもなく、また複雑な構造をしているわけでもないただの二柱の石は、彼女の膨らんだ期待に穴を開けただろう。


 けれど、たとえば雨風に晒されて楕円状に削れた岩肌だとか、そこに苔むした長い年月を思わせる出で立ちだとか、つぶさに観察してみると味わい深いものも見えてくる。


「この二柱の立石は、町の人たちにも用途がまったくわからないのだそうだよ」


「そうなの?」


「うん。石の影で時間を知るためであれば一柱で充分だし、何かの標とするには、この辺りには他に何もない。だからこれが何なのかもわからないまま、却って気になってしまうのだろうね」


「ふぅん」


 私が以前、タ・ニュイッズでそうしたように、グウェンは立石の片方に近づくと、ぺたりと手のひらを岩肌に当てた。でこぼことした表面をなぞるように二、三度撫でると、彼女は自分の背丈の倍近くある石柱を無言で見上げる。


 私はもう片方の立石の前に立つと、苔に覆われた頭から爪先までをゆっくりと見上げて、また見下ろした。


 こうして見ると、水平に二基が立ったこの並びは、何かの門や境界のようにも思える。


 嘗ては、ここを(さかい)とした何かがあったのだろうか。たとえば、海の向こうに、あるいはその下にあると言われる妖精郷への入り口だとか。


 常若の地(ティル・ナ・ノーグ)喜びが原(マグ・メル)至福の島(イ・ブラゼル)波の下の国(ティル・フォ・スィン)。それとも、かの名高きアーサー王が最後に眠りについた林檎の楽園(アヴァロン)。妖精たちが住まうとされる地の、様々な名前で呼ばれるそのどれもが、人々にとっては夢の世界だ。


 普段は誰の目にも見えなくて、素晴らしく良い場所だがどこにも見つからない、理想郷のような場所。もしもここが、その入り口に繋がっていたのなら――。


 まるでバラッド(※長文詩)か、夢物語のような想像に没頭していたせいだろう。


「おや」


 どこかくたびれた女性の声が聞こえるまで、私は背後に近寄る人の気配に気づけなかった。


「珍しいねぇ、こんな朝早くにあたし以外の人が居るなんて。あんたさんがた、よっぽどの物好きなんだねぇ」


 トス、トス、と足音とは異なる、草地を突き鳴らす軽い音が耳につく。次いで何かを引きずるような音がそれに付随した。


 いち早く気づいたのはグウェンで、振り返る彼女に釣られるように視線を巡らせる。


 私たちの背後、わずか三ヤード(※三メートル弱)ほどの場所に立っていたのは、杖をついた初老のご婦人だった。色の抜けた茶褐色の髪には白いものが多く混じり、痩けた頬と張りのない肌からは、生気に欠けた印象を受ける。それでも、皺はそれほど深くないので、まだ老婆と呼ぶ歳ではないだろう。


 彼女が引きずっていたのは、色褪せた灰色のスカートに隠れている片脚だった。


「旅の途中に立ち寄ったんです。彼が、町の人からこのペンロスヴェイルーの立石のことを聞いて」


「そうだったのかい。この立石も、まだ忘れ去られたわけじゃあないんだねぇ」


 柔らかと言うよりは、歩き疲れた人が息を整えながらゆっくり喋るような口ぶりで、ご婦人は感慨深げに頷いた。


「ご婦人こそ何故ここに? 見たところ物見遊山ではなさそうだけれど、町から杖をついてくるには、少し距離があるのではないですか」


「そうだねぇ、びっこ引いて来るにはちょいと大変なとこだよ、ここは」


 私が尋ねると、ご婦人は肯定して二柱の立石へ視線を向ける。


「毎朝の決めごとなんだ」


 やがてそう口火を切ったご婦人は、トス、トス、と杖をつきながら私とグウェンの間に並んだ。その間も、彼女の目が立石から離されることはなかった。


「この石は、ずぅっとこうしてふたつ並んで立っているだろう。だからね、あたしが昔、ひとりじゃなかったってことを忘れないように、こうして毎朝お祈りに来るんだよ」


「お祈り?」とグウェンが首を傾げる。「お祈りさ」とご婦人がまた頷いた。


「聞いてくれるかい? 旅人さんがた。愚かな女の、手放してしまった後悔の話を」


 流れ者は多くの場合、一期一会であるから、何も知らない人にふと、自分ひとりで抱えるには重たい過去を語りたくなる時がある。そう、たとえば、グウェンが私に母親のことを語ってくれたときのように。


 親しい人には言えないことを、赤の他人だからこそ言えることもあるのだと、私もグウェンも知っていた。


 私たちは互いに顔を見合わせて、それからご婦人へ視線を返した。無言の肯定を受けて、ご婦人は一度噤んだ口を再び開いた。


「あたしにゃ、かつて幼いこどもが居てねぇ。成長してれば兄さん、あんたさんくらいの歳だったろうかねぇ。旦那は鉱夫だったが、その子が産まれた翌年に滑落事故で亡くなっちまってさぁ。こんなでも、女手ひとつで育ててたんだ」


「成長してれば、ということは、ご婦人のお子さんは……」


「あぁ、勘違いしないどくれよ。亡くしたわけじゃあないさ。ただ、似たようなもんではあるけどねぇ」


 似たようなもの? とグウェンが首を傾げると、ご婦人は今度は、遠く北東の方角を見つめながら目を細めた。そこにはよく晴れた空と、牧草地と、点々と続く羊の群れが見えるばかりだ。


「行方不明になっちまったんだよ。あたしが手を離したばっかりに」


「手を離した、とは」


「元々、あたしはアングルシー島(アニス・モーン)の北東の方の村に住んでたんだ。それが、ほら、二〇年くらい前に内乱があったろう。ウェールズ人領主がイングランド王に喧嘩を売ったあの内乱さ」


「オワイン・グリンドゥールを旗印にした反乱、ですね」


「あぁ、それだ。それで、ウェールズ本土に近い辺りのアングルシーの村や町も、いくつかイングランド軍に焼かれちまったんだよ」


 ああ、とグウェンの口から、小さな呻きが漏れる。彼女もまた、アングルシー島の有力氏族が反乱に加担していたことを知っているのだろう。それとも、知らないながら察しているのか。


 当時のイングランド王・ヘンリー四世が、それを鎮圧するためにアングルシー島の町や、村や、そこにある修道院のいくつかを戦火に沈めたことも、あるいは。


「あたしが住んでいた村もそのときにひどい有様になっちまってね。あたしはまだ小さな我が子を連れて命からがら逃げたのさ。南に、南に。島の海沿いを走ってね。メナイ海峡を渡って本土に行けば、助かるかもって思ったんだよ。けど、それがよくなかった」


 足を、と、ご婦人が絞り出すような声で呟いた。よく聞き取れなかったのか、グウェンが首を傾げる。


 ご婦人はもう一度、今度はしっかりとした声で語った。


「足を、滑らしちまったんだ。ちょいと岩礁になってるとこでさ。メナイ海峡は、ほら、渦潮ができることもあるくらい、流れが強いとこだろう? だから、海に落っこちる前に、あたしは我が子の手を離したのさ。その時は、それが一番いいことだと思ったんだよ。あの子を海に道連れにするわけには行かなかったからねぇ」


 滑落し、海に投げ出されたご婦人は、そのとき死を覚悟したと言った。けれど、どれほどか荒波に揉まれて意識も絶え絶えになった頃に、ホリーヘッドから漁に出ていた漁師たちに助けられたのだそうだ。


 流れに流され、彼女はアングルシー島とホリー島のさかいの、南の海で漂っていたらしい。


「この脚は、そのときに悪くしちまってね。以来、家の中を歩くにも杖が手放せない生活だよ」


「そうだったんですね。……結局、お子さんとはそのまま……?」


 グウェンが問うと、ご婦人は苦虫を噛み潰したような顔で、無理矢理に笑った。「あぁ、そうさ」


「たまに、アングルシー島を回る商人ギルドの旅団が来るんだよ。それでそういう人たちに頼んで、あたしの子を探してもらったこともあるんだ。けど、だァれも知らなくてね。

 あたしがあの子と別れた場所も、見に行ってもらったことがあるんだよ。当たり前だけど居なかったってさ。

 自分で探しに行きたくとも、こんな脚じゃ、ホリー島を出ることさえままならない」


 ご婦人の語り口は、話して聞かせると言うよりも、段々と己の悔恨を独りごちるようなものへと変わっていく。ついには直立不動で佇む立石を見るのもつらくなったと言うように、彼女は俯いてため息をついた。


 両手で握られた杖が、微かに震えている。


「今じゃあ、あの子が生きているのか、もうこの世に居ないのかもわからない。こんなことになるのなら、あの手を離すべきじゃなかったんじゃないかって、この島に来てから後悔しない日はなかったよ」


「それでお子さんのことを……その後悔を決して忘れないように、ここに? あのふたつの立石を、ご自分とお子さんに見立てて……」


「あぁ。願わくは、あの子が今もどこかで、元気に生きているようにって祈りながらね」


 今度は私が、居ても立ってもいられずにご婦人へ尋ねた。彼女の話はどこか、母上を思い出させるものだったから。


 私の母もまた、あらぬ嫌疑をかけられて捕らえられる直前に、せめて私だけでもと、決死の思いで外へ逃がしてくれたのだ。


 愛するがゆえに手を離さざるをえない状況下で、それが最善だとわかっていても手放す瞬間の苦痛は、どれほど身を切られる思いだったのだろう。


 妻も子も居ない私には、如何ほども想像がつかなかったけれど、目の前の子を想う母親の様子を見るだに胸が塞いだ。


(母上も、これほど私を心配してくれたのだろうか)


 ふと、それまで考えないようにしていた疑問が浮かぶ。あの後、イングランドを離れた私には、母上がどうなったかを知る手立てもないけれど。


 もしもまだ生きているなら、私を手放したことを後悔しただろうか。あるいは、幽閉されるよりも自由であれと告げた最後の言葉のままに、私が無事であることを今も祈ってくださっているだろうか。


「悪いねぇ、こんな情けない母親の昔話に付き合ってもらっちまって」


 ご婦人の話を結ぶ声に、私はふっと遠くへ馳せかけた意識を引き戻した。慌てて首を振る。


「いえ。人の身の上話を聞くことも、感性を磨くことに繋がりますから」


「感性を? あんたさん、芸術家か何かかい?」


「未熟ながら、吟遊詩人の端くれを名乗っています」


「ははぁ」


 驚いているのか、感心しているのか、はたまたいまいちわかっていないのか。感情を読み取りにくい顔と声音で、ご婦人は相づちを打った。


 さて、それではあまり邪魔するのも何だし、そろそろ北へ向かって旅立とうか。グウェンに目配せしてそう切り出したところで、杖をついたご婦人が再び声を上げた。


「ねぇ、あんたさんがた。ちょいと待っとくれよ」


 踏み出しかけた足を止めると、ご婦人はスカートに縫い付けられたポケットを漁って、中から小さな革袋を取り出した。財布よりも小さく、手のひらで隠してしまえるほどのその袋を、杖を肘で器用に押さえながら開ける。


 ひっくり返された袋からご婦人の手の中に転がり落ちたのは、赤みのある薄い黄金色の金属がトップに付いたペンダントのようだった。重みはあるが、透き通ってもいなければ乱反射するような煌めきもない。安物の鈍い輝きを放つそれは、(コッパー)のようだった。


 半円をふたつ組み合わせた球体に、留め金のついたトップ。親指と人差し指で作った輪ほどの大きさのそれは、作りが粗雑ではあるもののポマンダーのように見える。中に結石状の香料を入れて身に付ける装飾品だ。


 香料以外にも、病に効く素材を入れて予防をしたり、魔除けの種子や植物を入れて持ち歩くこともある。このポマンダーからも顔に近づけるとハーブのような匂いがするので、後者の用途なのだろう。


 本来は貴族が持つような装飾品だが、曇り、黒ずんだ色合いを見るに、素材自体は安価なもののようだ。凝った細工も彫金も施されていないので、資産的価値はそれほどないだろう。とは言え、平民にとって高価なものには違いない。


 革紐の通されたポマンダーは、我が子と別れる前からずっと持っているものなのか、紐も本体も所々がくすんですり減っている。


「これも何かの縁かもしれないねぇ。あんたさんがた、アングルシー島を旅してるんだろう?」


「ええ。まぁ、しばらくは」


「もし……もし、これから北東に向かうなら、もしもあたしの子に会うことがあったら、これを渡しちゃくれないかい。あの子が分別の付くほど大きくなったら、いずれ渡そうと思っていたものなんだ」


 懇願まじりの声と共に、ご婦人はそれを差し出した。グウェンへ視線を投げる。彼女ではなく私へそれを渡そうとするのは、一種の投影なのだろう。


 私がご婦人の話で母上を思い出したように、ご婦人もまた、生きていれば同じくらいの歳だろうという私に子の影を見出したのではないか。


 ポマンダーを受け取るべきか逡巡していると、それを感じ取ったようにグウェンが口を開いた。


「あなたのお子さんに会えるとも限らないのに、それでもそのような大切なものを預けると仰るのですか? そうでなくとも、わたし達がこっそり自分のものにしてしまうかもしれないし、どこかで失くしてしまうかも」


 私の懸念を代弁したグウェンに、ご婦人はわかっているとばかりに頷く。誰かに託そうとする以上、そのようなことはご婦人だって何度も考えたはずだ。


 案の定、ご婦人が意思を変えることはなかった。


「その時は、それがこのペンダントと私の運命だったってことなんだろうねぇ」


 しみじみと告げて、ご婦人はポマンダーを袋の中に仕舞った。


「これは元々、あの子が大きくなったらあげようと思っていたんだよ。だけど、こうして待っているだけじゃ、きっとあの子には死ぬまで会えないだろうからね。せめて、旅のお方に託せば、巡り巡ってあの子の手に渡ることもあるかもしれない。

 だからさ、どうか、このペンダントを一緒に連れてってやってくれないかい」


 朝起きて、こうしてこの立石の地を訪れては毎日毎日祈ることの繰り返し。その変わらない日々を、彼女は変えたがっているように見えた。


 ただ持ち物をひとつ、旅人に託すことで、果たして何が変わるだろうか。もしかすると、彼女の言う運命とやらが大きく変わるかもしれないし、これまでと何も変わらないかもしれない。


 けれど、それは脚を悪くして遠くへ行けないご婦人の、精一杯の足掻きのようにも見えた。


「グウェン、良いのではないかな。ご婦人もこう言っているのだし、旅のついでに人探しをすると思えば」


 私が名を呼ぶと、グウェンはこちらを一瞥する。物問いたげな視線に私が笑みで返すと、彼女は嘆息して「お人好しはどちらなのだか」と首を振った。


 そこでやっと、ご婦人は安心した様子で微かな笑みを見せた。


「ありがとう。……ありがとうねぇ」


「お子さんの特徴を教えてください。あと、お名前も。……とは言っても、二〇年近くも昔のお子さんの特徴では、何もかもすっかり変わっている可能性もありますけど」


 そうさねぇ、とご婦人が相づちを打つ。人はひと月も会わなければ見違えたように変わってしまう生き物だ。一年会わなければどれほどか。


 それが二〇年近くも会っていないのだから、いくら子を愛する母親の記憶といっても当てになるかは疑わしかった。


 ご婦人は古い記憶の戸棚をひっくり返すように、しばらく考え込んだあと、生き別れになった子どもの特徴を語りだした。


 目は灰の混じった緑色で、髪は黒パンよりも濃い焦げ茶。もっとも特徴的なのは、左腕の内側に三角形を描くような形でみっつ並んだ、ナナカマドの実に似た赤い痣だそうだ。


 ナナカマドの実と言えば、冬になると真っ赤に熟す小指の先ほどの小さな丸い実だったろうか。


 後天的なものではなく、生まれながらのほくろや痣であれば、今も同じ位置にあるかもしれない。これは良い目印になるだろう。


「名前は、グロゥというんだ」


明るく輝くもの(グロゥ)、ですね。いい名前」グウェンが言い添える。


「そう。あの子はあたしの光なんだ。だからどうか、あんたさんがた。よろしく頼むねぇ」


 万感の想いが込められたポマンダーを受け取って、私は頷いた。夏の乾いた風が、ご婦人の纏う香りを浚って運んでくる。緑に混じった強く鋭い植物の匂いだ。これはローズマリーだろうか。


 植物はあまり詳しくないけれど、ローズマリーは特徴的な匂いがするので鼻が覚えてしまっている。ことに、グウェンと行動を共にするようになってからは、彼女が好んでよく使う薬草の匂いと名前が強く結びついてしまった。


 それから遅れて、ミントとラベンダーの甘く爽やかな香りがポマンダーの袋から香る。他にも何か混じっている気がするけれど、私では詳しくわからない。グウェンならわかるだろうか。


 ポマンダーが手元を離れると、ご婦人は安心した様子でのろのろときびすを返した。トス、トス、と草地を杖でつく音が挨拶代わりのように遠ざかる。


 私たちは、小さくなっていくご婦人の背中を何も言えずに見送っていた。


 彼女の子どもが男性なのか女性なのかを聞きそびれたことに気づいたのは、ご婦人の背中が遥か見えなくなってからのことだった。




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