2.ロフト・シュール
露台の商品を整理していた視線を上げる。
店を挟んだ向かい側、流れるような往来の人波からこちら、それを遮るようにして駆けてくる女性の姿があった。
……女性、と言っても良いのだろうか。まだ少女のようにも見える。わたしよりいくらか背が高いけれど、歳はそう変わらないように見えた。
長いダークブラウンの髪を雑に三つ編みにした、日に焼けた肌と、鮮やかな新緑色の瞳が目を惹く人だ。
果物屋のばーちゃん、と聞いて思い出したのは、真っ白な頭の老女の、しわくちゃな笑顔だった。
「効き目抜群……かはわからないけれど、火傷薬ならこちらです」
薬を求めて来たらしい彼女をお客様だと判断して、一番手前の壷を取る。手のひらにちょうど収まるほどの壷には、濃い緑の軟膏が詰まっていた。それを覗き込んだ女性はすぐに満面の笑みを浮かべる。
彼女の笑顔は、胸のすく、今が盛りの太陽のようだった。
「よかったぁ。いやさ、アタシら仕事で火をあつかうことがあるんだけど、さっきオヤジがうっかり手をやけどしちまってね。旅ぐらしなもんでまとまった金はないし、店をかまえるような薬屋ではモンゼンバライ食らっちまってさ。とりあえず井戸水で冷やしてたんだけどこれがまた染みてイタイのなんのって他の家族にやつ当たりすんのさ。まったく困ったもんだよ」
「はぁ……」
火傷薬の壷を勧めた途端、彼女の口から矢継ぎ早に、聞いてもいない家族の怪我事情が飛び出した。まるでカタバミの種が次から次へと弾け飛ぶように、彼女の言葉はいちど溢れたら留まるところを知らないようだ。
怒涛の喋り文句に呆気に取られていると、女性は懐から硬貨の入っているらしい布袋を取り出した。
「これって塗り薬だよね。それで、その壷いっぱい、いくらになるんだい?」
「あぁ、ええと……」
懐とはつまり、なかなか立派な胸の谷間である。傍目に袋も籠も持っていないなと思っていたが、そのような所から財布を出すのは如何なものだろうか。
内心ギョッとしながらも、わたしは平静を保って「二ペンスです」と告げた。金額を聞いて次に目を剥いたのは彼女の方だ。
「これで二ペンスもすんのかい!? せいぜい一ペニーかと……」
「使っている薬草の種類が多いの。ノコギリソウとオトギリソウを基礎に、ラベンダーの蒸留液とペパーミント、スベリヒユやオオバコの全草を使っているわ。他にも蜜蝋や稀釈のための油、効能を整えるための薬草をいくらか混ぜたから、どうしても値が上がるんです。それに、入れ物だってタダじゃないの」
「素人にゃよくわかんないけど、効果がすごそうなのはよくわかったよ」
「ごうつくばりな医者の処方だったら、この十倍は取られるでしょうね」
ヒェ、と息を飲む声が彼女の口から漏れた。そうよね。二ペンスと言ったら、農夫が一週間近くかかって稼ぐ金額だもの。十倍と言われたら、ふた月分のお給金がまるまる飛んで行ってしまう額だ。正規の薬屋でも、わたしの二倍の値段は付けるのではないかしら。
手持ちの財布の中身を数えながら迷っている彼女を前にして、わたしは露台に広げた薬草と薬の壷をそれぞれ見やった。
いま並べているのは、ごくごく需要の高い傷薬と、喉の痛みや頭痛、胃腸薬、女性特有の症状――月経に関する症状や、ご高齢の女性の癇癪――に効く薬など。薬草類はもう少し細分化して、お客さんの症状を聞いてから勧められるように少しずつ複数の種類を用意している。
その中から、空っぽのもう二回り小さな壷を手にとって、彼女の前に差し出した。
「だったら、火傷薬をこの半分にして、他の薬をお付けするのでどうかしら? たとえば、お酒をよく飲む親父さんなら酔い止めの薬をこの半分と、胃腸薬も付けましょうかね。それでどう?」
「あ、酒は家族みんなのむよ。アタシもふくめてね。イチョウ薬、その半分でいいから酔い止めをすこし多くくれないかい?」
「じゃあ、それで手を打つわ」
商談がまとまったところで、女性は安心したように盛大なため息をついた。薬は高価なものだから、どこまで食い下がれるか緊張していたのだろうか。そう思うと、さっきのカタバミの種のような喋り口もかわいいものに思えた。
わたしはと言えば、籠から出した薬匙で火傷薬をもう一回り小さな壷に詰める。酔い止めは干した薬草を粉末に擂り潰したものだし、胃腸薬は丸薬にしているので、包みをいくらか分けて渡すだけだ。
「ハァー、良かった。いや、ホントにありがとね。このままどこにも薬を売ってもらえなかったら、オヤジの仕事どうするかなって思ってたんだ」
「大袈裟じゃないかしら。わたしでなくても、薬を売ってくれる民間の薬師くらい居るでしょうに」
彼女の口ぶりに、微かな疑問が芽生えた。このくらいの町であればきちんとした薬師でなくとも、わたしのような民間の薬師のひとりやふたり居るはずだ。昔はひとつの村にひとりは必ず、そういった知識を授けてくれる“賢い女”が居たのだから。
けれど彼女は怪訝な顔をしたかと思えば、突然なにかに気付いたように「あっ!」と声を上げた。
「アンタ、もしかして気付いてないのかい? それとも知らないのかな。アタシは――」
「ちょいとあんた! ヴァイキングの生き残りなんかに薬を売るなんてどういうつもりだい!」
新緑の瞳の女性が語る声を遮るように、向かいの露店から別の女性の声が水を差す。見も知らないふくよかな中年女性は、その体格に見合った声量と気迫で、干し肉の並ぶ露店からこちらへ突撃せんばかりの勢いで駆けてきた。
「さっきから黙って見てりゃあ、なんてことだい! その緑の目の女、ここ最近、町の端を勝手に根城にしてる荒っぽい連中の奴だろ? あたしゃ見たんだよ、こいつらが船に乗って浜に乗り上げるのをさ。
小さくて船底の浅い、船首と船尾が同じ形した細長い船を持つ荒くれ者なんて、ヴァイキングに決まってるじゃないか!」
「ヴァイキング? ……ええと、ごめんなさい。わたしはこの島の生まれじゃないから、島の歴史はからっきしなのだけど」
剣幕に押されるように背を反らせると、中年女性は分厚い手のひらで力強く露台を叩いた。わけがわからずにそろりと隣を横目で見ると、こちらを一瞥した染め物屋の旦那さんは呆れたように首を振ってため息をついている。
先ほどから旦那さんの声が聞こえないと思ってはいたけれど、単に商談に口を挟まないでいてくれたのだと勝手に納得していた。ところがその様子を見るに、警戒を張り巡らせて事態を静観していたようだと遅まきながら理解する。次いでお客様である女性に目を向けると、彼女は渋い顔をして中年女性に押し退けられまいと足を踏ん張っていた。
ざわざわと周りのざわめきが強まって、雑踏に野次が混じりだす。娯楽に飢える町人には、このような言い争いでさえも立派な見世物になるのだ。
「だったら今ここできっちり学んどくれよ! ヴァイキングってのはね、もっとずぅっと北の海向こうからやってくる野蛮な荒くれ者たちのことさ!」
「海向こうの……つまり、海賊ということですか?」
「そんなもんさね。奴らは船で渡ってきては、ダヴェドや、マン島や、イングランド北西部を侵略するための足がかりのようにこの辺を荒らし回ってきたのさ。もっとずぅっと、あたしたちが生まれる何十年も、何百年も前からね!
ここ百年から二百年くらいは、奪った土地に定着してって殆どのヴァイキングが居なくなったって言うけど、今だってその末裔が放浪してないわけじゃない」
それでこの中年女性は、顔を真っ赤にしながら抗議の横槍を入れてきたのか。わたしは薬匙を置いてひとまず頷いた。自分たちが生まれるより遥か前から続く、侵略と抗戦の因縁を“昔のことだ”と軽く扱えないことは、わたしこそ身にしみてわかっている。
何百年も前よりイングランドに抗い続け、そして敗れ続けてきたウェールズの民だからこそ、幾重にも絡まる複雑な感情に共感するのは容易かった。
わたしの中にもまた、イングランド人というだけで未だに抵抗を覚える感情が根付いているのだから。
引っ張られかけた意識を無理矢理中立の場に引き戻すために、次いでお客様である女性に目を向けようとした時だ。
「ヴァイキングだって? そっちこそ、だまって聞いてりゃ言いたいほうだい言ってくれるじゃないか。あんな蛮族といっしょにしないどくれよ! アタシはメァラ。数代さかのぼればコナハトの王につらなる、ムルタ・ウィ・コンホバル氏族の末裔さ」
中年女性に引けを取らない剣幕で、メァラと名乗った女性は地を震わせるほどの靴音でもって足を踏み鳴らした。先ほど笑顔を見たときは太陽のようだと思ったのに、怒りをあらわにした途端、まるで雷が晴れの空を割いて大地に突き刺さったのかと思ったほどだ。
その場の誰もがポカン、と口を開けて彼女に注目する。中年女性も、染め物屋の旦那さんも、わたしも、周りで喧嘩を煽っていた野次馬たちでさえ。一瞬、場がしんと静まり返ったほどだ。
それに、いち早く反応を返したのは、自分でも意外なことにわたしだった。
「コナハト……って?」
「あぁ、知らない? 海をはさんだとなりの島のうち、北西にある国だよ。あの島はおおまかに、よっつの国にわかれてんだ」
「あぁ、アイルランドの」
「そ。アタシたちはロフト・シュールっていってさ、鋳掛屋とか、遊牧民とも呼ばれてんだけど、んー、英語ではなんていうんだっけ」
「わたしも、そういった流浪民に会うのは初めてだから、わからないわ」
「まぁ、なんだ、そういう、異国から海をわたってきて馬車で旅する放浪者の一族だよ。船はいくつかの家族たちで共有してんだけど、馬車で旅するときは一家族とか二家族ごとに散らばってんだ」
「漂流者、かしら」
「たぶんそんな感じ。出身はコナハトの血族だけど、故郷はない」
なるほど、と納得してから、おや、と首を傾げた。メァラの口ぶりだと、彼女の主張と肉屋の中年女性の主張は食い違っているように思える。
違和感を呈した視線を向けると、メァラはニッ、と笑って腕を組んだ。粗野ではあるけれど、その立ち姿は粗暴ではない。
彼女は言った。
「あの船は、アタシたちがそのヴァイキングの船を模してつくった同族の資産さ。陸を馬車で旅するのに、じめんを引いてはしれる小さな、でもがんじょうな船がひつようだった。だからあれをつくったんだ。
ロフト・シュールは他の地をふみあらしてうばうようなことはしない。アタシたちが求めるのは、家族のえがおとその日のおわりにのむ一杯の酒だけさ。
そんでアタシたちが見せるのは、歌と踊りと大道芸。それからもうしわけ程度の鋳掛業だよ」
鋳掛業。なるほど、それで火傷薬を求めて来たのか。鍋やヤカンや、簡単な鉄製生活用品の補修をする鋳掛屋は、ほんの小さな火と少しの道具、そこそこの技術があればどこででも仕事をすることができる。
反面、設備が整っていないので、うっかりするとすぐに火傷を負ってしまうのだ。と言っても、扱う火もまたそれほど大きくないはずなので、そうそう大怪我に至ることはないだろうけれど。
一連の話を聞いてバツが悪くなったのか、それまで彼女に食ってかかっていた中年女性は、渋面を作ると口をへの字に結んで自分の露店へ引き上げて行った。騒ぎが収まったと見るや、野次馬たちも散っていく。隣の染め物屋の旦那さんは、終始一貫して我関せずを貫いていた。
「この島の人たちはさ、たぶん、コナハトや、同じ島から流れてくる海賊たちに攻め入られたことがあるんだろうね。そこよりもっと北から来る、本物のヴァイキングにも」
「多分、そうなんでしょう。あれだけ腹を立てていたのだもの」
「けど、アタシたちはただ日々の糧を求めて旅をしてるだけなんだ。人をおそったことなんてない。仕事だってちゃんとしてる。それで海賊と同列にあつかわれんのは、しょうじき、いい気がしないだろ?」
「もしかして、薬を買えて良かったというのも、そういう理由で売ってもらえなかったから?」
「ま、そういうこったね。ただでさえアタシたちみたいな流浪民はどこ行ってもけむたがられるってのに困ったもんだよ。町に店をかまえる薬屋なんてなぁ、あしもと見やがってさ。町のちょっとかせいでるような平民でも買えないような値段ふっかけてきたんだよ。信じられる?」
それは災難だったわね、……などと、軽々しく口にはできなかった。出自で苦労しただろう彼女に、今のわたしが掛けられる言葉はひとつだ。
「その薬屋は薬屋としての誇りより、ホリー島民であることを選んだのでしょう。わたしはウェールズ人だけど、ホリーの民ではないから、あなたを毛嫌いする理由はないわ」
敢えて言うものでもない口上を述べて、軟膏を詰め終わった壷に蓋をする。小さく割いた布に、丸薬状にした酔い止めと胃腸薬を包んで、それらを彼女に差し出した。
「締めて、二ペンスになります」
「へへ、ありがと。んじゃ、はい、二ペンス」
「確かに」
ペニー硬貨を受け取って、自分の籠の中の硬貨壷にそれを入れる。チャリ、と軽い金属音が聞こえて、嵩の増した壷に人知れず満足の息を吐いた。
薬の包みと壷を抱えてきびすを返したメァラは、ふと何かを思い出したように足を止めてこちらを振り返る。
「どうかしましたか」
「そういやアンタ、さっきこの島の人間じゃないって言ってたよね」
「ええ。わたしはグウィネズ本土のコンウィに住んでいたの。訳あって、少し前に旅を始めたのだけど」
「そうだったんだ。じゃ、旅人仲間だね」
仲間、という言葉が耳慣れなくて、わたしは彼女を見上げたまま目を瞬かせた。友達や仲間といったものには縁遠かった人生だ。同胞ともまた違ったその響きに、胸の真ん中がぞわぞわとする。
嫌な感じではないけれど、肌を羽毛の先でくすぐられたような妙な感覚だった。
「アタシたちもしばらくウェールズを旅してるから、また会うこともあるかもね。さっきも言ったけど、アタシはメァラってんだ。“歩く人々”のメァラ。アンタは?」
「グウェンよ。薬師のグウェンシアン。はぐれ者の薬師だから、魔女と呼ぶ人も居るわね」
「だったらアンタはいい魔女だ。よろしく、グウェン」
空いた片手が差し出される。わたしはその手を躊躇なく握った。しっかりと握手が交わされると、メァラの緑の瞳が色彩を強めて弧を描く。間近でよく見ると、中央はブルーグレーの不思議な灰色が混じっていた。
どちらからともなく手を離すと、彼女は今度こそ市場の向こうへ走って行った。たった今、ほどかれたばかりの手を見下ろす。
顔に出ない面映さが、ひりひりと手のひらを焼いた。
想定の時代で当時の1ペニーの価値は2.68ポンド。
現在の日本円換算で約410円くらいだそう。
(参照コンバータ https://www.nationalarchives.gov.uk/currency-converter/#currency-result)
中世は小さな貨幣が流通していなかったので、おつりなどに不便な場合は便宜的に1ペニー硬貨を半分に切って(物理)半ペニーとして取引したようです。
なので、ペニー硬貨は切断しやすい、硬度の低い材質だったとか。




