1.ホリーヘッドの週市場
ひとつ、ふたつ、セージを摘んで
みっつ、よっつ、タイムを束ねたら
いつつ、むっつ、ローズマリーいっぱいの手押し車で
眠れよい子、すやすやと眠れ
ななつ、やっつ、ミントの夢みて
ここのつ、とお、酢に浸したら
仕上げに散らそう ラベンダー
あらあらまあまあ、素敵な香り
病よ病よ、海の向こうへ飛んでいけ
▽ ▲ ▽
ウェールズ北部に注ぐ夏の刺すような日差しは、北の地にとって最上の恵みだ。
一年の多くを冷たい風が覆うこの地では、雲と雨が多く、だから麦穂があまり育たない。けれど遮るものの少ない低い立地のアングルシー島では、本土に比べて風通しがよく、比較的多くの麦穂が育つ。それが、アングルシー島が“ウェールズの穀倉庫”と呼ばれる由縁だった。
――もっとも、このアングルシー西端の町、ホリーヘッドは、厳密に言うとアングルシー島ではなく、メナイ海峡よりもずっと狭いカマラン海峡で隔てられた“ホリー島”なのだけれど。
「黒パンをふたつ。小さい方をくださいな」
竈の近くに窯出しされたパンの陳列棚を指差しながら、わたしはカウンター越しにパン屋の親父さんへ告げた。石壁の内に籠もった香ばしい麦粉の香りが鼻とお腹を戯れにくすぐる。
「姉ちゃん。小さいのをふたつ買うより、でかいのをひとつ買ったほうが安上がりだぞ。生地を持ってくりゃ、窯代だけで済むからもっと安上がりだ」
「ご忠告ありがとう、親父さん。でもいいの、ひとつは連れの分だから。それに旅暮らしだし、週にいちど捏ねるような大きなパン生地は作れないのよ」
片眉を上げて奇妙な顔をしたパン屋の親父さんは、わたしの答えを聞くと合点がいったように、小さな丸パンをふたつ、それぞれ布で包んでくれた。それを受け取りながら、わたしは腕に提げた籠から、手のひらに収まるほどの壷を取る。
中に入っていた小物袋から硬貨を二枚つまむと、パンを差し出す親父さんの手に落とした。
「なんだ、旅芸人か何かかい?」
「そんなに立派なものじゃないわ。ちょっとした薬草や薬を売り歩いているの。ここ三日くらいは酒場で。今日も週市場の片隅に置かせてもらうから、ご入用だったらぜひ来てくださいな」
週市場とは読んで字の如く、週に一度、決まった曜日に開かれる定期市のことだ。
どの町や村でもそうだけれど、市場は毎日開かれるものではない。大体は地域ごとに、年にいちど大きな市を開いたり、週にいちど小規模の市が開かれるのが普通だった。荘園主から畑を借りて農作物を育てているような人々は、充分な準備期間がなければ充分な量の品が用意できないからだ。
特にここ数十年は、先の内乱や、遡れば黒死病などの流行り病で急激に人が少なくなっているらしい。先日立ち寄ったアベルフラウの町では、男手も女手も等しく不足していて、定期市を開くにも頭数が揃わないようだった。供給も少なければ、物の需要もまた少ないのだ。
「薬なぁ。カミさんに聞いてみねぇことにゃ、入り用のモンもわかんねぇや」
「あら。明日はもう町を出ているかもしれないから、ご相談ならお早くね」
「商売が上手いねぇ。気に留めとくよ」
からからと笑う親父さんに愛想笑いを返して、わたしは冷めつつあるパンの包みをひとつ、籠の中に仕舞った。
店を出ながら、手にしていたもうひとつにかぶりつく。小さな、と言ってもわたしの顔ほどはあるそこそこ大きなものだ。少し固くなりはじめた外側の茶色い皮を歯で噛み破ると、多少の柔らかさを残した灰茶色の生地が顔を出した。
胚芽とライ麦を含んだ黒パンは、酸味と少しの埃っぽさが混じっているけれど、水のように薄い押し麦粥を食べるよりもずっと美味しいご馳走だ。少しもちっとした食感が癖になる、密度の詰まった噛みごたえの黒パンを少し遅めの昼食にして、週市場の並ぶ通りへ向かった。
広い道幅の、家々が連なる町の中心に、目抜き通りのようにして露店の帯が伸びている。その一番最初の十字路のかどに目当ての露店を見つけて、籠から空っぽの壷を出した。硬貨入れにしている壷と同じくらいの、小さなものだ。
「こんにちは、おかみさん。この壷に一杯分の黒スグリをくださいな」
ややも大きな声で告げたのは、目の前で果物商を営むおかみさんが、頭も白くなって久しいご老体である故だった。
「あらぁ、グウェンちゃん。おはよう。来てくれたのねぇ」
「もうすぐこんにちはの時間よ、おかみさん。昨日、おかみさんが薬を買ってくれたときに言ったでしょう? 今度はわたしが買いに行くわって」
「あらまぁ、律儀な子だこと」
深く皺の刻まれた顔をくしゃりと歪めて、顔いっぱいに笑みを浮かべる。果物露店のおかみさんのこの顔を見ると、全然似てもいないのに、母の優しい笑みを思い出した。
小さな壷いっぱいの黒スグリを量り売りしてもらい、今度は硬貨の代わりに薬壷を出す。昨日、酒場の軒先を借りて薬を売ったときに、今度はわたしがおかみさんのお店に買い物に行くと言うと、「だったらその時は、お代のかわりに腰痛に効く薬をちょうだいな」と言われたのだ。
「はい、おかみさん。約束の腰痛にいいお薬よ。痛みや女性の症状によく効くヨモギとオトギリソウ、それから血の巡りを良くするオレンジを乾燥させて擂り潰したの。ふたつまみを一回分でお茶にして飲んでね」
「おやおや、ありがとうねぇ。こんなにいっぱい貰ったんじゃあ、リンゴをもうふたつおまけしなくちゃ」
おかみさんはつぶらな瞳をしょぼしょぼと驚きに瞬かせて、手元にあった真っ赤なリンゴをふたつ、黒スグリを持つわたしの手に押し付けた。
過分はもらえないわ、とわたしが慌てると、彼女もまた、「わたしも過分をもらっちまったからねぇ」と呼気で笑って手を離す。
リンゴを地面に落とすわけにもいかず、結局、わたしは黒スグリの壷とリンゴを腕に抱いて、礼を残し露店の前を後にした。
特別大きな建物も目新しい名物も無い片田舎の町では、週市場がいちばん人の集まる場所になる。それはわたしの馴染みだった村でも、途中で寄ったバンガーやアベルフラウでも変わらない。
このホリーヘッドの町も、また同じだ。ならば流れの吟遊詩人を名乗る連れもその中ほどに居るのだろうと予想を付けて、壷からいくつかつまんだ黒スグリを口に運びながら市場をまっすぐ進んだ。
ぷち、ぷちり。奥歯で噛むと口の中で弾ける酸味と微かなえぐみが、いちど覚めた頭と目をもう一度覚まさせる。
キイチゴと違って甘みの少ない黒い実は、だから、本来はジャムとして精製されるのが一般的だ。
けれどこれはこれで、一日を始めるために心を引き締めるには悪くない。彼もひと仕事を終えて集中力が途切れた頃だろうから、この酸味とえぐみは丁度いいだろう。
そのようなことを考えながら足を動かしていると、目論んだ通りにひときわ大きな人溜まりができている場所を見つけた。
ふいごや金物が見える、他の店よりも薄汚れた露店の前だった。
耳を澄ますと、ウェールズで語り継がれる英雄、アーサー王の騎士道物語を綴る詩が、力強く伸びやかに流れる声に乗って歌われている。
声の主は、間違いない。わたしの探し人だ。半分ほどに減った黒スグリの壷とすっかり冷めてしまったパン、それからおまけでもらったリンゴを抱えて、わたしは人垣を掻き分け、最前列へ躍り出た。
ちょうどそのとき、露店の前から「ありがとうございました」と歌の終わりを告げる声が聞こえる。程なくして人垣が散り散りに瓦解すると、気取ったお辞儀をしていた彼がわたしに気付いて顔を上げた。
「グウェン。来ていたんだね。きみも聴いてくれたの?」
「最後の少しだけね」
素っ気なく返しながら、わたしは腕に抱えたパンとリンゴと黒スグリの壷をエディに押し付ける。まだ出会って一週間と少しだと言うのに、すっかり見慣れてしまった旅の道連れ、その人だ。
わたしよりもいくつか歳上のようだけれど、鋭い観察眼や呑み込みの早い頭を持っているかと思えば、行き当たりばったりな行動でこちらをやきもきさせるとんでもない男である。
そうでなくても、彼はイングランド人で、わたしはウェールズ人という、相容れない隔たりがあるというのに。
「パンと、リンゴと……これは黒スグリ?」
「ええ。もう暫くすればお昼になるでしょう。今日はこれから薬を売りに出すから、市に来るついでに買ってきたの」
「きみの分は?」
「道中食べたわ」
「そっか」
この町に着いてから仮宿にしている酒場の納屋で、目覚めてから共に軽い朝食をとったのが日の昇ってすぐの頃。それから程なく「歌ってくるよ」と出て行った彼は、恐らくこの時間まで水以外の何も口にしていないに違いない。
「ちょうど良かった。市場を転々としながらずっと歌い通しだったから、そろそろ早めの昼食にしようと思っていたところだよ。ありがとう」
(ほらね、思ったとおり)
軽くなった手で籠を抱えなおして、用の済んだわたしは踵を返した。薬を置かせてもらう予定の露店は、彼の前を通り過ぎてもっとずっと通りの向こうに行ったところにある。
人通りの多い場所ほど場所代は高く、少ない場所ほど安いのだ。
「それじゃあね」
「あ、待ってグウェン。パンと果物代……」
「夕飯を奢ってちょうだい。それで手打ちよ」
「わかった。じゃあ、とっておきのご馳走を見繕っておくよ」
ひらひらと手を振りながら、彼に一瞥も寄越すことなく歩いていく。精々、彼の言う“ご馳走”が具沢山のスープ以上に豪勢ではないことを祈っておこう。
△ ▼ △
目当ての露店に着く頃には、早い店はもう撤収の準備をしていた。町の市場に並ぶ露店は見知った村のそれよりも多種多様で、朝早くから出ている店もあれば、少し遅い時間から用意をする店もある。
魚や野菜は鮮度がものを言うので、この時間にはもう殆どが品物を売り切った後だった。逆に、洗濯用の灰やロウソクといった腐らない日用品はまだまだ呼び込みの声が響いている。
そんな、人も疎らになる市場の端っこで、まだ品物が多く残る露店が一軒、目についた。様々な色の布地が並ぶ露台の上には、ほんの籠をひとつ置けるだけの空間が空いている。露台の向こうには顎髭を蓄えた初老の男性が立っていて、背後の荷車から布地を入れ替えているのが見えた。
織物の染め屋が出す露店。ここが、今日のわたしの目的地だ。
ホリーヘッドの町に着いた初日に、薬草を買い取ってくれる店を探し歩いている途中で声を掛けてくれたのが、この染め屋の旦那さんだった。
残念ながら染料になるほどの量は無いので、薬草を買い取ってはもらえなかったけれど、代わりにこうして週市場の露店の一角を使わせてもらえることになったのだ。縁とは不思議なものである。
「こんにちは。お言葉に甘えて、露店の端っこをお借りしてもいいですか?」
「おう、お前さんかい。そりゃ構わんが、日が傾きだしたらウチも引き揚げるよ。それまででいいかね」
「ええ、充分ですよ。商品の捌けはどうです?」
「見ての通りさ。秋が来りゃあ毛織物はよぅく売れるんだけどな。この時期はわざわざ新しく服を仕立てようなんてやつも少ないから、売上は渋いねぇ」
「革製品の靴や布織物の衣服は、農民にはなかなか手が出しづらいですからね」
世間話をしながら、場所代と言うには雀の涙のような金額を旦那さんに渡すと、彼は隣に置いた木椅子を勧めてくれた。わたしはそれを丁重に辞退しながら、露台に薬を並べていく。
本来ならば、地領の領主様の開く週市場で出店するには、相応の税を納めなければならないのだけれど、この町の町民ではないわたしにはそれができない。旅商人であれば、商人ギルドを経由して税を納めることもできるけれど、後ろ盾も身分もないわたしには無理なことだった。
それでこうして、市場に出ている店の主に心付けを支払って、売り物を置かせてもらうのだ。
店の主は多少の収入が得られるし、上手くいけば抱き合わせで互いの商品がトントン拍子に売れる。もちろん正規の手続きを踏んだ出店ではないので、お役人に見つかると実は結構まずいのだけれど。ここは織物の露天なので、もしものときは染色にも良い薬草を出して「染料から売っているんです」で押し通す算段だ。
やれ、今年は作物の実りが少ないだの、染料がまとまって手に入らないからギルド内の服飾店同士で争奪戦だのと取り留めのない話をいくつか交わしながら、客足が近付いてくるたびに声を張って呼び込みをした。
ひと巻き織物が売れては、薬草がひと束売れていく。薬をひと握り買えるだけの経済力のある人は、夏用の風通しのよい服を仕立てようと染め織りの生地を買って行った。
飛ぶようにとはいかないが、ちらほらと減っていく商品の在庫に、薬が半分も売れれば万々歳だろうと皮算用を始めた頃だ。
「あ、居た! ねぇ、アンタ。くだもの屋のばーちゃんが言ってたききめバツグンの薬売りってアンタだろ? やけどをなおす薬はあるかい?」
そんなふうに、快活な声を掛けられたのは。
お久しぶりの方もここから初めましての方もこんにちは、作者です。
2年ちょい越しのヒラエス新作と相成りました。
だいぶお時間空いてしまって申し訳ないやら何やら。
お待ち下さっていた方々、引き続き読んで下さる方々には頭の下がる思いです。
ここから初めましての方には、少しでも楽しんで頂けましたら幸い。
最初の『ヒラエスの魔女の森』を書き始めた頃には、まさかシリーズを3本も書くことになるとは思いませんでした。
はい、3本目です。チョロくおだてられて3本も書いてしまいました。ここまで来たらふたりの旅の終着点まで書かねばという気持ちもあり、多分きっと4本目5本目と続いていくかと思います。
さて、舞台はバンガーから舟で渡り、メナイ海峡を挟んだアングルシー島(ウェールズ語でアニス・モーン)に移ります。
アングルシー島と言いながら、今回の出発点はアングルシー島の更に西に伸びるホリー島のホリーヘッド(ウェールズ語でカエルガビ)です。
ウェールズ南部にはもっと西に位置する場所もあるのでウェールズ最西端とはいきませんが、北ウェールズの一番西にある場所です。
ここから旅する(?)アングルシー島編、『リンディーロンの子守唄』、どうぞお楽しみ頂けましたら幸いです。
なかなかお話が纏まらず、気づけば2年もぐだぐだしてしまいまして、書き上げた現在も結局纏まりのないお話になってしまったのですが、こうなったらもう次回の4作目に繋ぐ10万字超えの番外編だと思って読んで……頂けましたら……_(´ཀ`」∠)_(という開き直り)
……そういえば蛇足ですが、今回文中の「こんにちは」に二種別々のルビが振ってあるところがありましたが、あれは英語で言うところの「Hi」と「Good afternoon」の違いだと思っていただけましたら。
時間を問わず使える気安い「こんにちは」と、お昼時間を指す「こんにちは」です。




