2.魔女と吟遊詩人
目が覚めたら、雨が止んでいますように。
昨夜、落ちかけた意識の淵で切に唱えた祈りは、どうやら神様に届かなかったらしい。
目が覚めてもリネンの塊はテーブルに突っ伏していて、瓶の水で顔を洗って頭をシャッキリさせても彼の姿は掻き消えなかった。夢でもなければ、夏至祭に浮かれて人間の領域へやってきた妖精の類いでもなかったようだ。
男が目を覚ましたのは、わたしが身仕度を整えて、竈に火を入れた頃だった。
「……雨」
しとしとと聞こえる雨音に塗り潰されそうな、か細い声が呟いた。わたしの他にはノスと旅の男しか居ないのだから、ノスが人の言葉を喋るようになったのでもなければ、この声の主は知れたものだ。
「おはよう」
長いまつげをしばたかせて、当然のように告げられる挨拶。まだ頭がぼんやりしているのか、こぼれる声は舌足らずだった。
面食らったわたしがおうむ返しに挨拶を返すと、彼はリネンごと凝り固まった身体をほぐすように伸びをする。
「ノスみたい」
思わず、戸口の脇で丸まっている彼女に視線を寄越す。
にゃあ、と鳴いたのは、ノスではなくてリネンを被ったままの男の方だ。
「ノスはそんな風に鳴かないわ」
「ではどんな風に?」
「鼻を鳴らすの。プスン、って。小さな頃から一緒に居るけれど、私だってこの子が鳴くのをそう見たことがないのだから」
彼の返事が返ってくる前に、手早くテーブルに器を並べた。昨日の残りのミルク粥に火を通したものと、皮を向いたモモ。それからまだ傷みのないラズベリーをひと掴み。
ふたつずつ並べられた食器に、彼はわざわざ「食べてもいいの?」とは聞かなかった。また、あの食前の句を唱えて――それからわたしにも感謝を伝えて――熱心に食事を平らげる。
これほど行儀のいい食事風景なんて見たことがないのに、ただ、誰かと食事をするだけで“懐かしい”と感じる自分に嫌気が差した。
「きみはこんな山奥で何をしているの?」
男がそんな問いかけをこぼしたのは、遅くに目覚めたノスが朝食をねだり始めた頃だった。
水瓶から汲み上げた水に、朝の残りのモモを浸して潰す。喉を詰めないように取り除いた種は、晴れたら天日干しにして薬の材料にしよう。
そんなことを考えていたので、彼からの問いには一瞬、どう返そうか迷ってしまった。
「――“この山で神に祈りを捧げて、動物たちのお世話をしているの”」
ノスの背中を撫でながら咄嗟に吐き出した冗談は、この北部地方に伝わる昔話の一節だ。
裕福な家へ嫁ぐことを嫌ったアイルランドの王女が、海を渡ってポウイスの山に隠れ住む。やがて幾年がすぎて、その山を狩りで訪れたポウイスの王が、アイルランドの王女に素性を尋ねるのだ。
そのときアイルランドの王女が答えたのが、その一節だった。
知らないだろうとたかを括って答えたと言うのに、男はおかしそうに笑いをこぼした。
「知ってる。『小さなメランゲシュ』だ」
「知っているの?」
「ここに来る前の町で、子供たちに聞いたんだ。小耳に挟む程度だけど。確かにきみはメランゲシュ姫のようだね」
きっと、彼の言葉の後には「隠者のようで」と付くのだろう。自覚はあるのだ。権力者に近寄りたくなくて追い返そうとした彼女の心理も、よく理解できる。
「すると、私がポウイス王かな?」
「あら、それならわたしはあなたから土地をもらわなければならないわ。ポウイスの王はメランゲシュに感心して、動物たちのためにその土地を与えたんだもの」
「残念。人に与えられる土地を、私は持っていないんだ」
「でしょうね」
にべもなく答えると、男は肩を竦めて申し訳なさそうに苦笑した。会話に気をやっていると、プスン、と足元から鼻を鳴らす音がする。
ノスがわたしの持つモモの器を見上げて、早く寄越せと催促がましい視線を注いでいた。
器を置いてやると、なよやかに寄ってきて口を付ける。まるで「お腹が空いていてもがっつかないのが淑女の礼儀よ」とでも言うように。
静かになったノスの頭をひと撫でして、今度は調薬に取り掛かる。この天気なので、今朝は薬草を摘みに行けなかった。だから代わりに、昨日できなかった処理をしてしまおうと思ったのだ。
蒸留のための陶製フラスコや、乳鉢に乳棒、ナイフと小壷といくつもの薬匙を次々に並べると、そのテーブルの端についていた男は目を丸くした。
「これから何を始めるの?」
「薬を作るのよ」
「薬」
こどものようにわたしの言葉をなぞる男は、ほんの瞬く間だけ、遠くに意識を飛ばしたようだった。
瞳の虹彩が濃く煌めいて、
「きみは、魔女?」
薄く形の良い唇が、ゆっくりと噛み締めるように尋ねた。
自分の腕が、問いに合わせてピクリと引き攣るのを感じる。キリスト教の浸透し始めた近頃では、ケルト由来のドルイド僧やそれに連なる人々が、魔女と呼ばれて迫害されつつあると風のうわさで聞いたから。
「そう呼ぶ人もいるわ。どう呼ぶかはその人たちの勝手だけど」
逡巡した結果、わたしは心の隅で感じた怯えに知らないふりをした。
「あなたも、魔女はお嫌い?」
逆に問い返すと、彼はさも当然と言わんばかりに首を振る。榛色の頭が縦ではなく横に揺れる様は、わたしの目に不思議なもののように映った。
「嫌いではないよ。私の母も、魔女と呼ばれた人だったから」
「そう」
短く相づちを打ったのは、話を打ち切るためと言うよりも、ますます彼がわからなくなったからだ。
薄汚れた外套を羽織りながら、使い込まれた綺麗な英語を紡ぐ男。
城下の宿よりも納屋のような山小屋に泊まりたがるくせに、隙のない所作でミルク粥を平らげる男。
イングランド人だというのに、魔女と呼ばれたらしい母を持つ男。
まったくあべこべの性質を持ちながら、彼は彼という存在そのものに揺るぎない何かを持っている。そんな気がした。
「これはタイム?」
「ええ」
「こっちは?」
「クルマバソウ」
あまりに興味深げにしげしげと眺めるので、誤魔化すのも面倒で簡潔に答える。こどものような茶色の瞳が、今度は好奇心に輝いた。
――あぁ、嫌な予感がする。
「手伝うよ」
「結構よ」
一瞬よぎった想像が、わずかも違うことなく的中したので、わたしは間髪入れずにそれを拒否した。
手伝うですって? 素人が?
とんでもない!
「けれど、一晩泊めてもらっておきながら、私はきみになんの恩返しもできていない。せめて何か手伝いだけでも……」
「もう一度言うわ。結構よ」
できれば何もせずに視界の端で座っていていただきたい。そんなわたしの意思を知ってか知らずか、語気を強く告げた言葉に、男は傷付いた顔で口を噤んだ。
人と滅多に話さない生活の弊害か、こういう反応を返されると、こちらまでどうしていいのかわからなくなる。たとえそれが、必要に迫られなければ関わりたくもないイングランド人相手であったとしても。
後味の悪さを払拭するためにこぼしたため息は、何も拭ってくれなかった。
「……薬草の扱いは、とても繊細なの。ひとつの植物がいろんな薬効を持っている反面、大抵の植物に毒がある」
「……? うん」
脈絡なく語り出したわたしの声に、彼は半分もわかっていないような顔で相づちを打つ。
言いたいことが伝わらなくて歯痒い思いをするなんて、どれほどぶりだろうか。
「処理の仕方をひとつ間違えただけで、薬のつもりだったものが毒に変わることだってあるのよ。そういうものを、知識のないあなたが扱うのは危ないの。言いたいこと、わかる?」
「あぁ……そっか。うん、なるほど」
不自由ではない程度の英語を操って、なんとか意図を伝えることには成功したらしい。ほっと胸を撫で下ろしたわたしとは対照的に、けれど、彼の表情は相変わらず晴れなかった。
椅子の上で抱えた片膝に顎を埋めながら、男が途方に暮れた声で呟く。
「私にできる恩返しが、他にあればいいのだけど」
「何もいらないわ。恩を売りたくて泊めたわけじゃない。あそこで見捨てていた方がよほど面倒なことになると思ったから。それだけよ」
「けれど、それじゃあ私の気が済まない。……金子の幾ばくかでも置いて行ければいいのだけど、見ての通り、その日暮らしの流れ者だからね」
「自己満足の為の恩返しなら尚更いらないわ」
きっぱりと断ったつもりだった。なのに彼はテーブルの隅で、すっかり考え込んでいる。
早く諦めて、口を閉じて、じっとしていてくれないものか。種々ある薬草をテーブルの上に広げながら、わたしは努めて彼の姿を視界の外へ追い出した。
彼が白皙の顔を上げたのは、薬草を葉と花と茎と種子、それぞれに分け終わった頃だった。
「そうだ。歌を唄うよ」
突然聞かされた筋道の見えない結論に、薬草の下処理をしていた手が止まる。驚き半分、呆れが半分だ。
彼はきっと途中から、“どうやって持て余した暇を潰すのか”について考えていたに違いない。
わたしはよほど胡乱な目をしていたのだろうか。男は取り繕うように慌てて立ち上がった。
「からかってるのではないよ。私は歌を生業にしているから、何ペンスかの代わりにはなるんじゃないか、と……思って」
これまで緩い動作しか見せなかった男が、ネズミのようにすばやい動きで傍らの荷物袋を拾い上げる。
くたびれた革袋から彼が取り出したものを見て、わたしは作業の手を止めた。――いいえ、いいえ。
わたしが望むと望まざるとに関わらず、心臓以外のすべての動きを止めたのだ。
歩みも、瞬きも、呼吸さえも。
彼が腕に抱えたのは、人の胴体より少し小さなハープだった。
ウェールズの吟遊詩人が奏でる歌、わたしたちの心の象徴。
ケルズダントを生み出すその神聖な楽器を、よりによって、イングランド人が手にしているなんて!!
そうと理解した瞬間、頭の中が焼ききれそうなほどに熱くなった。心臓が激しく胸を叩き、腸が煮えくり返る。憤懣やるかたないとはまさにこのことだ。
ポォン、と男の鳴らした弦の音と、喉の奥から紡がれた彼の歌声を、わたしはテーブルを叩いて掻き消した。
薬草が飛び上がる。ハープを抱えた男の肩も同様に。
それほどに強く、荒々しく、激しい打音だった。
「やめて、それを奏でないで! わたしの前で、あなたが、ケルズダントを口にしないで!」
わたしたちの誇りを踏み躙らないで!
そこまで口走りかけて、わたしは弾かれたように口を押さえた。
彼の方へ視線をやれば、丸々と目を見開いた花顔が呆然とわたしを見つめ返している。昨日、彼と初めて言葉を交わしてから腹の底に少しずつ積もっていた怨嗟が、堰を切って溢れてしまったのだと、この時になってようやく自覚した。
「……怒鳴ってごめんなさい。ちょっと、瓶に水を貯めてくるわ」
「あの」
「すぐに戻るから、テーブルの上のものと棚の中身には触らないで」
感情が爆発した後に残るのは、虚しいばかりの虚脱感だ。理不尽に怒鳴り散らしてしまった罪悪感も相まって、わたしは逃げるように空っぽの瓶と外套を掴んで家を出た。
一日で乾ききれなかった外套が、生暖かな湿気と冷たい気温を含んで気持ち悪い。立て付けの悪い板戸は押し込めないと閉まらないし、男を擁護する無音の空間を閉じ込めると、ザァザァと煩い雨音ばかりが耳につく。
さっき食べたばかりのモモとラズベリーが、胃の中でぐずぐずに溶けてどろどろと回っているような気がした。
▽ ▲ ▽
小高い丘のような、なだらかな傾斜の続くこの山は、木々の開けた場所に出ると、遥かコンウィの城が見える。
今やすっかりイングランド軍が治めるその町も、かつてはウェールズ公国の領地だったという。
この国が、国というひとつのまとまった肩書きを奪われたのは、最後のウェールズ大公、スウェリン・アプ・グリフィズが当時のイングランド王、エドワード一世に攻め入られ、敗れた時だった。
彼らは制圧したウェールズ人の反乱を抑えるために、八つの円形塔の城を造り、城壁で町を覆ってイングランド人だけを壁の中に招き入れた。それがあの、陰鬱な曇り空の色をしたコンウィ城とその城壁。
わたしが生まれるずっと前、もう一〇〇年以上も昔の話だ。
一〇〇年余り、町にウェールズ人が住むことを禁じられ、存在を拒まれ、また退けられてきたわたしたちの先祖は、そうして散り散りになり、息をひそめるように小さな村へ落ち延びていった。
わたしが薬を売りに降りる村も、そんな村のひとつだ。
時が流れて、ウェールズ人に対する抑止力は緩やかになってきた反面、わたしたちの心にはイングランド人への強い反発心が根を張った。まるで怨みそのものが血に刻み込まれているようだ。
ほんの数年前に鎮圧されたばかりの反乱が、その最たるものだろう。
長い年月を掛けて育まれたウェールズ人の、矜持と郷愁。わたしたちが内に秘めた怒りや、誇りや、慈しみに火を点けるように狼煙の上げられた戦いも、結局は、数の力に押し負けて失敗に終わったのだけれど。
近年反乱が起きたことで、ウェールズ人への圧力は再び強くなった。風当たりは厳しく、文化は奪い取られ、町ではろくにウェールズ語も使えない。それが余計に、わたしたちの中の鬱憤を強めた。
堂々巡りだ。そうしてウェールズ人とイングランド人の間には、今もなお取り除けないしこりが膨れ上がり続けている。
膿を出し切ったところから、また炎症を起こして何度も何度も化膿するように。
(頭では、わかってる。あの男は何も悪くないって)
彼が大軍を動かしてウェールズに押し入ったわけでも、私欲や悪意をもってわざわざわたしの家までやって来たのではないことも、わたしの理性的な部分はきちんと理解しているのだ。
他者を害することも知らないようなあの、毒気の抜けた顔だもの。
ただ、彼はイングランド人であっただけ。
イングランド人であること、その一点だけが、わたしの感情的な部分をことごとく逆撫でした。
バツボツと、大粒の雨が外套を叩く。抱えて出た瓶を家の傍らに置いて、張り付くように、薄いドアへ背中を預けた。
ぽろん、ぽろんと泣くように、家の中からハープの音がする。まろやかで繊細な調べを主旋律として、細くも伸びやかな男の歌声が副旋律を彩った。
ケルズダント――ハープの奏では伴奏に非ず。またその歌声はハープの音色を辿るに非ず。
異なるふたつの音がそれぞれに絡み合い、ひとつの音色を産み出す至高の音楽。厳格に緻密に織り重ねられた協和音が、絶妙に響き合う弾き語り。
きっと宮廷詩人として王宮にも登れるだろう美しい旋律に、こんなところで燻っているなんて勿体ないな、とぼんやり思った。