11.西へ
「まだ、シスターについて心を痛めている?」
舟の準備をしている船頭を待つ間、エディがわたしの様子を窺うように尋ねた。
目の前では、小さな木舟が波間に揺られている。その不安定さに心臓がいつもより早い音を立てていた。舟に乗るのは、これが初めてだ。
喚き疲れて眠って、起きたら随分と高いところに日があった。慌てて出発の支度をして、渡し舟の係留所へ着いたのが少し前だ。
昨日先頭たちが言っていたように、昼近くになって大司教が回復の兆しを見せると、村の境界に張り巡らされていた検問と封鎖の目はひとまず解かれた。それを、わたしたちは船頭の口から知った。
「痛めて……いるのかしら。わからないわ。ただ、ひどくやるせない気持ちばかりが、ずっと居座っているの」
昨日の夜、眠ることで一旦頭の外に追いやった胸の痛みは、起きた瞬間からわたしの傍らにあった。
事が起こる前にどうにかできなかったのか、などという傲慢なことを考えたわけではない。事が起きようが起きまいが、根幹にあるシスター・マーガレットの苦悩も大司教の倫理にもとる行いも、わたしが知るよりはるか以前から育ったものだ。
どうにかしようとも思わないし、ふらりと立ち寄っただけの無関係な者がいっときの感傷で口を挟んだところで、どうにかなるとも思わない。
けれど、何もせずに、何もできずに、ただ彼女の恐れと嘆きに満ちた決意を見ているのは心がすり減った。
彼女の覚悟と諦念を知っていながら、結局逃げるように去ってしまったことが追い打ちを掛けている。
昨日、井戸近くで話を聞いた修道女は言っていた。領主様に書簡を出したと。大司教が害されたのだ。もし事態を重く見た領主から、更に詳しい犯人捜索の手が延びたとき、シスターがどうなるのかもわからない。すべてが宙に浮いたままだった。
「旅をする上で、言葉を交わしたひとりひとりに肩入れするのは危険だよ。心を砕いて、そのたびに置いていってしまっては、擦り切れて、いつか無くなってしまうからね」
意外なことを言うものだ。ルシルが泣いて出て行った時もそう思ったけれど、彼は時に、容赦なく些末ごとを切り捨てようとする。
それが、歴史から抹殺されて育てられたとは言え、彼が王の子として育った所以なのだろうか。
「そう言うけれど、あなたも大概なのではない? 自分を受け入れようとしない女を、こうして共に連れ歩いているのだから。一宿一飯の恩を傾けてくれた人、みんなに心を砕いているのでしょう」
「まさか。私はきみが思うより、ずっと自分勝手で我が侭だよ」
微笑みながら言うことではないな、と思う。彼が思っていたよりも強情で、譲るところと譲らないところの線引きをしていることには気付いていたけれど、自覚があったとは驚いた。
「私が心に留めたのは四人で、私が心を傾けたのはひとりきりだからね」
「四人、と、ひとり?」
「父上と、母上。私を連れ出してくれた乳母と、ハープをくれた吟遊詩人。で、四人。でも、引き止めてでも、手を引いてでも、共に居たいと思ったのはきみだけだ」
え、と声が漏れるに任せて彼の顔を見上げた。榛色の柔い髪が、日の光に輝いてくすんだ金色に見える。ふわふわと彼の心身ほどに身軽な髪が、昨夜よりいくらか涼やかな風に揺れた。
「人が、自分の心の内に抱き留めておける人数なんて、そう多くはないんだよ。沢山の人を受け入れているように見える人は、本当は受け入れていないか、あるいは人ではなくなったものなのではないかな」
「人ではなくなったもの――」
それで言うと、エディはどちらなのだろうか。彼の言うことを信じるならば、懐に入れる人を選りすぐっている彼は“本当は受け入れていない”側の人間なのだろうか。
では、彼女は?
「天使様だとか、悪魔だとか、精霊だとか、そういうもの。物質的なものじゃなくて、精神性の話だよ。そういう人たちが、聖人だとか、聖女だとか、あるいは悪魔憑きだとか魔女だとかと分類されるんだ」
「教会に属さない薬師が、魔女と罵られるように?」
「うん。不思議だね。自分は自分で、その考え自体は元から身の内にあったものなのに。表面化するだけで、周りが勝手にカテゴリー化してしまう」
「そうね。……そうして、周りに合わせて自分が自分であることをやめてしまうのだわ」
シスター・マーガレットは、表面化する前に、環境と他者の欲から型に嵌め込まれてしまった。そうして流されるままに受け入れてしまったことで、手を汚すに至ったのだからやりきれない。
「彼女は魔女になった――毒を用いて人を害するという意味の魔女に。自分の大切なものを守るために、持ちうる自分の知識の全てで、自分の大切な人たちが傷つけられないよう抵抗した。ただそれだけ」
「露出した愛情も反感も、ずっと前から彼女の中にあったはずなのに、用いた手段ひとつで善悪が逆転してしまうなんて――なんて皮肉かしら」
それだけ、と言ってしまえば呆気ないものだけれど、そこに包容されるものはあまりに大きすぎて、ちぐはぐに感じる。
「こうして事実だけを並べ立てると、何が正しくて何が間違っているのかわからなくなるわね」
「だから人は、選ばなければいけない。自分の意思で。ときに善悪の判断を主観に委ねられたとき、自分の心を裏切ることのないように」
言葉なく頷いて、修道院のある方を一瞥した。村の西端に当たるこの場所は、木が生い茂って大聖堂も修道院も、昨日泊まったあの宿屋も何ひとつ見えない。
「彼女は選んだ。辛くとも、苦しくとも、後悔したとしても、自分の心を裏切らないために」
わたしが誰の影を探したのか察したのだろう。エディは言った。きみは、と続ける眼差しに吸い寄せられて見上げると、好奇心ではない、真摯にわたしの意義を問う色がそこにあった。
「グウェンは? 薬を作ってルシルの願いを叶えたことを、後悔している?」
「していないと言えば、嘘になるわ。でも……薬を作らなかったとしても、きっとわたしは後悔していた」
後悔しないはずがないのだ。どちらに転んでも痛みを伴う選択ならば、見なかったふりをして薬を作らないでいる方が、よほど大きな悔いを残すだろう。それは、薬師としてのわたしのこれまでを裏切る選択なのだから。
答えると、エディは安心したように笑った。
彼を見上げていた視線を舟に戻すと、もうじき準備は終わるようだった。船頭が係留縄を解きにかかっている。
彼が舟に乗るために手を差し出した。わたしはその手を躊躇ってから取ろうとして、一度だけ振り返る。
遠く木立の間に、黒い外套に包まれた人影がふたつ、見えた。
「あ――」
背の高い方は、動かずにただじっとこちらを見ている。目の色までは遠目にはわからないけれど、きっと虹彩は、ウェールズ人らしい黒褐色だか茶褐色だかの濃い色をしているのだろう。小柄な影は鋭角に腰を折ってお辞儀している。そのせいで、フードから淡い亜麻色の髪がこぼれ落ちていた。
ザァ、と木々が嘶いた。ひときわ強い海風がわたしとエディの髪を巻き上げる。一緒に舞った砂埃に咄嗟に目を瞑ったけれど、彼に手を取られた感触で慌てて開いた。
木立の間には、もう人影は見えなかった。
「準備が出来たようだよ。行こう」
「――、ええ」
手を引かれる。たちまち、乗り上げた木板が軋みを上げた。ゆらゆらと不安定な足元にたたらを踏む。それを、繋いだ腕を引き上げてエディが受け止める。
舟は漕ぎ出した。引き返す道はない。だからわたしも、彼女たちも、後悔を抱きながら進むしかないのだ。そんなふうに、ストンと胸に落ちてきた。
恐らく二度と交わらない道で、わたしにできるのは、彼女たちが昨日よりも心安らかに今日を過ごせるよう祈ることだけだ。
けれどもしも、もう一度会うことができたなら、その時は名前を名乗ろう。結局、わたしの名前を告げる機会は逃してしまったから。
まだ見えもしない未来に思いを馳せながら、とりあえずは今日の宿の心配をしましょうか、と隣の男を肘でつついた。
DIWEDD
これにて、ヒラエス2作目「嘆きと祈りのクッチ」終了です。お付き合いありがとうございました。
前作を公開した時、「ところで続きは!」と言われてまさか本当に続きを書くとは自分でも思いませんでした。
『ヒラエスの森の魔女』はひとつの「旅立ちの物語」として書いたので、最初は続きというものを考えていなかったんですね。
ですがもう少し薬草とか毒草とか扱うならそれらしいお話も書いてみたいな、となんとなく練り練りしていくうちに続きが生まれました。
結末には賛否両論あるかと思いますが、少しでも楽しんで、あるいはお心に残して頂ける作品になっておりましたら幸いです。
この後は閑話を1つ2つ考えていますが、ひとまずここで完結マークを付けさせていただきます。
途中まで読んでくださった方の中から更に続きのお話を、とのご感想も頂いているのですが、如何せん予定は未定の状態なので、構想が生まれたら、といったところです。
☆評価ぽちぽちしていただいたり、ブックマークしていただいたり、一言感想など頂けると軽率にやる気を出すタイプの人間なので、よろしければ画面下部に出ているお星様もらえると嬉しいですー。
ではでは、また次回のお話でお会いできますことを願って。




