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ヒラエスの魔女の唄  作者: 待雪天音
嘆きと祈りのクッチ
18/41

10.魔女の正義

※婉曲な表現をしておりますが、倫理観に欠ける表現を多少用いております。苦手な方はご注意ください。

この作品はフィクションです。作者に犯罪を助長する意図はございません。




 ――私の生家は、オワイン・グリンドゥールの反乱に助力した、アングルシー島の一族の末席でした。


 ウェールズ(カムリ)北東部を起点に始まったあの反乱は、二代前の王・リチャード二世がヘンリー四世によって廃され、グリンドゥール氏の治める隣地の領主との諍いが激化したことによって生まれた戦でした。


 彼らはイングランド人でしたから、ウェールズ人でありながら一領主という身分にあったグリンドゥール氏を快く思わなかったのでしょう。以前よりあった小さな嫌がらせのようなものは、やがて政治的な面でも顕著になり、蔑ろに扱われることに耐えかねたグリンドゥール氏は遂に反旗を翻しました。


 元々アングルシーに住まうウェールズ人(カムリ)の諸侯は――いいえ、ウェールズの大体の人々が――リチャード二世を強く支持しておりましたから、彼の王がヘンリー四世に廃された折、反乱軍に加勢する者は少なくなかったようです。彼は前王や現王と違って、ウェールズ人にも相応の地位や俸給、意見を述べる機会を与えてくださっておりましたからね。謂わば半自治区のような体制は、今よりもずっと自由な気風だったそうです。


 私が生まれた頃はまだ、反乱が始まったか只中かという時期で、両親は危うい生活の中でも私を愛し、育ててくれました。


 けれど戦況が不利になるにつれて、一族の中には娘を手放す家系が増えていきました。息子は戦力として手元に置かねばままなりませんでしたが、このまま押され、敗れれば、一族郎党無事では済まないことは火を見るより明らかでした。


 私もそのさなかに、修道会へと入会した娘のうちのひとりでした。宗教組織とは表向き、政権の手も届かない隔離された場所ですからね。次代は残せずとも、私が息絶えるまでは、この身体に流れる血は生き続けます。


 けれど幼い私にとって、そこは監獄となんら変わりのない場所でした。食事と睡眠だけが保証された監獄。北西の田舎者とは言え、こぢんまりとした屋敷に住まい、三食を食べ、夜には暖炉に熾火を置いて眠れる暖かな暮らしをしていましたから、何も持たず、何の楽しみも追いかけられないその場所に苦痛しかなかったのは仕方のないことです。


 自分の時間など無きに等しい集団生活。大聖堂の清掃と井戸への水汲み以外には、門の外に出ることの許されない日々。私語は無く、黙々と僅かな糧を胃に詰め込み、神への感謝と人々の心の安寧ばかりを祈る人生。そこに“私”は必要ありませんでした。


 ですが、それが虜囚よりも遥かにまし(・・)な生活であるとは、幼心にも理解していました。堅実質素で最低限の生活とは言え、泥水を啜るようなことはなかったのですから。


 数年も経つ頃には、私も修道院の生活にだいぶ馴染んでおりました。見習いシスターとして日に七度のお祈りの時間と薬草園の手入れ、家畜の世話と畑仕事、院や大聖堂の清掃に食事の用意。シスターたちについて行儀を習い、それらの仕事に明け暮れるのも当たり前になった頃のことです。


 大司教様の訪いに、初めて私も共に出迎えることとなりました。


 それまで見習いということで免除されていた大司教様の視察の出迎えでしたが、もう一、二年もすれば一人前のシスターとして修道院の一角を担うことになるから、との修道院長の判断でした。


 大きな変化のない日常でしたから、私は初めての経験に舞い上がっていたのです。


 大司教様は数人の学識のあるお役人と、視察の様子を記録する書記役の方を連れていらっしゃいました。日頃の仕事やお祈りの様子を見て頂き、大司教様の説教を聞いてから、午後になるとシスターをひとりひとり別室に呼んで彼女たちのあらゆる話を――たとえば修道院生活における不満だとか、誰それが怠惰だとか、院内の秩序と戒律が守られているかを調べられるのです――聞かれました。


 問題のあるシスターには夜や翌日以降に呼び出しが掛かりますので、その晩、私が大司教様に呼ばれたこともその忠告なのだと思っておりました。


 部屋に入ると、お役人の方も書記役の方もいらっしゃいませんでした。私はその時すぐに引き返すべきでしたが、まだ分別もよくつかない頃のこと。それがおかしなことだと気付けなかったのです。




 ▽ ▲ ▽




「私は乙女ではありません」


 頭の中で、物語を読むように流れていたシスターの話がぶつりと途切れた。彼女の突然の告白が、わたしの意識を現実へと引き戻す。


 彼女の話に父の、グリンドゥールの名が出てきたことに驚いたけれど、続くシスターの話はそれをも吹き飛ばすような衝撃を与えた。


「婚姻を結んだこともありません。勿論、寡婦となったことも。この意味が、おわかりですか」


「……っ、まさか」


「私が乙女を散らしたのは、十をいくらか過ぎた頃のことでした。相手は大司教様です」


 いま、彼女の毒で床に臥せっているその人が、目の前の人を――。


 吐き気がした。よりによって、神へ操を立てた聖職者が、神へ貞節を誓った修道女を――それも、当時まだ十を過ぎたばかりの娘を汚すだなんて。


 込み上げてくるものを抑えるために口元を手で覆うと、「それが良識ある正常な人の反応ね」とシスターは薄く笑った(・・・)


「狂っているのよ。もう。狭く画一化された思想の中に押し込められ、浸かりきってしまっているから。土の下の暗い部分で腐った慣例が横行しても、声を上げられない植物には誰も気付かない。枯れ始めてからやっと根腐れに気付くの」


 それは暗に、同じようなことが昔からどこかで繰り返されているのだと言っているようなものだった。


「それが男女の秘される行為であると知らぬまま、幾度も、何年も、私は彼にそのように扱われました。この歳になるまで」


「修道院の方々は、それを知っていたのですか」


「知っている者も居るでしょうし、知らない者も居るでしょう。……知らないふりをしている者も。誰が何をどれほど知っているか、正確なところなど、誰も把握しておりません。恐らく、大司教様ですらも」


「あなたは……声を上げなかったのですか。歳嵩のシスターたちに、修道院長に、あるいは大司教に伴われてきた方々に、助けて、と」


「声を上げて、どうなると? あなたもつい昼間に、ご自身の身にしみて実感しましたでしょう。彼らは私たちの助けを乞う声など聞いてはくれません。ウェールズの、支配される地の、何の力もない女ひとりの言葉になど、彼らにとっては耳を傾ける価値もないのです」


 シスター・マーガレットの言葉に唇を噛んで、わたしはそれ以上の反論を飲み込んだ。彼女の言葉を何から何まで、その通りだと理解していたからだ。


 土地を取り上げ、言葉を取り上げ、文化を取り上げたイングランドの、地位ある人間。このうえ尊厳を取り上げて人ひとりの人生を潰すことなど、花芽を摘むより容易いことだろう。カッと頭が熱くなった。焼けるようなそれは確かに、わたしの中で鳴りを潜めていた、イングランド人に対する憤りだった。


 それでいいのか、と。あなたはそうして堪え続けながら生きていくのか、と。


 心のままにそう口にしようとしたわたしの怒りは、けれど、やはり彼女の話を前に出口を見失った。


「それに、抗うことも拒むことも今更のように思っていたのです。その行為の異常性を正しく理解したとき、私は妙齢になっておりましたから。それが私の、当たり前の生活でしたので」


 諦めていられたのです。自分のことですから。


 彼女は静かに、けれど今までにない激情を瞳の奥に宿して、そう続けた。わたしの知らない怒りの炎を、彼女は己の身の内に飼っていた。


「昨日の昼間、視察の出迎えの準備をしていたときのことです。修道院長に、今回よりルシルを出迎えに出すよう指示されました。本当はそろそろ見習いから正式にシスターとするため、以前より出迎えに出すよう打診されていたのですが、私が出し渋っておりましたので、とうとう強硬手段として出迎えの直前に言い付けることにしたようです。結局指示のとおり、ルシルは共に大司教様をお出迎えしました。

 嫌な予感がしました。そしてそのような時は、往々にして予感の通りになるのです」


「それは、つまり、ルシルが呼ばれたということですか。……あなたのように」


「ええ。晩餐の後に、大司教様の部屋に行くように、と」


 身体が震えた。口の中がからからに干上がっている。人間とはこうも浅ましくなれるものかと思った。いいえ、わたしの知る嫌悪感などまだ生温いと思えることが、世の中には幾らでもあるのだろうけれど。


 彼女の話が進むたび、胃の中のぐるぐるとした不快感が渦を巻いて大きくなった。


「あなたの見立て通りよ、薬師殿。毒はハーブパリスの実ではなく、大聖堂と修道院を行き来する道中で摘んだイヌニンジン。苞葉をパセリとして使えば匂いで気付かれてしまうから、刻んだコリアンダーにイヌニンジンの葉を混ぜたの。死なない程度に、けれど動けなくなってほしかった。彼が視察を終える日までね」


 夕方に修道女から聞いた、昨夜の夕食のメニューを思い出す。ミルク粥と根菜のスープ。魚の蒸したもの。茹でた玉子。大司教にはこれに、羊の肉を焼いたものが出されたらしい。平民からすれば、それだけあれば過分に豪勢なご馳走だ。恐らくは、修道院でもそれほどの食事は滅多に出ないだろう。


 文字通りの、大司教のために出された晩餐。その中にほんの少し、風味の薄い毒草が紛れていても、大司教は気付かなかったことだろう。


「シスターは……どうしてそこまでされたのですか。甘んじて受け入れてきたものを、他人のためにすべて投げ出すほどのことを」


 それは先程も気になったことだった。彼女がルシルに、修道院を出るように勧めたと言ったときだ。


 元より監獄ではないので、混乱に乗じてひとりふたりが消えたところで修道院側は探さないだろう。けれど安易に出奔を推奨するものでもない。シスター・マーガレットがルシルに肩入れしているのは、目に見えて明らかだった。


「彼女を育てたのは私のようなものですから。守ろうとするのは当然でしょう」


「まさか、彼女はシスターのこどもですか」


「ここまでの話で勘違いされるのも無理はないかと思いますが、私が子を成したことはありません。歳も些か噛み合いませんし。あの子は……産まれて間もなく修道院へ引き取られたのです」


 抑揚なく語る声に、ルシルのことを話すときだけ熱が灯っていた。


 シスター・マーガレットが語るふたりの出会いは、先のグリンドゥールの反乱が収束に向かいつつある頃だったそうだ。


「あれは十余年前。彼女の父親は先の反乱に関わり、恩赦を与えられなかったアングルシー島の血族でした。処刑が決まった直後、ルシルの父親は最後の願いで故郷に戻ったけれど、イングランド国王からの断罪は免れない。それで、最期の告解を聞く役目を、当時シスターになって間もない私が引き受けたのです」


「告解を聞くのは聖職者の役割だと、昔、母に教わったのですが」


「見せしめ……なのでしょう。王威に逆らい、世を乱した者たちには、聖職者からの秘跡を与えられることもないという。私たちは神の道に入った者たちですが、聖職者ではございませんので。徳を積むことが許された、ただの信徒でしかありません。私が選ばれたのはきっと、遠縁ではありましたが、同じ血族だったからでしょう」


 つまり、その告解は正式なものではなく、神にも許されない自己満足だということだ。わたしはキリスト教徒ではないけれど、神を信じ、己の故郷を故郷足りえる地として守ろうとしたルシルの父はどれほど絶望したことだろう。


「正式な記録では、彼に子は居ませんでした。けれど捕らえられる直前、彼の妻が子を宿したことを知ったそうです。イングランド側に知られれば、子もろとも妻も処刑されるでしょう。恩赦の与えられなかった者の、次代の血を繋ごうとする行為ですから」


 どこかで聞いた話だ、と他人事のような感想が浮かんだ。父もどこかで、わたしの存在を知る機会はあったのだろうか。そんな、答えの出ない感慨に耽る。


 反乱に関わった者たちには、多かれ少なかれ、そのような血の巡る因縁が付き纏うものなのだろう。


「だからせめて、妻と子を助けてほしいと告白されました。それで、奥方に寡婦と偽って修道院へ入るように書簡を認めたのですが……彼女は子を産んで間もなく、産褥熱で亡くなってしまわれたのです」


 子を無事に産めるほど、母親の体力がなかったのだろうなと、察するには余りあった。この北の大地は、ただでさえ肥沃とは言い難い土地だ。草木は絶えないけれど、元々の気候が肌寒い上に、雨も多く、多すぎるが故に作物も育ちにくい。


 今よりもう少し前、わたしが生まれた頃や、幼い時間を過ごした頃は、どこもかしこもそれが当たり前だった。食べるものは今よりもっと乏しく、ドクムギ(※麦角菌の寄生した麦)を食べて亡くなる人も少なくなかった時代だ。薪の一本でさえイングランド人が優先的に消費する時勢だったから、たとえ恩赦を与えられたところで、人ひとりが生きていくこともままならなかっただろう。


「生まれてすぐに親を亡くした子を、そのままにはしておけません。赤子に修道院へ入るための持参金はありませんでしたが、私の持参金を分けてでも、なんとか修道院へ残された赤ん坊を入れてくださるよう院長様へ頼んだのです。そうして引き取った子が……」


「ルシル、ですね」


「はい」


 世話にはもちろん大人の手も入ったけれど、おくるみを洗い、山羊の乳を飲ませ、本や歌を読み聞かせてあやしたその殆どがシスター・マーガレットだったそうだ。


 血にまつわることは話せない代わりに、シスター・マーガレットはルシルにウェールズ語(カムライグ)をよく教えた、と言った。ルシルの両親が使っていた言葉だったから、と。顔も知らない両親と残されたその娘を、唯一結び付けられるものはそれだけだったから、と。


 自分だってまだこどもの域を出ない年頃だったろうに、彼女は彼女なりに甲斐甲斐しく世話をしたのだろう。


 今のルシルを見ていればわかる。どこかおどおどとした人見知りなところはあれど、嘘のつけない素直な娘だ。善悪の分別を教えられ、愛情を以て育てられたに違いない。


 だから彼女は、大司教を助けてくれと言ったのだろう。自分の敬愛する人が、人殺しにならないよう。罪に手を染め、人々から断罪されないように。


「あの子は、」


 途切れたと思ったシスターの声が続いた。じっと見つめていた視線が、ふと閉ざされる。


「私の、クッチなのです」


 下ろされた瞼の裏には、きっと、わたしにも、他の誰にも見ることを許されない光があったに違いない。


「あの子を抱き上げたその時から。あの子が、まだ目も開かない暗闇の中で、私の指を強く握りしめた時から。あの子が“私”を必要としてくれた瞬間から……私があの子を守るのだ、と、そう決めたのです」


 自我を蹂躙された女が、初めて守りたいと思うものを見つけた。それはすべてを諦めてきた彼女の、諦められない唯一だったのだろう。


 だからシスター・マーガレットは、薬ではなく毒を手に取った。何にも替え難い、守るべきものを守るために、魔女となる道を選んだのだ。


「……ルシルも、同じことを言っていました。『マーガレット様はわたしのクッチだから、救って差し上げてほしい』と」


 ここに来る直前に預かった言葉を伝えると、そこでやっと、シスター・マーガレットは目元を綻ばせて優しく、柔らかく笑った。


「馬鹿な子ね。私を救えるのは、あの子だけだと言うのに」


 馬鹿な子、と揶揄するその表情も声音も、愛おしさに溢れている。かつてわたしが母から与えられたものを、彼女はルシルに注いでいるのだ。そう感じられた。


「あなたもきっと、私に対してそのようにお思いでしょう。馬鹿なことをしたものだと。けれど、私はこれをルシルのためなどと、免罪符にするつもりはありません。後悔もいたしません」


 たとえ罪が明るみに出ようとも、他の誰に詰られようとも、背負った罪は自分がすべて飲み込む覚悟だと、シスターは言う。そこには一部の揺らぎもない。


 わたしは、はい、ともいいえ、とも言えなかった。


 手段そのものを問う、人間としての倫理を、決して否定することはできない。けれどそのような手段を用いなければ大切なものを守れなかったこともまた、多少は理解しているのだ。


 世界は人が思う以上に、理不尽なことで溢れているものだから。


 正しさも罪の意識も、人によって定義は変わるものだ。それこそ、人の数ほどに。流れ者であるわたしが、彼女の決意をとやかく言えるわけがなかった。


 口を閉ざしたわたしに、彼女も察するものがあったのだろう。


「意に初まぬものを、権力に捻じ伏せられてしまえば、受け入れざるをえないことがある。それが平民ならば常で、女ならば尚のこと」


「……ええ」


「あなたはきっと、幸運ね。彼のように、あなたを心配してくれる人と共に旅することができるのだから」


 人の幸運を、他人の目から測ることなどできない。幸せの定義は個々に違うものであって、そこにはそれぞれの価値観が投影されるものだから。


 けれど彼女の言うように、わたしは確かに幸運なのだろう。


 旅に出た。ひとりではなく、女連れでもなく、確かにわたしよりも立場の強いイングランド人の男と。


 彼はわたしに憎んでくれていいと言う。自身にまったく瑕疵のない、生まれと育ちの隔たり故の憎しみを、捨てないままに共に行こうとこの手を乞うた。


 わたしの行きたい場所を聞き、わたしの意見を汲んでくれる。それがこの時世、どれほど稀有なことかなど、山野に引きこもっていたわたしにだってわかる。


はい(オィス)


 だからわたしは一言、そう答えた。彼に対しては複雑な感情を持っているけれど、とか、旅の切っ掛けはイングランド兵に追い立てられたせいだけれど、とか、そのようなことは今の答えに必要ない。


 下を見れば切りがないし、上を見ても際限がないのだから、わたしたちは今あるものに最善と最良を見出す他はないのだ。


「あなたが私の毒を看破したということは、もう解毒薬は修道院に渡っているのでしょう。元より視察は三日間ですし、明日には島との行き来もできるでしょうから、早く、このような村からは去っておしまいなさい」


 このような虚飾だらけの、欲に汚された聖性など忘れておしまいなさい。シスター・マーガレットはそう告げた。


 月が陰ったのか、窓から差し込む光が弱まる。ほとんど見えなくなった彼女の顔が、どのような表情を映しているのかわからなくなった。


「あなたは……何故、逃げ出さないの。ルシルにそうするよう勧めたように、その気になれば彼女を連れて逃げることもできたでしょうに」


 助けを求めることはできない。それは彼女の淡々と語ったここまでの経緯でわかった。けれどこうなる前に、この檻のような場所から出て行くこともできたのではないか。


 十年以上も前の、何もできなかったこどもの頃とは違うのだから。恐らくシスターにはわたし以上の薬の知識もあるし、ルシルは転んだだけで生死を心配しなければならない赤ん坊ではなくなった。


 今ならば、と思って口にした問いは、しかし、やはり短絡的なものだったようだ。


「あの子の他には何も持たない私が生きられる場所は、ここだけですから」


 シスターが何ということもないように告げた答えで、わたしは浅はかな自分が昨夜考えたことを思い出した。


 ――また雁字搦めに縛られることを本人が望むのなら、それは確かに本人の意思だわ。


 月が雲間から顔を出す。


 もうすっかり瞳の奥に感情を隠してしまったシスターへ、わたしはそれ以上、何も言うことができなかった。




 ▽ ▲ ▽




 風が揺れていた。


 纏わりつくような海風は、昨日ここへ来たときは新鮮な感触だと思ったのに、今は絡みつく情念のように思えて煩わしい。


 やるせない。その一言に尽きる。


 別れ際、彼女に問いかけて得た返事が頭の中をぐるぐると回っていた。


『逃げなければ、いずれまた大司教は視察に訪れるのではないですか』


『そうすれば、また毒を含ませるだけです。今回のことで修道院側はあなたの薬から調合を分析するでしょうし、イヌニンジンはもう使えませんね』


 彼女は、道を定めてしまったようだった。それが正しい道なのか、誤った道なのか、果たしてわたしにはわからない。正当性も不当性も、主観で揺れてしまう以上は測りようがないのだ。


 けれど、間違いなく言えることは、わたしが彼女の道のひとつを妨げてしまったということだった。


 人命を助けるために作ったはずの解毒薬は、他の誰かの安穏を脅かす投石となる。そのようなこと、薬を作ったときには思いもしなかった。


 やはり、安易に首を突っ込むべきではなかったのだ。億劫に足を動かしながら、腕に抱いた空っぽの革袋を握りしめた。


『ありがとうございました。誰にも語れなかった私の重石を、少なくともひとり、分けて持って行って下さる方が居る。それだけでも、私にとっては幸運だったのでしょう』


 最後にシスター・マーガレットの告げた場違いな感謝が、余計にわたしの胸を抉った。


 いっそ泣けたらすっきりするだろうに、それでも泣けない胸の内を、吐き出す術を知らなかった。彼女の罪を、わたしの後悔を、わたしは一生背負わねばならないのだ。


 なのに。


「お帰り、グウェン」


 今はもう、たったひとりしか知らないわたしの名前を呼ばれれば、痛む心臓の奥から込み上げてくるものを我慢することなんてできなかった。


 足元ばかりを見ていた顔を上げる。どんなに重くとも着実に帰路を歩いていた足は、気付けば宿の部屋の前に辿り着いていた。


 開いたドアの向こうでは、テーブルで燃える燭台を背に、エディが心配を滲ませた顔で立っている。それでもわたしを不安にさせないためか、彼は困ったように微笑んでいた。


 ベッドには乱れひとつなかった。椅子はわたしが去ったときのまま、綺麗にテーブルの中に収められている。


 それで、彼はここでずっと、火を絶やさずに待っていたのだなとわかった。馬鹿ね、先に眠っていれば良かったのに、と冷静なわたしは言うけれど、冷静ではない部分が大半を占めている今のわたしには、帰る場所が用意されていたように思えてたまらなくなった。


 わたしの帰る場所なんて、もうどこにもないのに。


 ドアを閉めた瞬間、それまで気丈に立っていた足が萎えた。ワンピースの裾が汚れるのも構わずに、わたしはその場に崩れ落ちる。彼が驚いた顔をして駆け寄ってきた。


 目の前に腰を屈めて、覗き込む瞳はひどく狼狽えているようだった。躊躇いがちに手が差し伸べられる。共においでと言ってわたしの手を引いた時と同じように。


 けれどわたしはその腕をすり抜けて、ぶつけるように彼の肩へと額を預けた。頭上から息を飲む音が聞こえる。驚愕が手に取るようにわかった。


「グウェン?」


 顔を伏せたまま、一度だけ、目の前の彼の胸に自分の拳を打ち付ける。ひょろひょろでひ弱そうに見えるのに、彼の身体はびくともしなかった。


 そこでやっと、わたしはシスターに言えなかった後悔を吐き出した。


「助けるために薬を作ったの。なのに、わたしの薬は、別の人たちを苦しめるだけだった!」


「……そう」


「謝りたかったわ。謝りたかったわよ! だけどそれでは、わたしが作った薬が間違いだったって認めることになる。だから謝れなかったの。いいえ、謝らなかったのよ!」


「うん」


「彼女のしたことを肯定なんてできない。肯定するということは、薬師であるわたしを裏切ることだわ。でも、でも……彼女のすべてを懸けた決意を、否定することもできなかった!」


 彼にしてみれば、突然もどってきた連れの小娘が、突然胸を殴りつけて、突然わけのわからないことを喚きだしたのだからさぞ戸惑ったことだろう。


 それでも彼は、わたしの話に口を挟まず、相づちだけ打ちながら聞いてくれた。


 彼は、わたしを宥めることはしなかった。ただ胸を貸してくれて、時おり言葉がつかえて咳き込むたび、背中をさすってくれた。


 それでどれほどか喚いてようやくわたしが落ち着いた頃、ベッドの縁に座って、解毒薬を作ってからの出来事を順に話すことができた。


 毒がハーブパリスではなく、イヌニンジンだったこと。ルシルとの修道院での会話。それから、大聖堂でシスター・マーガレットが語ったこと。


 彼女の秘すべき過去については、安易に口にすることを躊躇われて、大司教に酷い仕打ちを受けたのだとだけ話した。


 エディはシスター・マーガレットが毒を盛ったのだと知っても、特別驚きはしなかった。そのことに、こちらの方が驚いた。


「知っていたの?」


「いいや。でも、可能性のひとつかな、と。今日の昼間に会ったとき、彼女は指先を隠そうとしていた。だから気になって見ていたんだ。ほんの少し、指先が黒く染まっていたのに気付いた」


 多分、ハーブパリスの実の汁じゃないかな。処分するときにいくつも潰してどこかに埋めたんだろう――そうでなければ、彼女は毒薬の扱いに長けた魔女だったんだろう。エディは静かにそう言った。


 彼がシスター・マーガレットと対面したときに、不思議そうな顔をしていたことを思い出す。あのとき、彼は彼女の指先の色に気づいていたのだろう。そういえば、シスターはあのときずっと手を握り込んでいたなと、言われてから思い出した。


 わたしは、彼女の指先が緑色から黒に変色していたことにも気付けなかった。


 実には種が潜む。根を、枝葉を海に沈めて処分したとしても、種さえ土に根付けば芽はまた伸びる。己の都合で、貴重な薬草があの修道院から完全に失われてしまうことを、彼女は最後の最後で惜しんだのだろう。


 良くも悪くも、彼女は人間で、修道女だった。薬草の知識に精通していなければ、惜しむことなく解毒薬を永遠に葬れたのに、彼女はそうはできなかった。


 そこに、彼女の良心が仄めいていた。


「今日は色々なことがあったから、グウェンも疲れただろう。ゆっくり眠った方がいい」


「……ええ、そうね」


 肩を撫でられて、ベッドへ入るよう促される。緩慢な動きで潜り込むと、彼は拳ひとつ分を空けて隣に横たわった。


 気が昂ぶっていたけれど、罪悪感を薄めるために眠りたいわたしは目を瞑る。背中越しに、エディが隣で身じろぐ気配が伝わった。


「きみは謝りたかったと言うけれど」


 寝物語を語り聞かせるように、柔らかな声音が耳を打つ。うん、と鼻を鳴らすような微かな声で相づちを打った。


「ありがとう、と、シスターの言ったお礼は、正しく本心だったのではないかな。幸運だと言ったのも。そうでなければ彼女は一生、イヌニンジンの毒に己の良心を侵され続けただろうから」


 誰にも言えないものを、ひとりで抱え込むことの虚しさを、苦痛を、その幾許かは、わたしもエディも知っている。だからだろうか。彼がそのように、自らの意見を差し挟んだのは。


「私もグウェンが、私の名前を知ってくれていることで救われているのだから」


 うん、とまた返事をこぼした。すべてを理解したわけではないけれど、共感の重なるところはあったから。


 本当の意味で、シスター・マーガレットの感謝を理解して、まるごと受け取れる日が来るのだろうか、と夢うつつに考える。


 相づちがさっきよりも弱々しいものだったからか、彼は拳ひとつ分の隙間を埋めて、こどもをあやす手付きでわたしの頭を撫でた。その手を払うことはしなかった。


 背中にぬるま湯のような温もりが広がる。


 涙は、やっぱり出なかった。





次話で最後です。

同日連続更新になります。

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