9.羔はクッチの安寧を希う
作るべき薬の輪郭を捉えれば、作業は早かった。毒がどれほど身体に回っているかは知れないが、一度に服用できる量を定めてそれを均等に数回分わける。そのような形にしていくらか端切れの包みを作ると、両手いっぱいの数になった。
調合を終えて後片付けに取り掛かると、それまで黙ってわたしの作業を見守っていたエディが手伝いを申し出る。いつもは断る彼の提案だが、今は時間が惜しかった。月が上ってもうどれほど経っただろう、と頭を掠めて彼の言葉に甘えた。
「あ……、ルシルが何処に行ったのか、結局知らないままだったんだわ。薬を渡す相手、どうしようかしら」
「彼女なら、修道院に戻ったのではないかな」
やっとルシルの行方に気が回るようになったところで、バケツの水に薬匙と小鉢を浸しながら彼が言った。あまりに淀みなく答えるので、こちらの方が面食らう。
「どうしてわかるの」
「ここに居ないからね」
「答えになってな……いえ、いいわ、今はそんなことを言っている場合じゃないもの」
一刻の猶予もない、とまではいかなくとも、いつ大司教の容態が急変するとも限らないのだ。
「一緒に行こうか。解毒薬はできても、まだ毒殺を企てた犯人は徘徊しているんだろう」
「いいえ、ひとりで結構……」
その方が身軽だから、と断わりを入れようとしたところで、まるで頭の中を雷に打たれたように閃光が走った。
(これだわ)
シスターたちと接する間に時おり感じていた違和感の形が、今、浮き彫りになった。
突然動きを止めたわたしを、エディが首を傾げながら見つめている。彼の言葉で気付かされるだなんてまったくもって悔しいところだけれど、そんな些末なことをぐちぐちと並べ立てている暇もない。
籠はそのまま置いて行くと伝えると、彼が小物入れにしていた革袋を貸してくれた。解毒薬の包みを落とさないようにそこに詰めて、両手で抱えて走り出す。飛び出した宿は酒場の明かりがつくだけで、大きな街でもない夜の盛り場はまったく盛っていない様子だった。
よく晴れた夜空からは今にも星がこぼれ落ちそうで、雨のように降ってくる幻想に追い立てられるように南へ下った。
点在する民家の明かりはうっすらと漏れ出ていたけれど、村の外れに向かうにつれ失われていく螢燭は間もなく途切れる。
やがてぼんやりと浮かび上がる建物の明かりに迎えられるまで、わたしはひたすら宵闇に沈んだ道を振り返らずに歩き、走った。月がおぼろげに照らす道は、修道院という皮をかぶった魔窟にでも誘っているかのよう。
冷たい門が目前に見える頃、わたしの息はすっかり上がっていた。
三度おとずれた門を無遠慮に開き、そのうち一度しか叩いたことのない扉を忙しなく叩く。窓からこぼれる明かりはまだ消えていない。今も修道女たちは、代わる代わる大司教の看病をしているのだろう。
今朝と同じようにしばらく待った後で、現れた修道女に自分が旅の薬師であることとルシルを呼んでほしい旨を告げた。修道女は来客が見習いシスターの名前を知っていることに戸惑っていたようだけれど、すぐに呼んできてくれる。
「薬師のお姉さん……? こんなじかんにどうして」
「これを」
シスターらしからぬ小走りで、玄関扉からまろび出てきたルシルに、わたしは革袋の中身を掴んで引っ張り出した。
小分けにした包みを、更に大きな端切れでくるんでひと塊にした調合薬は、小さな彼女の両手に少しあまる。
突然押し付けられたものに、彼女はくりくりとした目を瞬かせた。
「薬よ。大司教様に飲ませて。いい? 大司教様の含まされた毒は、恐らくこの村に自生しているイヌニンジンのものだわ。これはその中毒症状を抑える薬なの。この包みを、重篤ならばひとつ分、症状が軽くなってきたなら一度にふたつ分、碗一杯の薬湯に煎じて飲ませて。食事の後で一度ずつ。一日三度」
「えっ。えっと、はい」
「用量は覚えたわね? 頼んだわよ。それから他のシスターに作ってもらって、利尿作用のある薬草茶を飲ませるの。症状を抑えられても、毒を身体から抜かなければ体調は回復しないわ」
弱った身体に過ぎた薬効を投じれば、かえって身体が悪くなる可能性も考えられる。それで、薬の量を大まかに調整できる分量と配合で混ぜた。
初めは戸惑っていたルシルだったけれど、説明が一通り終わる頃には真剣な顔をして頭の中にわたしの言葉を留めているようだった。
「ありがとうございます、薬師のお姉さん。ほんとうに……」
昼間にも散々見た鋭角のお辞儀を、薬の塊を抱えながらするものだから、包んだ端切れの隙間から小分けした薬がひとつふたつころりと転がった。慌ててそれを拾うルシルに、きちんとシスターとして一人前になれるのか不安になる。わたしが心配したところで、意味はないのだけれど。
「ほんとうに、お兄さんのいったとおりでした」
「……お兄さん?」
「お姉さんと一緒にいらした、ハープのお兄さんです」
あぁ、エディのことか。納得に頷いたところで、今度は首を傾げる。
「彼が言ったとおりって、何のこと?」
「お姉さんはわたしをたよることになるって。だから修道院にもどりなさいって。……わたしにも、できることがあるって、おしえてくださいました」
「いつの間に……」
言いかけて、わたしが修道院へ話を聞きに行っている間の出来事か、と気付いた。今朝ルシルを保護してから、わたしと彼と彼女がそれぞれ別行動をしていたのはこのタイミングしかない。
(知らないところでそんなことをしていたのね。まったく)
けれど正直、先回りしていた彼の行動には助かった。わたしがどう動くかを読まれていたのは心底不本意だけれど、彼がルシルを探していなければ、わたしは今も村中を駆け回っていただろうから。
ひと仕事を終えたことに息をついて、そういえば重要なことを伝え忘れていたと思い出した。引き返そうとした足を止めて、立ち上がったルシルを苦い思いで見下ろす。
これ以上、謂れのない罪悪感に苛まれたくはないのだけれど、これだけは言っておかなければ。せっかく調合した薬が無駄になるのだけは許せない。
「ルシル」
「はい?」
「くれぐれも、心に留めてちょうだい。その薬は、絶対にシスター・マーガレットへ預けては駄目よ」
「……っ、え」
「あなた、やっぱり何か心当たりがあるのね」
鎌をかけたつもりではなかった。ただ、確信に近い懸念があったから彼女の名前を口にしたのだ。それにも拘らず、ルシルはびくりと身体を震わせた。この暗がりにもわかるほどの大きな挙動で。
宿の部屋に所在なさげに座っていたときと同じだ。彼女は何かに怯えている。それは一見、己の身を守る防衛反応のようにも見えたけれど、たった今まで、彼女は困惑しながらもしっかりと自分の言葉を伝えていた。自分に後ろめたいことがある者の反応ではないな、と感じる。
ならば彼女が怯えているのは、自分ではない誰かの秘密が漏れることだ。ここまでわかれば、答えはもう出てしまっていた。
「シスター・マーガレットは、今、こちらにいらっしゃるの」
静かに問うと、ルシルは躊躇いに口を噤んだ。仕方のないことだ。
「糾弾しようと言うのではないわ。確かめたいことがあるだけよ」
「…………」
「どうせわたしたちは旅の者。数日内に秘密ごとこの村から居なくなる」
大きく息を詰めて、吐く。微風が枝葉を揺らす音と虫の羽音に混じって、彼女の葛藤が流れていった。
「さきほどから探していたんです。でも、院内にはみあたらなくて。薬草園にも。だからたぶん、大聖堂だとおもうんです。シスターを……マーガレットさまを救ってさしあげてください」
か細い声が、耳を撫ぜた。続く言葉に、わたしの息までも奪われる。
「あのかたは、わたしのクッチなのです」
揺らがない視線で、奥歯を噛みしめるように紡がれた言葉は、本来ならば暖かな温度を感じさせるはずなのに、暗がりでとても悲痛に響いた。
クッチ――食器棚だとか、抱きしめるという意味のウェールズ語だけれど、そこに含まれるものはそれ以上に多くの意味を持っている。
人と寄り添うこと、愛すること、守ること。
親、子、友、恋人、夫婦。
家、家族、隠れ家――拠り所。
自分を安心させてくれる場所。
揺りかごのような、わたしたちが忘れてしまった母親の胎内のような、何者にも侵されない支柱のようなもの。それがわたしたちの言う“クッチ”だ。
母を亡くしたときに、わたしが失ったもの。それを彼女は、わたしに救ってくれと言う。本当に、次々と無茶振りをしてくれる少女だ。
ふ、と短いため息が自分の口から漏れた。
「そういうことは、他人に任せるべきことではないでしょう」
今度こそきびすを返して、わたしは村へ続く一本道を辿った。扉を開く音が聞こえなかったので、ルシルはわたしが見えなくなるまで見送っていたようだった。
▽ ▲ △
思えばルシルは、最初から何かを知っていながら、それを話そうとはしなかった。彼女の求めるものは大司教の容態の回復だったけれど、他の修道女たちのようにそばについてお世話を、というふうでもなかった。
改めて考えると、彼女は「毒がハーブパリスではない」ことに気付いていたのではないだろうか。あるいは、それが大司教の回復に必要なものだと知っていたのでは。
だから今朝、彼女は渡し舟の係留所に居たのだろうか。アングルシー島にあるという、シャンヴァース修道院を頼るために。そこにあるだろうハーブパリスを手に入れるために。
だから昼間、彼女はわたしに大司教を助けてくれと懇願したのだろうか。わたしがハーブパリスを持っていると知って。
修道女たちが心配しているのではないかと話したとき、彼女が嬉しそうにしたのは、誰を思い浮かべてのことだった?
嬉しいような、心苦しいような、慕わしい顔。何故という困惑と気に掛けてもらえる喜び。そんなものが、あの一瞬のルシルの内にあったなら。
シスター・マーガレットを自分のクッチだと言った、切羽詰まった表情が気になった。
(ルシルは……いいえ、シスター・マーガレットは、何を抱えているの)
村の大きな通りを北へ、早くも遅くもない足取りで歩く。一度、宿の近くを通ったときに進むべき方向へ迷って足を止めた。
思い出すのは、シスター・マーガレットの憂いを帯びた顔と言葉の数々だ。
薬草園で大司教を迎えるよう声を掛けられたときの躊躇いの顔。
疑問に思わなければ楽に過ごせることは世の中に沢山ある。そう言った彼女の心はどこにあるのだろう。――シスター・マーガレットは、何に疑問を抱いて、何に懊悩しているのか。
考えすぎてわからなくなる。靴の裏で、踏みつけられた砂粒がじゃりじゃりと音を立てた。まるでわたしの心のよう。
ザラつく意識に、ふと、「きみの軽やかさを誇って」と笑った男の声が思い出された。
肌寒さの去った夜道をまた歩き出す。大聖堂までの道がひどく長く感じられた。
門も柵もない灰に蜂蜜を混ぜたような石壁は、夜になると黒く煤けて見える。バラ窓の並ぶ外観を見上げて、目の前の大きなそれらが急に色褪せて見えた。
扉を押し開けると、窓から差し込む月明かりの落ちる身廊に修道服を纏った人影がひとつ、あった。
「ハーブパリスの名は、真実の愛を示すものとも言われています。実の中の種子を横に切り取った断面が心の臓……心の形をしているからとも、異国の多神教の英雄パリスが神の助言を得て美しい妻を攫った話から来ているとも言われておりますが、皮肉ですね。
愛を意味する名の草が結んだ実は、ときに命を脅かすほどの毒となるのですから」
こちらに背を向ける人影は振り返らなかったけれど、夜半の訪問者がわたしであることは察しているようだった。わたしもまた、彼女がシスター・マーガレットであることを背格好と声から確信する。
大聖堂に滑り込んで後ろ手に扉を閉めた。これからする話は、誰にも聞かせてはならない話だ。
「でも、あなたはそれを用いて大司教様を害したわけではありませんよね。シスター・マーガレット。ハーブパリスをひとつ残らず処分したのは、大司教様の容態を快復させないためですか?」
「それも、気付いていらっしゃるのね。旅の薬師殿。本当に敏い方」
シスターが振り返った。昨日、初めてここで会ったときのような感情を沈めた顔は、月の明かりを受けて青白く闇に浮かび上がる。纏う服が黒いことも相まって、死者が闇から手招きをしているように見えた。
「どうしてここに来たのがわたしだと気付かれたのですか」
「足音ですわ。あなたは布の靴を履いていらっしゃるから。旅人には不向きなのではないでしょうか?」
「のっぴきならない事情で旅に出ましたもので」
底にだけ革を敷いているけれど、布製の靴は汚れやすく、破れやすい。小さな頃は母に革のブーツを買い与えられていたけれど、母が亡くなった成長期の頃のわたしは、窮屈な革の靴を新調するよりも食べることで精一杯だった。靴は庶民にとって、とても高価なものだから。
だから、小さくなった革靴をナイフで解いて底敷きにし、布を何重にも縫い合わせて作った靴を履くようになったのだ。当然、布に覆われた靴の立てる足音は他とは変わったものになる。そう多くの時間を接したわけでもないのに、彼女はそのようなことにまで気付ける目と耳を持っているようだ。
「私からも、おひとつ。何故私が、ハーブパリスではなく、別の毒を以て大司教様を害したのだとお気付きに?」
逆に問われて、いくつかある答えのひとつを口にする。
「ついさっきまで、わたしはあなたを疑っていませんでした。ただ、他のシスターから大司教様の容態の変化を聞いて、ハーブパリスではないのかもと思ったんです。この村にはイヌニンジンがたくさん生えているようですし。指先が緑に染まった、あなたほど薬草に慣れ親しんだ方が、毒の違いに気付かないわけがありません」
「私は、毒に対して怪しまれるような発言をしたでしょうか」
「……昼間、わたしたちを助けてくださったあなたは言いました。『犯人はハーブパリスを用いて大司教様を害したのだ』と」
「間違っていないでしょう?」
「はい。間違っていないから、おかしかったんです。シスターたちも、わたしの連れも、みんな“犯人は大司教様を毒殺しようとした”と信じ込んでいたようでした。けれどあなたは、殺意ではなく害意だけを口にした」
それはつまり、毒の正体を――死に至る可能性の高いハーブパリスではなく、こどもほど免疫力が低くなければ死に至るほどではない、ただひどい不調に陥るだけのイヌニンジンだと――知っていたのではないかと思ったのだ。
彼女はわたしの答えに驚きこそしなかったものの、僅かに目を細めた。
「それからもうひとつ。いくら修道院の中が慌ただしくとも、仮にも“毒殺未遂犯”が見つかっていない状況で、勝手に出歩く見習いシスターを放置しておくものかしら、と思ったのです」
エディは今日一日、わたしの身を案じてついて回ろうとしていた。離れるときにもいちいち気を付けるよう念を押していたくらいだ。自分もお偉方の目に止まれば困る厄介な事情を抱えているだろうに、こちらの心配ばかりする。
他人がこれほどに外を出歩くことを案じていると言うのに、共同生活をする身内にも近い修道女が、まだ未熟な見習いの身を案じないわけがない。それでも放置しているのは、つまり、ルシルならば安全だとわかっていたからではないだろうか。
「それにあなたはこのような……大司教様が毒に倒れて、他のシスターたちが慌てるような事態にあっても顔色ひとつ変えていらっしゃらない」
それらの理由を並べ立てると、シスター・マーガレットはそっと目を閉じ、細く長い息を吐いた。まるで何かを決意しているかのような、静かな吐息だった。
やがて心を定めた茨の瞳が、わたしを鋭く射抜いた。
「あなたは良い手だけでなく、良い観察眼と直感をお持ちなのね。だけど確たる証拠がなければ、司教様がたに突き出すことはできないわ。仮にも私は修道女で、あなたは寄る辺のない旅人なのですもの」
それは、わたしの半信半疑だった解を裏付ける告白だった。何故、というやりきれない気持ちが湧き上がる。
敬虔で模範的とまで言われた彼女が、何故このような凶行に走ったのか。確実に死に至る毒を選ばなかった理由は何だったのか。疑問は尽きなかった。
何も聞けないままにこの村を去れば、わたしはここに後悔を残して行くことになるだろう。彼女と言葉を交わすのは嫌いではなかったから、尚更に。
「良いんです。犯人探しがしたいわけではないので。ただ、もしもあなたとルシルが関係しているのだとすれば、あなたたちの真意が知りたかった。あなたを探してここに来たのも、それが理由です。……それだけ」
犯人探しがしたいわけではなかったのは本心だ。ルシルに助けを求められたから、良心の呵責に苛まれたから、何より毒に倒れた人を放っておくのは、拙い薬師の矜持が許せなかったから。だから薬を作ったにすぎない。
わたしを犯人にでっちあげようとした司教たちに協力してやる義理もないので、彼女と交わされる会話はすべて自分の中に収めておくつもりでここに来た。
シスター・マーガレットは言った。
「……あの子は何も、関係ないわ。ただ、あの子も察しの良い子なので気付いてしまったのでしょう。わたしの手にしていたイヌニンジンがどのように使われるものなのか。大司教様が毒にお倒れになったとき、どのように使われたものなのか。『あなたはここを出た方がいいわ』と言っただけなのにね」
そう淡々と紡ぐ言葉の端々が崩れていて、そこにルシルを慮るシスターの心が滲んでいるような気がした。やはり彼女も、ルシルを気がけているのだ。けれど、「出た方がいい」とは、どういうことだろう。
疑問が顔に出ていたのか、彼女は笑った。無感動な、貼り付けたような色のない笑みで。
「あなたが心に収めてくださるなら、一連の行動に繋がる事の起こりを語って差し上げましょう。ちょうど私も、自分ひとりの胸に収めておくには持て余していたものですので」
「それほど重いものなのですか」
「人ひとり分の人生と、人ひとり分の苦悩は、それだけの重みを持つものですよ」
人生。人の命。ひとり分の命の重みを、わたしはこれから語り聞くらしい。椅子を勧められたけれど、整然と並ぶそこに腰掛ける気にはならなかった。私には想像もできない彼女のここまでの人生を聞き終えたとき、もう一度立ち上がることができるか、わからなかったから。
大司教に毒を盛るほどの人生だ。どう転んでも幸せな話は聞けそうにないだろう。
彼女は流れるように語りだす。まるで抑揚のない詩の朗読と同じように、なんの感慨も持たないそぶりで。
「私の生家は、オワイン・グリンドゥールの反乱に助力した、アングルシー島の一族の末席でした」




