8.愚か者のパセリ
迷いを振り切った目をして出ていった、グウェンの背中を見送る。律儀に籠を持って行ってくれて助かった。あれを抱えて村じゅうを歩き回るのは骨が折れそうだったから。
「さて、それじゃあ私も行こうか」
ひとり旅をする内にすっかり染み付いてしまった独り言が口を突いた。手入れの終わったハープを鞄に仕舞って肩に掛ける。夕日が地平を焼く時間帯は暑くて、外套は腕に掛けた。
夜中に遠くざわめきが聞こえて目を覚ましたときには、まさかこんなことになるとは思わなかった。騒がしいのは村の外のようだからと、黙殺したことを今更後悔しても仕方がない。
宿を出ると、まず大聖堂へ向かう。夜中の騒動で今日はろくに人の手の入っていない大聖堂だけれど、講壇脇に飾られているユリの花だけは新しく摘まれたものに変わっていた。マドンナ・リリー。聖母マリアを象徴する花だ。
今日も絶やされないそれに安堵して、短く祈りの句を唱えた。それからすぐに大聖堂を見回して、探し人が居ないことを確認する。側廊から翼廊の奥も覗いたけれど、奥にも人の気配はしなかった。
暗く陰った通路が昼間の苦い記憶を揺り起こして、大聖堂から足早に去る。次に向かったのは、渡し舟の係留所だった。
修道院に帰っていたら、私では踏み入ることができないのでどうしようかと思ったけれど、探し人は今朝見かけたところよりもうんと離れた木立の陰で、未だ繋がれたままの舟を見つめていた。
「舟はまだ動かしてもらえないのじゃないかな、シスター・ルシル」
近付いて声を掛けると、ルシルは飛び上がって驚いた。口から変な叫びが漏れ出そうになったのを、両手で押さえてこちらに振り返る。私の姿を確認した彼女は、見知った顔であったことに僅かばかり安心した様子で息を吐いた。
「あっ、ええと、旅のかた。わたしのことは、ルシルで大丈夫です。まだ見習いなので」
「では、ルシル。またアングルシー島へ渡る機会を見計らっているのかい?」
「いえ……そんなつもりは」
首を振りながら否定する彼女は、けれど、まだ未練がましく船頭と彼らの舟に目をやっている。
私は彼女のすぐそばに膝をついて、同じように船頭たちへと目を向けた。普通ならば、日が暮れる頃には彼らも家へと帰るのだろうが、今は見張りも兼ねているのか篝火の準備を始めている。夜通し寝ずの番を司教様たちに申し付けられているんだろう。
これでは隙がないと、彼女も幼いながらにわかっているだろうに。
「グウェンは……きみが助けを懇願した彼女は、自分にできることを見つけて動き出したよ」
またぴくりと小さな身体が揺れる。ぎくしゃくと私を見上げる頼りない顔は、自分が巻き込んだのだと後ろめたさを感じているようだった。
私はそれを、肯定も否定もしなかった。主な原因は彼女ではない。けれど、グウェンが他人事だと振り切れなかったのは、間違いなく、彼女のせいでもあったから。
折々にウェールズ語がこぼれ出る見習いシスター。グウェンはウェールズ人であることに殊更つよい思い入れを持っているから、臆さずウェールズ語を口にする彼女の願いを聞かなかったことにはできなかったのだろう。
「きみも、こんなところで時間を浪費している場合ではないのじゃないかな」
「……かんがえてました。今、わたしになにができるんだろうって。かんがえて、でも、見つからなくて、きづいたらここに」
「あれからずっと、こうしていたの?」
「はい。うごかなきゃって、思ってたんです。でも、すすむ先がわからなくて。けっきょく、なんの学もないわたしにできることなんて……」
「あるよ。きっと。ないと思うのなら、宿へ来ればいい。何かをしたいと思うのなら、修道院へお戻り。多分、グウェンはいずれきみを頼らなければならないから」
あるいは、他の名も知らないシスターの誰かを。
毒を見つけたら薬が作れる。けれどその薬を、シスターではない彼女は大司教様に届けられない。
修道女に預けられるなら相手は誰でもいいのだろうけれど、果たして修道院という閉鎖的な場所で、部外者の作ったという薬を素直に大司教様に飲ませてくれる人が居るだろうか。そう考えれば、仲介を頼む人物は重要だった。
だから私は、ルシルを探しに来たのだ。少しでも、グウェンの助けになればいいと思って。
(大聖堂での尋問のときも、グウェンを助けられなかったからね)
危険だから一緒に行こうと自ら誘っておきながら、結局、彼女を助けたのは告解室に入っていたというシスターだった。せめてこれくらいは、と誰知らない自己満足に苦笑すると、ルシルがふらりと立ち上がる。
「あのひとは……シスターと似たにおいがするんです。ウェールズ語にもいやそうなかおをしなくて、薬草のこと、いっぱいしっていて、しずかな目をしてる」
「シスター?」
「シスター・マーガレット」
思い当たる節を考えたけれど、彼女の言うことは私の中であまりしっくり来なかった。共通点はいくらかあるだろう。抑揚の少ない話し方だとか、感謝されることに消極的なところだとか、鋼を入れたように真っ直ぐな姿勢だとか。けれど、ふたりの顔を頭の中で並べてみても重なるものを感じられなかった。
単純に、共に過ごした時間の差だと言われてしまえばそれまでだけど。
「そうかな」
「似てますよ。でも、少し、ちがいますね。やっぱり。おなじ人なんて、どこにもいませんから」
「いいや」
ほろほろとこぼれ落ちる少女の呟きに、そこだけはしっかりと否定する。
「少しではないよ。全然違う」
そう断じると、ルシルは驚いたように目を丸めて、恐らく私が知る限り初めて、小さく笑った。
「そう、ですね。ごめんなさい、あなたのたいせつな人も、わたしのたいせつな人も、ひとりしかいないのに」
自分の大切な人に代わりは利かないのだと、きっとそんな意味で言ったのだろうけれど、彼女の言葉は正しく、私の中での唯一を指した。
父上も母上も乳母も吟遊詩人の師も、確かに大切なものを与えてくれたけれど、私が手放し難く手を伸ばしたのは、たったひとりだ。
「ううん、気にしないで。……で、合っているかな。謝られた、とグウェンとの会話で記憶しているのだけど、私はウェールズ語をほとんど知らないから」
「あっ、はい。合ってます」
正否を確認すると、ルシルは頷いて深く腰を折った。
「ありがとうございました」
「どういたしまして」
私はそれに、うろ覚えのウェールズ語で返す。前にグウェンが、気を抜いて私に返した言葉だ。少女は少しだけおかしそうに笑って、それから小さく首を傾げた。
「お姉さんは、お兄さんのクッチなのですか?」
「クッチ、って?」
聞き慣れない単語に、今度はこちらが首を傾げる。こういう場合は大抵、この地の言葉なのだけれど、例に漏れず彼女は慌てて口元に手を当てる。
「あっ、お兄さん、ウェールズ語はあまり知らない……のですね? ええと、ぎゅっとだきしめて守りたいな、とか、シェルター……ひなんばしょ? とか、あったかいなとか、この人といると安心するな、とか、そういう気持ちや相手のこと、です」
拙い英語で一生懸命に語られる「クッチ」という単語の意味は、散漫としていて要領をえない。けれどなんとなく伝わってくるニュアンスに、わかったようなふうに頷いた。多分、私はグウェンが言っていた「ヒラエス」ほどに、意味を理解できていないだろう。
けれど。
「彼女を避難場所にするのではなくて、彼女の帰る場所になりたいなとは、思うよ。あるいは、共に向かう道標のように」
「それがお兄さんのゆいいつなら、きっと、それもクッチです」
そう言って、ルシルは屈託なく笑った。「教えてくれてありがとう」と礼を言うと、彼女はもう一度頭を下げて、今度こそ村の方へと駆けて行った。
「これで大丈夫かな」
小さな背中が見えなくなって、やっと腰を上げる。夕日が落ちかけていた。早く宿に戻らなければ、グウェンと行き違いになってしまうだろう。
私は一度船頭たちの篝火を見つめると、明かりの灯る宿へと足を向けた。
▽ ▲ ▽
イヌニンジン、あるいはフールズパセリと呼ばれるものを、誤飲してしまった人を見たことがある。ノラニンジンもイヌニンジンも、どこにでも生えているような野草である上に、地上に出ている部分のふたつの見分けはとても難しいのが誤飲の主な理由だ。
ノラニンジンとイヌニンジンは、一見すると見分けがつかないほどにそっくりで、おまけにこのふたつの葉は香草のコリアンダーに似ているし、花の咲く前の苞葉はパセリにも似ている。
これだけでも誤飲の可能性が高いのだけれど、イヌニンジンの根は小さなカブのような形をしているので、可食野草として紛れ込むことが稀にあるのだ。
細長いノラニンジンの根と見比べれば違いは一目瞭然なのだが、これを知らない幼いこどもが葉を食べたり、茎葉を切り落とした状態の根をカブと間違えて齧って重体に陥ることが稀にあった。
全草が毒のイヌニンジンを食べると、まず嘔吐と腹痛にみまわれる。全身が痛みに襲われ、興奮からの錯乱状態に移行すると、やがて筋肉の麻痺が始まり口が利けなくなる。症状によっては初めの段階で麻痺が始まるものもいるけれど、合間に視力障害や喉の炎症を起こすこともあった。
特徴的なのは乳不耐性の症状で、乳を飲ませると胃の中で消化できずに吐き出してしまう。最悪の場合は死に至る毒なのだけれど、心臓への影響はないと母が言っていた。
ここまで様々並べ立てれば恐ろしい毒のようにも思えるけれど、その死亡例は聞く限りこどもばかりだ。見た目で判断は利かないけれど、よく利く嗅覚と根の違いの知識さえ持っていれば誤飲することはないし、ドクニンジンのような強力な毒性とは違って、大人が口にしたところで適切な対処をすれば命には関わらないものだ。
そこから伺い知れるのは、「死ねばそれまで、死ななくても問題はない」という曖昧な害意だった。
殺意と言うには足りない。けれど相手の命の生死には頓着していない。そこに何か引っかかる記憶があったけれど、わたしはそれを掴み損ねた。
いずれにせよ、処方が叶わず今も床に臥せっているということは、気付かれないよう継続して含まされているということだろう。
毒の症状が目まぐるしく変わっているわけではない。複数の症状を持つ毒が、代わる代わる症状を誘発しているだけなのだ。
シスターたちの治療が後手に回っているのは、ハーブパリスの毒性である嘔吐と麻痺にだけ重きを置いていたせいだろう。視覚の不調や錯乱などといった症状が後から出てきて、それに対処するための解毒が遅れているのだ。
ヘンルーダが薬に使われていたらしい理由も、これで説明がつく。視力を良くする効果があると言っていたから、視覚の不調を和らげるためのものだろう。
それらのあらゆる症状に対応するには、複数の薬草を調合する必要がある。そしてハーブパリスがそれらのいくつかの症状を和らげられることも、わたしはつい昨日聞いたばかりだった。
耳の奥でシスター・マーガレットの声が響く。
『目の痛みや気管支炎、リウマチなどの治療に使いますが、鎮静や鎮痛の効能もありますね。それから、抗痙攣薬や錯乱した際の精神安定薬にも』
ここに嘔吐と腹痛を抑える薬草を混ぜるといい。薬効が相殺せずに、毒を中和できるもの。
ペパーミントとスベリヒユがいいわ。腹痛と嘔吐と胃の不調を抑えて、栄養価を含むもの。スベリヒユは薬を煎じるのに合わせやすいので、小屋を出るときに持ってきた。ペパーミントは昨日いくらか分けてもらった。もう少し効果を強めるために、他にも薬草を合わせるべきか――。
「お帰り。何か収穫はあった?」
「た……だ、いま」
部屋のドアを開けた瞬間、彼の姿を捉える前にそのような言葉で出迎えられて声が詰まった。室内には燭台の炎がテーブルの上でぼんやりと揺れていて、閉じられた窓からは月明かりひとつ入ってこない。
それまで頭の中で流れるように変転していた思考が、急に現実に引き戻されたのだ。ほんの一瞬でも驚いてしまったのは仕方ないだろう。
決して、彼が留守番していたことを忘れていたわけではない。ええ、決して。
「糸口が掴めたかもしれないわ」
動揺を誤魔化して、気を落ち着ける。私が短くそう答えると、エディは満足げに頷いた。
「それならあとは、問題を紐解いて解決するだけだね」
「でも、その前に夕食にしましょう。あなた、待っているあいだ何も食べていないのではない?」
とっぷりと暮れた空の色を思い出して、酒場へ向かうためにきびすを返そうとすると、彼の声が焦ったように「待って」と引き止めた。
「グウェンもきっと何も食べていないだろうと思って、簡単に食べられそうなものを見繕っておいたんだ」
そう言って、彼は鞄の中から布に包まれた塊を取り出した。両手に乗るほどのそれは、押し麦を水で溶いたものを丸く平たく焼いて、二つ折りにした中に魚を香草で蒸したものを挟んだような食べ物だった。
「わざわざ買ってきたの?」
「酒場で作ってもらった。きっと、帰って来たらきみは忙しく動き回るのだろうと思って。少し冷めたのが難点だけど、片手でも食べられるよ」
ほら、と彼は布ごとそれを差し出した。いくらか躊躇ってから受け取ると、鞄から水筒の革袋を取り出す。彼が昨日の話を覚えているのなら、そこにはエールではなく井戸水が入っているだろう。
膝の上に今日の夕食を置いて、エディがベッドの隣を叩く。行儀が悪いと頭の隅で考えたけれど、今は椅子を引いて座る時間も惜しくて、誘われるままに腰掛けた。
「手間を……掛けたわね」
「いいや、私は時間が有り余っていたからね」
行動や思考までも読まれていたような気がして、座りの悪さを隠すように押し麦の魚挟みを頬張る。ひと口ひと口噛み切って咀嚼すると、他の言葉を探さなければいけない気がして絶えず口を付けていた。
「そんなに急いで食べると、喉に詰めてしまうよ」
彼が短い食前の祈りの後にそう続けた。そんなことないわ、という意思表示のために首を横に振ると、その振動で欠片が気管に入りかける。咄嗟に口の中のものを飲み込んだあとで、えほっ、と盛大に咳き込んだ。
彼の忠告を否定するために首を振って、彼の忠告通りになるなど本末転倒である。
「あぁ、ほら、だから言ったのに。はい、ゆっくり飲んで。落ち着いて」
細い燭台の光の中で、彼が困ったように苦笑したのが見えた。すぐに口元へ当てられた水筒から水を呷る。自覚はしていなかったのだけれど、口の中はずいぶんと干上がっていた。渇いた喉に水が染み渡る感触が心地良い。
三分の一ほどを嚥下して、やっと水筒から口を離した。袖で口を拭うと、彼も同じ水筒から水を呷る。
「あり、がとう」
まるでこの間と真逆ではないか。わたしの方が世話を焼かれるだなんて。苦く思う傍らで、まだ軽く咳き込みながら今度こそ言うべき言葉を口にすると、
「いいえ」
とあやふやな発音で返ってきた。わたしはもしゃもしゃと食んでいた夕食からうっかり口を離して、反対に味わいながら蒸し魚を咀嚼する彼に呆れ顔を向けた。
「下手くそ」
「でも、意味は合っている……だ、ろう?」
自信のなさを物語る尻すぼみな語尾に、「そうね。意味はね」と答えて最後の欠片を飲み込んだ。自由になった両手を軽くはたくと、まだ夕食を上品に(素手で食べ物をわし掴んでいても、身に付いた姿勢や手付きから漂う品性はやはり隠せないらしい)食べているエディを置いて立ち上がる。
足元に下ろしていた籠をテーブルに上げて、小さな光源を頼りに下処理済みの薬種を机上へ広げた。
さて。仕事に取り掛かりましょうか。




