7.建前、本音、理性、感情。
言いようは他にいくらでもあっただろう。けれどわたしには、それ以外の耳触りの良い言葉が思い浮かばなかった。
わたしは薬師だ。治せるかもわからないものを、「任せて」と安請け合いすることはできない。たとえそれが力不足の尻込みから出た言葉だったとしても、責任の持てない仕事をするつもりはない、という意思もまた幾つかあるうちの本心のひとつだった。本音であり、けれど建前だ。
だからこんなにも、後味悪く感じてしまうのだろう。
わたしがルシルの願いを退けた後、彼女はとうとう堰を切った涙を隠すように部屋を出て行った。わたしはバケツの水を窓の外に捨てながら、黙ってそれを見送った。
意外だったのは、エディも彼女を追いかけなかったことだ。彼なら泣いている小さな少女を探して慰めるくらいしてやりそうだと思っていたけれど、戻ってきてからずっと行っていたハープの手入れを何食わぬ顔で続けていた。本体を磨いていた布巾が汚れたせいか、今は弦を鳴らして調弦をしている。
「追いかけないの?」
「どうして?」
「あなたは泣いている小さな子を放ってはおかないと思っていたから」
ふふ、と彼が囁くように笑う。柔らかさを含んでいるのに鼻に抜ける声は、ケルズダントを唄うときとはまた違った響きを持っていた。
「それこそ、買い被りというものだよ。私はグウェンほどに優しくないから、放っておけないものの優先順位は付けているんだ」
「今は彼女が取り急ぎの優先事項ではないの」
バケツを乾かすために、壁へ斜めに立てかける。かこん、と乾いた音を立てたのを合図に、彼が顔を上げた。ハープの手入れを終えたようだ。胴体ほどもあるそれを傍らに立て掛けて、「うん」と頷いた。
「きみを放ってはおけないから」
「わたし、別に泣いていないわ」
「泣かないだろうね。きみはずっと小さな頃からひとりで生きてきたようだから。彼女が泣けるのは、泣かせてくれる人がそばに居るからだ」
彼の指摘は、あまりにも的確だった。わたし自身もおぼろげにしか自覚していなかったことを、まるでずっと見てきたかのように告げる。
「彼女を振り切るグウェンこそ、痛そうな顔をしていたよ」
言われて、ひたと自分の顔に手を当てた。鏡も水溜りもないこの場所では、自分がどんな顔をしているかなどわからない。
ただ、ルシルを突き放すときに苛まれた苦しみは、今も胸の中に澱を残していた。
(沢山の毒を、薬を、知っている気でいた。実際は、母のレシピにないもののことなんてほとんど知らない。なんて――無力なのかしら)
テーブルの下に置いた籠から、母の綴ったレシピを取り出す。端切れを木板で綴じた、世界にひとつの薬の製法書。それを元にして自分なりの調合を加えたレシピも、いくらか書き足してある。
けれど今それを読み返しても、欲しいレシピはそこに載っていなかった。
症状を変える不定の毒。ハーブパリスの黒スグリ色の実。その正確な解毒方法など、どこにも。
(そもそも、本当に毒はハーブパリスなの?)
頭を掠めるのは、ルシルの言葉。――女子修道院じゃだめなの。
どうして彼女は、わたしに大司教を助けてくれと言ったのだろう。
「ほら、また痛そうな顔。苦しそうな、かな」
ベッドを立ったエディが、レシピをなぞるわたしの隣に立つ。
頭半分は高い彼の顔を見上げると、茶色の瞳がくすんだ榛色の髪の陰で困ったように微笑んでいた。
「ねぇ、グウェン。きみが本当に望んでいることは、何?」
綺麗な造形の顔と、細く差す光に深まって輝く瞳。彼の言葉がチカチカとわたしの目を眩ませる。促されて、やっと怖ず怖ずと口を開いた。
「ルシルは確実に何かを知っているわ。知っていて口を噤んでいる」
探るような意見は問いに対する明確な答えにならなかったけれど、彼は「うん」とまた相づちを打つ。
「彼女が毒を盛った犯人だと思っている?」
「いいえ……いいえ、そうは思わないわ。彼女にそんなことはきっとできないもの」
エディが緊張を緩める。彼も同感のようで、何の確証もないのに自分の答えが裏付けされたような心強さを感じた。
「昼間からもう頭の中がぐちゃぐちゃよ。『助けるべきだ』と『大人しくしていろ』と『助けようもない』が互いに主張し合って動けなくなっているの。理想と保身と現実で膠着状態。どれも自分の本音だってわかっているからお手上げだわ」
「うん」
「さっきも言ったとおり、正確にわからない毒の解毒薬なんて、作りようがないのよ」
「薬や毒のことについてはよくわからないけれど、グウェンがそう言うのならそうなのだろうね」
「無関係なことに手を出して、さっきみたいに自分の身まで脅かされるのも怖いわ。ただの非力な下層民だもの。いつだって、より安全なところに居たい」
「嫌というほどわかるよ」
「それでも、あんなに必死に頼まれたらどうにかしないと、と薬師のわたしは気が逸ってしまう。どうしようもないのに」
「けれどそれが、グウェンがグウェンであるということなんだろう?」
彼の肯定は、不思議なほどにストンと心に落ちた。頭上から落ちてくる、宥める言葉の響きは柔らかい。
「雨に打たれて熱を出した私を放っておけなかったのと同じように、ほとんど無関係のようなこの村の大事を、見て見ぬふりして通り過ぎることができないのだね」
「あなたはそれを愚かだと笑うかしら。余計なことに手を出さなければ、危険は足元を通り過ぎて行くとわかっていながら、目を瞑れないわたしを」
「言ったろう。きみは優しい、と。優しい人は多くにおいて馬鹿を見る。けれど私は、それを愚かだとは思わないよ」
何故かと問うと、彼は言った。理性ではなく、それは心の赴くままに選ばれる判断だから、と。
感情で物事を判断することを、愚かしいと言う人も居るだろう。けれど同じように、感情で判断できることを尊いことだと言う人が、少なくともひとりはここに居る。
「きみの軽やかさを誇って。大丈夫、この世に万能薬はないけれど、毒があるなら解毒薬もあるはずだろう? 知らないのなら、知ればいいんだ」
「あなた、下手なことをしないように引き止めたいの? 首を突っ込ませたいの? どっちなの」
「偉い人たちに目をつけられたくはないなと思ってるよ。だけど、グウェンがその板挟みで苦しんでいるのはもっと嫌かな」
エディの言葉に背中を押されて、わたしは母のレシピを閉じた。こうなればもうやけっぱちだ。自分には無理だと投げるのは、修道女たちからきちんと話を聞いてみた後でも良いのではないか。そんな考えが頭をよぎって、わたしをここに縫い止めている迷いを断ち切っていく。
責任の持てない仕事をするつもりはない。だからこれは、仕事ではなくただのお節介だ。くるくると翻る自分の心に言い聞かせながら、硬い木板の表紙を閉じる。
保身は投げ捨てた。現実はこれから向き合って来よう。後に残るのは後ろ髪を引いていた、本音と言う名の理想論だけだ。
「少し、出かけてくるわ」
「うん。気をつけて行ってらっしゃい」
レシピを丁寧に籠の底へ仕舞うと、わたしは彼の返事を背中で聞きながら部屋を飛び出した。
中天を越えて傾き始めた日を見上げる。走って走って、村を縦断した。途中、何人かすれ違った人影の中に、同じように部屋を飛び出したルシルの姿はなかった。
やっと足を止めたのは、三度目に訪れた女子修道院の門前だった。わたしは少しのあいだ迷ってから、閉ざされた門を押し開ける。鉄の軋む耳障りな音が響いて、僅かに開いた隙間に慌てて滑り込んだ。
真正面から修道院の戸を叩いて、話を聞かせてもらえるような状況ではないことはわかっている。わたしがここに来たのは、薬草園の惨状を自分の目で確認するためだ。
薬草園で待てば、いずれは薬を作っているシスターやその補助をするシスターがやって来るのだろうが、大司教の治療に用いる薬草を摘むのだ。見知らぬ人間がうろついていればピリピリした空気に拍車をかけるだろう。
だから薬草園にはあまり長く留まらないようにした。五つある囲いの内のひとつ。その三分の一ほどの区画だけ、茶色い土が剥き出しになっている。昨日来たときはハーブパリスが植えられていた場所だ。
耕されたあとの畑のような光景に、本当に根こそぎ掘り起こされたのだなと歯噛みした。先人たちが苦労して根付かせた薬草を、何故すべて掘り起こしたのだろう。
他の囲いをそれぞれ見て回って、記憶の限り昨日見た景色と比較する。ペパーミントは土が剥き出しになっているからわかりやすい。あとはなんとなくだけれど、カモミールとクマツヅラ。それから何故か、ヘンルーダが少なくなっているようだった。
ペパーミントやカモミールは嘔吐を抑える効果があるし、クマツヅラは傷の治癒にも良いから、炎症を抑える効果もあった筈だ。シスター・マーガレットが言った通りの症状ならば、恐らく庭の日当たりの良いところに生えている月桂樹からもいくらか葉を摘んでいるだろう。あれは腹痛によく効くので。
ヘンルーダの用途がよくわからないけれど、ひとまず切り上げることにした。修道院を出て次に向かったのは、村の南端と修道院との境目ほどにある井戸だった。
村の中にもひとつ井戸があるけれど、基本、外へ出るのは大聖堂へ行くときだけだと言っていたから、修道女たちはこの井戸で水を汲んでいるはずだ。病人が出ているのならば、普段の洗濯や飲料水に加えて、排泄や嘔吐物処理のための水が必要だろう。
井戸へ水を汲みに来る回数も、いつもより多くなるはずだ。そう睨んだわたしの推測は、ちょうど井戸から戻ってくる修道女と行き合う形で当たった。
「あら? 貴方は、今朝の十分の一税の……」
先にわたしに気付いたのは、大きなバケツと洗い終わったらしいリネンを両脇に抱えたシスターだった。彼女の言葉で、その人が今朝、わたしから十分の一税の薬を受け取った修道女だと知る。
「こんにちは、シスター。今朝はお忙しい中ありがとうございました。……大変そうですね。修道院の門前まででも、お手伝いさせてくださいますか」
彼女の両手を塞ぐ大荷物をそれぞれに見やると、修道女は最初は断ったものの、押し問答をする暇も惜しいと判断したのかリネンを渡してきた。
「大司教様のお加減がよろしくないと、村ではもうその話で持ちきりみたいですね」
わたしがそう切り出すと、話題を予想していたように修道女は頷いた。
「司教様たちが躍起になって毒殺未遂の犯人探しをしていますからね。大司教様の一大事ですので、この辺りを治められている領主様にご報告の書簡をお出ししましたけれど、まだ着かないようですし。院内も昨日の夜から大わらわですよ」
「大司教様が毒を盛られたとあっては、仕方のないことです。シスターも疲れてお倒れにならないようお気を付けください。万にひとつ、伝染病の可能性もあるかもしれませんから」
「私たち補助の者はまだ緩やかな方です。もっと大変なのは、施薬僧のシスターたちですわ」
「施薬僧?」
「薬草の知識に長けた、薬を作るシスターたちです。一番ひどい時間に付きっきりで看病されていましたから、ろくに眠れていないようで」
昼頃に会ったシスター・マーガレットも、恐らくその一番ひどい時間に付きっきりで看病していたシスターのひとりなのだろう。あの時間に修道院の外に出ていたのだ。僅かな休憩の間、告解に来ていたに違いない。
大変な状況下のシスターの手を煩わせてしまったと、ついため息が漏れる。
「そうでしたか。なんでも、毒が定かにはわかっていないのだとか? 元々の体調不良という可能性もあったのではないでしょうか」
もっと症状の詳細を集める必要がある。そう思っての問いだった。
バケツを抱えた修道女は、すぐに首を振った。
「事前の兆候は何もなく、嘔吐と腹痛の症状が出たのは、晩餐を口にされて間もなくなのです。それから間を置かずに顔が麻痺し始めて。食材による中毒症状も疑われましたが、そうであれば、大司教様以外に倒れる人が居ないというのはおかしいでしょう」
「それで大司教様にだけ盛られた毒だと。ですが、吐瀉物にも夕食のお皿にも、毒となりそうなものは入っていなかったのですよね? 胃の中に毒物が残ってしまったのでしょうか」
「それは無いかと。吸収を抑えて毒を吐き出させるために、山羊の乳を飲ませたのです。それで、乳ごと全部吐き出されましたので……」
シスターの答えに、わたしは足をぴたりと止めた。数歩先を行ったところで、怪訝そうにシスターが振り返る。
「あの……?」
「吐き出したんですか? 乳を?」
「え? ええ」
「その、乳は固まっていなかったでしょうか。ドロリとしたミルク粥のように。それから、乳を飲ませた直後に体調は急変しませんでしたか? 腹痛がひどくなったり、嘔吐がひっきりなしになったり」
「ええと、ミルク粥も食事に出されたので正確にはわかりませんが……言われてみれば、そのような状態の乳が混じっていたような気もします。腹痛も、仰るとおり程度が酷くなられて」
「その後、症状が変化していると小耳に挟んだのですが、今は回復に向かわれていらっしゃるのでしょうか?」
「ええ……いえ、良くなり始めたかと思ったら深刻化して、予断を許さない状況ですね」
腹痛が落ち着いたかと思えば幻覚を見ているように錯乱し、興奮状態が沈静化したかと思えば今度は喉の炎症で熱を出す。熱の影響か、更には視覚障害が起こったように視野狭窄の症状が現れ始めて、状況は目まぐるしく変わるばかりだ。――と。
矢継ぎ早の質問に、シスターは勢いに圧された様子でぽつりぽつりとそのように語った。語るにつれて声に籠もっていく力とは裏腹に、彼女の顔には疲れが滲んでいる。
日に七度あるという祈りの時間も、満足に取れていないのだろう。「あぁ、主よ……」と助けを乞い縋るような独り言が最後に聞こえた。
戸惑うシスターに並んで歩き出す傍らで、わたしの頭は目まぐるしく記憶の中の母のレシピを繰っていた。
見つからない毒。麻痺と嘔吐に留まらない症状。料理に入っていてもおかしくない、誤飲する可能性のある毒草。
もしや、と頭にちらついたのは、あるありふれた植物だった。
心当たりに気付けば、それを確かめずには居られなかった。気持ち早足になる修道院への道を辿って、程なく門前までリネンを送り届ける。
「ありがとうございます。助かりました」と疲れた笑顔を向けるシスターに湿ったリネンを渡して、代わりに門を開く彼女を引き止めた。
「あの、最後に。昨夜の食事に使われた食材を教えていただけますか。できれば、香り付けの香草まで詳細に」
シスターは意味がわからないとばかりに眉をひそめたけれど、やがて昨日の夕食当番から聞いたという、覚えている限りの材料をひとつひとつ挙げ連ねた。
▽ ▲ ▽
たったひとつの発言で、推測がどんどんと確信に変わっていく。
わたしは息を乱しながら村への道を走っていた。急がなくても薬草は逃げないし、歩こうが走ろうが確かめることは変わらないのに。わかっていても一度駆け出した足は緩まなかった。
一本大きめの通りを北に向かいながら、宿の近くを通り過ぎる。手が白くなるほど握りしめた籠から、カチャカチャと陶器の擦れ合う音が絶えず響いていた。
(なんてこと……!)
最後にシスターから聞いた食材の中に混じっていた香草を思い返して、焦りに突き動かされるように辺りを見回す。
「確か、この辺だった、はずなのだけど」
喉から細切れの声を振り撒いて、民家の軒先を一軒一軒覗いて回った。
可能性を示唆したのは、シスターの告げた「乳を吐いた」という何気ない一言だ。
それこそが、凶器である毒を指し示す答えだったというのに、残念なことに、修道女たちは気付かなかった。ひとつは、吐かれた乳がそうするべく、毒を吐かせるために飲ませたものであったから。もうひとつは、あの薬草園から消えた植物が、ハーブパリスであったから。
彼女たちはすっかり、そこに無い薬草が大司教に盛られた毒だと勘違いしてしまったのだ。そして、吐き出された乳に凝固した塊が混じっていることを見過ごした。
それこそが、恐らく犯人の狙いだったのだろう。そして、事は目論見通りに動いてしまった。
本当は、そこにない薬草こそを、解毒薬として用いねばならなかったのに。
本来ならば薬草や医療に深く関わる修道女が、こんな見落としをする筈もなかっただろう。けれど勘違いに加えて、彼女たちが修道女であったことが誤診に繋がった。知識があるからこそ、単純な毒に気付けなかったのだ。
大司教に盛られたのは、毒になりうる薬草ではない。薬にもなりうる毒草なのだ。
それもきっと、ウェールズの全域、その辺りの野辺にでも生えているような。
それでいて、食事に混ぜても不思議がられない見た目をした植物。それが、今も大司教を苦しめている悪魔の正体だ。
「……! あった」
群生している“ノラニンジンだと思っていたもの”を、今度は躊躇なく引き抜く。昼間に見つけたときにはそっとしておくべきだと思ったものが、今は危険なものにしか見えなかった。
まだ開いていない蕾を包む苞葉を押し潰して、滲んだ汁に鼻を近付ける。嗅ぎ取ったのは苦味を含んだ清涼感のあるパセリの匂いではなく、ツンと刺激が鼻孔から目の奥を刺すような黴臭さだった。
根を掘り起こすと、細いニンジンではなく小ぶりなカブのような形をしている。間違いない。
イヌニンジン――フールズパセリとも呼ばれる毒草だ。




