5.嫌疑と潔白の証左
この数日間で、彼が隣に立つことに違和感がなくなったな、と思う。始終ともに居るからだろうか。これは果たして良いことなのか悪いことなのか、悩ましいところだ。
宿を出たわたしたちは、大きな通りから少し逸れた静かな通りを当てもなく歩いていた。
思えば目的もなく村の中を歩くなんて、自分ひとりの頃にもなかったかもしれない。人の居る場所に行く目的なんて、大抵は薬を売るか生活に足りないものを補うため以外になかったから。
誰かと連れ立って歩くとなれば、それこそ母が生きていたとき以来だ。――飼い猫のノスを頭数に入れてもいいのなら、彼女とは何度も山道を歩いたけれど。それもやはり、薬草を採取したり、売り買いしに行くためだった。
宿を出るとすぐに、エディが手を差し出す。はぐれないようにとでも言いたいのか、王子様がお姫様を守るために付き添うような心持ちなのか、どちらにしてもわたしには不要なものだ。村の中で迷子になるようなこどもでもなければ、大切に守られるべきご令嬢でもないのだから。
手を重ねることなく歩き出した視界の端で、ふと、滑らかだと思っていた彼の指先に胼胝ができているのが見えた。先日、山を下った時に手を繋いでいたはずだけれど、あの時は他の色々なことに気が動転していて気付かなかったようだ。
「あなた、胼胝があったのね。薄いようだけど」
「あぁ……。そういえば、ここ数日慌ただしくて手入れするのを忘れていたね。いつもはやすりで胼胝を削るんだよ。できるだけ指が滑らかになるように。そう教わったから」
「ハープを弾くのに支障が出るから?」
「支障、と言うのか……音が変わるんだ。胼胝や肉刺が大きくなると、音色がきつくなるんだよ。歌と協和しなくなってしまうから、胼胝ができたら削って、肉刺ができたらその都度潰すかな」
うわ、と声が出そうになる。考えただけで痛そうだ。心情が顔に出たのか、彼は苦笑しながら行き場を失った手を下ろした。
「次に肉刺ができたら言ってちょうだい。タンポポの汁をわけてあげるから。あと、手の荒れに効く軟膏も」
「肉刺や魚の目に効くのだったかな。ありがとう、助かるよ」
やはり物覚えは良いようだ。一度ちらりと口走っただけなのに、まだ忘れていないだなんて。仕込めば薬草の見分けもそれなりにできるようになるのではないだろうか。
タンポポ、薬草、とそのようなことばかり考えていたら、ふと、民家の傍らに群生している植物が目についた。
葉先がギザギザとして細かい羽状に裂けた、爪の先ほどの白い花が皿や傘のように平らに密集する、セリに似た植物だ。葉は渡来の香草、コリアンダーに似ているけれど、花の並び方を見る限りノラニンジンだろう。まだ花が咲いていないものはパセリにも見える。
「ここはノラニンジンが自生しているのね」
「ノラニンジン?」
「英語では……そう、ワイルドキャロットと言うのかしら。白い根を食用にするの」
「幾らか摘んでいく?」
「いいえ。薬草は修道院でわけてもらったし、これはこの村のものだもの。村の外ならともかく、無断で盗っていくわけにはいかないわよ」
遠目に観察しながら首を振って、しばらくのんびりと道なりに歩いた。海の近くで漁業が主体のようだからか、牧草地の匂いはあまりしなかった。代わりに、青々とした芝の匂いが磯の匂いに混じって香る。
連れ立ってそぞろ歩くあいだ、会話はなかった。それが、村に足止めされて憂鬱だった気分をいくらか楽にした。
時間にすればほんの食事をとるくらいの間、バンガーの村を歩き回って、わたしはようやくきびすを返した。
「そろそろ戻るわ。あなたはどうするの」
「勿論、お供するよ」
彼も名残惜しそうなそぶりは見せずに、わたしと同様、来た道を戻ろうとする。少し雲行きが不安だから、と晴れた空を後目に言った。
彼が急くように歩きだす。おかしな人、と訝る間もなかった。
「そこの貴方がた。止まりなさい」
硬く慇懃無礼な声に足止めをされたせいで。
「……わたしたちのことでしょうか」
たった今、背中を向けた方へ振り返る。南側、つまり、修道院側から仰々しくやってくる男たちに、友好的な雰囲気は欠片もなかった。
「貴方がた以外に誰が居るでしょう。昨日、この辺りでは見かけぬ旅人を見たとの情報を得て探しておりました。貴方がたのことですね?」
立派なおべべを着た頭頂剃髪の男が三人。威圧感も隠さずにわたしたちの前へ立つ。口を開いているのは細い狐目のひとりで、その後ろに控えるふたりは携帯型のインク壷と小さな画板に張った羊皮紙に何かを書き付けているようだった。
見るからに大聖堂の関係者だ。
「わたしたちに何か」
「話を伺いたいと思いまして。大聖堂までご同行願えますか」
「知らない人について行ってはならないと、亡き母の教えを忠実に守っておりますので」
「母御の教えも、司祭よりの尋問の前にはいっときお忘れ願いたい」
(尋問って言ったわね。穏便にお話して宿に返してくれる気なんて更々なさそうだわ)
怯えを唇を噛んで黙殺し、エディを視線だけで一瞥する。司祭と名乗った男たちを見据える彼の表情は硬い。
彼の言った通りだ。ようよう雲行きが怪しくなってきた。
▽ ▲ ▽
抵抗したところで無駄な足掻きだろう。早々に悟ったわたしたちは、前後を男たちに囲まれる形で大聖堂へ向かった。まるで兵士に引っ立てられる罪人だ。
そのような扱いをしたいのだろうという意図が透けて見えて、俯けた顔を密かに顰めた。
連行、もとい、案内されたのは大聖堂の翼廊から伸びる小部屋だった。大聖堂の身廊では声が反響してとても込み入った話はできないし、内陣は聖職者と祭壇の為の神聖な場所だから、ということなのだろう。
壁の一面に木製扉の告解室らしきものが嵌め込まれていて、まさか自分たちが告解させられる羽目になるとは思いもしなかった。
簡易のテーブルを挟んで聖職者らしき男たちと対峙する。隣にエディは居ない。彼は大聖堂で待ち構えていた別の聖職者たちに、反対側の翼廊へと連れて行かれてしまった。嘘をつけばわかるように、別々に尋問されるようだ。
男たちのうち、狐目の唯一喋っていた男は司教で、常に何かを記しているふたりの男たちは書記だと名乗った。いずれも大司教の視察に伴われて来た、イングランドのどこそかの聖堂付きなのだそうだ。
遠路はるばるお疲れ様です、などと言える心の余裕は、残念ながら今のわたしにはなかった。
「さて、グウェンと言いましたか。まず、貴方がたが何の目的でこの村を訪れたのかを問いましょう」
「アングルシー島へ向かう途中に立ち寄りました。旅の物資の補給と、島へ渡るにはここから渡し舟でメナイ海峡を渡るのが良いと思いまして」
「では、何故アングルシー島に?」
「連れの希望です。わたしたちは目的地のある旅をしているわけではないので、その時の気分によって行き先を決めているのです」
わたしはまだ旅を始めたばかりだけれど。言えば痛い腹を探られるだろう証言は、心の中に仕舞っておいた。「神の御前で嘘の証言はしないことだ」と忠告はされたが、分の悪い真実を隠すなとは言われていない。
「物資の補給……、それは毒草の調達も含まれているようですね?」
「いいえ。薬草の調達はしましたが」
「しかし貴方は、聞くところによるとハーブパリスを根こそぎ補給していったようだが」
「……? 何かの間違いでは。わたしが施しを頂いたのは、シスターの許しのもと、それぞれの薬草をふた房ずつです。十分の一税を収めたとき、別のシスターにお渡しした確認記述にも茎と葉の枚数を記しています。ご確認いただけましたら」
わざわざご確認してくださることは無いでしょうけど、とやはり胸の内で吐き出して、彼らの質疑内容との齟齬に疑問が生まれた。
ハーブパリスを根こそぎ。それはつまり、誰かがわたし以上にごっそりと、あの薬草園からハーブパリスを採取したということだ。昨日の昼前にはまだ沢山あったので、わたしたちがあの薬草園を去ってからのことだろう。そして彼らはその犯人を探している。
係留所の船頭たちに聞いた話から察するに、司教たち自ら動いているということは、これは大司教に毒を盛った犯人探しなのだろう。ハーブパリスの名前が上がったのなら、それが使われた毒だと目されているのか。
そして、昨日この村へやってきた旅人がハーブパリスを施しに頂いた。確かに、疑うには順当な人選だ。
修道院の外まで探しに来ている以上、給仕の準備をした人や、晩餐の食事を作った人たちは無実が証明されているのだろう。それとも、怪しいところがあったとして、敢えて疑わないようにしているのか。
修道院から毒を用いた犯罪者が出ただなんて、とても公にできることではないだろうから。
情報と自分の推測が一気に頭の中で溢れる。むっつりと口を閉ざして考え込んでいると、司教が訝りの声を上げた。
「確認記述? 貴方は字が書けるのですか」
「簡単なものなら。薬師をしていますので、薬草の種類や分量を書き留め、読み解くことはとても大切なのです」
「なるほど。よろしい。では仮に、ミス。貴方の証言に嘘偽りが無いとしましょう。施しとして受け取ったハーブパリスはどのように処理しましたか」
「全草を刻んで干し、三分の一ほどを下処理の状態で納めました。干す時間が掛かって薬にする暇がなかったので、どのような薬にもできるように。残りの三分のニはこの籠の中に。毒を含むと聞いた実は、処理の仕方を知りませんのでこうしてここに持っています」
わたしは滔々と語ると、籠の荷物から布でくるんだハーブパリスの黒々とした丸い実を見せた。昨日見た限り、ハーブパリスは一茎にひとつしか実を付けない。ここにふたつだけころんと残る実は、証言通りであればわたしが毒を用いていない証になる。
もっともそれも、彼らがわたしの嘘偽りのない証言を信じれば、の話だけれど。
「それでは、貴方は昨日の昼から今日の今まで、どのように行動しましたか」
いよいよ核心の問いを投げられ、わたしは覚えている限りの昨日の行動をなぞった。
薬草の施しを受け、女子修道院を出てから大聖堂に向かい、そこで連れの伝言を受け取って村の広場へ向かったこと。手持ちの薬を村の小間物屋で売って換金し、ふたりで宿に向かったこと。部屋をとった後は日が沈みかけるまでずっと薬の調合をしていたこと。部屋をとってすぐに外へ出た連れは、日が落ちるより前に帰ってきて、以降は彼と常に行動を共にしていたこと。
足湯で身体を温めた後はすぐに寝てしまったと言うと、五回ほど「お連れの方が寝入った後に、貴方は宿を抜け出して修道院に行きましたね」と繰り返し尋ねられた。これには心底寒気を覚えた。何が何でも犯人の証拠となりそうな証言を引き出してやろうという意図を感じる。それも断定的に問いかけられるので、まるで犯してもいない罪を見透かされている気持ちになるのだ。
頑として「いいえ」と答え続けると、面倒になったのか、やっと先を促される。わたしの心臓はその後もしばらく騒音を響かせ続けていた。
今朝の動向は、ルシルに関するくだりだけを省いて事細かに語った。書記役がペンを走らせる音が絶え間なく聞こえる。彼らも視察の記録の為にやって来たのだろうに、しがない旅人の尋問を記す羽目になるとは思わなかっただろう。
やがて語り終えてからしばらくの沈黙の合間を縫って、書記役たちのペン先が止まった。彼らは互いに記述内容を確認した後で、ふたりの内のひとりが席を立った。
「これより別室で尋問を行っている貴方の連れの方に内容確認を行いますが、まぁ、期待しないことです。身内の証言ほど当てにならないものはありませんから」
司教が、わたしの僅かばかりの希望に先んじて言った。狐目が薄ら寒い笑みを浮かべている。まるで捕食する餌を見付けたような喜びようだ。
これはなかなか、危うい状況かもしれない。前回窮地に陥ったとき、助けてくれたノスはもう居ないのだ。エディは……このような場合においては、頼みの綱にはなれないだろう。
「それでは何故、このようにまどろっこしい質疑応答を繰り返されるのですか」
抵抗手段を持たない人間の悪足掻きとして、嫌味を含めた問いを返す。けれど、あぁ、無情。司教は痛くも痒くもなさそうな顔をして、書記役に記述のペンを止めさせた。
「それは勿論、形式美というものが必要だからですよ」
「形式美?」
「何者かを犯人と訴えるならば、そこに至る経緯を一段一段書き記さねばなりません。どのような尋問を行い、どのようなプロセスで誰が犯人であるという結論に至ったかを。……そう、たとえ事実がどうであれ」
「……神の御前で、嘘の証言はしてはいけないのではありませんでしたか」
「嘘の証言は致しませんよ。私はただ、貴方が怪しい、と訴えるだけです。たまたま同じ日に村を訪れて、修道院で薬草を恵んでもらい、薬を調合できる貴方が怪しいのは嘘ではありませんのでね」
神職者が大聖堂で堂々と事実を偽装工作とは、有難すぎて笑ってしまいそうだ。
魔女裁判にかけられる無実の人間の気分とは、このようなものなのか。端から犯人に仕立て上げるつもりの審問官には、何を言っても取り合ってはもらえない。拘束されて、「お前がやったな」とありもしない罪状を押し付けられ続け、このような状況が何日、何週間、何ヶ月と続けば、それは精神が折れてしまうのも当然と言うものだった。
エディも同じように誘導尋問を行われているのだろうか。彼は変なところで頑固なので、きっと自分が折れることはないのだろうけれど。そんなことを、現実逃避に考え始めた頃だ。
「お連れの方の証言で不充分と仰るのでしたら、私が、私の名に懸けて、彼女たちの無実を誓いましょう」
淡々とした抑揚のない女性の声が聞こえて、わたしとふたりの男たちは告解室を見た。
ふたつの扉の片方、告解を告げる信者が入る小部屋から出てきたのは、つい昨日、言葉を交わしたばかりのシスター・マーガレットだった。
黒の修道服に包まれた、凪いだ黒褐色の瞳がわたしたちを順に見回す。
「ただの質疑応答であれば黙っているべきかと思いましたが、随分と物騒なお話をされていらっしゃるようでしたので、失礼ながら割り込ませていただきました」
「シスター・マーガレット。あなたは大司教様にもお目を掛けられた敬虔で模範的な修道女だと伺っておりますが、このような介入の仕方はとても模範的とは言えませんね」
不味いところを見られたと思ったのか、司教の顔に初めて焦りの色が浮かんだ。私の前で決して崩さなかった狐目の慇懃な態度が、硬い声色で動揺に彩られた。
立場としては修道女より司教の方が遥かに強いはずなのだが、彼の言う通り、彼女が大司教に目を掛けられていると言うのなら、昇格にも関わってくる具合の悪い状況だろう。
「無力な旅人を事実無根の犯罪者に仕立て上げるのが“敬虔で模範的”だと仰るのなら、そうでしょう。それでは、大司教様が回復された後にお伺いを立てられるとよろしいかと。私の証言と司教様のご報告、どちらを信じられるかは大司教様の判断に委ねると致しましょう」
ぐっ、と司教が言葉に詰まる。間を置かずに戻ってきた書記役のひとりは、部屋の空気とシスター・マーガレットの存在に戸惑いつつも、わたしの証言がエディと一致したことを報告した。
司教は狐目を忌々しそうに細めたが、やがて歯噛みすると、わたしとエディを解放するように書記たちへ指示した。
司教とシスター・マーガレットのやり取りを他人事のように見守っていたわたしは、小部屋から出され、同じように身廊へ連れてこられたエディの姿を目にした瞬間、やっと呆けていた思考能力を少しだけ取り戻した。
籠を抱えてふらふらと近付くと、小走りに駆け寄ってきた彼が勢いに任せて手を伸ばす。両手で頬を包まれて、前髪を掻き上げられ、首、肩、腕と無事を確かめるように触れられた後で、互いに安心したように息をついた。どうやら濡れ衣を着せられることは回避できたようだ。
「手荒には扱われなかったようだね。良かった」
「そう言うあなたは大丈夫だったの?」
「うん。途中、何度か怒鳴られたけれど、なんとか」
いつもの調子でふわふわとした返答を繰り返して、尋問官を苛立たせたのだろうなということは簡単に想像が付いた。
「尋問の途中で突然解放されたから、何がなんだかといったところだけれど」
「あぁ、それは……」
わたしは自分の出てきた翼廊を振り返った。彼に両肩を掴まれた状態で首だけ巡らせた先には、勇み足で大聖堂を出て行く司教とそれを追う書記役、それからしずしずと姿を現したシスター・マーガレットの姿がある。
彼女が一瞬だけこちらに目を留めて、すぐに去って行こうとするので、わたしは慌ててエディの手から抜け出した。
「彼女が便宜を図ってくれたの。危うくわたしが、大司教様に毒を盛った犯人に仕立て上げられるところだったのよ。……待ってください、シスター・マーガレット!」
うっかり大聖堂で大声を上げてしまったので、反響した声がクワン、と何重にも広がった。
呼び止められた彼女は、さすがにそのまま無視して去ることができなかったようだ。今度こそ足を止めてこちらを向くと、変わらない足取りでわたしたちの方へやって来る。
彼女は今日も、感情の欠片を沈めた瞳で静かに目礼した。




