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ヒラエスの魔女の唄  作者: 待雪天音
嘆きと祈りのクッチ
11/41

3.カウルとエールと軽やかさについての考察




 大聖堂に戻ると、そこに居るはずの人の姿は既になかった。


 ここで待っているようにと言付けたはずなのだけど、はて、彼はどこへ消えたのやら。


 身廊を見て、側廊を見て、身廊から続く内陣の奥を見据える。そのような場所まで入り込んでいるわけもなく、エディの姿は見当たらなかった。


 代わりに、翼廊の奥から小柄な少女が足早にやって来る。ルシルと呼ばれていたのだったか。


「あ、あの。ええと、おまちしておりました」


 訛りに気を付けるようなたどたどしい口振りで、少女が慌ててお辞儀をする。修道院に入ったばかりなのか、先のシスター・マーガレットとは打って変わって感情を制御する術が身についていないようだ。


「先ほどは言付けを預かっていただき、ありがとうございました。それで、その……ここに居るはずだったわたしの連れが何処に行ったのか、ご存知ですか?」


「それをお伝えするために、ここにのこっていました。えと、お連れさまから、村の広場で歌をうたいながらまっているとのことづけをあずかっています」


「まぁ……わざわざすみません。ご迷惑をお掛けしました」


 時間が掛かると見積もって、ひと稼ぎにでも行ったのだろう。そう推測をつけてルシルへ頭を下げる。伝言に次ぐ伝言で、彼女も大いに困ったに違いない。


 実際、彼と別れてから太陽の位置が目に見えて動いていた。その間、彼女はここから離れられなかったのだから。


「それでは、しつれいします。これから修道院に戻らなければいけませんので」


 ルシルは広場への道を教えてくれた後で、そう言って頭を下げた。小柄な背中が慌てて大聖堂を去っていく。彼女も大司教とやらの出迎えに行くのだろう。


 ひと気のなくなった大聖堂をもう一度目に焼き付けるように見回してから、わたしも大聖堂を後にした。


 広場へ近づくにつれて、人の行き交う数が増えていった。大きな通りからは多少逸れるものの、村の中央に近い場所にあるので、人通りは多いようだ。


 ……と言っても村と言うほど小さな土地なので、人影は視界に十人も数えられなかった。


 一人が二人になり、二人が四人になる。人の数と比例するように、砂地を踏みしめる音や海風が木々の間を抜けていく音が大きくなった。そこに混じって聞こえる弦を爪弾く音と、以前聴いたよりも高く伸びやかに通った歌声も。


 彼だ。胴体ほどの小型のハープ(テリン)と、寄り添い、混じり合いながら異なる旋律を奏でる歌声。本来はこのような場所で弾き語りされるものではないケルズダントが、場違いにも昼近い日の光の下で響いていた。


 やはり彼の歌は綺麗だ、とそこだけは素直に称賛の念を抱いて、わたしは誘われるように広場へ辿り着いた。


 歌は、神への賛歌を吟遊詩人(バルズ)の詩風に編纂したものだった。大聖堂のある村に誂え向きの歌だ。


 歌に入り込んでいるのか、彼はまだこちらに気付かない。それをいいことに観察していると、近くを通りかかった人が足を止め、やがてそのまま通り過ぎたり、離れ難い様子で聴き入ったり、安い硬貨を彼の足元の革袋に投げ入れたりしている様子が見られた。


 これで路銀を稼ぎながら旅をしているというのは本当らしい。


 技術の安売りだとは思うものの、ギルドに所属していない吟遊詩人が――直接聞いたわけではないけれど、イングランド人の彼がウェールズ(カムリ)のギルドに登録できるとは思えない――高官に召し抱えられることはまず無いので、こうして日銭を稼ぐのが限界なのだろう。


 わたしも彼も、どうして身動きの取りづらいしがらみを抱え込んだものだ。


(……駄目ね、また不健康な感情に囚われそう)


 自分の考えから気を散らすためにエディの歌へ集中する。曲は緩やかになり、もうそろそろ終演のようだった。


 ぽろん、ぱろん、と最後の弦を弾く。その後で、「ありがとうございます(ディオルフ)」とそれだけは使い慣れたウェールズ語(カムライグ)で感謝を述べた。


 残っていた数人の村人たちは、控えめに拍手をしてから硬貨や日保ちのしそうな焼き菓子を布で包んで革袋の中に入れて行った。押し麦の粉を山羊の乳と練って焼いたものだろうか。想像すると、くぅ、とお腹が収縮する。


「あぁ、グウェン。戻ってきていたのだね」


 やっとこちらに気付いたエディが、ハープを鞄に仕舞いながら寄ってきた。


「ええ。言付けを聞いて、ついさっき」


「薬草は分けてもらえた?」


「分けてもらえたけれど……ごめんなさい、もう少しこの村で足を止めることになったわ」


 今度は革袋を拾い上げて、彼が首を傾げる。握りしめた籠は、早朝よりもずっしりと重みを増していた。


 満たされた心の重みか、義務の重みか。それとも彼を共に足止めさせてしまう後ろめたさの重みだったのか。判然としないまま、重い口を開いた。


「薬草をもらう代わりに、作った薬を十分の一税として納めることになったの。これから処理をして調合しなければならないから、早くても動けるのは夕方になるかもしれない」


「十分の一税は予想していたけれど、既に持っている薬や薬草ではいけなかったの? なんだったら、今稼いだばかりの金子(きんす)からいくらか……」


 彼がたった今括ったばかりの革袋の紐を解こうとするので、わたしは慌ててそれを押し留めた。


 これはわたしが、わたしの都合で受けた施しだ。その見返りを彼に支払わせるわけにはいかない。そこはきっちりと線引きしておかなければ、この先の旅がすべて曖昧になってしまう。それは嫌だった。


「その金子はあなたが稼いだものであって、わたしのものではないわ。わたしは、わたしの持つものから納めたいの。そうするべきなの」


 強い口調で説得すると、彼はわたしの意思を汲んですぐに頷いた。またあのベッドの使用権騒動の時のように、頑なに粘られなくて良かったと胸を撫で下ろす。


 本当にこの人、この調子でひとり旅をしてきただなんて大丈夫だったのかしら。気付けば有り金を全部巻き上げられていた、なんてこともあったのではないかと勘繰りたくなる懐のザル加減だ。


「なら、せめてこれはもらって。昼食、まだ食べていないだろうから」


 そう言って、エディが革袋の中から先ほど見かけた焼き菓子を取り出した。水分が少なく、柔らかなクッキーのようにも硬いパンのようにも見える。


 彼はそれを半分にすると、広場の隅の石台に腰掛けてわたしに差し出した。躊躇いながら礼を言って受け取ると、彼は満足したように残った半分を食べ始めた。


「けれどそうなると、今夜は宿をとって調合する時間をしっかりとった方がいい。そろそろ昼も近い頃だし、夕刻に村を発つのは危険だから」


 何口かで焼き菓子を食べてしまった彼は、わたしが食べ終わるのを待って切り出した。


「それなら、少し待っていて。今ある薬から売れそうなものを、いくらか売ってお金を作ってくるから」


「私も一緒に行くよ。その後で宿を探そう。大きいとは言えない村だけど、多分、大聖堂があるから宿の一軒くらいはあるんじゃないかな」


 無ければまた野宿だろうか。修道院は旅人に寝床を提供してくれると聞くけれど、男性とのふたり連れなので、きっと女子修道院には泊めてもらえない。


 先の見えない道行きに懸念はいろいろとあるものの、ひとまずは薬を買い取ってくれそうな店を探して店舗の見える通りへ向かった。




 ▽ ▲ ▽




 結局、村中を探し回ったけれど薬屋は見つからなかった。町ほどの規模もない村落で、大聖堂や修道院が近くにあるとなれば、薬屋の需要はぐんと下がるものなのだろう。


 代わりに様々な日用品や旅に必要なものを売っている小間物屋を見つけたので、そこで薬のいくつかを買い取ってもらった。少なくなった薬は、薬草園でもらった薬草で補充しておくことにする。


 宿は薬屋を探す道すがら見つけた。入り口側が酒場になっている、奥に長い建物で、村人は主に酒場を、大聖堂への巡礼者や旅の商人が酒場奥の宿場を利用するようだ。


 食事は酒場でとれるので、酒場の開店時間と閉店時間を確かめておく。今から部屋をとって調合にゆっくり時間をかけるのがいいだろう、と意見が一致したところまでは良かったのだが、ここでひとつの問題が浮上した。


「さて、ここで一問一答を」


 彼は宿の受付に掲げられている、料金表の黒板を見つめて唐突に言った。さも、これから命題を突き付けますと言わんばかりの真剣さで。


「一番安いひとり部屋をふたつとって質素な押し麦粥(ポリッジ)だけの夕食を食べるのと、一番安いふたり部屋をひとつとって、豆とジャガイモと魚の切り身入りのスープを付けたちょっといい夕食を食べるの、どちらがいい?」


「夕飯に具材の入ったスープ(カウル)は捨て難いわね」


 ごくり、と喉が鳴る。さっき刺激されたお腹が本格的に音を立てそうだ。ちら、と料金表を見る。


 一番安いふたり部屋は、少し大きなベッドがひとつ。二番目に安いふたり部屋は狭いベッドがふたつだけど、もう少し出せばひとり部屋がふたつ利用できる値段だ。


 二番目に安いふたり部屋という選択肢は無い。


 お腹いっぱいの美味しい夕食と貞操観念という究極の二択を秤にかけて、昨日と、一昨日と、それまでの数夜を思い返しながら盛大なため息をついた。


 既にわたしは、この男の隣で何度も眠っている。また一晩となり合って眠るのも、今更のような気がした。


「あなたの良心を信じるわよ。……一番安いふたり部屋をひとつ」


 わたしの答えを聞いた宿、兼、酒場の主人が「はいよ」と慣れた手付きで背後の空室表から木札を外した。


「そんなら一番奥の部屋だ。そこの扉から真っ直ぐ突き当りを右に曲がって、その一番奥の部屋だぜ。閂はしっかり掛けて、部屋をからにするときは荷物は持って歩きな。町ほど人は多かない()っせぇ村だが、物取りが出ないとは限らねぇからな」


「どうも」


「料金は先払いだ。明日、部屋を引き払うときに札を返してくんな」


 簡単に説明して、主人は部屋札を渡しながら空いた方の手を差し出す。部屋代は折半のつもりで先ほど薬を売って作った代金を出そうとしたら、それより早くエディが支払いを済ませてしまった。


「ちょっと……」


「早く行かないと。もたもたしているとすぐに日が沈んでしまうよ」


 抗議しようとした言葉は、腕を掴む彼の手に引かれて封じられた。宿の主人がにやけた顔で「励めよ、旅人」と下世話な勘繰りをしているのが聞こえる。


 わたしは眉間に皺を寄せて、苦虫を噛み潰したような顔で宿の奥へついて行った。


 宿の主人に言われた通り、L字を上下逆さまにひっくり返したような通路の一番どん詰まりの部屋に入る。人がふたり寝られるだけのベッドとテーブル、二脚の椅子があるだけの狭い部屋は、窓が開けられて申し訳程度の換気がされていた。


 窓の外から裏庭と厩が見える。旅人が馬車や馬を繋いでおく場所なのだろうが、客の居ないらしい今はがらんとしていてうら寂しい。けれどこれならば、薬草を干しても馬に食べられる心配はないだろう。


 ちらりとエディを見上げると、彼はすぐに手を離して入ってきたばかりの扉に手を掛けた。


「私はもうしばらく、広場の方で歌ってくるよ。日が沈む前には戻ってくる」


「その前に宿代……!」


「昨日、攣った足を処置してくれた、薬代の代わりということにしておいてくれないかな」


 ぽかん、とわたしが口を開けて彼を見返している間に、彼は素早く部屋を出て行ってしまった。なんと高い薬代だろう。わたしはそこまでぼったくりの金額をふっかけたことはないのだけれど。


 何を言おうにも、彼はもう部屋を出て行ってしまった。わざわざ彼を追いかけて宿代の半分を握らせる時間など、今の自分には無い。


 わたしは嘆息とともに頭を抱えてから、やがて井戸の場所を尋ねるために宿の主人の元へ向かった。




 ▽ ▲ ▽




 薬草園で分けてもらったハーブパリスの手のひらほどもある大きな葉を、等間隔に切ってからザルに並べる。同じようにザル干しする薬草をいくつか処理して、それを直射日光の当たらない外に干した。


 補充したラベンダーは半分を蒸留し、精油にする。小屋を出るときに布で包んで籠の中に詰めたのは、乳鉢と乳棒の一セットと口の狭いフラスコがふたつ、陶製の小鉢と土瓶、あとは薬匙と採取用の小さなナイフが一本だけだったので、口の狭い水差しを逆さまにフラスコと組み合わせて即席の蒸留器にした。理論上はこれで精油を作れる筈だったが、実際に火を入れて精油が精製できるまで気が気ではなかったのはここだけの話だ。


 もう半分は花茎ごと吊るして干して、薬草茶のための茶葉にする。他にも、干したラベンダーを湯に入れて手足を温めれば筋肉を解せるので、ヨモギが尽きたらこれを靴の中に忍ばせるのもいいかもしれない。


 同じように半分にわけたクマツヅラの全草を、日干しと蒸留でそれぞれ精製した。これは鉄傷にもよく効くと言われているし、葉は体内の臓器の不調に良い。精油とあれば抜け毛にも効くのだが、間違っても精油をそのまま使ってはいけない。他の液で希釈しなければ、強すぎる効果で肌がかぶれてしまうから。


 ひとつを蒸留する間に別の薬草で貼り薬を作り、丸薬を作り、煎じ薬を作っては小さな壷や革袋に詰めた。ここ数日はエディの介抱に逃亡にとろくに薬を作る暇も無かったので、こうしてしっかりと腰を据えて調薬できることはわたしの気持ちを楽にした。


 ほんの数日。されど数日。この、彼に会ってからの数日が、あまりにも非日常的すぎたのだ。今や帰れないあの山の奥の小屋に、置き去りにした日常の欠片が少しだけ戻ってきたような気がした。


 即席蒸留器を炙っていた蝋燭の火に蜜蝋の小壷を近付けて、蝋を溶かす。匙で掬った蜜蝋と、ヨモギ、ローズマリー、クルマバソウの抽出液を稀釈油と共に混ぜて外傷用の軟膏にした。我ながらこれだけの器具でよくこれだけのものを作ったと思う。――自画自賛? そんなこと知らないわ。


 薬研もなければ蒸留器なんて持って来られるわけがない。重ねて詰めても割れないように、布と薬草をたくさん敷いたけれど、作った薬を移すための小壷はいくらか駄目になっていた。あれほど走ったのだから、調薬器具が壊れていなかったのが奇跡だろう。


 ともあれ、久しぶりにしっかりと仕事をした心地だった。


 白状しよう。良い薬草を手に入れて、未知の薬草を処理し、時間を忘れて調薬に没頭できることに、わたしは確かに浮き立っていたのだ。


 母に新しい薬の製法を教えてもらったときの、心が騒ぐ感覚を思い出した。


 そんな状態だったので、知らぬ間に窓の外で日が暮れかけていたことも、この狭い部屋に彼が戻ってきていたことにも、蝋燭の火が羽虫のような音を立てて燃え尽きるまで気付かなかった。


 今にも潰えそうな薄闇の中、慌てて火を灯し直したとき、テーブルの向こうのベッドに腰掛けてこちらを凝視しているエディと目が合ったときは、見たこともない亡霊を目にしたのかと飛び上がったほどだ。


「あなた……戻ってきていたの」


「うん。日が夕焼け色になる前に。きみは薬作りに没頭していたようだから、声を掛けない方がいいかと思って」


「まさか、ずっと見ていたの?」


 半信半疑で問えば、彼はにこりと微笑んだ。それが答えか。ジジ、と燻る蝋燭の火をフラスコの下に入れて、ぼんやりと浮かぶ彼の輪郭を結ぶ。日が消えても完全な闇ではなかったので、今は宵の口だろう。


「声を掛けてくれてよかったのに。お腹も空いたでしょう」


「きみの邪魔をしたくなくて。真剣に薬草と向き合うグウェンは一枚の絵画のようだし、何より、見る間に草花が違う形に作り変えられていく様子は魔法のようで、見ていて楽しいから」


 素人が見て楽しいものだろうか。不思議に思ったが、知識がまったく無いからこそ目に面白く映るのかもしれない。わたしが今日、彼がハープを奏でる様に見入ってしまったように。


「この精油の抽出をしてる間に干していた薬草を見てくるから、それが終わったら夕食にしましょう。ジャガイモと魚のスープが食べたいわ」


 カウルは、ウェールズ全土でよく食べられる具材を煮込んだスープだ。穫れるものはその土地土地で違うので、地域によっては味も具材もがらりと変わってしまう。


 わたしがこの間まで薬を売りに下りていた村では、根菜や豚肉を煮込んだカウルが一般的だった。きゅう、と腹の虫が鳴く。ひと仕事を終えた清々しさと気が抜けたことで、途端に空腹を自覚した。


 大人しく待っているエディを後目に、手早く他の道具を片付けて窓の外のザルを確認しに走る。


 干した薬草はいい具合に水気が飛んでいて、煎ればこのまま使えそうだった。念のため、一晩まるまるここで干しておこう。明日の朝に調合するか、それとも、何にでも使いやすいように下処理の状態で渡すべきか。


 薬草の用途について頭半分に考えながら、部屋に戻って彼と一緒に酒場へ顔を出す。利用者はあまり多くなく、家で夕食を終えた村人の何人かがエールを飲みに立ち寄ったような有り様だ。


 他の客にエールを給仕していた女性に、押し麦粥とスープをふたつ、それからエールと水を一杯ずつ頼んで隅のテーブルについた。


「グウェンはエールじゃなくてよかったの?」


「お酒は苦手なの。自分で自分をコントロールできなくなりそうなのが、あまり好きではなくて」


「アルコールには弱いのだね。覚えておくよ」


「ええ、そうみたい。そもそもあまり飲んだこともないのだけど……そういえばあなた、ずいぶん早く戻ってきてたのね。客足が少なかったとか?」


 さっき聞き流した違和感を、余興のように引っ張り出す。すぐに運ばれてきたエールに口を付けてから、彼は答えを吟味するように視線を逸らした。


「いいや。それほど大きくない村にしてはそこそこ足を止めてもらっていた、と、思うよ。うん。だから早めに切り上げて来たんだ」


「どうして? こういうものは稼げるときに稼いでおいた方がいいのではないの?」


「大聖堂に……いや、ううん」


 続く言葉を濁したけれど、彼の一言で、修道院に大司教が来ると修道女たちが言っていたのを思い出した。もしかしてその関係では、と遅まきながら気付かされる。


 彼はイングランド人で、どれほど顔が知られているかはわからないけれど、どんなに隠しても平民とは言い難い佇まいで――そして、大司教も恐らくイングランド人であるはずだ。


 できるだけ目立たず、可能な限り言葉を交わすことも顔を見られることも避けたかったのだろう。彼にとってはこのタイミングでここに大司教が訪れることは想定外だったのか、珍しくひとつため息をこぼしていた。


 修道女たちが大司教を迎える準備に慌ただしくしていた、と薬草園での出来事を語ると、彼は「なるほど」と相づちと共に杯を置く。


「あの規模でも大聖堂、と名がつくからには、大司教様がいらっしゃる可能性も考えておくべきだったかな」


 彼の独り言じみた呟きを拾い上げながら、杯の水で唇を湿す。わたしにとってはここの大聖堂も立派な大きさの聖堂だと思ったが、彼があの規模と言うからには、それほど大きくないのだろうか。


「そもそも、大聖堂と聖堂、教会ってどう違うの? あなたが言うようにそう大きくないのなら、バンガー大聖堂はどうして“大聖堂”と言われるのかしら」


「聖堂と大聖堂には、大した違いはないよ。聖堂を預っているのが司教様か大司教様か、それだけ。――今回は運悪く、その大司教様の視察とかち合ってしまったみたいだ――けれど教会と聖堂になると、定義が少し変わってくるね」


「定義?」


「主教座が有るか無いか。司教座とも言うかな。司教様が座る椅子が有るのが聖堂で、無いのが教会ということだよ」


「椅子が有るのと無いので全然違うのね」


 ぬるい水を嚥下しながら、吟遊詩人の栄誉のようだと思った。


 かつてまだ職業詩人としての特権が健在だった頃、もっとも誉れある吟遊詩人には、彼らの集会や宮廷で豪奢な椅子が与えられたのだという。いつの世も、どの国も、良き椅子は誉れあるものに与えられるものだ。


「バンガー大聖堂が、英国(・・)で最古の大聖堂だというのは、知っている?」


「ええ。昔、ウェールズ(・・・・・)の誇りだって母から聞いたわ。何百年も前に、ナントカという聖人様が建てた修道院が前身なのでしょう」


「そう。聖デニオール様。聖人が作った歴史ある聖堂だから、主教座が置かれて大聖堂と呼ばれるようになった」


「町や建物や、隆盛の規模は関係ないということ?」


「そうだね。建物自体も、三五〇年ほど前にノルマン・コンクエストによって破壊されているけれど、建て直しと補修を繰り返して今の形になっているようだし」


 杯を半分ほど空けたところで、押し麦粥とスープが運ばれてきた。やたら甘くいい匂いがしていると思ったら、ミルクで煮込んだ押し麦粥にはとろけたチーズが掛けられている。嬉しい誤算だ。


 半透明なスープのカウルには、白身魚の切り身とジャガイモがゴロゴロと入っていた。彩りを添える緑色の豆と乾燥パセリの香り。それから立ち上る仄かな柑橘類の匂い。スープを掬って一口ふくめば、塩のしょっぱさと魚介の風味、振り掛ける程度に混じった果物の酸味が旨味を引き締めていてたまらなかった。


「……美味しい」


 ほぅ、と悦の交じる息を吐いてうっかりそうこぼした後で、慌てて口を押さえる。向かいではエディが、まだ食前の挨拶の句を唱えていた。


 彼は押し麦粥から匙を入れると、とろりと糸を引くチーズごと掬ってよく冷まし、やはり上品にそれを食べる。とても酒場の隅で押し麦粥を食べているとは思えない居住まいだった。


 それからスープにも口を付けて、茶色い目元を綻ばせる。


「本当だ、とても美味しい。きみの言ったとおり、これは捨て難い味だ」


 きっと彼はもっと美味しい食べ物なんてわたしの想像もつかないほど知っているだろうに、まるでそれがこの世の美食か珍味かのように喜ぶので、おかしな気持ちになった。


 驚きとも苦笑とも言えない表情を浮かべているだろうわたしの顔をじっと見つめて、


「グウェンは、」


 ふと、エディが思い出したようにわたしの名前を口にする。


「思っていたよりもずっと、軽やかだったのだね」


「軽やか?」


 彼の言う「軽やか」の意味がわからずに、そっくりそのまま尋ね返した。とてもではないが、軽やかとは言い難い蟠りを抱えている自覚があるので尚更だ。


 エールを呷ったその口で、彼はうん、と呟く。酔いとスープで身体が温まってきたのか、白い頬にいつもより強い赤みが差していた。


「したいことも、見たいものも、触れたいものも……きっと、本当は沢山あったんだろう。きみはあの山の中の家に自身の誇りで縛り付けられているように感じていたけれど、囲う石壁がなくなれば、きみの足はこんなにも軽やかで好奇心に溢れている」


 それが予想以上に意思を持ってよく動く足だったので、少し驚いたのだと彼は言った。


「意思を持って? 足は勝手に動かないわ。自分の意思に従うのは当然でしょう」


「その意思が、ね。欠落している人も居るんだよ。真に自由を与えられたことのない人間は、いざ自由を目の前にぶら下げられたとき、その掴み方がわからないんだ。わからないから、判断のすべてを正しさでしか選べない」


 たとえば、と彼が言う。「一緒に行こうと、私はきみに手を差し出した。きみはきみの選択で、私のこの手を取ってくれた」


 それは、自ら選ぶことを知らない人間には成し得ないことなのだと彼は言った。正しいか正しくないかで語れない判断を、己の差配で選んだのだと。


「したいことをすればいい、と。突然そう言われても、雁字搦めに縛られ続けた人間には、したいことが何かもわからないものだよ。だって、その人にとっての“普通”は示された道を歩むことだけが許される世界だから。それ以外のものを“当然のもの”として受け取れないんだ。

 けれどきみはそうではない。食べたいものも選べるし、明日の予定を立てることもできる。エールを断って水を飲むという選択肢も。それは紛れもないきみの意思だろう?」


「そうね。でも、そんな簡単なことも選べない人間が居るものかしら? だって、人は常に幸せになりたい生き物でしょう。何かしらの願望はあるはずよ」


 たとえば、喉が渇いたら水が飲みたい。そう思うことは自然なことだ。それひとつで行動の原動力になるし、次の行動の指標にはなる。


 人とは、常に本能で願望を生み出すすべを持っているはずなのだ。


「周りから見てそうではないことだって、本人が心から望めば幸せなのだもの。したいことがわからなくて、また雁字搦めに縛られることを本人が望むのなら、それは確かに本人の意思だわ」


 大きなジャガイモの塊を匙で割りながら持論を述べた。潰れた断面から湯気が上がり、ほろほろと崩れたジャガイモの欠片がスープに溶けていく。その部分だけ白濁したスープは、きっと甘みを増してまた違った味わいになるのだろう。


 掬って息を吹きかけたジャガイモを頬張る。歯茎でも押し潰せそうな柔らかさが口の中で溶ける。シャリシャリと舌に残った食感をよく味わってから、ジャガイモの欠片の溶けたスープを啜った。


「だから、きみは軽やかなのだね、と。そう言ったんだよ」


 わたしが夢中でスープを平らげる様子を眺めながら、彼はそう言って笑った。


 何故だか、この時にシスター・マーガレットの呟きを思い出した。「羨ましいわ」と言った、彼女の意図を。


『疑問を差し挟まなければ、心を楽に過ごせることは思うよりもこの世に多いものです』


 自分があの山に籠もっていることに疑問を抱かなかった少し前までのわたしは、きっと今、こうして北西の村で魚の入ったスープを食べることも想像できなかっただろう。昨日の、一昨日の、自分の選択があっての今日だ。


 このスープの味を知らないままで生きていたかと思うと、――別に生きる上で必要ではないけれど――いくらか勿体なかったなと思った。


(それなら……)


 あのシスターは、それをふいにしてしまっても、気付かなければよかったと思うような何かを抱えているのだろうか。


 温まった心の端っこが、僅かに差した隙間風に冷えた。




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