2.緑に染む指
シスター達の生活する修道院は、バンガーの村のすぐ南にあった。
ぽつぽつと点在する民家の途切れ目にひっそりと佇む、木々に囲まれた石造りの建物だ。前を歩くシスター・マーガレットが、門を開きながらとつとつと語りだす。
「ここは十年ほど前まで、シャンヴァース修道院の仮の宿舎として使われておりました。ですので、薬草園も院自体もさほど大きくはありません。礼拝堂を新たに建てる余裕も無かった為、俗世を離れた今も、こうして大聖堂間の行き来のみは門の外に出ることを許されます」
さほど大きくはないと言うけれど、人ふたりがどうにかこうにか暮らせるくらいの小屋に住んでいたわたしからすれば、とても立派な建物だった。
「仮の宿舎、ですか」
「アングルシー島に在るシャンヴァース修道院が、前王の治世に、ヘンリー四世自身の手で破壊されたことはご存知でしょうか」
聞こえた名前に、ひゅっ、と息を飲み込んだ。つい最近も耳にしたばかりの名前は、この身に流れる血筋にどこまでも因縁深く絡み付く。
「いいえ」
「二十余年前……彼のウェールズの英雄が起こした反乱の、ほんの始まりの頃です。わたしもまだ、生まれる前のことでしたが」
短く答えると、彼女はこちらを振り返ることもなく修道院の敷地へ足を進めた。わたしは置いて行かれないよう小走りでついて行く。彼女は涼しい顔で歩いているのに、その速度は人並み以上に速い。
同じだけ、自分の心臓が早鐘を打っていた。
「前王はスコットランド遠征からの帰途でした。反乱軍がアングルシー島からイングランド軍の占拠する町や村を襲撃していた折に、軍を率いた前王がアングルシー島へ攻め入ったそうです。その過程で、島の村や修道院は次々に燃やされました」
「そんな……」
戦の始まりであり、反乱の鎮圧のための進行なのだ。情け容赦などあるわけがないと頭では理解していても、あまりにも残忍な所業に言葉を失った。
同時に、感情の働かない冷静な部分では、父も同じように罪のない人や町を襲ったのだろうと考える。戦というものは、理想や綺麗事だけでは動かせないものだろうから。
「シャンヴァース修道院が焼き討ちされたことにより、そちらの修道院を補修する間、バンガー大聖堂に近い場所に仮の拠点を移す必要がありました。それがこの修道院です」
「なぜ大聖堂の近くに?」
「本来、大司教様から命を受けてバンガー大聖堂の手入れをしていたのは、シャンヴァース修道院の修道士達でしたので」
「あぁ……なるほど」
短く相づちを打つと、それきりシスターは口を閉ざした。
潮風から離れて、緑の湿った匂いを肺いっぱいに取り入れながら心を落ち着かせる。これもわたしが探そうとした父の足跡の欠片なのかもしれないと、自分に言い聞かせるように。
そのうちに、草木に混じってツンと鋭い匂いや、爽やかな甘さを含んだ香りが鼻孔に忍び込んできた。乱れた鼓動が、落ち着きを取り戻す前にまた高鳴る。
手入れされた芝生を踏み締めながら案内されたのは、修道院の建物を迂回して奥まった場所だった。
庭とも呼べない草地の一角に、石組みで枠を囲われた花壇のようなものがあった。大人がひとり横たわった程度の広さの花壇が五つ、薬草園と言うには控えめな広さの区画だ。
けれどその枠組みに整然と並べ植えられた植物たちは、瑞々しくも個々の葉や花の色香を主張している。
自然の野山の恵みを頂戴していたわたしにとって、人の手で整えられたそれは初めての光景だった。
「すごい……ひとところに咲かないような花や薬草がこんなに」
青い小さな花を付けたローズマリーにセージ、奥の木立の影にはペパーミントといった野辺にも群生しているようなものから、荒れ地に生えるようなクマツヅラに、観賞用にも思えるユリやバラがところ狭しと植えられている。
かと思えば、少し離れたところに食用と思しきネギが直立して生えているのだから、目を見開いてしまった。
しげしげとにじり寄り屈み込み、あらゆる角度から石組みの囲いの内を観察する。
ざっと数えて十種以上はある薬草たちに、けれど見慣れないものを見つけてシスターを振り返った。
「あの植物は何でしょうか」
ペパーミントに区切られた奥の隅に、丸みを帯び、先の尖った幅広の大きな葉が四枚、対称的に向かい合って伸びる植物を指さして尋ねる。その中心から細い葉がまた四枚、十字型に伸びて、中心に黒紫色の実を結んでいた。
ブドウよりも二回りほど小さな実は、ころりとしていてつい口に含みたくなる。
「それはハーブパリスです。目の痛みや気管支炎、リウマチなどの治療に使いますが、鎮静や鎮痛の効能もありますね。それから、痙攣を和らげる薬や錯乱した際の精神安定薬にも」
「これひとつで色々な効能があるんですね」
「そうですね。湿気の多い森のほんの僅かな範囲にだけ自生するので、この辺りでは見ませんでしょう」
「ええ。薬にはどのように?」
「葉や根を刻んで、干して、毒素を抜いてから少量を煮出します。お気を付けください。どんなに美味しそうに見えても、実は毒にしかなりませんので」
嘔吐や麻痺を起こしますよ、と淡々とした声が続けた。
心を透かし見られた気分だった。実を凝視していたことに気付かれて、前のめりになっていた姿勢を正す。摘み取る代わりに、その姿をしっかりと目に焼き付けた。触りたいけれど、不躾だろうか。せめて匂いだけでも。
すん、と鼻を鳴らして吸い込んだ土の匂いに、ふと頭の内側にまで染み渡る刺激的な香りが混じって誘われるようにそちらを向く。辛みの中に、微かな柑橘類の酸味を思わせる強い匂いだ。
日陰に群れ成すハーブパリスとは打って変わって、よく日の当たる手前の端。小指の爪ほどの黄色い花弁が四枚、慎ましやかに咲く低木植物が立っていた。
先が丸く細い二回羽状複葉が、枝分かれした柔らかそうな茎から生えていて、花や葉の生え方だけを見るとクサノオウのようにも見える。
「あれは……」
「ヘンルーダですね。本来は地中海……このウェールズやイングランドよりも南にある、温暖な気候の国に自生している薬草です」
今度は問いをすべて口にする前に答えが返ってきた。素早い返答にも驚いたけれど、何より彼女の答えそのものに目を瞠らずにはいられない。
「南の? イングランド南部よりも、もっとずっと南というのなら、この土地に根付かせるのは随分と難しかったのではありませんか?」
「そのように聞いています。私がこちらへ来た頃にはもう既に植えられておりましたので、先達たちの御苦労ですが」
わたしは感嘆のため息をついた。今すぐに母の調薬レシピに書き加えたい衝動が湧き起こる。これは間違いなく、この北ウェールズにおいて貴重な薬草だ。
「効能はどのようなものがありますか?」
「眼鏡の薬草と呼ばれるほど、視力向上に効くそうです。自ら試した訳ではありませんので、さほど効くものかはわかりかねますが」
メガネ、というものがどういうものかはわからなかったが、視力向上と言うからには目を見えやすくする何かだろうか。
傷の治療や身体障害の治療と違って、目の見え方は主観でしか物を語れない。それでもここにこうして植えられているということは、確かに効能はあるのだろう。
そう思っていたら、シスターは相変わらず表情ひとつ動かさずにとんでもないことを言い出した。
「それから、興奮を促進させる作用とか」
「は……」
「ですから、興奮作用です。所謂男性の性的解放感を助ける効能がある、と」
「……いえ、意味は、わかっています」
多分、と心の中で付け加えて、途端に緩慢になった頭の動きを無理に回転させる。そのような作用の薬草や薬の調合製法も、母の製法書には書かれていた。
母から直接話を聞けたのはほんの幼い頃であったし、成長する過程でも薬草や薬を売りに村へ降りる以外は異性との接点もなかったので、明確に理解しているかと言われると微妙なところではあるけれど。
さすがに、堕胎薬の危険性について説かれる上で、子どもの作り方を知らないままではいられない。薬は毒を知ってこそ作られるのだ。逆もまた然りと言えよう。
「そうですか。反応を見るに、乙女かと思っておりましたが」
「誓って乙女です。修道女になるつもりはありませんが、そういったこととは縁遠い生活をしていましたので」
努めてなんでもないことのように語ると、シスターはまた、あのあどけなく見える仕草で首を傾げた。そうして見ると、無機質な作り物めいた女性の身が少しばかり人間じみて見える。
「先程の方は、ご夫君では?」
問われてすぐさま首を振った。そんなわけがないと慌てて否定する一方で、他人から見ればそんなふうに見えるのか、と客観的な自分が浅はかさを思い出したように唸る。
未婚の男女がふたりきりで旅をしているなど、考えられないものなのだろう。
「いいえ。ただの、成り行きで同行している道連れです。男女のふたり旅など眉を顰められることでしょうが、女のひとり旅の方がよほど危険ですから」
「失礼しました。ご夫婦かと」
「有り得ません」
強いと言うほど強くはなく、しかし、答える声は硬かった。否定したい、というよりも、肯定し難いわたしたちの立場故に。
先の反乱者の落し胤であるグウェンシアンと、先の反乱を鎮圧したイングランド王の隠された王子であるエドワード。
どこまで行っても、彼はわたしを理解できないのだろうし、わたしもまた、いまだ彼に流れる血を受け入れ難いのだ。それは何も、わたしの意識ひとつの問題ではない。
「男女のふたり旅でしょう。有り得ないことなど、ないのでは」
「でも、有り得ないんです」
わたしは強調するようにもう一度告げた。答えは揺らぎようもない。
「何故か、お尋ねしても?」とシスターが問う。こちらこそ聞きたい。何故、それほどに固執するのだ。何にも関心のないような顔をして。
あるいは妙齢でありながら、修道女として独り冷たい聖堂の維持に従事する故の、縁遠い愛だ恋だ夫婦の営みだという話に憧れでも抱いているのだろうか。
いくらか迷ってから、ともすれば閉じきりそうになる重い口を開いた。
「……わたしがウェールズ人で、彼がイングランド人だからです。そう言えば、誰でもお解りになりますでしょう」
「左様でございましたか」
シスターは察したとばかりに目を伏せた。
彼女が察したのは勿論、わたしたちの間にある因縁ではない。少し前の時勢――ちょうど父と前王が戦を始めた頃に、ヘンリー四世が布いた法律に基づく諸事情の方だ。
前王の施行した『反ウェールズ刑法』というものは、イングランド人が優位に在るための、彼らとウェールズ人をあらゆる局面で選別するような法律だった。
イングランド人が作った法律は、ウェールズ人がイングランドで土地を買うことを禁じ、上級官職に就くことを禁じ、武装して城や要塞を持つことを禁じた。ウェールズ人のこどもたちは自分たちの故郷の教育を封じられ、ウェールズ人から告訴されたイングランド人は有罪にならず、公共の場における集会は特にひどく取り締まられた。
そして、イングランド人の男と結婚した女は法で罰せられ、ウェールズ人の女と結婚したイングランド人の男は、イングランドにおける選挙権を剥奪されてしまうのだ。
物事の全てにおいて、それはイングランド人による、イングランド人のための、イングランド人がウェールズを支配するという欺瞞に満ちた傲慢な法律だった。
そのような法のもとで、ウェールズ人を娶ろうなどという奇特なイングランド人はごく僅かだろう。それこそ、何を捨てても相手を想うほどの強い絆が無いのであれば。
「それに、わたしたちの関係は、それほど甘いものではありませんから」
端的に述べて、この話はお終いとばかりにシスターから目を逸らした。視界の端でほんの少し表情を揺らしたシスターに、彼女もまた、わたしとは違った何かを抱えているのだろうかと疑問が浮かぶ。
元より修道女とは、俗世を切り捨てた女性たちだ。中には切り捨てざるをえなかった人や、切り捨てたいものを抱えて修道院入りした人々も多いことだろう。
それで、彼女はわたしと似た人種なのかもしれない、と漠然と思った。
怒りも歓びも瞳の中に押し込めて、ただ与えられた最小限のもので生きるべく生きることをのみ自分に課したひと。
籠の中でしか生きる術を知らなかった、ほんの数日前の自分のようだ。
(……詮索しても意味はないわね。やめましょう)
首を振って、会話の余韻を追い払う。
「他の……足りない薬草をいくらか……ええと、根ごとふた房ずつ頂いてもいいでしょうか」
気不味くなって別の話題を振ると、シスターは憮然として頷いた。もう、彼女の瞳の中に感情の欠片は掴めない。
「どうぞ。……代わりと言ってはなんですが、作られた薬から十分の一税を頂いても?」
「十分の一税、とは?」
「教会が施しを与える代わりに、施された民の持つものの十分の一を教会へ納める税です。あなたは殆ど着の身着のままのようですので、それならば調合した薬から少し……と思いまして」
教会や聖堂に馴染みのないわたしには、初めて聞くものだった。なるほど、と納得して首肯する。ただでもらうものほど信用できないものもない。僅かでも返すものがあれば、こちらも気兼ねせずに薬草をわけてもらえるというものだ。
わたしは植えられている植物を踏まないように慎重に薬草園へ入った。手前の方から順に、ひと房、ひと茎を根から掘り起こす。
籠の中から引っ張り出して広げた布の上に、種類ごとにくるんで巻いては籠に仕舞った。それを何度か繰り返し、最後に空っぽの小壷へペパーミントを摘み入れていたときだ。
「あなたは何故、そうも楽しそうに薬草を扱うのですか?」
ふと、それまで黙ってわたしの動向を見守っていたシスターがこぼした。
「楽しそう、でしょうか。自分ではわかりません。これまで、それがわたしにできる唯一の仕事として疑問を覚える余地もなかったので」
「そう、羨ましいわ」
言葉が、それまでの丁寧なものから逸れた。こちらが本来のシスターの口調なのだろう。彼女がわたしの何を羨んだのかわからなくて、薬草を摘む手を止めた。
物問いたげな視線に気づいたシスターは「疑問を差し挟まなければ、心を楽に過ごせることは思うよりもこの世に多いものです」とシスターらしからぬことを告げる。
わたしはそれに、言葉なく頷いた。疑問は人を成長させるけれど、同じだけの苦悩をもたらすものだ。
――そうだ、疑問と言えば。
「わたしからもひとつ、聞いてもいいでしょうか」
「何か?」
「どうして、わたしをここに招き入れてくださったのですか?」
大聖堂で薬草の施しを願い出たときからずっと気になっていたことを、手慰みに尋ねてみたくなった。
半分以上は断られる可能性を考えていたし、仮に薬草を分けてもらえたとしても、こうしてここまで連れてきてもらえるとは思わなかった。いくらかシスターの選りすぐったものを分けてもらうのだろうと思っていたのだ。
それがまさか、多少考えるそぶりはあれど、あっさりと認可されるなんて誰が考えただろう。
「ヨモギの匂いがしたから、かしら。それと、その指先」
シスターは躊躇もなく答えた。ヨモギはおそらく、昨日の夜に靴の底に敷いた葉の匂いだろう。
視線で指されて、わたしは土に汚れた自分の指を見下ろす。水仕事と薬草摘みで荒れた、お世辞にも綺麗とは言えない手だった。
「緑に染まった薬師の指。常日頃から草花を扱っている者の手だわ」
「あぁ……それで」
わたしの告げた身分に嘘がないことを見て取ったのか。やっと腑に落ちた。
葉を千切り、擂り潰し、薬を煎じ続けていれば、草花の汁で自然と指先が緑に染まっていく。より毒性の強いものを煎じれば黒さは増し、真っ白な爪も黒スグリの皮の色に染まるだろう。
だから黒い爪は魔女の――あるいは錬金術士の印、と言われるのだ。
わたしは毒薬を調合することがほとんどなかったので、それよりは淡く緑に染まっている。
「薬草をよく識る緑の指ね。誇るといいわ。それはきっと、あなたの身を守るでしょう」
そう言う彼女の指もまた、似たような緑に染まっていた。
シスターが、初めて薄く笑みのようなものを浮かべた。唇の端が持ち上がったように見えた、ただそれだけだったけれど。
「シスター・マーガレット」
目ぼしい薬草を摘み終わった頃、院の建物からこちらへ足早にやって来る影があった。年配の修道女の呼びかけに、シスターが振り返る。
「そろそろ大司教様がお着きになります。支度をしてお出迎えの準備をなさい」
「……わかりました。すぐに参ります」
大司教。その名を聞いたシスターは、たちまち表情を硬くした。怪訝に思う間もなく、彼女がわたしへ向き直る。年配の修道女はもうこちらに背を向けて、来た道を戻っていた。
「お聞きの通りですので、私はそろそろ中へ戻らねばなりません」
「はい。わざわざご案内ありがとうございました。ちょうど薬草の補充もできましたので、わたしも大聖堂へ戻ります。十分の一税は、また後ほど」
「いいえ、今日はいらっしゃられても対応はできないでしょう。明日、またいらっしゃるか、大聖堂の守り番に託けておいてください」
返事を返そうとしたところで、「あぁ、ですが……」とシスターが言葉を継ぐ。わたしはぴたりと動きを止めて見つめ返した。今の発音は、わたしの耳が鈍っていなければウェールズ語ではなかっただろうか。
今や聖書の中でのみ許されたそれを、咄嗟にシスターが口にする可能性とはどれほどあるものだろう。
「シスター?」
「いいえ、何でもございません。大聖堂までの道はおわかりですか」
「それは大丈夫……です。一本道でしたし」
「では、院の門までお送りします。そこからはどうぞ、お気をつけて」
否やを言わせない口ぶりでシスターはきびすを返す。
最後に聞こえた、掠れた言葉の意味も問うことができないままに、わたしはすべての言葉を拒むような彼女の後ろ姿を追った。
□はみだし与太話【シャンヴァース修道院】
Llanfaes修道院はバンガーの北東側、アングルシー島東部に在るフランシスコ会修道院です。
スランヴァース修道院とも。
1400〜1401年頃、オワイン・グリンドゥールの反乱の最中に当時のイングランド王ヘンリー四世によって破壊されており、ここにはオワイン側についていたアングルシー島のテューダー家が代々埋葬される墓所もあったそうです。
当時は修道士達が住めないほどまで破壊されたようですが、ヘンリー5世の支援を受けて1414年には再建されているとのこと。
壊されて何年後かには突貫補修が入って修道士たちも引き揚げたでしょうから、この女子修道院は十数年そこそこかなといった感じです。
尚、バンガーの女子修道院の存在については待雪の完全な創作になりますのでご了承下さい。




