1.群れる雨は旅人を連れて
後の世の人々は、このウェールズという国をなんと呼ぶのだろう。
イングランド人に征服された国?
故郷を失った国?
いや、そもそもこの地そのものを強く意識する人が、一体どれほど残っていることか。
今ではわたしを“グウェン”と呼ぶ人が居なくなったように、いつかこの国を“ウェールズ公国”と呼ぶ人も居なくなるのかもしれない。
現に抑圧され、排斥されたウェールズの民は、イングランド人の怒りを買うことを恐れて口を噤み始めた。
そうして、始めは故郷が、次に歴史が、最後には魂が、腹の中で燻る火種に燃え尽くされて灰となっていくのだろう。
やがて長い年月で風にさらわれ、何もかもが曖昧になり、後には確かなものなど何ひとつ残らない。
わたしにはそれが、ひどく恐ろしいことのように思えたのだ。
▽ ▲ ▽
ぬるい突風が緑を急き立てる。
雨上がりに蒸された野山の草いきれが、外套の隙間を縫って鼻孔に忍び込んだ。
今年もまた、夏が来た。毎年この日、この匂いを嗅ぐたびに改めて実感する。
「行きましょう、ノス」
夜明け前の山間に囁きが響くと、わたしが出てきた戸口から、しなやかな体躯の猫が姿を現した。
この闇に溶ける毛皮をまとったノスは、滅多なことでは鳴かない猫だ。代わりに「プス」とひとつ鼻を鳴らして、しゃなりしゃなりと歩き出す。その後を、籠を握りなおして追いかけた。
でこぼことした足場を優雅に進むノスは、まるでどこか知らない土地の領主か貴族の娘のようだ。
実際に領主や貴族を見たことはないけれど、幼い頃、母に聞かされた昔話を思い出しては、お前のようだね、とノスに話しかけた。
彼女はその都度、わたしを鼻であしらったけれど。
「待って」
忍ばせた声を掛けると、ノスはピタリと歩みを止める。それを確認して、わたしは木立の向こうにちらつく薄紫の花へ足を向けた。セージの花だ。
親指の爪ほどの小さな花が空へ向かって連なっている。楕円形の長い葉ごと、片手で掴めるだけのセージを摘んで端切れでくるみ、籠に入れた。
半分が薬壷で埋まっている籠に、また少し重みが増す。朝日が上る頃には、空いたもう半分も薬草で一杯になっていることだろう。
木立を抜けて道を戻ると、ノスは先程の場所でこちらを振り返ったまま待っていた。賢い猫だ。彼女はわたしの姿を確認すると、また前を向いて歩きだした。
慣れた足取りで緩やかな斜面を降り、川沿いを辿り、山の麓の森を抜ける。その道々、ときおり足を止めては同じようにノスへ呼び掛け、ケシやヨモギやローズマリーを摘んで歩いた。
六月の終わり頃。聖ヨハネの祝日は薬草摘みにとって、一年でもっとも重要な日だ。植物に宿る薬効が、一番強くなる日だと言われているから。
本当かどうかは重要ではない。わたしにとって大切なのは、多くの人々がその言い伝えを信じているということ。
お陰でわたしは摘んだばかりの薬草で、このさき一週間の食事にありつけるのだから。
森を出てから少し川を下ったところに、馴染みの小さな村がある。そこで薬草を食物や日用品と交換してもらうのが、毎年この日を迎えたわたしの慣習だ。
めぼしい薬草を摘んで村に着く頃には、日も高く昇っていた。
ノスに並んで足を踏み入れると、中央の市場へと向かう。石台を中心に、石造りの家々が取り囲んでいる円形の広場だ。
海や河川が近いこの村では、毎朝新鮮な魚が市に並ぶ。同時になだらかな野山も多い土地柄なので、今朝がた絞められたばかりの鳥や兎の肉もよく出ていた。
もっとも、ここ数年は先のイングランドとの戦いの影響で、豊かな収穫は望めなかったけれど。
制圧した土地から高い利率の地代を毟り取るのは、いつの世も領地を納める者の特権だ。
「こんにちは」
市の端で押し麦を売っている顔馴染みに声を掛ける。親世代の年頃の彼は、薄くなった頭を勢いよくこちらに向けた。
「やあ、嬢ちゃん。今日は一段と日差しが強いねぇ」
「回りくどい言い方はなしよ、親父さん。摘みたての夏至の日の薬草を期待しているのでしょ」
「話が早くて助かるよ。で、何かいい収穫はあったのか?」
「今朝摘んできたばかりの新鮮なフェンネルがあるけれど、どう? この間、出るものが出なくてお腹が痛いって言ってたでしょう」
「ふん? どうやって使うんだい」
先週、苦しそうにお腹を抱えて押し麦を量っていた親父さんは、今もまだ、快調とは言えない顔色で眉を跳ね上げた。
興味半分で相づちを打つ姿を見るに、もう一押しかしら。
「魚の臭みも消してくれるから茎ごと刻んで料理に入れてもらってもいいし、煮詰めたお茶を飲んでもいいわ。胃を強くする効果もあるから、食べすぎた時にもいいのよ」
ちらりと上目で親父さんをうかがうと、彼はばつが悪そうに頬を掻いた。どうやら、食べすぎの自覚はあるらしい。
かみさんの飯が旨くてよぉ、と黄ばんだ歯を見せて笑った。
「どれくらいあるんだい? その、フェンネルってのは」
「全部で三束。一束を八等分くらいにして、それを一度に一掴みずつ使うといいわよ」
「じゃあ一束。いくらになる?」
「押し麦を二ポンドで」
あらかじめ考えていた分量を頼むと、親父さんはわたしの提案に渋い顔で喉を唸らせた。
「一ポンドに負けちゃくれないかい?」
「一ポンドじゃ一週間は食い繋げないわ。一ポンドと十二オンスならどう?」
「薬草一束じゃあ、一ポンドと五オンスが限界だろうなぁ。ここ何年も不作が続いてるのは嬢ちゃんも知ってるだろ? おまけに先の反乱で税も重くなっちまった」
親父さんはこちらを下手に見るでもなく、目を細めて開けた丘の向こうを見つめた。
川下に見えるなだらかな草地と森の先には、堅牢な城壁で囲まれた城塞都市が厳めしく聳え立っている。
かつてわたしたちが輝く川と呼んだ土地。今そこに建つのは、同じ名前の、イングランド人が住まうための町だ。
一〇〇年以上も昔に造られた灰色の城壁を見つめながら、嘆息がこぼれる。先に折れたのはわたしの方だった。
「……わかりました。一ポンドと五オンスで」
「まいど」
商談が成立すると、親父さんは愛想よく笑って麻袋に押し麦を詰めた。一オンスずつきっちり量って口を縛られた袋と、布で包んだフェンネルの束を交換する。
満足とはいかないまでも、ひとまず互いに望みのものを手に入れたわたしたちは、「またよろしく」と穏やかな挨拶で別れた。
同じように市を見回しては顔馴染みの姿を探し、薬草と食料品の交換を持ち掛ける。
心臓が弱い卵売りのご婦人には、ジギタリスの煎じ薬を。
真新しい火傷痕のある果物売りの男性には、ノコギリソウの薬草を。
バターにミルクに塩漬け肉。ソラマメ、ハチミツ、生活雑貨。籠の中の薬はそれぞれ少しずつ、少量の日々の糧に変わっていった。
村の市から引き揚げたのは、陽が中天を過ぎた頃のこと。村に入ってから姿を見なかったノスは、いつの間にかわたしの後についてしゃなりしゃなりと山道を歩いていた。
「また市場の魚をくすねてきたんでしょう」
心なしか今朝より丸くなった気のする彼女のお腹を嗜めるけれど、当然ながらノスは返事をしなかった。
そしらぬ顔で尻尾をふりふり、草の間をすり抜ける。緩い斜面の向こう側、遠目に見慣れた木立が見えると、彼女の足取りも軽くなった。
自分の縄張りに近付く安心感だろうか。
苦笑して何気なく見上げた空には、あのコンウィの町並みと同じ灰色がかった雲が流れている。
「……嫌な雲だわ。早く帰りましょう、ノス。一雨来そうよ」
抱えた籠をしっかり握りなおし、いつの間にか、わたしの脇までもすり抜けたノスに呼び掛ける。
彼女はこちらをちらりと振り返ると、心得たとばかりに走り出した。ノスの後ろ姿を追い掛けて、つられるように足を早める。
その刹那、ザァ、と耳元で嘶いたのは、風に踊らされた草木ではなかった。
一息前まで晴れていた空は、ほんの瞬く間に冷たい雨粒と湿った匂いを連れてきた。ウェールズの気候は、驚く暇も与えてくれないほど気まぐれに表情を変えるのだ。
暑さを額に滲ませながら、外套を羽織ってきて正解だった。これくらいの距離なら、走れば服までは濡れないだろう。
それも、一瞬たりと足を止めれば保証はできないけれど。
この代わり映えのしない山の中、まさかわたしの足を止めるようなものがあるとも思えなくて、すっかり翳った山道を一心に駆け上る。
このとき“まさか”を頭の隅にでも留めていれば、全身ずぶ濡れになることもなかったのだろう。
激しく降りしきる雨の中、わたしの両足を縫い止めたのは――見慣れた納屋のような我が家の軒先に佇む、見慣れない人影だった。
▽ ▲ ▽
「こんにちは、きみがこの家のご主人ですか?」
丈夫そうな外套を頭からすっぽりと被ったその人は、わたしの姿を認めるなり綺麗な英語でそう言った。耳に心地よいその声は、顔も見えない相手が男だということを教える。
春の野に咲くスミレを撫でる、柔らかな風のような声だった。
「ええ」
それにウェールズ語で返すと、彼は特別驚いた様子もなく頭を覆っていた外套を下ろした。
わたしよりもいくつか年上だろうか。声の調子によく馴染む柔い表情を浮かべた顔がこちらを見つめる。
くすんだ榛色の髪が、曇った視界に微かな光をまとってこぼれた。
「きみはウェールズ人かな。すまない、ウェールズ語にはあまり明るくないんだ」
「よそ者だなんて呼ばないで。その言葉は嫌いよ。わたしたちにとってはイングランド人の方がよっぽどよそ者だわ」
外套が濡れそぼる。じわじわと肩に染みだした雨粒がたちまち全身を濡らしても、わたしはそこから一歩も動けなかった。
警戒していたのだ。いつでもきびすを返して逃げられるように。これまでの生活を思えば仕方のないことだろう。
誰かがこの家を訪ねてきたのは、それが初めてのことだったのだから。
心臓が痛いほどに身体の内側を叩いていた。あちらへこちらへ跳ね回って、今にも口から飛び出しそうだ。
「これは重ね重ね悪いことを言ったね。では、ええと……お嬢さん。さっき、きみは何と答えてくれたのだろう」
「……はい、と答えたのよ。ここはわたしの家です」
慎重に言葉を選んで答えると、男はわたしとは対照的に安心した様子で微笑んだ。
わたしが英語を話せるとわかったからだろうか。きょうび、英語を話せないウェールズ人が居るわけもあるまいに。
「良かった。私は流れの旅の者なのだけど、見ての通り、雨に降られてしまってね。申し訳ないが、雨が上がるまで軒先を貸してもらえないだろうか?」
そう言って、男は粗末な小屋の少しだけ張り出した屋根を見上げた。雨宿りすることを前提に組まれていない石造りの屋根は、人ひとり分ほどの余分な幅もない。
今も、半分飛び出した男の肩はわたしの両肩と同じように濡れている。
「こんなところで雨宿りするよりも、ずぶ濡れになって町へ降りる方が賢明よ」
もう半分日が傾くほども歩けば、コンウィの町に着く。全身ずぶ濡れになろうとも、町の宿で温かな暖炉にあたった方がよっぽど寒さを凌げるだろう。
湿気の少ないこの土地のこと。初夏を迎えてもこうして雨が降れば、夜はすっかり冷え込むのだから。
わたしは籠を守るように両手で抱えて、立ち尽くす彼の脇を横切った。雨を吸って色の変わった木戸を開くと、その隙間にノスが身を滑らせる。
彼女ったら、わたしの足元に張りついて外套を雨避けにしていたらしい。濡れて艶めくノスの毛皮は、滴るほども雨を受けていなかった。
今は彼女のふてぶてしさを心強く思いながら、男に押し入られる前に閂を掛ける。
扉を閉じる直前に目が合ったのは、きっとわたしの気のせいだ。
▽ ▲ ▽
薬と交換した押し麦を瓶に詰めて、虫が入らないように蓋をした。
両手いっぱいのグーズベリーは、蜂蜜と一緒に煮立たせてジャムにする。黄緑色のつやつやとした果実は、綺麗だけれどそのまま食べるには酸味が強すぎた。
悪くなりかけたモモとラズベリーも同じようにジャムにして、まだ新鮮なものだけ生食のためにとっておく。今日の夕飯か、明日の朝食になるだろう。
塩漬け肉を吊るして日保ちするように干し、売れ残った香草を一緒にくくりつけた。臭み消しと虫除けだ。合間に、死人のように冷えきった足を暖めるための湯を沸かすことも忘れない。
これだけの処理と片付けを済ませて、新しく薬を煎じる作業に没頭し、絞れるくらいに濡れた外套が生乾きになっても、雨は一向に止む気配を見せなかった。
カチン、と乳棒と乳鉢が硬質な音を立てる。植物のオイルを差してとろりと液状になったラベンダーが、雨の匂いに混じって甘い香りを振り撒いていた。
わたしがやっと作業の手を止めたのは、可哀想なお腹がきゅう、と微かな呻き声を上げた頃だった。
「ノス」
声を掛けると、戸口前に座った彼女がピクリと耳を震わせる。仄暗い視界に、陽がないので正確な時間はわからなかったが、お腹の空き具合を考えるともうすぐ日暮れ時だろう。
完全に視界が闇に覆われれば、火は使えない。今のうちに夕飯を済ませようと椅子を立てば、ノスは一瞬だけこちらを振り向いてまた戸口へ視線を向けた。
その、一心に扉を見つめる彼女の姿に、今まで忘れていた昼間の出来事が思い起こされる。
しのつく雨の中、身ひとつで佇む榛色の男のことだ。まさか名前も知らないイングランド人が、まだそこに立っているとは思えなかったのだけれど、
「ノス、どうかしたの」
そう呼び掛けると、ノスは相づちを返すように「プスン」とひとつ鼻を鳴らした。
わたしの顔が強張るのと、扉へ手をかけるのと、一体どちらが早かっただろう。
閂を開けながら、人間がこの雨の中、何時間も肩を濡らし続けたらどうなるかを考えた。
雨は全身に染み渡っているだろう。打たれ続ければ体温は確実に奪われる。奪われた分だけ、身体は熱を補おうとして体力を消耗する。
――では、そのまま一晩そこに立ち続けたら?
笑えない冗談のような想像が、頭の隅々を駆け巡った。明日の朝、扉を開けたら傍らに物言わぬイングランド人が転がっているだなんて、三文芝居よりもお粗末な話だ。
「ちょっと!」
軋む扉を力任せに押し開けると、視界に広がったのは消し炭をぶちまけたような鬱屈した薄闇だった。
戸口から顔を出し、右を見、左を見、また正面に目を凝らすけれど、そこに人影は見当たらない。
やはり、彼はもう去ったのだろう。森を降りて、今頃は宿の温かいベッドに潜って毛布にくるまっている筈だ。
謂れのない安堵を覚えて、戸を閉めようと身体を引く。けれどそれを阻むように、草を打つ雨音に混じって、下生えを踏みしめる音が聞こえた。
「今のは、私に呼びかけてくれたのかな」
あの綺麗な英語が耳を打つ。顔を上げると、茶色い一対の瞳が無垢なこどものようにわたしを見下ろしていた。
「あなた……まだ、居たの」
「知っていたから声を掛けてくれたのではないの?」
「ノスが……」と言いかけて、一度口を噤んだ。長いこと、顔馴染みの村人以外と話していないので、彼女の名前を出すのは半ば癖になっているのだ。
「猫が、じっと扉を見つめて動かないから、何かあるのかと思って」
「私が居るとは思わなかった?」
「思わなかったわ。……半分くらいは」
「では、もう半分は私を心配してくれたのだと思っておこう」
そう言って笑った男は、よく見ると全身に雨を浴びた後のようだった。髪はしんなりと頬に額に張りついて、外套も色を深めている。
きっと家の裏手に回っていたのだろう。そちら側は屋根に被るように木が生えているから、表より雨を凌げると思ったに違いない。
今日の横殴りの雨が、家の裏手に吹きつける風向きでなければ、彼もこれほど濡れなかっただろうに。
雨の中閉め出して、果ては怒鳴り付けたわたしを、心配してくれたなどと評するお人好しだ。
きっと、雨宿りをしているのにすっかり濡れてしまったことにさえ、彼は笑って「仕方ない」と言うのだろう。
「……雨が止むまでよ」
「うん?」
「入って。そのままそこに居れば、明日の朝には永遠にここから動けなくなっているでしょうから」
「それは困るな」
「だから、入ってと言ってるの。粗末な小屋でも、戸と窓を閉めれば雨風くらいは凌げるわ」
後からそう付け足すと、男は頬を綻ばせて「ありがとう」と呟いた。
「外套は戸口に掛けておいて。これから夕飯にするから、しばらく竈の前で火にあたっているといいわ」
「いいや、火までもらうわけには。私は部屋の隅をほんの少し借りられれば充分だよ」
我が家に足を踏み入れた男がそう言って土間の隅に座り込もうとするので、わたしの方が慌てて椅子を持ち出す羽目になった。
「あなたが病をもらったらわたしが困るのよ。薬草だけは豊富だけどね。売り物に手を付けることになったら商売上がったりだわ」
雑然としたテーブルの上を片付ける暇もなく、さっきまでわたしが座っていた椅子を竈の脇に引っ張ってくる。
そこに座れと無言で訴えると、男は目尻の下がった瞳を瞬かせた。彼がいつまでも棒立ちになっている間に、衣服棚から下ろしたリネンを押し付ける。
そこでようやく、彼はリネンを濡らすまいと外套を脱いだ。水の滴るそれを言われた通りに戸口脇へ掛ける。
外套の下に隠れていた一抱えの荷物を椅子の脇に下ろすと、男は観念したようにリネンでくるんだ身体を椅子へ預けた。
彼が大人しくなったのを確認して、竈の火口に火を起こす。湿気ってなかなか火の点かない消し炭へ火種が広がる前に、小ぶりな鍋を掛けた。
一掴みの押し麦とミルクを水で薄めて、申し訳程度に蜂蜜を溶かす。
「ミルク粥?」
調理の様子を眺めていた男が尋ねた。わたしはそれに目配せで答える。
小麦がなかなか育たないこの地では、パンさえ貴重なものだ。ミルク粥や、これに卵を混ぜて焼いたものがもっぱらパンの代わりだった。
もっとも、備蓄の少ない押し麦は、薄めすぎて、粥と言うよりもスープのようになっていたけれど。
「文句があるなら食べなくて結構よ」
「とんでもない。私の分も作ってくれたの?」
「わたしの家で餓死されても困るもの」
「人は一日食べないくらいじゃ死なないのにね」
ぱちり。爆ぜた火花が、男の端整な顔を照らした。嫌味か、一度見捨てたことを根に持ってからかっているのかと思ったけれど、どうやらそうではないらしい。
漏れ聞こえた笑いは悪意ではなく、喜びを含んだものだったから。
「ありがとう、きみは優しいのだね」
男が花のように笑うので――男性にそう形容するのもおかしな話だけれど――、口元まで出かかった反論は喉の奥に仕舞っておいた。
(本当に優しい人間は、肩を濡らした旅人を一度でも見捨てたりしないわ)
商売の他で礼を言われ慣れていないせいか、面映ゆさも相まって返す言葉を失くす。
くつくつと煮立って膜を張りはじめたミルク粥が、静まっていた腹の虫をきゅう、とまた鳴かせた。
照れ隠しに乱暴に鍋をかき混ぜて、ふたつの器に同じだけよそう。片方をスプーンと一緒に無言で差し出すと、男は十字を切って受け取った器を軽く掲げた。
「天にまします我らが父よ、今宵も温かな糧にありつける幸せを感謝します」
短い食前の句を唱えた男は、リネンにくるまれたまま竈の前でスープになってしまったミルク粥を飲みはじめた。
一口一口、丁寧な所作で。礼儀に厳しかった母よりも綺麗な食べ方だ。
――本当に、彼は流れの旅人なのかしら。
そんな疑問が湧くほどには。
(……どうせ一晩の縁だわ)
新たにちらついた疑念を頭と一緒に振り払って、自分の夕飯に口を付ける。晴れていればそろそろ日が沈む頃だろうから、早く食事を済ませなければ。
「そちらの猫の食事は?」
ふと、最後のひとくちを口に運ぼうとした男が言った。ノスの姿を探してみれば、ベッド脇の敷物の上で横になっている。
「食事の時間に竈の前に居ないときはお腹が空いてない時よ。今日は村の市に降りたから、そこで沢山つまみ食いをしたみたいね」
「おやおや、ずいぶん手のかからない猫だ」
「ええ、まったく」
言葉の合間にミルク粥を飲み干す。一呼吸ほどの会話を相づちで切り上げると、わたしは手早く食器を片付けて竈の火を消した。
「火を分けなくてよかったの?」
暗くなった視界で、男がテーブルの上の燭台を見て尋ねる。
「日が落ちたら、極力火は使わないようにしているの。こんな山の中に人が住んでいると知られたら面倒だから」
「何故?」
「……ここは仮にもイングランド王の土地だわ。わたしが地代や税を払っているように見える?」
「あぁ、なるほど」
彼の問いに返した問いで、男は納得したようだ。この男、道理の認識にずれはあるが、どうやら理解は早いらしい。彼はそれっきり、尋ねる声をひそめて椅子の上で丸まった。
背もたれのない小さな椅子は、膝を片方抱えるくらいが限界だ。土間に横になれとも言えず、わたしは逡巡の末に男を呼んだ。
「ねぇ、……あの、あなた」
「……私?」
「そう」
「エディだよ」
「え?」
「エディ。そう呼んで」
呼びかけただけだと言うのに、男は聞いてもいない名を告げる。残念ながら、その通りに呼ぶつもりはなかった。
所詮、これは一宿一飯の短い奇縁だ。
「そんなところじゃまともに眠れないでしょ。こっちへいらっしゃい。横になるくらいはできるから」
袋状に縫い合わせた布に、干し草を詰めて形を整えたベッドへ向かいながら男を呼んだ。その足元は、不揃いな木材を敷き詰めて板張りにしてある。
人がふたり寝られる程度のベッドを置いて、もうふたり、かろうじて横になれるくらいの狭い寄せ木床だ。
寝心地は悪かろうが、椅子の上で背中を丸めてテーブルに突っ伏すよりはいくらかいいだろう。そう思って声をかけたと言うのに、彼は月の隠れた暗闇の中で、もぞりと身じろいだだけだった。
「ありがとう。でも、いいんだ。慣れているから」
そうまで言われれば、無理強いする気もなかった。
そう、と短く同調して、今度こそベッドに潜り込む。日の昇りとともに起きて、日が沈むと同時に眠る。この十七年、そうして過ごしてきたように。
目を瞑ろうとした頃、軒先を打つ雨音に混じって、男の声が聞こえた。
「きみは?」
寝入りばなにしてはしっかりとした声が尋ねる。「なんと呼べばいい?」
黙っていれば寝たふりができるだろうかと考えて、けれど、わたしは忍び寄る睡魔に舌足らずになりながら答えた。
「……グウェン」
白を意味するウェールズ語。
久しく呼ばれていなかったわたしの名前を、彼は確かめるように二度三度と口にした。
「そう。おやすみ、グウェン」
「……、おやすみなさい」
おやすみなさい。その挨拶も、一体何年ぶりに交わしたことだろう。
一日の終わりを示す挨拶を交わす相手が、イングランド人であることに微かな引っ掛かりを覚えながらも、いつもより疲れた身体はあっと言う間に微睡みの誘惑に取り込まれる。
意識は、ふつりと、小雨の音に連れて行かれた。