その 二
6
白い布地にバスの車内の様子が映しだされた。その映像は少年の記憶の再現フィルムだ。彼の視界をとおして乗客たちの頭がゆらゆら揺れているのがわかる。
「誰かに揺り起こされたような気がする。目がさめたらバスのなかだった。それも魔女バス。車内は暗くて静かでまだ夢を見てるのかと思った。でもそこが現実だと知って……ぼく必死で逃げようとした。このまま連れていかれたら二度と戻れない。そんな気がした」
タイチは半分眠っているようなぼんやりした瞳で自身の記憶を目で追いながら黒木たちに説明をしてゆく。信じがたいことに、彼は魔女バスの車内で意識をとり戻した。本体から抜き取られた魂はいわば影のようなもの。普通は目がさめない。
バスは人々の魂を乗せて夜の国道を走っていた。窓の外には海がひろがっている。それまでズボンのポケットの中で握りしめていたキーホルダーをタイチ少年は取り出した。彼はしばらくのあいだそれを見つめていた。すると、隣の席に座っていた同い年くらいの男の子がタイチの肩を叩いた。
もうひとり、めざめた子がいる!
その男の子は銀色っぽい白い髪をしている。
彼はだまって窓を指さした。タイチは窓を調べる。カギがかかっていない。車内の様子をうかがった。誰もが無言で座っている。
すぐ前の座席にいた幼い子は二人してゆらゆら頭を揺らし、後ろの座席にいた中学生くらいの女の子は白目をむきだして微動だにしない。
目覚めているのは二人の少年だけだ。静まりかえった車内で聞こえる音といえば、ハンドルを握る運転手が犬のうなり声のようにひとりごとをつぶやく声だけ。白髪の少年がせかすようにタイチの脇をつついた。
タイチは窓をあけた。ひらりと車外へ飛び出す。野球で身につけた俊敏さをいかして、後ろ手で窓を下ろして車外で宙ぶらりになる。バスが急カーブで減速したときを逃さず、彼は思いきって飛び降りた。
そして、タイチは鬼火のゆらめく真夜中の砂浜をひた走り、ララミたちに出会ったのだ。
黒木がパチンと指を鳴らすと彼はハッと我にかえった。
テーブルクロスにうつる映像が消える。黒木はタイチの頭をくしゃくしゃと手荒になでながら言った。
「キミを助けてあげたい。いったい何があったのか僕たちに教えてくれないか」
しばらくうつむいていたタイチはやがて答えた。「わかった」
彼らは地下室から階上へと戻った。夕食後の散歩には少々遅いが、みんなで「レミの家」を出た。夜空には月が浮かんでいる。
「ちょっと待って」ララミが裏庭へ引きかえし、青い自転車を押してすぐ戻ってきた。
「タイチくん、今日疲れてるでしょ。午後じゅうずっと野球やってさ。眠くなったらいつでも言ってね。乗せてあげるから」そういって荷台を軽くたたく。
(霊が疲れたり眠気を感じるかよ)黒木はそう思ったけど笑顔で黙っていた。
彼らは森をぬけて海岸へ出る。海面は月光に照らされ、無数のきらめきが魚の群れのように輝いている。黒木もレミもララミもだまって歩く。やがてタイチがぽつぽつ話しはじめた。
「このキーホルダー、友だちからもらった大事な僕の宝物なんだ」ポケットからそれを取り出して三人に見せた。
「なんて名前なの、その友だち」レミが聞いた。
「ケント。学校の同じクラスで野球チームもいっしょ……だった」そこまで言ったところで彼は声をつまらせた。「死んじゃって、もういない友だち」
7
タイチは、村山町という広島と山口の県境にある町に住んでいる。ムサコさんという奇妙な老婆の出没することでその町は知られていた。ムサコは子どもを見かけると「いこかあ。ばあちゃんが好きなとこ連れてってあげる。いっしょにいこかあ」と言いながら、ぴたっと体を寄せてくる。そのため別名「いこかばあさん」とも呼ばれている。
ムサコはいっけん人がよさそうだが、細い目はまったく笑っていない。背中にいつも黒いコウモリ傘をしょっているという情報もある。
小中学校では不審なおばあさんに話しかけられても絶対に口をきいてはいけないと生徒たちに指導していた。ムサコは子どもの行きたいところならどこでも連れて行ってくれるが、そのかわり、子どもの寿命は何年分か奪われてしまうらしい。
取られる命の年数は、ムサコさんといっしょに飛んだ距離に比例すると言われていた。たとえば山口県から出発したとして、目的地が東京と北海道だったら、北海道のほうが遠いぶん命はよけいに持っていかれてしまう。外国だったらいったいどれだけ失われるのだろう。そういう対価交換だった。もちろんムサコのお誘いをまともに聞く子なんてほとんどいない。だが、ついていってしまう子もいる。怖いもの知らずの勇気は子どもの特権といえばそれまでだけど。
行くか? それとも、逃げるか?
タイチの通う学校でもムサコの話題で盛り上がった。クラスで最初にばあさんについていったのは、マッシー。マッシーは東京ディズニーランドへ連れて行ってもらったそうだ。ランドに滞在したのは時間にして一時間ちょっとだそうだ。興奮まじりに話す彼に級友たちは尊敬のまなざしをおくった。それを皮きりに「ムサコと旅にでた」という生徒がつぎつぎと名のりでる。
「仲のいいケントも、そのひとりだった」タイチは言った。
「これが噂のばあさんか。いっちょ、ためしてやれ」
冒険心あふれるケントは差しだすムサコさんの手をとった。彼女の目があやしい輝きをはなつ。背負った傘をひっこ抜くとボンッとひらいた。次の瞬間には、ケントとムサコはゆらゆらとはるか上空を飛行していた。あたしの手をしっかり握っててよ、と言ったムサコさんの傘はまるでほんとうの大きなコウモリになって翼をはためかせるようにばたばたと風に乗っていた。
「で、おまえはどこへ行ったんだ」
タイチが聞くと、ケントはちょっと考えたあと、「教えねえ」と笑って走り去った。
さては嘘をついたな。タイチは彼のあとを追いかけた。
冬休みを目前にひかえたころ、三年生の男の子が急死した。
彼はムサコについていった生徒だった。はげしく衰弱し、入院してあっというまだったという。
授業中、タイチが不安をおぼえてケントの横顔をそっとうかがうと、彼は夢みるような遠い目をして、ぼんやりしていた。ケントはムッとしてタイチに言った。
「死んだ男の子は遠く旅したんだ、きっと。考えてみろ、マッシーたちはぴんぴんしてるぜ。あいつらのほうが先にばあさんと会ってるじゃん」と強がった。
「心配するな、タイチ。オレは遠い場所へ連れてってもらってない。しかもほんの数分だぜ」それ以上、ケントはムサコのことを話したくないようだった。タイチは追及するのをやめた。
「だけど、不安はなくならなかった。マッシーが新学期が始まってすぐに死んだんだ」タイチは言った。
「ある日、ケントが学校を休んだ。ぼくは学校が終わるのが待ちきれなくて、仮病をつかって昼休みに校門をとび出した。あいつのことを考え、これ以上は走れないというくらいのスピードで走った。
ケントの家に着いて、出てきたお母さんの顔を見て安心した。インフルエンザだったのよ、とあいつのお母さんは話してくれた。
ぼくとケントはチームのレギュラーだ。中学に行くまで二年間はいっしょにできる。もし、ケントが死んだら、ばあさんめ。ただじゃ、おかないぞ! ぼくはキーホルダーを握りしめた。いまもこうして持っている。ケントのじいちゃんは大阪に住んでて、あいつが甲子園球場のおみやげに買ってきてくれたタイガースのキーホルダーは、すごく大事なんだ……それで、ケントは次の週には登校してクラス全員ホッとした。
でも、そのころからあいつ、以前と感じが変わってしまったんだ」
ケントは快活でいつも冗談でみんなを笑わせるような少年だったという。しかし、夢をみてるようなぼんやりがいっそうひどくなり、ぼうっとしていることが多くなった。口数も少なくなり、学校の行き帰りもだまって歩くことが多くなった。
春休みになった。タイチはケントの家へ行って「サイクリングに出かけよう」と、なかば強引に誘った。海岸線に沿ってどれだけ遠くまで行けるかという、かねてからの計画だった。
彼らはお弁当を自転車のかごに入れて町をとび出した。ケントはあまり乗り気じゃなかったけど、出発すると少し元気になった。長い坂道をくだっていくと海沿いの街道に出た。潮風にシャツをはためかせながら二人はぐんぐん自転車をこいでいく。
その日はまるで冬に戻ったかのような寒さだった。灰色がかった空がみるみる暗くなり、昼をすぎたころ白いのが降ってきた。
「雪だ! 春の雪」
空を見上げると、雪が目のなかに落ちてきた。ひんやりして気持ちよかった。 ふたりはここで折り返すことにして、自転車をおりて海岸に出た。
くずれそうな廃屋のそばで角材にすわりこんだ男がひとり、ラジオを聞いていた。足元に火を焚いて、それが荒涼とした風景のなかひときわ輝いていた。 頭上ではカモメが鳴きながら大きく旋回し、雪は細かくさらさらになってきていた。
突然、ケントがぽつりといった。
「これから楽しいことがあると思うか」
「なに言ってんだ。僕たち、まだ子どもだろうが」タイチは驚いて友人を見た。ケントは例の遠い目をしていた。
「あっというまさ。大人になるなんて。学生が終わって会社勤めが始まって、そのうち家庭をもって子どもが生まれて……つまり、なんということのない毎日が単調に過ぎていく。友だちともだんだん会わなくなって仕事と子育てに追われて、気がつくといいオッサンになってる」
見てきたきたふうにいうな、と言いかけてタイチはハッとした。
「そう。ムサコに連れてってもらったのは、オレの未来なんだ。一瞬でいいから自分の将来をつぎつぎに見せてくれ、そう頼んだ。 早送りの映像をところどころ停めて再生するように、この先の人生を見させてもらった。残念なことに、とりたてて誇れるものがない平凡な日々だった」
ケントの顔を見て背筋が寒くなった。 目にはまるで生気がなかった。
「あのとき、ぼくはあいつに何か言葉をかけてあげたかな。よく覚えていない」タイチはさびしげに振りかえった。
砂浜に長いわだちの線をひきながら、彼らは自転車をひいて歩いた。踏み切りの乾いた音が鳴りひびいて電車がゆっくり追い越していく。雪は波打ちぎわにまで降り積もり、少年たちはそのまま無言をつらぬいて長いこと海岸を歩いた。
それが、ふたりで過ごした最後の時間だった。
新学期が始まってまもなくすると、ケントは学校に来なくなった。少年野球のリーグ戦が始まったが、彼は練習に来ることもできなくなっていた。その頃には入院していたのだ。
(治ったらまた二遊間を守ろうぜ)ときどき、タイチはユニフォーム姿の親友とグラウンドに立っている姿を想像した。しかし、願いは叶わなかった。
その知らせをタイチははじめは冷静に受けとめた。
「ケント、亡くなったんだって」
声をふりしぼってタイチは両親にそう伝えた。彼が部屋に引き返そうとする背中越しに、父親がつぶやくのが聞こえた。
「五年生になったばかりだろ。人生これからなのにな」
その言葉を聞いたとたん、こらえていた涙がぼろぼろ流れた。押し入れからひっぱり出した布団に顔を押しつけて、タイチは声を押し殺して泣いた。 そのまま眠ってしまったらしく、気がつくともう夜中で、寝かしつけられていた。カーテンを開けると、夜空にはたくさんの星がまたたいていた。
8
ケントの将来の夢はプロ野球選手だった。少年野球チームでは四番。ショートを守っていてとてもうまかった。しかし生まれつき心臓が悪くて、毎週日曜に練習や試合に来られるほど体は丈夫ではなかった。彼の背中には幼少時に受けた手術の痕がすごく大きく残っていて、着替えのとき傷跡を見るたびにタイチは胸が苦しくなったという。
「ケントが死んでから、ぼくはなんとかしてムサコのことを忘れようとした。そのばあさんのせいじゃない、ケントは病気に負けたんだ。そう自分に言いきかせた。でも、できなかった。練習のあった日の夜なんかにはとくに、あいつのことが思いだされて泣きたくなった。そして、しぜんとムサコのことを考えてしまう。僕は絶対にそいつを許せなかった。ケントはもう戻らない。でも、復讐したいという気持ちはどんどん大きくなっていったんだ」
しかし、タイチはムサコに会ったことがなかった。彼のなかで妖婆のイメージだけがどんどんふくれあがっていく。不思議なもので、願望というものは、正であれ邪であれ、その人の念が強ければ強いほど叶っていく。強い負の想いが魔を引き寄せたか。タイチはムサコに出会ってしまった。
夏休みに入った。夕方、練習の帰りにタイチが歩いていると前から中学生の三人組がやってきた。すれ違うときにタイチは聞いた。
「ムサコの家がこのへんにあるらしいぜ」
タイチは彼らが通りすぎるのを待って、周辺の家々をさぐり始めた。何軒か見てまわったとき、視線を背中に感じて、ふと振りかえると、二階の窓から自分をじっと見つめている顔に気がついた。
その瞬間、タイチの背筋にぞっと寒気が走った。そこには黄色の顔をした老婆の顔があってその視線には残忍なものが感じられたからだ。
(ひょっとしたら……)そう思ってよく見ようと急いで窓の下へ走っていって見あげたが顔は消えていた。しばらく立ちつくしていたが、考えてもらちがあかないので、その怪しい家の場所を覚えて帰った。
その夜。不気味なおばあさんの顔がまぶたの裏に焼きついて離れない。興奮したせいもあってか、タイチはなかなか寝つけず、それでもうとうとするうち、何かが部屋のなかで動いている気配を感じた。彼は驚いて起きあがろうとしたが、すでに金縛り状態で身動きがとれない。
暗い部屋の隅で、もそもそ動いていた黒いかたまりが、みるみるうちに人の姿となる。それは夕方に目撃した老婆だった。彼女はベッドの上で動けないタイチをじっと見おろすと、皺だらけの黄色っぽい顔を近づけて言った。
「あたしを恨んでいるようだね。なぜか知らないけど。忘れることだよ。これからも詮索するようなら、あんたの身に保障ないよ」そうささやくと、すうっと音もなく窓辺に立って、そのとたん透明になって外へすり抜けていってしまった。
このことがあってから一週間はあの家に近づかずタイチは老婆の警告にしたがった。
しかし、あのおばあさんがムサコであることに間違いはなく、親友の命を奪った張本人に対する憎しみは強くなる。かといって小学生の自分があの女へ復讐をどうやってすべきか分かるはずもなく、けっきょく、タイチは無意識にあの家へと足を向けてしまった。気がつくと玄関前にいた。
まさかとは思ったが、押すと扉はぎいっと開き、タイチは中へ飛びこんだ。家はひっそりと静まりかえっている。ムサコは二階にひそんでいるかもしれない。そう思って足音をしのばせて階段をあがる。上の階は二部屋ともがらんとして誰もいない。顔の見えた部屋はありふれた家具があるだけで特別に目をひくものはなかった。夕陽差しこむ部屋の壁に飾られた一枚の額縁が視界に入るまでは。
それを見たとき、彼の心に恐怖が、そして怒りがこみあげてきた。
その額縁のなかには無数のポラロイド写真がびっしりとピン留めされていた。それらすべて少年少女を写したもので、そのなかにはタイチも知ってる村山町の子もいた。そして……ケントの強がっている写真があった。
そのとき、タイチの背後にとつぜん影が現れて彼がふりかえる暇もなく目と口をおさえられた。もがいたのはわずか数秒、すぐに暗闇の奥へ引きずりこまれるように彼の意識は遠のいた。気がつくと、魔女バスの車内にいた。
9
「知らないうちにバスに乗せられているなんて、情けない」大事な局面でエラーをした選手のように、悔しげに言葉をしぼりだすタイチの顔は少年でなく、大人のような険しい表情だった。ならんで歩いていたララミはその横顔をそばで見つめていると胸が締めつけられるように感じた。
「危険な好奇心は絶対、後悔することになるからね」レミはタイチに注意をうながした。
「おそらくムサコは」と黒木。「子どもの寿命をつまみぐいするだけでなく、時には魂まるごとさらってるんだね。どこかへ売り飛ばしているのだろうか……人間は魂を抜かれてしまうと意識不明になる。個人差はあるけど人によっては、二、三日は昏睡状態がつづく。無事、体に戻れればいいが、そうでない場合、たとえば箱なんかの容器に閉じこめられたら始末が悪い。そのまま箱ごと取引されるなんてこともある」と解説する。
「バスのなかで目がさめて、ホントよかったね」最後にララミが言った。
(普通は目覚めないけど)黒木はそこは口に出さず笑顔をつくる。
「ぼく、寝起きいいんだ。朝練で早起きも平気だし」とタイチ。そのあとでこう考えた。(起こしてくれた、あの白い髪の男の子のおかげだな)あの少年をふくめ、バスの乗客たちはどこへ向かったのだろう。
「それに、バスから飛び降りたあと、あたしたちに出会えてあんたはラッキーだよ、タイチ」ララミは得意げにつづけた。「きっと、あたしのおかげね。霊を引きよせるチカラのね」
それはあるかな。先頭を歩いていた黒木は、ララミのたぐいまれな霊感体質についてしばし考えた。それから少したって振りかえると、なんと、ふたりの姿はない。夜の海が目の前にひろがっているだけだ。
10
タイチがこれまでの経緯を黒木たちに話し終えると、待ってましたとばかりにララミは彼の脇をちょんと突っついて、Uターンをかましたのだった。
彼女は自転車のサドルにまたがって、タイチを荷台に乗せるとペダルをこいだ。ララミは力がないのでハンドルがぐわんぐわん揺れて、自転車はくねくねと倒れそうに蛇行して走る。タイチはふり落とされないように、ララミの腰に両手をまわして体を強く寄せた。こうして二人乗りをしていると、自分が魂だけの存在だなんてとても信じられない。ララミの体温を肌で感じていると、彼は気持ちがやすらぐと同時に、なつかしさを覚える。(なぜだろう?)その感情は、心配をかけてしまっている両親への申し訳ない気持ちもまざっていた。
砂浜に左右に振れまくっているタイヤの跡がつづく。タイチはそれを見て、まだケントが元気だったころ、夜の学校にしのびこんで、自転車二人乗りで校庭を駆けまわった日のことを思い出していた。
「ちょいと休憩」
ララミはそう言うと自転車を浜辺に倒し、二人はあおむけになって寝そべった。澄んだ夜空に星が輝いている。
「見せてよ、あれ」彼女がばっと起きあがって言う。
「あれ、ってなに?」
「あれッていうたらアレよ。キーホルダーに決まってるでしょ」
タイチは言われるがまま、ケントの形見を彼女に差しだす。ララミはせつなさをおぼえながらタテジマのキーホルダーを眺めた。
(!?)
ララミは一瞬、「KAKESU」という文字が虫みたいにうごめいたのを見た気がした。タイチにそう言うと、ひどく不機嫌になった。もういちどよく見たが、それはただのプリントされたアルファベットにすぎない。
(あたしもお疲れかしら)そのことは、タイチの「あ、また鬼火だ」という声にかき消されて、すぐに忘れてしまった。ララミは夜の海にうかぶ鬼火を見ていたらタイチと初めて会った晩、といってもつい三日前のことだが、魚ごっこをして遊んだ場面がよみがえってきて、ぷっとふきだしてしまう。
「あたしね、よっぽど霊に好かれてしまう体質らしいよ。ひきつけてしまうんだって」そのことを自慢したらよいのか困惑したらよいのか、わからないのであえて淡々と説明する。
「青白いただの鬼火じゃあ、おもしろくないしキレイでもないでしょ。だからママに頼んでシーツに細工してもらったの。カラフルでいいでしょ。鬼火リサイクル」
そのあと彼女の「魚ごっこ鑑賞の手引き」が延々とつづいた。
海辺でトスバッティング、催眠術、夜中のサイクリング。小学五年生には盛りだくさんの一日だ。タイチはぼうっとしはじめた。だけど不思議とちっとも眠くならない。
ああ、ほんとうにぼくは魂だけの存在なんだな。お父さん、お母さんは横たわるぼくの体のそばでどんなに悲しいだろう……。悲しげなタイチの様子にララミも気がついて口をつぐむ。そこで、落ちこんでいる彼に、ひとつアドバイスを送った。
「手紙を書きなよ、ご両親に。僕の魂はワケあってこの町に滞在しています。なるべく早く帰ります、って感じで」
数年前に父親を失ったララミにとって、母はかけがえのない存在だ。だけど日本じゅうを飛びまわる日々を送っているレミとはすれちがいの生活になることも多い。だから母娘は置き手紙をとても大事な伝達手段にしているのだった。
タイチはララミのやさしい心づかいに感謝した。
「好きな魚? ぼくはとびうおが好きだな」彼がララミの質問に答えたとき、彼女はそれがじつにタイチにぴったりだと感じた。空にむかって飛ぶ魚は夢に手をのばそうと努力する子どもたちのようだ。
「いいな、タイチは。熱中するものがあって」
「ララミさんはめざしてるものとかないの? 目標とか」タイチに聞かれて彼女はかるく笑って目をふせた。
「ママみたいにのめりこむほど音楽に興味ないし。シグレほど絵が好きじゃない。かといってスポーツは……」とせりふがフェードアウトした。運動神経がにぶいのだ。
「ぼくはたまたま早く出会えただけだよ。お父さんが言ってた、人は生きがいとか人生の目的なんて、いつ来るかわからない。だから待つことが大事なんだってさ」
そんなこと話してくれるお父さんがいていいわね。ララミはときどき町で父親が娘にお菓子などを買ってあげている場面などに遭遇するとせつない気分になる。
遠い昔の記憶ではパパが海辺で幼いあたしにアイスを買っていっしょに食べたような気がするのだが、それが事実なのかそれとも作りあげた架空の思い出なのか、もはやわからない……。
ララミは肩にかけたポシェットから、おもむろにコンパクトを取り出すとフタをあけて携帯スプーンで中身をすくってぺろっと舐めはじめた。
「何? それ」タイチが聞いたので、ひとさじすくって彼の口のなかへ突っこんであげた。
「うへっ、しょっぱい」
「ミソよ、栄養あるのよ。何にでもつけて食べれるし、栄養あるんだから。もう一口あげよっか」タイチはありがとう、でももういいですとスポーツマンらしく丁重に断った。
「さあもう戻るわよ、タイチは帰ったらご両親に手紙書くこと。約束ね」ララミは急に先輩風をふかせはじめた。
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突然ひとりぼっちになった黒木が来た道をひきかえしていくと、しゃがみこんでいるレミがいた。先日の夢のなかと同じ仕草で彼女は両手でこめこみを押さえている。
「あたま、すごおく、痛い」ついさっきまで元気だったレミが激しい頭痛に襲われてうずくまっている。「おかあさん、ちょっと休んでくから。ララミ、先に行ってて」
(娘とまちがえてる)レミの「予感力」は最高潮だ。それをびしびしと感じて黒木の胸中に不安がひろがっていく。
「レミさん、俺ですよ。きりんです」
「あら。どうしたのかしら……困りましたわねえ」彼女が正気にもどりかけたとき彼の目の前に幻像があらわれた。それはあのとき見た夢にあらわれた男の子の影だ。それはタイチの姿ではない。その影は何人もいて腕が無数にこちらへ伸びてくる。
レミの予感はあたった。その晩、異変がタイチの身に起こる。何の前ぶれもなく。
夜の散歩から戻った一行はさっとシャワーだけ済ませてはやばやと就寝した。十一時すぎのことだ。タイチはベッドであおむけになってキーホルダーをながめていた。ララミがつぶやいたひとことが気にかかる。
「字が虫みたいにうごめいた気がした」
なに言ってんだ。もう一年ちかく持ってるけど、そんなこと一度もないぞ。カーテンの隙間から月の光が差しこんで部屋は薄闇に沈んでいる。ぼんやりした暗闇のなかタイチはキーホルダーにプリントされた「KAKESU」の文字をじっとみつめた。ほら、何も変わらない。もう寝よう。キーホルダーをにぎった手を横たえたその瞬間、彼は見えない何かにからめとられたように身動きがとれなくなった。
キーホルダーが光をおびて輝いている。その輝きが部屋の鏡に反射して映っていたが、鏡のなかのほうの光がみるみる大きくなってその中に人の顔が浮かびあがった。
「みつけた」
声がして、光がすうっと鏡から抜け出して動けないタイチの腕をとってひっぱりあげた。助けをよぼうにも声がぜんぜん出ない。
そのとき、寝室のドアがあいて黒木とララミが現れた。鏡にからだ半分吸い込まれて、残った半分でバタバタもがいている。ララミが素早くタイチの足へ飛びつく。
つかまえた。しかしそれは一瞬。タイチの足は半透明になっていき、ララミは、どすんとベッドに落下した。なすすべないふたりが見ているなかタイチは鏡に映るまばゆい光のなかへ連れ去られてしまう。その輝きもやがて消えてしまった。黒木とララミは暗い部屋に残されてしまう。ああ、とララミがくやしげに声をもらした。
「あのキーホルダーの文字バケに気がついたのに。もっと警戒していたら防げたのに」
「普段と違う状況に出くわしたときは注意しなくちゃいけないんだ、どんな小さなことでも。うっかり見すごしてしまいがちな変化を見落としたことで、人ひとり救えないことがある」黒木の言葉は口調こそやさしかったが、表情はいつになく真剣でけわしい眼差しであった。ララミはべそをかいてうつむいてしまう。
「でも。ほら、やっこさん、証拠物件を置いてったよ」キーホルダーを手にとると彼はほくそえんだ。それは静電気のようなかすかな霊気を帯びていて、タイチを連れさった犯人の居場所をつきとめるのにじゅうぶん手がかりになる。
12
黒木凛のララミへの指導は、中学生の女の子にはちょっと厳しい注文といえるかもしれない。しかし世の中には、死と隣りあわせの危険な状況で淡々と任務を遂行する男の子がいる。
その少年の名はミヤオといった。
彼に課せられた任務はふつうの人間では到底できないようなものだったが、ミヤオは恐いもの知らずというか、かなりの自信家だったので、まるで自分が一流のスパイであるかのように仕事にとりかかった。自身の機敏さと感性を信じているのだ。
はじめは、魔女バスに乗ってひと晩寝たふりをしつづけるということに対して「面倒くさいな」と感じたが、かつて幼少時、(といっても、ミヤオはまだ九歳なのだが)幽霊列車で三日間の旅をしたことがあったのを思い出して、あれよりはマシだろうと考えなおした。そして、夢遊病者のようにふらふら歩く子どもたちの列にまざってミヤオはバスに乗りこんだのだった。
いま、彼は古い屋敷の地下道で身をひそめている。いりくんだ迷路のような薄暗い通路だ。冷たい石壁に耳をあてるとかすかに波の音が聞こえる。ミヤオは曲がり角の手前でじっと気配を殺していたが、前方の人影が向こうへ行ってしまうのを待ってふたたび足を進めた。やがていくつもの扉が並ぶ廊下にたどりつく。そのなかに、見張りの男の子が立っている扉がある。その子は、魔女バスのなかで見た人たちのように、心ここにあらず、といった感じで目はあいているけど、まばたきひとつしないで宙の一点をじっとみつめている。彼は抜かれた生霊のなれの果て。もう肉体に戻れなくなった、いうなれば目に見える死霊だった。
ミヤオは看守の少年がひとりしかいないことを確認すると、すばやくお尻のポケットから小ぶりなピストルを抜きとって彼を撃った。音たてず発射された弾は看守の首すじに突きささる。すると驚くべきことに、それまで死んでいたような彼の目に生気が宿った。しかしそれはほんの一瞬で、彼はまぶたを閉じると膝からくずれて前のめりに倒れてのびてしまった。
ミヤオはすぐさま扉に駆けより、鍵がかかっていることを確認すると、胸のポケットからヘアピンを取りだして鍵穴に差しこむ。カチリと扉は開いてミヤオは難なく密室に侵入した。窓のない物置のような小部屋の片隅で膝をかかえてすわってる少年がひとりいた。数時間前に連れ去られてきたタイチだ。
とつぜん扉があいて、銀色がかった白髪の少年が入ってきたのでタイチは驚いた。ミヤオは人差し指をくちびるにあてて、シーッと大声をあげないようタイチに指示をしてから彼の隣にすわる。
「バスではありがとう。せっかく脱出したのに、見てのとおり……」
「みつかってしまったようですね」とミヤオ。
タイチはキーホルダーから出現した女、それはあのムサコにちがいない老婆にさらわれてこの部屋に閉じ込められた顛末を話した。ミヤオはときどき前髪をかきわけながらうなずいている。
「そういえばこのドア、鍵がかかっていたはず……! キミ、どうやってここに入ったの?」タイチは不思議に思った。ミヤオは胸ポケットからヘアピンを出してみせる。
「ちょっと工夫をこらせば案外かんたんですよ。ひとつひとつ片づけていけば、たとえ困難な状況でもきっと打ち破れるってそれホントの話。まあ、今はちょっとひと休みさせてください。この部屋はひんやり涼しくていいなあ」
「……冷たいとか熱いとか、まったく感じなくなってるんだ、ぼく。感覚がマヒしてるのかな。なんだか視界もぼやけてきたし」それを聞いてミヤオはうっかり発言を反省した。
「味はわかるの?」と聞いた。
「なんとなくね。最近はお好み焼きしか食べてないけど、おいしくいただいた」二人は笑い声をあげた。ミヤオがあわてて、シーッと小声で注意をうながす。
彼は思った。タイチの五感はかろうじて残っている。でも今後はどうだろう。早くしないと、視覚、聴覚、つぎつぎ失われていって、やがて完全な無感覚になっていく。ほんとうの霊になってしまう。
ミヤオはふところから小さな巾着袋を出すと中から白い丸薬のような球体をひとつ、つまみだした。ビー玉くらいの大きさで、かすかな輝きをおびている。まるで強烈な光を封じこめているようだ。ミヤオが指でそれをはじくと、その玉はタイチの着ているシャツをすりぬけて、さらに体内へと吸収された。タイチは一瞬、何をされたのかわからず、きょとんとしていたが、それまで感じられなかった感覚がみるみる戻ってきたことに驚く。
「びっくりしたでしょう。今あなたに打ちこんだのは生体エネルギーのエキスをぎゅっと詰めこんだ、まァ、薬みたいなもの。ボクは『ハートの結晶体』と勝手に名づけて呼んでます。いまの一粒でしばらくは元気でいられますよ」
「キミいったい、なにもんだよ?」
「じつは魔女バスであなたを目ざめさせたのは、ボクなんです。ハートの結晶体を五、六粒も打ちこめば眠っている生霊の意識を起こすことだってできます。ボクはワケあって魔女バスに乗りこんでいたんですけど、隣りあわせたあなたが気になりましてね」
「どうして」とタイチ。
「うまく説明できないんですけど……直感ですか。妙にひっかかりましてね、大事に持ってたあのキーホルダー。さらわれた魂が何かをつかんだまま運ばれるなんて、通常ありえないのです。ああ、これは『持っている』のではなくて、『持たされている』のだな。そう気づいたときにはもう、眠っているあなたの体へこの結晶体をつかんで押しこんでいました。
「こうして再会したいま、自分のするべきことはよくわかっています。申し遅れました。ボクはミヤオといいます。明日にはあなたにかけられた『縛り』をといてさしあげます。もう幽体離脱ツアーはおしまいにしましょう。
まあ、こうしてまた隣にすわるのも何かのご縁。夜があけるにはまだ時間がたっぷりあります。語りあおうではないですか」九歳の少年はそう言って白銀の前髪をかきわけながらほほえんだ。
「一時的とはいえ感覚も戻ってきたことですし」そう言うと、ふところから二個コップを取りだし肩にさげた水筒から麦茶を注いでタイチの前にさしだした。
「それから、これ。甘いのお嫌いでなかったら」ふところから携帯コンパクトを取り出した。それはララミがさきほど海辺でくれたミソの入ったコンパクトと色ちがいでフタの色がさっきのは赤、こちらは青。(またミソか?)と思ったらミヤオがスプーンにすくってくれたのはハチミツだった。
「ここらじゃ流行ってるのか? そうやって食べもん持ち歩くの」タイチが聞くと、ミヤオはこみあげる笑いを必死でこらえている。
「ボクたちきょうだいのあいだでは、ね」
え、とタイチは意表をつかれて言葉をうしなう。
「姉のララミとボクはきょうだい、レミの子どもです」シーツに映した魔女バスの記憶映像がタイチの頭をよぎった。
「みんなキミのこと何もいわなかったぜ」三人しめしあわせてミヤオの正体を内緒にしていたのだ。レミとララミ、黒木。揃いに揃って。
「伝えるべきときが来たらちゃんと教える。そういうことでしょうか」とミヤオ。
「その三人とボク、みんなで力を合わせればなんとかなるはず……信じてくれますか?」その問いにタイチは力強くうなずいた。
「あの人たちの目を見たときにわかった。信頼できる、って」タイチのこの言葉を聞いてミヤオはにっこりした。
「ぼくにも手伝えることがあればやるから」とタイチは言った。チームプレーの精神が大事なことは野球を通じてよくわかっているつもりだ。