その 一
1
夏の夜。海沿いの道で急カーブにさしかかってバスが速度を落とした瞬間、ひとりの男の子が窓から飛び降りた。つんのめって転んでしまい、かぶっていた野球帽がぬげてしまう。けれどすぐに帽子をかぶりなおして走りだし、すぐに岩かげに隠れた。
バスはそのまま遠ざかる。夜中の浜辺は静かで、打ち寄せる波の音しか聞こえない。少年は胸ポケットから小さくて黄色いものを取りだす。キーホルダーだ。野球のユニフォーム、タテジマ模様に「61」という数字と「KAKESU」というアルファベットがプリントされている。
月あかりのしたで男の子はキーホルダーをぶらさげて見つめている。やがてそれをポケットにしまいこみ周囲をきょろきょろ見わたして人影の無いことを確認したのち、ぱっと走りだす。そのまま彼は海岸をひた走った。
やがて海面に鬼火がふわふわ漂いはじめ、海岸は薄あかりにつつまれる。火の玉は少しずつ増えていき、いつしか群れとなって波のうえで揺れている。青白い炎はつぎつぎと集まってくる。少年は落ち着かない。不安はどんどん大きくなる。
ひとけのない波打ち際にとつぜん、騒々しい話し声がひびきわたって静寂をやぶった。少女が二人と犬が一匹、浜辺に降りる階段をばたばた駆けおりてくる。長い黒髪の女の子が夜風に髪をなびかせて砂浜に立つ。メガネ少女がそれにつづく。小型テリア犬がしっぽをふって彼女たちのあとを追う。
走りつづけていた少年はそれを見て思わず立ちどまった。(こんな夜中に何してんだ?)彼は少女たちの様子をうかがう。
先を行く少女が丸めた白い布をくるくると広げて砂浜に立てた二本の杭くいにくくりつけた。布は風よけとなって、彼女たちと犬はその前に腰をおろしてバスケットケースからお菓子を取り出しておしゃべりを始める。黒髪少女が一方的に話しまくり、メガネ娘は相づちをうつ。犬は二人の会話にあわせて鼻をフムフム鳴らす。
「なにが花火だ!」元気少女は苛だちをおさめることができない。その週末の夜、町では花火大会が開催されることになっていた。
「ハナビーがなんだ! あたしにはオニビーがある」ふっきれたのか少女は立ちあがり、サンダルを脱ぎ捨てて裸足で波打際へかけてゆく。海からの風でばたばたとはためく白布に一直線にむかう。両手を真横に伸ばしながら。すると沖にひっこんでいた鬼火の群れがまるで獲物をみつけたようにすごい速さで飛んでくる。
いっぽう、三つ編のおさげ髪のメガネ少女は持参したスケッチブックを開いて月あかりのもとデッサンを始めている。接近する鬼火には無関心で、丹念に鉛筆を走らせる。
彼女は自分の見た夢を描写することを日課としていた。その日みた夢はキノコ王国だ。その国では人間が地面からにょきにょき生えていて、キノコ王が手足のあるキノコ家来たちをしたがえて人間狩りを楽しむ。人々は身動きとれないので悲鳴をあげたり、諦めの薄笑いをうかべて立ちつくしかない。そんな夢だ。
はためくシーツの前でしばし目をとじていたほうの少女が顔をあげた。鬼火はすぐ目の前まで接近している。炎は彼女のすぐそばを直進し、そのままシーツをすり抜ける。すると、火の玉は魚に姿を変えている。そうやって変身した魚の群れは少女たちのまわりをぐるぐるまわる。
赤、紫、緑色、色とりどりあざやかな無数の光が闇夜にきらめき、シーツは幻燈スクリーンとなって魚の群れを映しだす。テリア犬はジャンプを繰りかえして魚に飛びつくが、するっとすり抜けてしまう。女の子は髪が顔にまとわりつくのを気にすることなく両手をひらひらさせて跳ねまわる。
やがて彼女は闇の向こうからじっと自分をみつめる視線に気がついた。すっかり機嫌がなおった少女は踊りをやめて少年に声をかける。
「どこから来たの?」
男の子は黙ったまま、ここまで走ってきた砂浜のはるか向こうを指す。
「ふうん…こんな夜遅くひとりで何やってるの」彼は答えない。
「ま、いいや。あんたもこっち来ていっしょに遊ばない?」少年は一瞬ためらったが、見えない力に引っぱられるように勝手に足が進んでしまう。少女は輝く魚たちにあわせてまたくるくると踊りはじめる。男の子はテリア犬の頭を撫でながらその光景をぼんやり眺めている。
メガネ少女が背後から彼に声をかけた。
「あのコははララミ。あたしはシグレ。心配ないよ。ダイジョブ、ダイジョブ」それだけ言うとまたスケッチに戻った。
沖をただよう鬼火がときどきやってきてはシーツをすり抜けて魚へと姿を変え、やがてその数はじょじょに増えていく。デッサンを終えたシグレと名乗った少女はパレットを取りだして絵の具で日記をしあげていく。少年はシーツの前に立つ。布地に触れようとするが、手ごたえなくそのまま体ごとシーツの向こう側にすり抜けてしまった。姿はそのままだったが。ララミはびっくりしてシグレを見やった。
「ダイジョブダイジョブ」シグレは呪文のようにそうささやくと絵筆をしまい、大きく伸びをする。その日の夢日記が完成したのだ。
少年は光る魚たちを捕まえようと躍起になるが魚は身をくねらせて彼の手をかわし、宙を飛びまわりつづけている。
2
そのころ、黒木凛氏は、ひと仕事を終えてのんびり過ごしていた。「コックリさん」をやりすぎておかしくなった女子中学生を助けるという依頼だった。彼がその家を訪問をすると真相はすぐに判明。憑かれていたのは娘でなくて母親のほうだった。母をあやつる悪い霊に連日いじめられて我慢できなくなった娘さんは授業中に奇声をあげたりして級友たちを怖がらせることで気をまぎらわせていたらしい。黒木が母親に憑いた悪いものを、ぽんと追いだすと、お母さんは正気に戻ってきょとんとしていた。少女と両親はまた仲よく暮らせるだろう。
さて次の依頼はまだ来ていない。黒木はホテルでぐうぐう眠っていた。すると、夢にレミが現れた。レミというのは黒木の昔からの友人で同業者、先輩にあたる女性だ。
夢のなかでも黒木は公園のベンチに寝ころんでうとうとしている。夜空を星が地平線のかなたへひゅんひゅん流れては消えていく。そのひとつがすぐ近くに落下して公園は白っぽい光につつまれた。ベンチからころげおちた彼の前で光は炎にかたちを変えてめらめら燃えている。
そのなかからすらっとした長身のレミが現れて接近してきた。その顔は穏やかにほほえんでいるが両手で頭をかかえて「ただいま悩みちゅう」のしぐさだ。レミが「悩モード」で現れると近い将来、困った事件が起こる予兆である。彼は動揺しながらも懸命に平静をよそおって「オッケーサイン」をだす。
早くもレミの背後でもやもやした人影が見えかくれしていた。さらに彼女の肩の少し上あたりに男の子とおぼしき顔が浮かんでいる。
そこへ、とつぜん公園のなかに爆弾が投入されたかというくらいの衝撃波が落っこちてくる。すさまじい爆風に二人は吹き飛ばされる。砂塵が舞い飛び霧のようにたちこめるなか人影が飛来して二人に襲いかかった。その直後に黒木は目をさます。
ベッドの上だ。現実にもどっていた。
3
黒木は森の小道を急ぐ。日は暮れかかっている。途中で足をとられて転倒し、顔面から着地してアゴをすりむいてしまった。それからは注意しながら進むと前方にこぎたない小屋がぽつんと建っている。「レミの家」だ。ベニヤ板を貼りつないだ粗末な造りで窓にはうす汚れたカーテンがかかっているため室内の様子はわからない。玄関ドアを黒木はノックした。すると、ほんの少し扉が開いて、隙間から片目がのぞいて質問してきた。
「ポーといえば?」
「カー」彼は答える。黒髪をうしろにたばねた少女が扉をあけてくれた。
みすぼらしい外観とうって変わって小屋のなかはこぎれいだ。花柄もようのピンクの壁紙、ふわふわソファーのあるリビングと小さいが清潔なキッチンを備えている。
「なんだ。きりんさん、か」
「元気なさそうじゃん」と黒木。だってね、と女の子は説明する。
「好きだった同じクラスの男子が六月で転校したの。いちど手紙をくれたけどね、あたし返事は出さないんだ。だってもう二度と会えないことわかっていて望みをつなぐなんてイヤだもん」少女はソファーにすぱんと飛びこんですわる。彼女の話が長くなる前に黒木は用件をきりだす。ママに頼まれてきたんだ。(夢で会っただけなので正確には依頼されたわけじゃないけど)
「ママはお出かけ。ララミはお留守番」少女は言った。
彼は窓辺に近づき裏庭を眺めた。外はとっぷりと日が暮れて夕闇に沈んでいる。デッキチェアに座っていた子どもが黒木の気配に気づいて、さっと逃げだして木立の奥に隠れた。
「おととい、魚ごっこしてるときに会ったの」ララミはその男の子をちらっと見て説明する。
「あのコ、ふしぎなの。幽霊じゃないわ。でも、人間でもない」黒木は眉をひそめた。そのとき玄関があいてレミが入ってきた。
その日のレミは、長い髪をまるで塔のように高く盛りあげたヘアスタイル、インドの民族衣装のような金色のドレスといういでたちで現れた。肩かけバッグから太鼓のような民族楽器がのぞいている。
「あら、きりん。いらっしゃい」レミはぱっぱと自分の荷物を片づけていく。
「お友だちがモロッコへ旅行いってたの。お話聞いてたらアフリカ音楽への興味がむくむくふくらんできちゃって今日も町で練習、あ、おみやげのお饅頭たべる?」レミは早口でいっきにまくしたてる。
黒木は推測する。モロッコ帰りの友人とは、かつてレミに助けられた人かもしれない。彼女の周辺ではさまざまな運命を背負った人々が不思議な磁力で引かれあう。「レミの家」を起点に縁はどんどんひろがっていく。今回「レミの家」に流れついた客はあの少年だろうか。
黒木は二日前に見た夢の内容をレミに話す。彼女の表情に一瞬、さっと緊張が走った。少年はいつのまにか庭に戻っており、隠れた木の後ろからはタイガースの帽子がはみだして見えている。レミは人脈もすごいが「予感力」がとてつもない。残念なことにそれは悪いことばかり的中する。
近所に越してきた家族に会ったとき、レミは不吉な予感をおぼえた。半年後、ご主人が莫大な借金をして失踪しまい、残された家族はまたどこかへ去っていった。そんなことがしょっちゅうある。
「ダイジョブダイジョブー」母親が黒木に予感をつげる前に娘はおふざけ口調でさえぎって玄関から出てゆく。窓の外でスキップするララミにあわせて彼女のポニーテイルがぴょんぴょんはずむ。
4
男の子が「レミの家」に滞在することになった。黒木の心配をよそに平穏無事にまず一日が過ぎる。少年の名はタイチといった。年齢は十一歳。ララミより二つ下だ。はじめは叱られた犬のように静かにしていたが、翌日には少年らしい活発さで動きまわっていた。きっかけはレミだ。陽気な彼女にかかれば、どんなに警戒心の強い人もペースに乗せられてしまう。
「あたしの勝手な憶測なんだけどひとつ聞いていいかな。あなた野球やってない?」タイチは思わずうなずいてしまう。「野球帽かぶってるからそんな気がしたの」
(ベースボールキャップかぶってる子がみんな野球やってるとは限らないだろ)と黒木は心の中でつっこみを入れる。でも、直感の鋭いレミには到底かなわない。
心を閉ざしたタイチをなごませるのは黒木の役目だった。
初めて会った夜、彼はすりむいたアゴに絆創膏を貼った顔で自己紹介をしたが、少年は、ふんと鼻を鳴らして「受け身がヘタですね」と無愛想に言っただけ。そのあと会話は続かなかった。
だけど翌日には海岸で野球に興じてふたりはすっかりうちとけていた。バットのかわりにヒノキの棒をかまえるタイチに黒木はゴムボールを放り投げた。少年は空振りをくりかえす。たまにあたってもボテボテばかりだ。
「いつから左打ちなんだ?」たまりかねた黒木は聞く。
「好きなカケス選手にあこがれて野球始めてからずっと」少年は答えた。
「でもキミは右利きだろ。ためしに右で打ってみろよ」その助言にしたがってタイチは右打ちで構えた。すると別人のようにボールを強く打ち返した。少年の目が自信にみちて輝きはじめる。
ついには海にむかって弾丸ライナーをかっ飛ばすまでになる。ボールが波に乗って砂浜にもどってくると犬がそれをくわえてララミに渡す。こんどは彼女が黒木にボールを渡す。黒木はバット(棒)をかまえるタイチに投げる。そのくり返し。
おだやかな夏の午後。太陽がやさしく照りつける。シグレはすこし離れたところで彼らのボール遊びを眺めている。
「オサボリ、オサボリ」彼女はスケッチブックをこの日は家に置いてきた。ひと晩で三本立ての夢を見た日などシグレは絵日記を前倒しで描いてしまう。漫画家志望の彼女は仕事が早いのだ。
タイチのトスバッティングは夕方までつづいた。
そうやって遊んでいると、タイチは普通の少年にしか見えない。しかし彼は肉体をよそへ置いてきた生霊だ。何日も過ごしているが、そのままでいいわけがない。魂が留守の体のほうがダメになってしまう。
タイチを救うには彼が心をひらいた今夜がチャンスだろうか。
夕陽が岬の向こうにかくれ、空が美しい紫色に染まる。あたりが暗くなる。
「ごはんよお」かん高い声がした。エプロンをしたまま出てきたレミが立っている。みんなを呼びにきたのだ。
シグレはとちゅうで飼い犬のフムフムと自分たちの家へ帰っていく。女の子と犬の影が長く伸びる。森の奥の「レミの家」の近くまで来ると、手の届くところにいろんな木の実がなっていて、タイチはプチトマトを小さくしたような実に触れてみた。
「おいしそうねえ。家に帰ったらトマトあるかなあ」ララミが言った。
「トマトに塩つけてかぶりつきたい」とタイチ。
「キュウリもいいね。夏は野菜が美味しい。でも秋もいいよ、このへんは栗や野ブドウが採れるの」ララミは年上らしく振る舞ってほほえんだ。
(またお好み焼かもしれないぞ)黒木は笑いあっている子どもたちを尻目にそう考えていた。
「さあ着いた。今日はたくさん遊んだからおなか空いたでしょう。先にお風呂はいってから夕飯にしましょうね」レミが玄関をあけると食卓には鉄板プレートとお好み焼きの準備が整っていた。野菜どころかおかずはなんにも用意されていない。
5
「わあ」タイチはじゅうじゅう音をたてるお好み焼に歓声をあげる。三日連続だがタイチは飽きない。
「山口じゃ、うちでまでお好み焼きしないな」タイチが言う。
「へえー。山口県か」と黒木。「どうしてこっちに来たの?」タイチはそこから先は口を割らない。もやしとキャベツのたっぷり入った広島風お好み焼をぺろりと平らげておかわりをした。
食後。テレビのナイター中継を観ながらソファーでくつろいでいるタイチにララミがそっと近づいて言った。
「ちょっと、あたしのお願いをきいてくれない?」タイチはふりむいた。
「地下に来てほしいのよ。球場で選手と撮った写真があるはず。探すの手伝ってよ。ちなみに直筆サイン入り」もちろん口から出まかせだ。彼はにんまりした。タイチはまだこの家の地下室におりたことはなかった。興味もあったので喜んで承諾する。
「レミの家」は小さな平屋だが立派な地下室を備えている。しかもかなり広い。初めて入った者は誰もが驚く。
暗い室内に目が慣れてまず視界にとびこんでくるのはギターやキーボードが置かれたステージ。本棚にはずらりと大量の本がならび、部屋の隅にはビーカーやフラスコなど実験器具が並んでいる。
呆然と立ちつくすタイチを二人が背後から取り押さえた。
「ごめんね」あやまりながらレミが片手で少年の口をふさぐ。足をばたばたさせて抵抗する少年をかかえて、黒木はステージに引っぱっていく。
そのままステージに座らせてタイチの手首をつかまえた。
じっと彼の目をみつめる。少年は動揺して身を引いた。そこへレミが白いテーブルクロスをさっと持ってきて彼の腕にひと巻きして固くむすぶ。
「オーケー」彼女は合図をして椅子へと身を沈めた。
「キミに起こったことを拝見させていただくね」
黒木はタイチの額に人差し指と中指をあてて、ぐっと顔を近づけて彼の目の中をさらにみつめる。深く、深く。
タイチの瞳は眠っているようにとろんとしてくる。黒木は自分の意識を少年のなかにすべりこませた。