2-2 ストーカー
僕と佐藤の予想に反して、好感度ランキングの作業はものすごい速度で進行していった。それはこの企画の面白さに共感してくれた部員や有志が大量に手伝ってくれたからだ。一ヶ月はかかるだろうと見込んでいたのに、一週間程度で既に作業は半分以上進んでいた。
「ご飯の時はパソコン閉じてヘッドエモーションも持たない」
家で夕食を食べながら作業をしていたら母に注意された。僕は慌てて機器を脇に置いて食事に集中する。
「陽介はいいな。作業が楽しそうで」父がビールを飲みながら羨ましそうに見てきた。「おれの仕事はもうだめだ」そう言ってうなだれる。
「家の中でそういう話止めてよ」
僕の横で妹が不満そうに父に言った。妹、里穂は長めの髪を頭の上でまとめて椅子の上で両膝を立てている。
「ほら。里穂足立てない」
母に叱られて里穂は渋々姿勢を正す。風呂上がりなので短パン、ノースリーブシャツというラフな格好だ。ダイエットのためとかいって長風呂なので頬が上気して赤い。けれど僕は知っている。妹が湯につかりながらタブレットで漫画を読んでくつろいでいることを。里穂より先にお風呂に入ることを許されない僕と父親は結局夕食後に風呂に入ることになる。まあ、寝る直前に入る方が落ち着くから特に文句はないのだが。
「父さんを助けようという気はないのか? もっとみんなに小説を読むように勧めてはくれないのか?」
「だってお父さんととこの小説ってESついてないじゃん」里穂は父親を見ずに言った。「今どきそんなの流行らないよ。登場人物の気持ちつけてくれなきゃ」
「それじゃあダメなんだ」父は大きく首を振る。
ああ、これは長くなるかもしれないぞと僕は里穂に不満の目を向ける。里穂はわたしのせいじゃないと言うように肩を竦める。
「それじゃあダメだ。本という形態はな、人間の感情を揺さぶる最高の媒体なんだ。本は読んだ人の感情を変える。それは文字だけで構成されてきたからだ。想像する余地を残してきたからだ」ちゃんと聞けよと言うように父は僕と里穂を見る。「そもそも感情はな。思考と関係しているんだ。思考なきところに感情なし。だから考えなきゃ心は動かない。考えさせるのが小説だ」感情の高ぶりと共に語気が強まっていく。「ESなんてつけたら強制的に登場人物の感情を共有させられて、想像と思考が抜け落ちちゃうだろ。これがまずいんだ」
「小説の付録についてる感情はちゃんとプロがやってるんだよ? ああいう綺麗な感情いいよね。最近じゃ女優よりも感優が人気あったりするんだから」里穂が呆れるように言った。
ああ。そういう文句言うとまた話が長くなるんだからやめろって。
父は不満そうに里穂を見る。
「それは父さんが言いたいことと違うぞ。そういう職業のことを言ってるんじゃない」
「でも、父さんの理想通りになったらそういう人は職を失うんだよ?」なおもつっかかる里穂。
「だから、父さんが言いたいのは」そこで父は僕を見た。「なあ。陽介ならわかるよな?」
「いや。僕もよくわかんないよ」
「なんでだ? お前だって中学まではあんまり好きじゃなかったじゃないか。周りの子はヘッドエモーションを親に買って欲しいとよくねだっていたみたいだが、陽介は一度も言っていない。それなのに高校生になったらいきなりどうしてだ?」
「僕は父さんと違って別にESが大嫌いってわけじゃなかったよ。ただ、なんとなくやりたいと思わなかっただけ。けど高校生になってみんな持つようになったし、これから先も必要になりそうだったから早めに慣れとくのは大切でしょ?」
ただ直結だけはいまだに誰ともできないが、それをいま父に言ってもしょうがないので口には出さなかった。
そもそも僕は所属している部もESP部だし、この部に入ってからだいぶESのことを好きになり始めていた。だから僕に助けを求められてもしょうがない。
父はがくりと肩を落とした。
「父さんは別にESがすべて悪いと言っているわけじゃない。役に立っている部分があることも理解している。けど最近の高校生は、いや今や小学生ですらESSを前提としたコミュニケーションに慣れすぎているのが危ないって言ってるんだ。父さんが学生の時は相手の感情なんて完全にはわからなかった。けど、だからこそ必死で想像して沢山会話して相手の感情を推測したんだ」
「お父さんの世代は頭が固すぎるんだよ」里穂は苛立たし気にかぶりを振る。「情緒がどうとか、生理的に無理とか、今の学生が心配とか言うけど、わたしたちにとってはこれが普通だから」
「他の人に自分の感情が知られることにも何も感じないのか?」
「なあんも」里穂はくだらないとでも言いたげな顔で食事を進める。
父の視線が僕に向く。
「陽介が最近ベストセラーになっているES付きラブストーリーを買ったのも、異性からの好意を数値化できるプログラムソフトを買ったのも、つまりは時代が変わったということか?」
父の嘆きに一瞬口の中に入れたものを噴き出しそうになった。
身体が沸騰するように熱くなる。なぜ知ってるんだ。僕は母を睨む。母は視線を避けるように遠くの方を見ながら箸を動かしている。あれほど掃除はするなって言ってるのに、また勝手に入ったな。しかも見たものを父に告げ口するなんて。
「なになに? おにいちゃん好きな人いるのー?」にやにやと里穂が訊いてきた。
「いや、あれは部活の資料だって」
「今のお前の感情は共有しなくても手に取るようにわかる。それはな父さんがESSのない時代を生きてきたからだ」
だがしかし、と父は言った。
「お前は好きな子の感情がわからないんじゃないか? どうやって相手の好意を知るんだ? 想像とか推測の力がお前にも必要なんじゃないか?」
父はそう言って僕のヘッドエモーションを指さす。
「いい加減に息子をからかうのはやめてください」母が父をたしなめる。そもそも母が勝手に僕の部屋を掃除しなかったらこんなことにはならなかったのに。
「っていうか想像と推測とか言ってるけど、お父さんにはわたしたちの気持ちがわかってるの? ESSが嫌ならお父さんには一生わからないかもしれないけどね」
父はしょんぼりと項垂れる。そして静かに箸を手に取った。
僕は急いでご飯をかきこむ。
「ごちそうさま」
食べ終わった食器を流しに運んでさっさと部屋に戻る。やらなきゃいけないことは沢山ある。父には悪いが、家族の談笑は後回しだ。
それから僕は学校の放課後と家に帰ったあとの時間をつかって、好感度ランキングの作業と以前の保存形式の感情ファイルをどうやったら最新バージョンに変換できるのかを調べた。
好感度ランキングの作業はすでにやるべきことが固まっていたので、頭を使わずにただひたすらパソコンを操作していればよかったが、雨宮のためにと始めたことはまず何をすればいいのか調べる必要があるので大変だった。
まずはインターネット上に保存されている資料を調べる。過去の保存形式と現在の保存形式の差を理解する。そしてわかったことは、新しい保存形式では基本的には感情の情報量が増えているが、脳にダメージを与える可能性が少しでもあるとみなされた部分は削除されていることがわかった。きっとこの差が誤差になっているのだろう。
となると削除されてしまう部分をなんとか補完できれば元の状態を維持できるということだ。
でも、その具体的な方法は調べても調べてもわからなかった。
とりあえずは今までわかっていることを伝えようと次の日放課後の情報処理室で雨宮に声をかけた。
最近では雨宮も部活のない日でもこうしてひとりで作業をしていることが多い。今まで調べてわかったことを丁寧に説明した。
「そっか。じゃあ、その方法がわかったら7月以降もヘッドエモーションで共感できるかもしれないんだね」
「うん。肝心の方法がまだまったくわからないけど」
「いや、わたしひとりじゃ絶対に思いつかなかったから、これは大いなる一歩を踏み出したと言っても過言ではないよ」雨宮は笑った。
「そうだといいんだけど」
「そいえば部長さん。例の企画は順調に進んでますか?」
部長という呼ばれ方にドキッとした。
「例のっていうのは?」
「噂になってますよ。ランキングのやつ」雨宮はにやにやと笑った。
「噂っていうのは、どんな?」
「期待と不安と嫉妬と軽蔑かな」雨宮は指を折りながら言った。
「……四分の三がマイナス意見なんだけど」
「大丈夫だよ。体感では期待が70パーセント以上だから。わたしもどんな感じなのか楽しみだし」
「それならいいんだけど」
「尾道くんは他にはどんな企画考えてるの?」
「えーと、感情シートに付随する新しいシートの作成とか、映画同好会や文芸部との合同企画とか」
「へー。おもしろそうだね。今年の部誌は盛り沢山だ」
「雨宮はなにか企画思いつきそう?」
会話を膨らませようと話題を振ってみる。雨宮は頭を横に振った。
「全然。これ結構難しいね。一応書店とかネットとか色々調べてみたけど、なかなか思いつかない」
「そんなにきっちりしてなくていいよ。こんなこと言うのもなんだけど、文化祭だし部活だから、僕らが面白くて手にとった人が面白がってくれそうな企画ならなんでも。雑誌に載ってる企画そのまま使っちゃってもいいぐらいだし」
雨宮はじーと僕の顔を見る。
「な、なに?」顔に変な物でもついていただろうか。
「尾道くんはさ。なんでそんなにやる気に満ち満ちてるの? ESSが大好きって感じがむんむんだけど」
「そう見える?」
「見えるか訊くかってことは本当はそうじゃないの?」雨宮が目を丸くする。
雨宮に伝えるべきかどうか悩む。こんな個人的な胸の内を明かしても雨宮に気をつかわせるだけじゃないかとも思うが、それほど深刻に考えることでもないなと僕は口を開いた。
「実はさ。高校に入る前はそんなにESSが好きじゃなかったんだよね」
「ええ? そうなの?」大袈裟に雨宮は驚く。「こんなに頑張ってるのに?」
「今はね。けど中学生の時も小学生の時もできるだけ使わないようにしてた。中学まではヘッドエモーション持ってる友達もそこまで多くなかったからいいけど、高校生になってからみんな親に買ってもらい始めたからね。このままじゃ学校で浮くというか。これからESSが普通になったら時代に置いてかれそうな気がして、それでESP部に入ることにしたんだ」
「へえ。そんな理由があったんだ。じゃあ、今は嫌いな食べ物を頑張って食べられるように努力している感じ?」
「そんなところだね」
「じゃあ、今はもう大丈夫になったの?」
「だいぶね。ヘッドエモーションつけることも相手の感情を体験することも楽しくなってきた。ただ」僕はそこで言葉を切る。
雨宮は何かを察した顔になる。
「もしかしてこの前折原さんのやつでヘッドエモーションつけるの躊躇ってたのって」
「うん。直結がまだ苦手なんだよね」僕は首元をぽりぽりと掻いた。
直結というのはパソコンを介せずにヘッドエモーション同士を直接接続して、いま感じている感情を相手に伝えることだ。
「なるほどねえ。てっきりわたしのことがちょっと嫌なのかと思っちゃったよ」
「え?」慌てて手を振る。「いやいや。そんなことはないよ。原因は僕にあるわけで」
「それならよかった」雨宮はほっと胸をなでおろすように息を吐く。
「実はさ。この部誌もその一環なんだよね。ESSに慣れるための、ESSがもっと好きになれるように、直結が自然とできるようになるために色々調べたり試したりしてるんだ」
「リハビリの一種ってことね」
「うん」
しばらくゆったりとした空気が流れる。
と、何の前触れもなく朗らかな空気を破る乱暴に扉を開ける音。きっと感情が高ぶると扉を開ける力も大きくなるのだろう。感情と行動が直結している人物の突然の乱入。
五季華音が鼻息を荒くして僕と雨宮の空間に割って入ってきた。
今回は二股騒動の時のように泣きじゃくってはいなかったが、その顔は彼氏のことをふっきって清々しいというより、どことなく落ち込んでいて暗かった。
負の感情が蓄積されて、それで感情が高ぶっているようだった。
「彼氏ができない」
五季華音は悔しそうに唇を噛み、僕と雨宮がつかっていた机に両手をついた。そしてがくりと項垂れる。
五季は椅子を運んできて机を挟んで僕と雨宮の正面に座る。
「そんな簡単にはできないと思うけど」雨宮は優しく励ます。
「もしかして光奈ちゃんは彼氏いるの?」
不思議なことだが女子は簡単にお互いを名前で呼ぶようになる。男同士は名字が基本だから不思議な感じだ。
「いやいや」雨宮光奈は慌てたように首を振る。「いないよ。全然いない」
五季はほっとしたような顔になる。ちなみに僕も同じように胸をなで下ろした。そういえば雨宮に彼氏がいるかどうか知らなかった。自分で訊くことなんてできなかっただろうから、思わぬ形で情報を得た。いや、雨宮に彼氏がいないからってどうということはないのだが。
「欲しいよね!?」脅迫するような五季の声音。
「いやー」雨宮はちょっと困った顔になる。そりゃあそうだ。男子がいる中で堂々と恋バナに花を咲かせる女子はそうは多くないはず。実際さっきから雨宮は僕の方を気にするように言葉を選んでいるようだ。「どうだろうね」
雨宮がそうはぐらかすと、鬼気迫る声で五季が言った。
「わたしは欲しい! 彼氏が欲しい! ただでさえあんな奴にもてあそばれて心が傷ついているのに、慰めてくれる人が見つからない」五季は僕のことを意に介せず思うがままに言葉を吐く。「このまま夏休みに入ったら、わたし、生きて二学期を迎えられないかも」
突拍子のない考えに思わず、そんなことないと突っ込みたくなるが、五季が醸し出す緊迫した雰囲気にちゃかすことは躊躇われた。
「華音ちゃんは可愛いからいい彼氏がすぐ見つかるよ」
五季が顔を上げてじっと雨宮を見る。
「わたしはわかってる。男子が好きなのはちょっとロリ入ってる光奈ちゃんみたいな子。こう、守りたくなるような子だよ」
「大丈夫。華音ちゃんも十分ロリ入ってるから」
心配いらないよというように雨宮は親指と人差し指で丸をつくる。
「えっ? まじで?」
雨宮が力強く頷くと、五季は少し表情を明るくした。
「でも、わたしももうちょっと髪がさらさらだったり、肌がすべすべだったなら」
五季は自分のくせのある髪と頬のそばかすを少し撫でた後、羨ましそうに雨宮を見る。
「なにを言ってるの華音ちゃん。時代はハーフだよ。華音ちゃんのすらりとした足は誰にも勝てないよ。目もぱっちりで鼻も高いし」
「でも、わたしより身長低い男子が多いんだよ?」
「そんな男子華音ちゃんにふさわしくないよ。背が高い方がいいでしょ?」
それもそうだなと言うように五季は何度も頷いた。
「でも、僕らにそれを言われてもどうしようもないよ」
居心地が悪くて口を挟まずにはいられなかった。それにしても五季の彼氏を探すなんて手伝いようがない。誰かを紹介してと頼まれても、こっちはそれほど候補を所持しているわけじゃない。そもそも五季の前の彼氏である折原雄矢のような人物は友達にいない。あの人は見た目も性格も規格外だ。
五季が目を細めて僕を見る。
「わたしはただこの彼氏ができない気持ちを伝えたいだけなのに。男子ってすぐそうなるよね」
「そうなるって?」
「結論というか方法というかそういうことを言い出す前に、まずはわたしの気持ちをわかって欲しい」
「……ごめん」
僕が謝罪すると五季は自分のスマートフォンを取り出して操作しだした。
「尾道くんのアカウント教えて」
僕が伝えるとすぐに見知らぬアカウントから感情ファイルが送られてきた。
「まずはわたしの気持ちを体験してから話を始めましょう」
さあどうぞと促されて僕は五季の気持ちを共感する。心の中に空洞ができて、その空洞を手に届く色々なものを掴んで埋めようとするが、いっこうに空洞を塞ぐことができずに焦るような気持ち。
「どう?」五季が期待のこもった目で見てきた。
「五季の気持ちはよくわかったよ」
「じゃあ手伝ってくれるよね?」
……気持ちをわかって欲しいだけじゃなかったのか。
「わたし知ってるんだからね」五季が顔を近づける。
「なにを?」
「好感度ランキングつくってるでしょ?」
思わず即答できない。別にやましい気持ちがあるわけではない。既に学年全員がこの企画の存在を知っているだろう。けど、五季がそのことを僕に訊いたということは、このあと五季の口から飛び出す言葉は容易に想像できる。
「それが?」
一応とぼけてみる。
「誰がわたしのこと好きなのか教えて」
嫌な予感は的中した。
「お願い。わたし、本気だから」
何に対して本気なのかは不明だが、確かに五季の瞳は熱をはらんでいる。癖のある髪が前に会った時より乱れている。心なしかそばかすも増えている、ということはさすがにないか。
五季の彼氏がいなくなった原因は僕にはないが、それでもその場にいた者としては手伝えるなら助けたい。五季がどれほど彼氏を切望しているかも知っているし。
「けど、誰がどの感情かわからないんだよ」
僕は正直に事情を説明する。
「どういうこと?」五季が訊ねる。
「僕たちは学年全員分の感情を集めてるけど、読み込んでいる時点でどの感情が誰の感情かわからないように識別番号を暗号化してしかもランダム設定にしてるから、僕たちにもどの感情が誰のなのかわからない」
学年全員に協力してもらうためには匿名性が必要だったため、そのための対処法だ。
今までも五季と同じように自分に好意を持っている人を教えて欲しいと言う人はいた。けれど、元々そういう使用方法ができないように僕と佐藤で準備していたのだ。
「でも暗号化ならその暗号を元に戻す方法もあるはずでしょ?」
食い下がる五季。簡単には納得しない。
「それもあるけど、そもそも学校の備品つかってる人もいるし、その人たちの感情は識別番号が学校のだから。もちろん学校の管理システムの中ではどの感情が誰のかちゃんとわかるだろうけど、緊急事態でもない限り教師でも見れないことになってるから」
五季は思案する顔になった。きっとどうにかして抜け道を探そうとしているのだろう。やがて方法がないことを理解したのか、ぐったりと肩を落とした。
「……だめだったか」五季はそうぽつりと呟いた。「じゃあ、せめてわたしのことが大好きな男子の感情を共有させて! わたしに幸せを感じさせて」
切迫した表情。僕は雨宮を見る。雨宮はいいんじゃないというように小さく笑った。
しょうがない。
「わかった。それは協力するよ」
五季の顔がぱあと明るくなる。
「ありがとう」満面の笑み。
僕はパソコンを操作した。五季華音に対する好感度という感情フォルダを開く。その中で、一番数値が高く五季に好意を抱いているファイルを起動できるようにする。
「じゃあ、ヘッドエモーションは」
僕の言葉の終わりを待たずに五季は自分のヘッドエモーションのプラグを僕に差し出した。五季のヘッドエモーションは色々とデコレーションがしてあって、とても僕のと同じ機器とは思えなかった。
僕は五季がヘッドエモーションを装着したのを確認して、ファイルを開く。
「これで喜んでくれるのかな?」
僕は五季に聞こえないように雨宮に小声で訊ねた。
「たぶんね」
雨宮のその言葉を裏付けるように五季の表情がみるみる明るくなる。喜色を浮かべるとはこのことだろう。
「そうそう。これだよ。これ。ああ。幸せ」
噛みしめるように五季はそう言ったが、その表情がみるみる曇っていく。ついには五季はヘッドエモーションを外した。その顔からは笑顔が消えて不満の色が出ている。
「どうしたの?」僕が訊いた。
「ちょっと見せて」五季がモニターをのぞき込む。
「いや、誰のかはわからないよ」
「……いや、わたしはわかったよ」五季はそう言うと突然ヘッドエモーションを床に叩きつけようとした。けれど振り上げただけで実際には腕を振り下ろすことはなかった。ヘッドエモーションは決して安物ではない。思いとどまった五季は椅子に腰を下ろす。
「どうしたの?」雨宮が不安そうに訊ねる。
「もしかして好意じゃなかった?」
間違えて違うファイルが紛れ込んでいたのだろうか。
「違う」五季は首を振った。「そうじゃない」
どことなく五季は悔しそうだった。
どういうことなのだろうと目で雨宮に訊ねるが、雨宮もどうしたことかと戸惑っていた。
「これ」五季が重々しく口を開いて、机に置いた自分のヘッドエモーションを指さす。「この感情、折原雄矢のだ」
その言葉を聞いて理解した。折原雄矢の好意を体験して五季は喜んでしまったのだ。せっかくふっきって先に進もうとしていたのに、匿名性が裏目に出た。
「なんでそんなことが」わかるの? と訊こうとしたら僕を待たずに五季が言葉を被せた。
「何度も何度も共有してたから、折原雄矢の感情はなんとなくわかる」
みるみる五季の表情が曇っていく。
「あれ、でも高校二年生だけでやってるんじゃないの?」雨宮が言った。
「そのはずだけど……」そう言って確認したら僕は自分の失態に気づいた。なんということだ。折原雄矢の二股検証をしていた時の感情が好感度ランキングのフォルダに紛れ込んでいたのだ。慌てて空き教室から飛び出したから、そのあとちゃんと整理できていなかったらしい。
つまり、あの時つくったフォルダにそのまま好感度ランキングで集めた感情を入れてしまったのだ。
こんな単純なミスで五季を落ち込ませてしまった。
「ごめん。僕のせいだ」
謝っても五季の表情は変わらず、打ちのめされたボクサーのように椅子にうなだれている。
「ほんとにごめん」
元気づけるつもりが逆に落ち込ませてしまった。
「いいよいいよ」力なく五季はひらひらと手を振る。「今なら冷静だからよくわかるし。折原のわたしに対する好きって感情は光奈ちゃんが言ってたように、わたしが新しい洋服買ってもらって大切に着ているときのそれと似てる気がするし」
沈黙が数秒間その場を支配する。
「ほ、他にもあるよね?」
雨宮が慌てて言った。
「も、もちろん。五季のことが好きっていう男子生徒は多いしね」
僕のミスということもあって慌てて別の感情を五季に共有させて上げたかった。五季はもう自分でヘッドエモーションを持つ気力がなかったので、雨宮が代わりに五季の頭にセットした。雨宮のゴーサインが出たので、僕はその感情を開いた。
五季の顔が徐々に生気を取り戻す。
「ああ、よかった」五季はそう声を漏らして顔を手で覆った。
よかった。僕も深くそう思った。が、安心したのもつかの間、手をどけて再び現れた五季の表情は少し青ざめていた。
不安げな瞳を持ち上げて僕らを見る。
「どうしたの?」恐る恐る僕は訊ねた。また変な感情が交じっていただろうか。
五季は静かにヘッドエモーションを外して僕に差し出した。「つけてみて」そう促されて僕は同じ感情を共有する。
大好きという感情が溢れだした。男子高校生の、その女子生徒が大好きでたまらないという感情。間違いなく好意を向けている。けれども僕の表情も曇った。この好意は明るくて弾むといった、それこそ雨宮の言うきゅんきゅんなんていう表現からはかけ離れている。粘着性があり、どことなく狂気も感じられる好意。爽やかさなんて欠片もなさそうなその好意の正体が僕もわかった。
ヘッドエモーションを外して五季を見る。
「これって」
「うん。ストーカーだよね」五季は怯えたように言った。
「えっ? ストーカー?」雨宮が驚いた声を上げる。「ほんとに?」
五季がはっと思い出したように自分の鞄を開いた。ちらりと中を見ると、ごちゃごちゃと乱雑な中身が見える。手を中に入れて一冊の雑誌を取り出した。表紙が折れ曲がっている。それは女子中高生の間で人気がある雑誌だった。妹がよく家の中で読んでいるので覚えている。僕の父親とはライバル関係にあたる出版社が発行している。
「これこれ」
五季は雑誌の最後についていたQRコードをスマホで読み込む。何かのアプリをダウンロードしているのだろう。横から盗み見ると、あなたの彼氏は大丈夫? ストーカー危険度チェック、と書かれた見出しが目に入った。
「ちょっと失礼」五季はそう言ってパソコンを操作しようとした。「さっきの感情わたしのスマホに送ってもいい?」
どうぞと僕は頷いた。
五季はスマホを操作して先ほどの感情を、ダウンロードしたばかりのアプリで開いたようだ。どうやら好意の感情をストーカーかどうか判定するアプリが雑誌の付録としてついていたらしい。
「やっぱりストーカーだね」
僕らは言葉を失った。好感度ランキングの中に紛れ込んだ異物。それは五季華音に対する強すぎるほどの独占欲と保護欲が混ざった感情だ。
「だ、誰の?」五季が絞り出すように言った。
僕は首を振る。
「いや、それはわからないよ」
「先生に言う?」
雨宮の提案に僕は考える。そうした方がいいのだろうか。
「思い当たりある?」僕は五季に訊いた。
「いや、全然。まったくない」五季は強く首を振る。
「最近変なことあったりとかは? 誰かにつけられてるとか、何かもらったとか、変な噂とか」
思い浮かぶストーカー被害を列挙してみる。
「いや、それも全然ないけど」
五季はまったく思い浮かばないと首を振った。
同学年の女子に対するストーキング行為とはどのようなものなのだろう。帰り道に後をつけて家を特定したとかそういったものなのだろうか。それとも本当に犯罪に触れるようなものなのか。
いや、そもそもストーカー的な感情を抱いているだけで罪なのかどうか。殺意を抱いたとしてもそれを不特定多数に犯罪予告として表明したり、悪意を持って使用したりしなければ罪にはならない。その観点から言うと、ただ単にストーカー感情を抱いたからと言って犯罪なのかどうか。
僕は頭を抱えて悩んだ。
とりあえず好感度ランキングにストーカー感情が混ざっていたのは事実だ。そこでさらに不安になることが思い浮かぶ。
もしかして他にもストーカー感情が混ざっているのではないだろうか。
僕は先ほどの感情ファイルを解析アプリケーションにぶち込んで、波形の特徴を読みとり、その特徴を元に同じような波形になっている感情はないか検索を始めた。
「どしたの?」雨宮が訊ねる。
「いや、他にもストーカーの感情がないか確認してる」
同じ人物が他の人間に対しても同じストーカー感情を抱いている可能性もあるし、まったく別の人間が同じような感情を持っている可能性もある。
不安になりつつ結果を待った。
画面に検索結果が表示される。ヒット数は1。同じ特徴の感情がもう一個あった。
雨宮が息を飲むのがわかった。
僕はその感情の情報をさらに精査し、驚きで目を見開いた。匿名性を堅持するための処置から免れた感情。僕はこの感情が誰の感情かわかる。
匿名にしようと決めた。もちろんそのつもりだったが、ちょっとした悪戯心でその処理をまだ行っていなかった。もちろん覗き見する気があったわけではないが、そのことをネタにちょっとした揺さぶりをかけてみようという魂胆はあった。
佐藤浩太。
五季華音に対するストーカー感情と同じものを、佐藤浩太も別のある女子生徒に対して向けていた。好きな人の話になったときに、色々ある、と言ってたのはこういうことだったのか。
まさか同じ部活に所属して、今まで多くの時間を共有し、同じ思い出を沢山つくってきた人間がストーカー感情を抱いていたなんて全く予想していなかった。
色々あるどころの話じゃない。大問題だ。
「もしかしてわたしにストーカー感情を向けてきたのも佐藤くんってこと?」五季が疑うような声で言った。
「いや、佐藤のは全部別に管理してたから違うよ」
「でも、何かしら関係がある可能性はあるよね」五季は僕の言葉を意に介せず何かを意気込んでいる。
とにかく確かめなければ。五季に対するストーカー感情を抱いていた男子生徒を探すことは一度置いておいて、まずはすでに判明している佐藤浩太の問題を解決させよう。
そう思い至って僕と雨宮と五季の三人は佐藤浩太の元へ向かった。