前編
子爵令嬢のシャルロッテはわかりやすく苛立っていた。
クッションをソファに投げつけるシャルロッテの後ろ姿を見て、侍女のリタはこっそりとため息を吐く。主人の不機嫌の原因はいつだって婚約者の子爵令息フェリクスであり、それをなだめるのが自分の役目だとわかってはいるが、連日のことなので、少々、いや、かなりリタは面倒になってきている。しかし肩で息をし始めたシャルロッテを見て、そろそろとめなくてはならないとリタは一歩を踏み出した。
シャルロッテのすぐそばまで行って声を上げる。
「お嬢様」
最初は気づいても無視をされるので、くり返し声をかけなくてはならない。
「お嬢様」
ソファの背に向かって投げつけられたクッションのにぶい音と、シャルロッテの荒い息遣いが響いている。
「お嬢様」
シャルロッテがキッとリタを睨む。
睨まれたことでリタは安堵する。反応が得られれば、シャルロッテがとまるときも近いと、経験上知っているのだ。
リタの予想通り、シャルロッテがリタを睨んでから、三度、クッションを痛めつけたところで、シャルロッテはボスンと音を立ててソファへ座りこんだ。
「お嬢様、お飲み物を用意いたしましょうか?」
シャルロッテは息が上がっているので頷くことしかできない。その主の上下に動く顎先を確認して、リタは部屋を出た。
「お待たせいたしました」
リタが運んできた果実水をシャルロッテはごくごくと音を立てて飲む。貴族令嬢にあるまじき行為だが、これもまたシャルロッテのわかりやすい苛立ちの表明なので、リタは黙ってシャルロッテが果実水を飲み干すのを待つ。
シャルロッテが行儀悪くグラスをテーブルの上に投げ出したところで、リタは声をかける。
「お嬢様、何かあったのですか?」
「何かあったのかですって?」
シャルロッテが真っ赤になって怒るのをかわいらしいと思っていることは、リタの秘密だ。表面上はひたすらに恐縮ですといった態度で、申し訳なさそうにしている。
「すみません」
「まあ、いいわ。そんなに訊くなら教えてあげる」
シャルロッテがどうしても話したかったのだということを理解しているリタは、頬がゆるみそうになるのを我慢しながら、神妙な面持ちで、シャルロッテの次の言葉を待つ。
「フェリクスが今日も花を持ってきたのだけど、その花が最低なのよ。私を馬鹿にしてるとしか思えないの」
記念日でもないはずなのに、これで五日連続のプレゼントだ。何か理由があるのだろうとリタは推測するが、その理由にまでは思い至らない。
「何の花だったのですか?」
リタの問いに、シャルロッテは鼻息も荒く答える。
「タンポポよ!!」
「……まあ」
その答えにはさすがのリタも一瞬言葉を失った。小さな子供でもあるまいし、十五をすぎた婚約者に、野に咲く花を贈るとはどういうつもりなのだろうかと、リタは考える。しかし変人の思考など、リタには理解不能なのだ。
フェリクスが変人なのは有名な話だ。発想が凡人とは違う。日常では忌避されるようなその奇特な特徴も、研究の分野では重宝される類のものらしく、フェリクスは学生でありながら、王立薬学研究所にも籍をおく秀才でもあるのだ。
タンポポの薬効の中に健胃がある。それを知る薬学の研究者のフェリクスが、胃痛持ちのシャルロッテのためにタンポポを贈ったのではないかと、リタは思った。平民のリタにとって、タンポポは身近な薬でもあるのだ。しかし貴族にとってはタンポポは雑草であり、胃薬ではない。
「お嬢様はここ数日、胃が痛いとおっしゃられていましたよね?」
「ええ、ここ数日、おかしなものが立てつづけに贈られてくるものだからね、腹が立つったらないわ」
リタは質問を間違えたらしい。再び怒りに火のついたシャルロッテは、今度はクッションに向かってパンチをくり出し始めてしまったのだ。
「お茶の準備をしてまいります」
リタは早々に撤退を決めた。
台所で紅茶と焼き菓子の準備をしながら、大事なお嬢様が今週に入って連日お腹立ちなのはいただけないなと、リタは考えていた。
シャルロッテはこのところストレス性の胃痛を感じているのだが、原因は明白だ。フェリクスの贈り物が変なのである。しかもその変てこな贈り物をわざわざ学園内で手渡してくるのだ。よりにもよってシャルロッテが友人たちとお茶をしている最中に。
そのプレゼントがアクセサリーだったり、かわいらしい小物だったり、気の利いたお菓子だったりするならば、シャルロッテが胃痛を起こすはずがない。
シャルロッテを苛立たせた最初のプレゼントは暗号解読本だった。シックなネイビーの包装紙に、ゴールドのシフォンのリボンが巻かれた重みのある四角いプレゼントを、シャルロッテは宝石箱だと思って笑顔で受け取った。渡すとすぐに去っていったフェリクスを見送ってから、友人たちの前で鼻高々でリボンを解いたシャルロッテの目に飛びこんできたのが、重厚な暗号本だったのだ。もちろんシャルロッテに暗号解読の趣味などない。
分厚い暗号本を学園のカフェテラスで渡されたシャルロッテは、友人たちの隠しきれない嘲笑の中、やっとの思いで帰りの馬車まで抱えて歩いたのだ。それが今週の月曜日のできごとだ。
火曜日のプレゼントは舶来の歯磨き粉だった。しかも女性が好むローズやジャスミンやフルーツの香料のものでなく、実用的なペパーミントの香りのもの。シャルロッテは「まるで口が臭いと言われているみたいだわ」と怒り心頭であった。
水曜日はレモンの香りのリップクリーム。これはまあプレゼントとしてそこまでおかしくはないのだが、怒りの中のシャルロッテは「私の口が臭い上に、唇が荒れているとでも言いたいのかしら」と怒りを倍増させた。
木曜日の昨日は真っ当なプレゼントだった。学園で真っ赤なチューリップの花束を渡され、さらに自宅に黄色のシンビジウムの花束が届いた。どうして花束が二つなのか、どうしてもっとメジャーな花を贈らないのかと疑問に思ったシャルロッテだったが、それでも素直にお礼が言える贈り物で、機嫌は上昇した。
やっと機嫌の直ってきた金曜日の今日がタンポポだ。一体フェリクスは何を考えているのだろうかとリタは思い、変人の考えることなどわかるはずがないと、そうそうに考えるのを諦めるのだった。
リタが部屋へ戻ると、シャルロッテの怒りはある程度収まっていた。適度な運動はストレス解消に利くなあと、リタはシャルロッテを見ていつも思っている。
「お嬢様、本日は新茶とマカロンでございますよ」
「そう」
何げないふうを装っているシャルロッテが、好物のマカロンの登場に口元をほころばせているのを見て、やっぱりうちのお嬢様はかわいらしいと、リタは思う。平民のリタにとって働くことは当たり前だし、労働に苦はつきものだが、シャルロッテの愛らしさを目にするたびに、少しくらいの苦労なら我慢できると思えるのだ。かわいいは正義が、リタの信条である。
「タンポポだけれどね」
マカロンを優雅に口に運びながら、シャルロッテが話し出す。
「フェリクスったら、赤いリボンをかけて持ってきたのよ、わざわざ学園に。しかもカフェテラスで渡すものだから、一緒にいたアリサに嫌味を言われてしまったの」
アリサはシャルロッテと同じ子爵令嬢なのだが、どうやらフェリクスに思いを寄せていたらしく、シャルロッテとフェリクスが婚約を結んでからというもの、何かとシャルロッテをライバル視して、からんでくるのだ。そんな相手とはつき合わなければいいのにとリタは思うが、嫌な相手とも笑顔で社交するのが貴族のたしなみなのだとシャルロッテは言う。
「タンポポの花言葉は複数あるけれど、真心の愛、愛の神託、誠実、幸福、別離、フェリクス様はどの意味で贈られたのかしらねって、しかも、別離だけ、わざとゆっくりと発音したのよ」
リタはタンポポの薬効は知っていても花言葉など聞いたことがなかったので、貴族令嬢とは役に立たない知識を大切に蓄えているものだと、素直に感心する。
「アリサのせいで、来週登校したら、私がフェリクスから別れを告げられたという噂が流れているかもしれないわ」
シャルロッテの憂いが杞憂で終わらない可能性をリタは知っている。学園は社交界の縮小版なのだ。隙を見せたら面白おかしく噂されることになる。特に子爵子息なのに成績優秀で国からも将来を期待されているフェリクスは、やっかみもあって、噂の標的にされやすいのだ。フェリクスへの悪意の矢はとなりに立つシャルロッテまで流れてくることがあるのだ。
「明日、フェリクス様に真意を訊ねられたらどうでしょうか?」
フェリクスは学園が休みの土曜日は欠かさずシャルロッテを訪ねてくる。昼食後に訪れて、ただ散歩やお茶をするだけなのだが、最近では屋外でならば二人きりになることを子爵夫妻からも黙認されている。先週もリタを部屋に残して、子爵邸のそれほど広くない庭で三時間も二人きりですごしたのだ。明日も天気がよければ、きっとフェリクスは二人きりを望むはずだと、リタは思っている。
「意味なんてないって言われたら、私は婚約破棄を言い渡してしまいそうだわ」
シャルロッテが本気で婚約破棄を考えているわけではないと知るリタだが、物ごとは勢いで思ってもみない方向へ転がることもあるので、油断できないと気を引きしめる。シャルロッテの幸せな結婚をリタは心から望んでいるのだ。
「きっと、何か深い意味がおありなのでしょう」
いいフォローがひとつも見つけられなかったリタが、何とかしぼり出して口にする。
「万が一、深い意味があったとしても、伝わらなければ何の意味もないのよ」
シャルロッテの正論にリタは匙を投げたくなる。しかしシャルロッテがフェリクスを愛しているのは疑いようのない事実なのだ。かわいらしい主人のために、リタはない頭を振る。
「ここ最近の贈り物の始まりは、暗号の本でございました。きっと、連日の贈り物には秘めたメッセージがこめられているのです」
リタは思いつきを話したにすぎないのだが、実際、口に出してみると、不思議とその考えが正しいような気がしてきた。
「どんな?」
私がわかるわけない、という思いを呑みこんでリタが答える。
「それを解くのがお嬢様の愛でございましょう」
愛とは実に便利な言葉である。
「私にフェリクスへの愛なんてないわ」
愛を告白するような表情で言われてもと、リタは微笑ましい思いで、シャルロッテのふくれっ面を見る。
「そんなこと、おっしゃらずに、戦力にはなりませんが、私も謎の解明に協力しますから」
「リタがそこまで言うのなら、私だって、少しくらいは考えないでもないわよ」
そんなわけでお茶の時間のあと、シャルロッテとリタは、本当にあるのかすら定かでない暗号を解くことになった。
暗号解説書をシャルロッテがペラペラとめくる。
この本をまったく気に入らなかったシャルロッテは読みもせずに本棚に差しこんだので、読むのは今日が初めてだった。
「あら」
シャルロッテが声を上げたので、リタも本を覗きこむ。そこには赤いインクで丸がつけられている文字があった。さらにシャルロッテがページをめくると、また赤インクの丸が目に入る。
「もしかしたら、そのインクで囲まれた文字をつなぎ合わせると、お嬢様へのメッセージになるのでは?」
リタの意見に大いに賛成したシャルロッテは、上機嫌で、最初のページから今度はゆっくりとめくっていく。相当なページ数があるので重労働だが、赤い丸のあるページにしおり代わりに美しい色紙を挟むあたりでもシャルロッテの機嫌のよさを測ることができる。
一心不乱に本のページを追い、再び最初のページに戻ったシャルロッテが、リタに仰々しい口調で言う。
「心の準備はよろしくって?」
シャルロッテのせっかくのご機嫌を損ねたくないリタは慎重に真面目な顔を作って、ゆっくりと頷く。
「あ」
「い」
「し」
「て」
「る」
「だ」
「か」
「ら」
愛してるだから。それがフェリクスのメッセージらしいが、愛してるはわかるが、何がだからなのかわからない二人は顔を見合わせる。
「一体、だから何なのかしら」
暗号本につづいたプレゼントを思い浮かべて、リタは答えに思い当たったが、侍女の自分が口を出すべき領分ではないと思って「さあ、何でございましょうか」ととぼけ、メイドが夕食だと呼びに来たところで、探偵ごっこを切り上げた。