第3話:信愛という名の愛情
信愛が自室で目を覚ますと、まだ5時半過ぎだった。
さすがにこの時間だと、まだ那智も起きていない。
「……そっか。今日はこっちの部屋で寝てたから」
いつもなら感じられる総司の温もりがなく。
信愛は自分の部屋で目が覚めたことに気付く。
ぬいぐるみに囲まれたとても女の子らしい部屋である。
「眠い……」
だけど、二度寝をして起きられる自信もない。
少し早いが、信愛は起きて、身支度を整え始めた。
「たまにはシアがお弁当を作ってみようかな」
基本的にお弁当作りは那智がしてくれている。
「ママの料理も好きだけど、シアの料理スキルもアップしているし」
お弁当くらいは余裕で作れるスキルを持つ。
信愛は冷蔵庫から材料を取り出して、自分好みの料理を作り始める。
量自体は信愛が小食のために少ないが、種類は多い方が楽しい。
信愛の好きな鶏肉の料理をメインに作り始めた。
しばらくして、信愛がお弁当を仕上げる頃になり、
「あー、信愛がお弁当を作ってる」
ようやく起きてきた那智が驚いた顔をして答えた。
「おはよう、ママ。早めに目が覚めちゃって、お弁当を作ってたの」
「そうなんだ。でも、お母さんのお仕事を取らないでほしいなぁ」
普段から仕事で忙しい那智だが、親子のコミュニケーションのひとつであるお弁当作りは朝の日課であるために自分から望んでしていることだ。
「いいよ。今日は休んでおいて。朝ごはんも作ってあげるからねぇ」
「手作り料理か。それはそれで楽しみね。それじゃ、その間にお洗濯でもしてくるわ」
母娘ふたりの生活、できることは自分でして相手を支えあうもの。
総司からは我が侭な性格だと言われる信愛だが、家事全般に関しては意外にもちゃんとしたスキルを持っているのである。
「今日はなんちゃって、鶏肉の生姜焼き風にチャレンジ」
お弁当作りで余った材料を使い、手際よく料理を仕上げていく。
鶏肉に片栗粉をまぶして焼き上げて、砂糖と醤油、みりんで味付けをすれば完成だ。
この辺りは総司の母である杏子直伝の料理スキルの技が光る所である。
「……だいぶ上手になったわよねぇ。包丁もすっかりと慣れてる感じ」
那智がリビングに戻ってくると感心した様子を見せる。
「おばさんに教わってるの。私の腕前、どうですか?」
「総司君の将来のお嫁さんには申し分ないんじゃない? 杏子さん直伝っていうのがお母さん的にはとても悔しい気分ではあるけども」
「ちゃんと卵料理はママの直伝ですよぉ」
信愛の好きな卵を使った料理は那智から教わっている。
今作っているだし巻き卵もそのひとつだ。
和風だしを使ってふっくらと焼き上げていく。
「まだママみたいにふわふわに仕上げるのは難しいけどねぇ」
「でも、手際もよくてびっくりしてる。杏子さん、信愛にずいぶんと教え込んでくれてるのねぇ。すごく料理上手な人だから教わりがいもあるでしょう」
「うん。優しく教えてくれるから好き」
「本当に感謝だわぁ。信愛の面倒も昔から見てくれてるもの」
友人に感謝しつつ、娘の料理スキルの上達を喜ぶ。
「私なんて高校時代は料理部だったけど、すごく下手だったのよ。作った料理は運動部の罰ゲーム用に提供していたくらいに」
「えー、ママが? 意外かも」
「シアが生まれてから必死になって覚えました。親になるのは大変なのよぉ」
そんな昔の苦労を思い出す那智は「上達早くていいなぁ」と信愛を褒める。
「はい、できましたぁ。シアの特製朝ごはんです」
「……シアの好きなものだけでできてる分、バランスはちょっと悪いけど」
「あ、朝のメニューなのでこれくらいでいいと思うの」
「ふふっ。でも、バランスは大事だからねぇ。次はそこも考えて」
自分の好きな料理だけすると必然的にバランスが悪くなる。
そのあたりを要改善とばかりに、軽く那智が手を加えるように一品つくりあげる。
「いただきます。んー、この鶏肉も上手に焼けてるわぁ」
「シアも頑張ってるでしょう?」
「えぇ。料理って作るのが楽しいでしょ?」
「うんっ。作れるようになると、いろんなものを作りたくなる」
ある程度の料理スキルを身に着けると、挑戦したくなるものだ。
「これからはお母さんも教えてあげるわ。時間があれば一緒に作りましょう」
信愛の成長に満足げな那智だった。
料理を食べ終えると、信愛はいつものように那智に髪型をセットしてもらう。
「ねぇ、ママ。聞いてもいい?」
「何かしらぁ?」
「シアの名前ってママがつけたんだよね。どうして信愛なの?由来とかある?」
ふと、自分の名前の由来が気になり聞いてみる。
すると、那智は苦笑いをしながら信愛の髪を撫でて、
「お母さんって昔は人を信じられなかったの。大事な人に裏切られて、大事なものを傷つけて。人って一番大事なのは信じられるかどうかでしょう」
「……うん。そうかもね」
信用と信頼、それを得るのは難しく簡単ではない。
特に一度人を信じられなくなった人間の心の傷はとても大きなものだ。
那智は過去に、とある人物から受けた心の傷が癒えず、全てを失った。
誰も信じられず、孤独になり、最後は自暴自棄にもなった。
「お母さんはいろいろとあって高校も中退しちゃったし、その後も誰も信じられずに生きてきたの。誰も信じられないってことは逆に誰からも信じられないって事でしょう」
人との繋がり、信用なくしてそれは生まれない。
繋がりを失った人間に待つのは寂しく孤独な人生だ。
だけど、人がひとりで生きていくにはあまりにも人生は長すぎる。
那智にとっては信愛は初めて生まれた希望であった。
「でもねぇ、信愛が生まれたのをきっかけに私はそれを取り戻せた気がするの。生まれてきた信愛の顔を見ていて、私は思ったんだ。この子だけは何があっても、信じたいって。信じてあげて、信じてもらえるような親になりたいって」
母としての愛。
言葉にすれば容易いが、トラウマを持つ那智が乗り越えるには大きな壁もあった。
時に矛盾する気持ちと戦い、母親としての自覚に悩み苦しむ。
それを乗り越えて今の親子の絆があるのだ。
「だから、名前を付ける時に『愛を信じられるように』って信愛ってつけたのよ。信愛って響きも可愛くてよかったもの」
それから信愛を育てるにあたり、那智も随分と努力をしたつもりだ。
子育てをする中で時に悩み、時に苦しみ。
一人の母親として、一人の人間として、信愛と接して育ててきた。
自分が捨てた感情を拾い集めて、新しい人生を生きてきたのだ。
その話を聞かされた信愛は思わず母に抱きつく。
「ママぁ、シアもママが大好きだよぉ。育ててくれてありがとー」
「あらら? そんなに抱きつかなくても」
「いい話を聞きました。シアはママに愛されまくっているんだって」
「当然ね。信愛がいないと私はきっとろくでもない人生を続けていたに違いない。貴方が生まれたことに感謝しているわ」
かつて他人の感情を弄び、翻弄していた人間とは思えない程に優しい顔をしていた。
「いい、信愛? 人を愛しなさい。自分を愛してくれる人を好きになりなさい。愛するためには相手を信じなきゃダメなの。人に愛されるって言うのは簡単じゃないけども、何よりも幸せなことだからね」
「頑張ります!」
「ふふっ。頑張って」
娘を励ましながら、仕上げにヘアードライヤーを当てる。
最後に髪留めすれば完成だ。
「はい、できましたぁ。今日の信愛もとても可愛くなってるわよ」
「おー。今日も可愛くて素敵です」
鏡に映る信愛は毎日、素敵な髪にしてもらっている。
自分ひとりではここまで、可愛らしくできない。
親の愛を毎朝感じることができる瞬間だ。
「ママの愛情。シアはホントに愛されてるよねぇ」
愛を信じて生きて欲しい。
名前に込められた祈り。
母親へ改めて感謝の意味を込めて、思いっきり抱きついた信愛だった――。
眠気が取れない総司をベッドから引きずり出して無理やりを起こした。
学校への登校途中、信愛は総司に問う。
「ねぇ、総ちゃん。シアって、すごく可愛いじゃない」
「何を自画自賛しておるんだ、この自惚れ娘は」
「そこは素直に可愛いね、で済ませて欲しいところです。昨日、『信愛は俺だけのものだ』と言って押し倒してきたくせにぃ」
「……うぐっ」
その通りだったので、言葉に詰まる。
困った総司は「可愛いことは否定しない」とそっぽを向きつつ呟く。
「シアが美少女なのはママが美人さんだからです」
「いきなりなんだよ。確かにそうだが」
信愛は母親である美人な那智の遺伝子を受け継いでいる。
可愛らしい美少女っぷりは総司も認めるところである。
「おばさんと信愛は似てるよな。可愛い系と美人系の差はあるけども。子供のころの写真とか見たらそっくりじゃねぇの」
「どうなんだろ? ママの子供時代の写真って、見たことがないや」
「そうなのか?」
「ママって昔の話をされるのって嫌いみたいだから。昔、いろいろとあったんだって」
例えば、那智は高校を卒業していない。
とある事情で高校を中退していると聞いていた。
きっと那智の過去に何か言葉にし辛い出来事があったのだろう。
「家族の写真を見て、思い出すこともあるんでしょ。それくらいはシアでも分かる」
その何かは、那智が家族と絶縁している理由なのかもしれない。
大切に可愛がっていた妹と何かあったのかもしれない。
信愛も子供として聞くに聞けずにいた。
「家族でも簡単に踏み入れないことってあるもん」
自分から聞かなくても、言うべき時が来たら、きっと那智自身から語ってくれると信じているからでもある。
「那智のおばさん、すごくミステリアス系の美女だもんなぁ」
「ママには再婚、じゃなくて初婚か。まだ若いうちにどなたかと結婚しても良いと思うの。それとなく勧めても、『お母さんは信愛以外を愛せないんだぁ』と言われてしまうのです」
「おばさんにはその気がないんだろ? もしかしたら、信愛誕生の秘密にも、特別な何かが隠されているのかもしれん。とか言ってみたり」
人は隠して秘密にするものほど、知りたくなる。
そして、そういう秘密ほど、重く開いてはいけない秘密だったりするものだ。
「まさか、シアってどこかの社長の隠し子だったりする? 実は令嬢だったり?」
「……お前、自分の出生ネタで盛り上がるなよ。そこは冗談にするな」
どこぞの隠し子だとか自分で言うあたり、信愛は深く気にしていない様子だ。
「自分で言っておいてなんだが、お前ってそう言う所、気にしてないんだよなぁ」
「会ったこともないパパを想像しても分からないものは分からないもの」
「それもそうか」
総司も信愛の実の父親を軽々しくネタにしたくない。
だが、信愛自身は会ったこともない父親のことを特別意識することもない。
「いいじゃん。これで、子供ができて責任も取らずに逃げ去った最低男が、シアのパパだったら泣くけど。養育費が払われてる様子もないので、その可能性もありそう」
「……養育費ってリアルだなぁ」
「はぁ。若かりし過ちとか、そういう出生の秘密は嫌すぎるなぁ」
「あのー、俺の顔を見て言うのはやめてもらえますか?」
「昨日みたいに襲われちゃっても抵抗はしませんが、もしもの時はちゃんと責任持ってよね、総ちゃん? 絶対に逃げちゃ嫌だよ?」
念を押す信愛に顔をひきつらせた総司は、
「お、俺は責任を持つタイプだぞ。信頼をしてもらいたいものだ」
「だといいいんだけどなぁ? 総ちゃんのことは信じてるけどねぇ」
「朝から何の話だよ。ったく、お前を見捨てる真似はしないっての。信じておけ」
「シアをシングルマザーにしないでくださいね?」
学校につくまで、信愛にひたすらプレッシャーをかけられる総司だった。
ただ、信愛が何だかんだで“自分が生まれた理由”を気にしているのだけは分かった。
普段は口にしない問題だが、誰しも、自分の出生について気になるのは確かなのだ。




