魚人堂のこと
はじめのうちは、落とし物だと思った。
海沿いの、よじのぼれるくらい小さな堤防を見ながら歩いていると、突然赤と白が目に留まった。
紺色の襟、赤色のリボン。雨にうたれてか、薄汚れた白いシャツ。ご丁寧に、近くには革靴が脱ぎ散らかされている。
誰かが着ていてさっきぬいだ、というには、古びていたし、堤防に張り付けられてよれている。
畑につるしてあれば、鳥よけのかかしといえただろう。でもそれは堤防の、黒ずんだコンクリートに、ぺったりと張り付けになっている。
まれに車の通る道で、誰も奇異には思わないのだろうか。
かくいう自分も、さっき気づいたばかりだから、何ともいえない。
近くのパン屋の前をすぎて、ふと小さな看板に気がついた。魚人堂。軒先に金属製のラックを出して、週刊誌や月刊誌を並べ、奥の方では古本まで置いている、小さな本屋。その、店のロゴは人魚。
「あぁ、あれね」
店の前で立っていると、店主に話しかけられた。服のことを聞くと、したり顔でこう言った。
「内緒だけど、人魚が来るんだよ。毎月、決まった雑誌を買いに来るんだ。珍しい、虹色の貝を持ってね。昔、近くの島で、貨幣代わりにしてたやつだ。民俗資料館で見たことがある。そいつを持って、あそこで制服を――どっかで拾ったのかね? わからないが――着て、ここで雑誌を買っていく」
まさかとは思ったが、自分も雑誌を一冊買って、引き返す。
しばらくパン屋でパンを選びながら待っていると、制服が消えている。
あわてて、パン屋のガラス戸をあけて顔を出すと、ちょうど、魚人堂から、女子高生が出てくるところだった。
赤い紙袋を大事そうに抱えて、堤防に向かって歩いていく。
それから、辺りを見回した。
さっとガラスの内側に顔を引っ込めて、再びゆっくりと外を見る。その子は、誰もいないと思ったのか、いきおいよく制服を脱ぎ捨てた。下にはなにも着ていない。靴を脱ぎ、スカートを脱いで、堤防にあがる。座り込むと、紙袋の口を開けて、ファッション雑誌を取り出した。
時折、楽しげに、緑色の尾がはねて揺れている。
人魚の世界にも、最先端の流行があるのだろうか。
いとおしげに、楽しげに雑誌をめくり終えると、少女は、ゆっくりとため息をついた。肺呼吸ができる人魚であるらしい。
やがて、雑誌を胸に抱えて、ひとなですると、とぷん、と海中に沈んで消えてしまった。
海の中で、あの雑誌は読めるのだろうか。
ゆらゆらと漂う紙面を思い描き、パンの入った紙袋と雑誌を抱えて、自分も帰途についた。