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仕事にもだいぶ慣れてきて、私の脱ぎ癖は収まるはずだったんだけどまだ治らなかった。
どころか前にもまして脱ぐようになっている気がする。原因もなんとなくわかっている。緑と裕子のことだ。あの二人が仲良くしているのを見たり聞いたりすると、胸の中で新聞紙をぐしゃぐしゃに丸めたような気持ち悪さが広がる。胸くそ悪いっていうのはこういうことなのかな。今も、裕子が緑と昨日行ったディナーの話をしてて、正直なんど手元のコーヒーを裕子にかけてやろうと思ったかわからない。
友達の話を笑って聞きながらそんなこと考えてるんだから私もそうとうブラックだ。
「でね、そのお店ここから近いんだけどすっごいわかりにくいところにあるの」
「へー、どんなところ?」
「定食屋さんがいっぱい集まってんだけど、中でも寂れてるって感じのお店」
こいつ、定食屋イコール寂れてると思ってるのか。
「でね、最初は汚くてやだなーと思ってたけどね、出された料理がすんごく美味しいの!」
「ん??」
「ん?どーしたの?」
「いや、なんでもない」
その店ってこの前連れてってもらったあそこか?
別に恋人ってわけでもないし文句言えないんだけど、でも、物凄く嫌だった。
何が嫌かって裕子には私といった店を教えるのに私には裕子と行った店を教えてくれていない事がだ。裕子と私の差を見せつけられているようで、苦しくなる。
「トイレ行ってくるね」と席を外す。
個室に入って便座に座るけど特にしたいわけじゃなかったし、既に脱いでしまったから脱ぐパンツももうない。
私は、この痛みをただ受け止めることしかできなかった。
トイレから戻ると裕子はいなかった。
ラインでも確認しようと思ってみると『ごめん、もう昼休み終わるから先戻る』とあった。
私も戻らなくちゃか。
ほかにも何件か通知があった。まあ、うち何件かはオフィシャルのアカウントなんだけど。
しかし、緑からも1件。『今夜、飯でもどうですか』
私はすぐに行きますと答えた。
今夜を楽しみにしながら、ケータイをポケットに入れてオフィスに向かった。
「真理ーこっちこっち」
ぶんぶん手を振って緑がアピールしてくる。けど、今回は二人じゃなかったらしい。緑に悪いと思いつつも肩透かしをくらった気分は否めない。
緑は笑う。「行こうか」と言って、私が来たのを見計らって歩き出した。
それに裕子もピッタリついて、多少小走りになりながらついていく。
私はゆっくり、彼らの後ろを歩いてついて行った。
緑についていくと、会社から二駅離れた所にある小さなバーに着いた。
どうやらここのマスターと緑はすでに打ち解けているようだ。というのも、緑がドアを開けてすぐ、やあマスターなんて片手を上げて待ち合わせに来た時みたいに挨拶していたからだ。
「ご注文は?」
「それじゃあ、カクテルで。二人は?」
「私もそれで」「あたしも」
私はそうだけど、多分裕子もあんまり慣れてないんだろう。焦って結局同じのを頼んでしまうあたりが情けない。
どうやらこのバーには私抜きで来る予定だったらしい。裕子が誘ってもいいかと緑に頼んだんだそうだ。行き先を知っていたんだろうか。どうやら、緑じゃないらしい。
少しの間カクテルをちびちび飲みながら会社の話で盛り上がっていると「ちょっとトイレいってくるね」と緑が席を立っていったところで一度話は途切れた。
「ねえ、真理」
「ん?どうしたの?」
「あたしさ、今日緑に告白しようと思ってんだけど」
グラスを持つ手が少し震えた。心臓が絞められて、呼吸がしにくい。
「へー、それで?」
それでもかろうじて、普通を装って返事をした。
「だからさ、今日はもう適当なこと言って帰ってくれないかなーって」
私の中で何かが切れるのを感じた。私の中で、色んな言葉がグルグル巡っている。頭の中で何度も聞こえてくる私の怒りの声。
殴りたい。殴りたい。殴りたい。殴りたい。殴りたい。殴りたい。
けど、私はそのどれもを拳と一緒にしまいこんで、一言「わかった」と言って店を出た。
それから何度も吐きそうになりながら、やっと思いで家に帰ると、今まで溜まってたものが全部溢れ出たかのように。涙と一緒に、発汗や嘔吐など、とにかくあらゆる方法で私の中の水は外に出ていこうとする。
ならばと思い全てを体にゆだねても、出てくるのは涙だけだった。
私は何度もおえーっおえーっといいながら、声を枯らすほど泣いて、そのまま眠っていた。
つぎの日、緑と裕子からラインが来ていた。
裕子からは『さっきはごめんね』と一言だけ。私は『別に』とだけ返しておいた。
緑からは2件。
『体調悪いの知らなくて、無理に誘ってごめんね』と『安永さんに告白された』と書かれていた。
安永裕子―――私の1番の友達であり、会社で一緒に行動してる人。仕事の出来は、まあ良くも悪くもない。スタイルはなかなか良く、身長も150cm代となかなか低めで、声もうるさい程高くなく低くもない。話してても楽しいし、同性の私から見ても彼女にするならこういう子がいいと思う―――。
私はその彼女と好きな人が被ってしまった。
裕子に言われたわけでもない。ただ、見ててそう思った。そしてその考えは正しかった。
裕子は緑に告白したいから帰ってくれと私に言って、その後本当にしたらしい。何故か今朝、緑から着てたラインでそのことを知った。
私はそれに、返信も既読も付けずに置いて会社に来た。
会社では頭が回らないほどやることがいっぱいで、隙を見せれば日下部さん。日下部さん。日下部さん。
だけど、今の私にはそれで良かった。裕子と同じオフィスにいるから普通に顔を合わせるし普通に休憩時間も被るんだけど、今日の私はどういう顔をしていればいいのかわからない。
裕子と顔を合わせたくないから、昼休み、普段は行かない屋上に行った。あまりに慌ててたからお弁当を鞄の中に忘れてきたらしい。
まあ、作る暇なんてないからお弁当と言ってもコンビニで買ったおにぎりなんだけど。
今階段を降りてオフィスに戻ったら裕子に会ってしまうかもしれない。そう考えると降りようという気が全く起きないので、空腹を景色で埋め合わせることにした。
下を見ると色々な人が歩いてる。
うちのビルの屋上は7階だから低い方だけど、それでもだいぶ高い。ここから見ると大人も子供も、男も女も大して変わらない。みんなゴマだ。どいつもこいつも黒いスーツを着て歩いているからゴマにしか見えない。
あ、あそこでコンビニの店員が走ってる。コンビニの店員は色が違うから分かり易い。コンビニの店員の前に走ってるゴマが一粒あった。コンビニのゴマが走ってるゴマを捕まえていた。あのゴマはきっと万引きでもしたんだろう。
かと思ったらあれれ?今度は仲良さげに見える。何を話してるんだろう。あ、ゴマがスタスタ歩きだすとコンビニのゴマはお辞儀してコンビニに帰っていった。
その光景が不思議だったから、私は色々と想像した。そして、奇跡的に面白い事を思いついたらぷっと笑ってしまった。
そこまではよかったのに、ふと頭のどこかが別のことを考えはじめてからは気分が最悪だった。
緑と裕子の顔がどうしてもちらつく。
二人のことを考えて、泣きそうになった。いや、泣いていた。
昼休みが終わり、オフィスに帰る時もまだ、涙が溢れそうだったので、一度トイレに寄って落ち着いてから戻ることにした。遅刻は確実だけど、泣いて戻るよりずっといい。
適当な個室に入ってスカートとパンツを下ろして便器に座る。
おしっこをして気を紛らわせて、スカートを履いて、流して個室を出た。
そこで私はまだ気付かなかった。
もっと早く下に行っているべきだった。裕子に会うのを恐れている場合ではなかった。
それは昼休みを20分もオーバーした事ではない。
トイレから出た時、目の前に緑がいたからだ。
男にはなにをしても敵わないのかな。
私は驚いて、すぐに逃げようと階段に足をかけようとした時「待って」と緑に手を掴まれて逃げることはできず、かと思ったら振り向かされ両肩を掴まれて自由を奪われてしまった。
抱き締められたわけじゃないし、振り払うこともできたかもしれないけど、彼の迫力を前にそんなこと考えられなかった。
「話を聴いて欲しい」と言われたけど「もう、昼休み終わりだから。戻らないと」と言うと彼は「わかった」と言ってそっと手を離した。
オフィスまで戻ってもまだ緊張が収まらない。
遅刻を上司に怒られたけどそれどころじゃなかった。
いつまでも、心臓が裂けそうで裂けないぎりぎりのところで踏みとどまっている。いっそ避けてしまえばいいのにとすら思う。
しかも、この時私は泣いていたらしく隣のデスクの子から大丈夫?と言われ、上司には強く叱りつけてすまない。と言われてしまった。
言われて気づくと強く意識してしまう。私は、今まさに死にたい。
涙は止まらず、体は震えて、思考もコントロールできない。仕事の事を考えようとしても一秒後には裕子と緑の幸せそうな姿を想像してしまう。最悪な気分。
そんなんだからだいぶ時間をかけて今日のノルマを達成した。
周りを見てみると裕子はもういないみたいなのでゆっくり荷物をまとめてオフィスを出た。
やたらと疲れたのでジュースを買おう。
自販機を見て、やっぱりこの階にはろくなのがないとため息を一つついてから小岩井のぶどうジュースを買う。
200円いれたけど、戻ってくるはずの80円が出てこない。よく見たら釣り銭切れしていた。
本当にろくなことがない。
私のオフィスのある階だと上に行く時は階段の方が便利だが下に降りる時はエレベーターじゃないとかなり面倒だ。
だからエレベーターの前に行ってボタンを押して待つ。やがて右のエレベーターが開いて入ろうとすると矢印は上を向いていた。間違って上のボタンを押してしまったらしい。
本当にろくなことがない。
すみませんと謝って上に行ってもらって、私は今度こそ間違えないよう下のボタンを押して待つ。
少し待つと今度は左のエレベーターが開いた。今度は間違えてないか確認する。矢印は下を向いていた。よしっと思って入ろうと正面を見る。するとそこには、どんな巡り合わせか知らないけれど、緑だけが開のボタンを押して立っていた。
本当にろくなことがない。
「なあ、日下部さん。これから飲みに行かないか?」
「結構です」
「頼むよ、いい店教えるからさ」
「いいですってば」
「お願いします。日下部さん」
緑があまりにしつこく誘うもんだからだんだんとめんどくさくなってきたもんだから。「わかった」と言って会話を切り上げた。
すると、それから本当に緑からは話しかけてこない。
エレベーターを降りて、会社を出ても何も言ってこない。
「で、どこ?」と私が言うと緑は驚いたように慌てていた。
あちこち曲がって緑が連れてきたのは、相変わらずあまり目立たないような店だった。
緑が案内する店はいつも目立たない所にあって客もパラパラとしかいない傾向があった。
緑にどうしても聞きたい。でも今更聞きづらい。ということで、私はお酒の力を借りる事にした。
今日はひたすらビールしか頼まないつもりだ。
2杯目のジョッキを飲み終えたところでようやく酔いが回ってきた。
「緑はさぁー裕子とどう?」
「ん?どうって?」
「付き合ってんでしょーこのこの」
ほっぺをつつかれて緑は顔をしかめていた。
「付き合ってないよ」
「うそだーかくしごとだーいそぎんちゃくだー」
「イソギンチャク?まあいいや。付き合ってないよ。本当に」
「ほーんとー?なんで目あわせないのかな?3人増えても私にはつーよーしないぞー」
「・・・・・・」
頭と体がぐわんぐわんする。まるで揺れているみたいだ。いや、体は本当に揺れていた。一定のリズムで上下に動いていた。
この状況を必死に理解しようと頭を働かせようとするも、思うように動かなかった。
目の前には、薄暗い中に等間隔で光るモノがある。
ぼーっと眺めて気がついたことは、いつの間にか店を出ていたことだった。
「お、目覚めた?」と横から声がする。
向いて見るとそこには緑の顔があった。そこでようやく緑におぶられていたことに気づく。
「なに!え、なんなの!下ろして!」と暴れると「はいはい」と言って緑がしゃがんだ。
とりあえず降りて、よれた服を正していると緑が話し出した。
「日下部さん、酔いつぶれて大変だったんだぞ」
「そう・・・ごめんなさい」
とりあえず前に歩きだそうとしたらふらついてしまった。
緑は手で抑えるようにする。「足元大丈夫?」
「うん・・・大丈うぷっ」
咄嗟に口を手で押さえる。それでももう無理だ、急いで壁の方によって行き上半身を倒した。
体の中に溜まった灰汁を根こそぎ落とすように嘔吐した。その時、私の体は灰汁どころかこれまでの何もかもに対して、残ることを許さなかった。
「大丈夫か?またおぶろうか?」と緑が言うので呼吸を整えてから「いい」と言って前に進む。
「ねえ、どうして裕子と付き合わないの?告白されたんでしょ?」
「安永さんには悪いけど、俺にはもう好きな人がいるんだ。学生みたいだと笑うかもしれないけど、俺には好きな人から安永さんは振った」
「裕子、あんなにいい子なのに。綺麗だし、可愛いし、元気だし。話してていい気分にさせてくれるとってもいい子なのに。そう思わない?」
「思うよ。あの人と恋人なれる人は幸せになれると思う」
「でも、振ったんだ・・・」
「ああ」
「好きな人がいるから・・・」
「そうだ」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
半分泣きそうだ。「裕子のことそんな風に思ってて、それでもその人を選ぶなんて、誰がそんなに好きなの。」
「・・・・・・」
「・・・・・・だれ?」
緑は大きく息を吸った。「日下部さんだよ」
「なんで、なんで私なの!私なんて、あんまり喋らないし、仕事もできないから出世もできなくて、おまけに!ストレスに負けてパンツ下ろしちゃうような変態なの!それなのになんでよ!なんで裕子じゃなっ・・・・・・」
急に体が暖かく、大きいものに包まれた。
緑に抱き締められている。それがわかるとなぜだか涙が溢れてきて止まらない。
「わだしなんでごんな、ごんなどごろで吐いぢゃうし、今だっで絶対口ぐざいし」ヒックヒックと泣きじゃくりながらも、必死に喋った。言葉になってるかなってないかはこの際どうでも良かった。何もかもがどうでもよくて、ただただ訳もわからず喚いていた。
すると、急に顔を引き寄せられ、緑にキスをされる。
口が制されて、息ができない。苦しい。けど、嫌じゃなかった。どころかいつまでもこうしていたい。このまま時が止まればいいのにと思った。
そうなると私の体は緑を求めて止まらない。
この時間にもどんどん、私の心は緑に犯されていく。
唇と唇が離れたとき、私はもうむやみに泣き喚こうとはしなかった。しかし、涙は溢れて止まらない。
そのまま私達は家に帰らず、どっちかが言うでもなく自然にラブホテルに入って、お互いを激しく愛し合った。
「今日は、履いてないんだね」と緑が言うので、「いや、吐いたじゃん」と言ったら笑われた。
セックスを終えた私たちは、そのままホテルの布団で眠ることにした。
2人と面倒くさがって服を着ようとはしなかった。
なんだか居心地が悪くて、「おやすみ」と言って緑に背を向けて寝ようとすると、「なあ、日下部さん。まだ返事聞いてなかったね」と背中の向こうで緑が言っているのが聞こえた。
「返事って何?」
「俺が日下部さんを好きだって言った返事」
「私も・・・・・・」
逃げられなかった。
「私も緑が好き」
そして逃げられなかったことが、少し嬉しくもある。
私は振り向いて、緑と顔を向き合わせて言った。
「私も、あなたが好きです」
「それじゃあ、俺と付き合って下さい」
「はい」




