近づく距離
逃げるように去った、その次の日。
今日も昨日と同じ講義がある。あの男に出会う確率は高い。
あの男ーーーそう、あの人の親友に。
「おい、来たぞ…」
講義が行われるいつもの教室に入ると、いつも講義中寝ている仲良し四人組の男たちが、軽蔑の目をこちらに向ける。
「おい、あんまり見ない方がいいぜ?」
「そうだな」
クスクス笑ながら、チラチラとこちらに目を向ける男たち。
いつものように、後ろの方の席に着席をする。出入り口が教室の後ろと前にあるため、極自然に座わることができる。
もうすぐ講義が開始される。まだあの男は来ていない。
教授が入室し、出席を取っていく。
「山本ーー」
教授が名前を言い終わるより先に、タイミング良く入室してきた生徒が現れた。
息を切らして、肩で息をしている。
「……山本 賢(やまもと けん)。」
「はい……」
返事をした運のいい男は、私の隣に座った。周りにいくらでも空いている席はあるというのに。
「えー、おはようございます。じゃ、始めるぞー」
教授が喋り出すとほぼ同時に、隣の男も口を開いた。
「……なんで逃げたの?」
ぼそりと呟かれたかのように吐かれた言葉は、しっかりと私の耳に入ってしまった。
「………………」
答えられるわけがない。もしや、わざと聞いているのかもしれない。
「……俺が怖いって?」
分かっているなら、なぜ聞いてくるのか。
全く理解できないまま一時間が経過した。さすがに隣の男の存在も頭の中から消えかけていた頃だった。
「…悪く思った事、一度もないよ。」
彼から吐き出された言葉に、私の全機能が停止した感覚に陥った。
「むしろ、無力な自分に嫌気がさすよ。」
まだ、彼の言っている意味が理解できていない。書き途中の手を止め、視線を泳がせたままだ。
「…だから、世界中の不幸を背負ったような顔しないでほしい。」
前を向いたまま話していた彼はいつの間にかこちらを見て、熱く話した。
「思い出に勝ってほしい。」
「……………」
彼の考えていることが分からない。なぜ許そうとしている。なぜ私に言葉を投げかける。なぜ私を憎まず、慰めるのか。
分からない。
「引きずって生きる必要はないってこと。誰もそんなことは望んじゃいない。もちろん、あいつもな。」
分からない。
なぜ私を許してしまう。なぜ私に優しくする。だって、私はーーーー
ガシャンッ!
会社のオフィス。俺の席のそばで河井さんと部長がぶつかったらしく、河井さんが持っていた陶器のコップが床に落ちて割れた。
部長のスーツにはコーヒーと思われる液体が遠慮無くかかっていた。
優しいと評判の部長は、自分の事より割れた陶器のコップを集める河井さんの心配をし、怪我をするといけないからと部長自らが一人で欠片を集めた。
三十歳という若さで部長に就ている彼は、その甘いマスクの下に何か隠しているものがあるのではと、考えてしまう自分がいる。
例えば、我が社の大手取引相手のご令嬢である河井さんに怪我をさせたら、会社に影響が出るかもしれない。河井さんとそのご両親はとても仲がいいと聞くので可能性は考えられる、だとか。
「……黒崎君、ちょっと付いて来てもらえるか?」
「はいっ!」
ちょうど部長の事を考えていたせいで、声をかけられて少々焦ってしまった。スケジュール帳とペンを持ち、部長について行った。
連れて来られたのは磨りガラスで囲まれた小さな会議室。
扉を閉めるなり、部長は真剣な顔で言った。
「お前、河井 清香が好きか?」
突然なにを言い出すかと思えば。何の話だろうか。まさか、部長が気に入っているとか。
「いいえ……」
色々考えていても、部長にそんな事を聞けるわけがない。いくら歳が近いとはいえ、腹を割って話したことなど一度もない。仕事上でも雲の上の存在のような人だ。
かっこ良くて、おしゃれで、仕事ができる。
部長は、完璧だ。
「そうか。河井さんがえらくお前を気に入っているのは、知ってるな?」
「え、ええ。まぁ…」
「お前を正式に迎え入れたいと、河井ご夫妻から連絡を受けた。」
俺の顔色が変わっていく。ただの平凡な会社員が、部長よりも上になるのか。
たった、河井さんに気に入られたかそうでないかで。
この会社を潰したいのか。
全く意味が分からない。
「……お前がそうなら、俺から断っておく。」
部長は俺の顔色を見て、判断したようだ。
そのまま会議室を出ていった。
ーー就業時間。
今日は残業なく帰れそうなので、帰り支度をしていると、河井さんがやってきた。
「…黒崎さん」
机を片付けながらチラッと彼女を見ただけでそのまま作業を続けて答えた。
「何ですか?」
「……今日は私と一緒に…」
「すみませんが、先約があるのでお先に失礼します。」
そう言って早々に背中を見せたのがいけなかったのか、河井さんは後ろから抱きついてきた。
周りに人がいても、構わないのか。
一気に社内が静まった。こそこそと話している他の社員が目に入る。
「離して下さい。」
「……先約って黒崎さんのお父様のことですか?」
血の気が一気に引いて、この人を心底怖いと思った。
なぜ彼女が知っているのか、予想はつく。俺を調べたんだ、骨の髄まで。
気がついたらこの人を突き飛ばしてた。
幸い転ばなかったが、力を込めすぎたと思う。
「二度と俺に近づくな。」
視界に入っていた菌類も、俺の態度に驚いていた。
思ったよりも声は低く、怒りを含んだ物言いだったからだ。
家に帰り、私服に着替えてベッドへと倒れる。
会社、クビかな。
広い自分の家を見回し、ため息をつく。
たまに蘇る悪夢。
俺が生まれなければ、親父はああならなかったんじゃないか。
答えなど見つかる訳のない問いを、何回問うてきただろうか。
「……お母さん。あのね、私…」
晩御飯の片付けをする母親の背中に声をかけた。
「…あら。どうしたの?」
私の何時もと違う真剣味が、お母さんを後ろへ振り向かせた。
「…………私、日本へ行こうと思う。」
お母さんは小首を傾げて、理由を聞いた。
「…お願い。」
理由は言わなかった。ただ、少し眉間にシワを寄せ悲しげに笑う、それだけで。
それだけなのにも関わらず、母親は理解をした。そっと泣きそうな顔をして、勇気を優しく抱きしめた。