黒崎 剛
「黒崎さん、この後お時間ありますか?」
定時で帰れそうにない、仕事の量。もう流石に慣れてきているが、この手の誘いは今だに慣れない。
「すみません。空いてません。」
「……残念。またお誘いしますね。」
毛先をくるくるに巻いた髪を揺らしながら、誘ってきた女は去った。
女の足音も聞こえなくなると、隣の席の同僚が気持ち良く笑い出した。
「あはははは! いっつもほんとに、気持ち良く断るね~。あんなにスッパリと斬られてるのに、よくめげずに河井さんも。ぷっくくくく。」
「笑すぎだぞ、菌類。」
頭がキノコ頭なので、“キノコ”と呼んでいたのだが、なんだか可愛らしいので最近は“菌類”と呼んでいる。もちろん、名前は島田 海斗(しまだ かいと)といって、茸などとは何ら関係はない。
「るせー、俺は海男だっての。ったく…先にあがるぞ?」
なんだかんだ言いつつ満更でもないらしく、いつものようにツッコミをしてくる。
「おー、お疲れ。」
「お疲れー。」
カタカタとパソコンを打ち終え、背もたれに寄りかかる。
気づけば同僚が帰ってから一時間。まだいい方だ。
さっさと身支度を済ませて、会社を出ると例の“河井さん”がいた。
「遅くまでお疲れ様です。」
「お疲れ様です。」
下手に質問せず、タクシーを捕まえる。
車の免許は持っていない。そして、もし駅まで歩けば、河井さんに話しかけられた時に困る。
「……急ぎ、ですか?」
タクシーに乗り込もうとするところに質問が来た。
「はい。お疲れ様です。」
さっき、空いてないと答えたはずだが。ま、嘘なんだけども。
河井さんが何か言いたそうなのを気づかぬ振りをして乗り込み、扉を閉めた。
行き先を伝え、しばらくすると運転手が口を開いた。
「いいんですかぁ? 綺麗なお嬢さん残して…」
「ええ。きっと駐車場に黒光りした車が待ってますから。」
「…あ。なるほど……男前も大変ですねぇ」
俺は返事せずに、盛大にため息を吐いた。
「…それだけガードが堅いなら、好きな人でも?」
「いません。」
「へぇ〜 、以外と純粋なんですね~」
ミラー越しに睨んでやると、運転手は肩を竦めた。
「ただいま、父さん。」
返事のない父。当たり前だ。睡眠薬の多量摂取による自殺未遂が原因で、寝たきりだからだ。喉から管を付け、人工呼吸器によって生かされている。
会社の同僚にも、親友にも言えていない事情。大家さんにだけは簡単に言ったこの秘密。
「父さん。俺……」
誰にも言ったことのない悩みを言おうとした時。タイミング良く携帯電話に着信だ。
父の部屋を出て応答した。人工呼吸器の音は思ったよりも聞こえる。電話口では聞こえないとは思うが。
「…はい。」
《おう! 剛! 俺だ! 慶だ!》
電話の相手は親友、山元 慶(やまもと けい)。確か韓国に留学した弟に付いて行って、就職した。彼は通訳をしている。
彼はいわゆる語学オタクというやつで、韓国語に中国語、英語、フランス語、ドイツ語、スペイン語……あとは忘れたが、あらゆる言語を勉強している、変な奴である。
「元気そうだな、どうした?」
《そうか? ははは! そうだ、俺、今度結婚するだよ!》
突然の吉報にびっくりした。
「結婚?! お前が?!」
《ああ! お前よりも早く、な》
驚く俺の反応に嬉しそうに、そして誇らしげに答えた。
「相手どんな人なんだよ?」
《優しくて、たまに喝入れてくれて、愛に溢れててーー》
そういう意味で聞いた訳ではない。わざとだろう。
「…切っていいか?」
《悪い! 嘘、嘘! 韓国の人で、弟の家庭教師だった人なんだよ。》
「ふーん。食ったのか。」
《くっ…?!?!?! ち、ちげーよ! 弟も好きだったらしいけど、他に好きな人できたってよ! そんなことしねーよ……》
予想通りの反応に、楽しくなった。
「ははは! 悪い。慶の弟、もういくつだっけ?」
《二十一。あ、ちげぇや。二十歳だよ。あいつ、この間親友が亡くなってさ、ずいぶん落ち込んでたんだよ。》
「……そうなのか。」
《そしたら、お前の顔が浮かんでさ。小っ恥ずかしいけど!》
「フッ……ありがとな。」
《…おう!》
俺たちはただの親友とは違う気がする。相棒のような、兄弟のような、右腕のような。“親友”って一言で片付けられるような間柄じゃないような気がしてならない。
それでも、俺はこいつに悩みを話していない。
《お前も、なんかあったら遠慮なく連絡しろよ!》
信用していない訳じゃない。
「……じゃあ、」
《ん?》
「女からの誘いの対処方を教えてくれないか?」
《……は? あははははは!!》
ただ、怖いんだ。