金 勇気
真っ白なベッドを囲むあらゆる機械。室内に響く一定のリズムの電子音。
誰がそばにいても、わからない。
私はまだ、夢の中。
そんな私の気にかかることは一つ。
ーーあの人は今、泣いていないだろうか。
「勇気ー、ご飯食べないのー?」
バタバタと部屋を駆け巡り、支度をする少女。声をかけた五十代の女性はさっさとご飯を食べている。
「美味しそう……」
羨ましそうに見つめる少女は、髪を一つに結わえ終えると、またバタバタと支度を進める。
「いってきます!」
「ご飯食べないのー?」
「ごめんお母さん! 時間ない!」
そう言って靴を履き始め、ドアノブに手をかけたところでまた声をかけられる。
「あ! のり巻き忘れてるよ!」
「え!? 作ってくれたの!? やった!」
「早くいってらっしゃい」
「うん! いってきます!」
少女は元気よく駆けていった。
扉が閉まり、静寂が訪れた時、ちょうどその家の固定電話が鳴った。
「はい、もしもし?」
《ああ、おはよう。私だ。》
相手は中年男性の声。
「あら、おはよう。」
《…勇気は?》
「寝坊したらしくて、慌てて出て行ったところよ。」
《そうか。……元気か?》
男の声色は、なんだか深い意味も含めていそうだ。そして女性もその意味を知ってか、悲しげに微笑んだ。
「ええ。最近、やっと。」
《……そうか。大丈夫だろうか…》
「そうね。心配だわ…」
二人、沈黙と共に同じ遠くを見つめていただろう。
ソウル郊外に住む二十一歳、金 勇気(キム ユウキ)。厳密に言えば、日本では二十歳となる。
熾烈な受験を乗り越え、なんとか有名大学に入学していた。
世の中広いようで狭い世界。私の身に起きた事は噂として大学中瞬く間に広まった。
いずらくないと言えば、嘘になる。
「あれー? キムさん。なんで学校来たのー?」
韓国では名字で呼ぶのは失礼に当たる。目の前に現れた派手な女三人は、わざと言っているのだ。
ここは大学の食堂、わらわらと人が多くなってくる時間だ。
「っていうか、退学しないんだ? いつ退学するの? こういうのは早い方がいいよ! キムさん?」
くすくすと笑い合う女を睨んでも何もならない。無視が一番いい。
「どこの学科だったっけー? キムさんがーー」
一人の女が言い終わる前にガシャンとすごい音がした。
どうやら近くで誰かが転んで、トレイの上の物を大胆に撒き散らしたようだ。
女性の小さな悲鳴が後に聞こえた。
そしてざわざわと転んだ人を心配する声が飛び交った。
場の空気が代わり話す気が失せたのか、女達は舌打ちをして何処かへ行った。
「……はぁ。」
もうここにはいられないかもしれない。
折角の好物であるのり巻きを、味気なく食べる姿を、遠くから見守る人がいるとは、思ってもいなかった。
「すみません、消しゴム二個持ってたりしませんか?」
講義中、そんな声が聞こえた。
まさか私に話しかける人なんてと思っていたせいか、気にしつつも聞こえていない振りをした。
しかし、私のノートの近く、板書をしている私の視界に入るところで、トントンと机と人差し指で突ついた。
恐る恐る顔を左に向ければ、一つ席を空けて隣に座る男子生徒がこちらを見ていた。
綺麗にワイシャツの上にセーターを着た短髪の黒縁眼鏡の男性。見るからに頭良さそうなお坊ちゃま風貌。
「持ってませんか? 消しゴム。」
「…え。 あ、は、はい…! ど、どうぞ…」
思いっきり挙動不審になってしまった。
幸い一番後ろの席で、周辺に誰もいなければ大半が寝ているので、誰も彼に危害は加えないだろう。
「ありがとう。」
消し終えたのか、相手は消しゴムを返してきた。
「あ、それ、私使いづらいのであげます。」
瞬間、“しまった”と思った。私なんかからもらってもいらないだろう。まぁ、何処かで簡単に捨ててもらえれば、それがいいが。
「ほんと? ありがとう。」
私の予想を超えた反応。彼は、嬉しそうに喜んでお礼を言った。
珍しい人もいるものだ。
帰りにその人を見かけた。なかなかの人気者のようだ。色んな人に勉強を教えてあげていれば、頼み事も聞いている。
変わった人だ。
「あれー? キムさん、まだ退学手続きしてないのー?」
「さっさとしちゃえばいいのにー、嫌でしょう? こんな学校。」
懲りない人たちだ。何が面白いんだか。
また無視を決め込み、立ち去ろうとした時、一人の女が立ち塞がった。
「ねぇ、どこの科のなんて名前だっけ? あんたがこーー」
「あ! いたいた! 捜しましたよ、三人とも。レポートの件で、教授が呼んでますよ! “至急”だそうです。」
さっきの消しゴムの彼が、話しかけてきた。
女達は青ざめた顔をして逃げて行った。
「……君、学校やめちゃうの?」
眼鏡を隔てた向こうには真ん丸の大きな目。背が高いせいか、可愛らしい口調に違和感を覚える。
「え、あ、いや……」
突然フラッシュバックする、まだ新しい記憶。
「きっとイ・ソンミンが泣きますよ?」
心臓が止まったかと思うほど、衝撃が全身を巡った。目を見開き、上を見上げれば、眼鏡の男性は微笑んでいた。
「…な、……なぜ?」
「彼とは親友ですから。」
誇らしげに言い切った彼に、私は恐怖しか無かった。
一目散に逃げた。
怖くて逃げた。