山頂
蝶
蝶は飛んだ道を戻ってくるというのだが?
宏が知る2人の女性、由美と幸子は宏のもとに帰ってくるのはどちらなのか?
第1章
ばんな寺にて
黄色い花が風に揺れている。
アスファルトの道は南北に延びていた。
宏はその道を南に向かって歩いていた。すでに毛穴の中の汗は流れ出していた。
ヒマワリの花を良く見ると、円の中に小さな花の有ることに気がついた。この年になって初めてそのことに気がついたことに、宏は小さな驚きを感じた。
ばんな寺の大きな木々が見えだした。堀には鯉が気だるそうにゆっくりと泳いでいた。
反り橋を渡ると仁王門が有る。それをくぐると広い境内になる。
西山由美との約束の時間は2時であった。まだ10分前である。
宏は暑さを避けてイチョウの木陰で待つことにした。
宏の他には3歳くらいの男の子とその母親だけで有る。
男の子は赤い袋から、鳩の餌を撒いていた。
鳩は男の子を中心に30羽くらいいた。
由美の姿が見えた。白いブラウスを着ていた。
由美は宏の姿を見つけると小走りになった。
その足音に2,3羽の鳩が飛び立った。その羽音に驚いた鳩が次々と飛んで行った。
男の子と由美が茫然とした。
白い鳩の餌が残されていた。
「ごめんね」
男の子は母親の方に走りだした。
「すみません」
由美は母親にも謝った。
「気にしないで、すぐに戻って来ますから」
由美は頭を下げると宏のほうに歩き始めた。
「気がつかなかったの」
宏に言った時には泣き出しそうな声をしていた。
宏は由美の手を引いて売店に向かった。
鳩の餌を買った。
「これ男の子に渡せば」
宏の言葉に由美は笑顔を見せた。
男の子と由美が餌を撒くと鳩は降りてきた。
餌の無くなった赤い袋が風に吹かれて、ころころと転がっていく。宏は追いかけた。
「今日は記念日なの」
「なんの?」
「最初に逢った日」
そうかあの日なのか
急に雨が降り出した。宏の車が通り過ぎるのを待っている少女が居た。ずぶ濡れである。
白いシャツから肌が見えるほどである。
宏は車を止めた。
「乗っていいよ」
と声をかけた。
少女は手を横に振り断った。
宏は助手席のドアを開けた。
「汚れますから」
と少女は言った。
「家まで送るよ」
「駅までお願いします」
と言いながら少女は乗った。
宏は車を出すと、少女にタオルを渡した。
「家はどこ?」
「駅でいいです」
「そんな恰好だとみんなに見られるよ」
宏が言うと、異性に言われて気がついたのか胸を窓の方へ向けた。
「家はどっち」
再び尋ねると
「k市の方です」
と答えた。
宏はその方に車を向けた。
少女は黙っていた。
渡良瀬川の近くまで来ると雨は止み始めた。
「虹が見える」
宏も見た。
「自然は美しい物作れるんですね」
少女は独り言のように言った。
「きれいだな~」
宏はそう言いながらスピードを緩めて走った。
「何のお仕事ですか?」
「絵を売っている」
「私、美術部です」
「そう、いい絵あるから見せてあげるよ」
「嬉しいです。私西山由美です」
宏は名刺を渡した。
「吉葉宏さん」
「はい」
由美が笑った。
「ここで下して下さい」
小さな社の所で言った。
宏は車を止めた。
蝶の刺繍
高校3年の夏休み、宏は刺繍工場にアルバイトに行くことにした。
女工さんが15人ほど居る工場である。
宏の仕事は製品を数えたり、束ねたりすることであった。
ただ、男は社長と宏だけであった。
2,3日は誰とも喋らず何か退屈であるが、居心地が悪いわけではない。
若い女性が化粧の匂いをぷんぷんさせていたし、10時、お昼、3時の時には、何かしらの食べ物を持って来てくれたのである。
「この煩い音慣れた」
と髪の毛の長い人が言葉をかけてくれた。
確かにミシンの音にラジオの音は大きい音であった。
「大丈夫です」
「河内幸子、覚えて」
「かわちさちこさん」
「今日お給料日なの、デイトしてくれる?」
「はい」
「素直ね」
「はい」
「ばんな寺で7時にイチョウの木の所で待っててね」
宏はその言葉が5時のベルが鳴るまで、嘘か本当なのかと考えていた。
男子高校であるし、宏は母と2人暮らしである。
デイトは初めての経験である。
仕事が終わるとすぐにばんな寺に行こうと考えたが、時間が有りすぎる。
工場から30分もすれば着いてしまう。
宏は本屋で時間をつぶすことにした。
本を立ち読みしていても落ち着かない。
宏は早いとは思ったが、ばんな寺に行った。
約束のイチョウの木の下で待った。
椅子に腰かけた。
まだ20分はある。
広い境内に人はほとんど通らない。
宏は下を向いていた。
「だれだ」
化粧の匂いが昼間の匂いと同じであった。
でも名前が出て来ない
「お姉さん」
「あたり、名前呼んでくれた方が嬉しかったのにな~」
「幸子さんです」
宏は思い出すとあわてて言った。
「食べたいものある、何でもいいわよ」
「河内さんの好きなものにします」
「じゃそうする」
2人はばんな寺を出た。
渡良瀬川の見える所まで来て、お好み焼きの店に入った。
2人だけの小部屋である。
「顔赤い、誘惑しないから」
幸子は笑いながら言った。
「大学行くの?」
「公務員試験を受けます」
「お役所、いいな」
「受かるかどうか先のことです」
「私は中卒だから、こんな仕事しかないの」
「いい仕事です、職人ですから」
「本当は定時制高校受けようと思うの、それで勉強教えてくれる」
「僕でよければ」
「良かった、すっかり忘れているから、馬鹿にされるだろうな」
「やればすぐに思い出しますから」
幸子は嬉しそうにお好み焼きを焼いてくれた。
店を出ると
「少し歩こうよ」
と幸子が言った。
水銀灯の明かりに白い幸子のスカートに刺繍された銀の蝶が舞って見えた。
1ヶ月のアルバイトはすぐに終わった。
幸子は英語と数学が解らないといい、仕事が終わると2時間ほど幸子の寮で勉強をした。
寮には幸子の他に3人女工さんが居た。3人とも幸子の定時制高校の進学を応援してくれた。
「解らないことが有ればいつでも来ます」と言って別れた。
幸子は勉強を教わったお礼にと、蝶の刺繍のあるハンカチをくれた。
それは白いスカートの蝶の刺繍と同じであった。
それぞれの道
宏は公務員試験に失敗した。
原因の一つは幸子への恋心である。幸い画廊に就職できた。
宏は絵が好きであるからむしろこの方が良かったと考えていた。
幸子は定時制高校に通学していた。
しかし考えていたほど楽なものではない。
5時まで仕事をして、5時30分までに学校に行かなくてはならない。どうしても遅刻になる。
4時30分で仕事を辞める交渉をしたら1時間分の給料を引くというのだ。
10時に寮に帰ると体はくたくたに疲れた。
自分で選んだ道と幸子は耐えた。
難しい勉強になると宏を思い出した。けれど逢えば自分がだめになる様でそれは出来なかった。
2年生になった年に幸子は20歳を迎えた。
高校卒業には22歳になっている、
幸子は自分には青春がないとも感じていた。
たった一度宏とのデイトが有るだけなのだ。
宏も幸子を忘れることは出来ないでいた。
そんなときに宏は由美を知ってしまったのである。
高校2年生の由美に恋心は感じないでいたが、由美からの手紙はいつも逢いたいと書いてあった。
宏は一度絵を見せただけでそれ以外は逢わないでいた。
逢うことで由美の大学受験に影響を与えるかもしれないと考えた。
余りの由美の催促に逢う約束をした。
境内には男の子も居なくなっていた。
白い蝶がひらひらと飛んでいた。
鳩は降りて来ては餌の無いのに探し回り、やがて諦めたのか、いつものことなのか飛び立つ。そして違う鳩が舞い降りてくる。
「大学はどこにした?」
「美大です」
「希望が叶えばいいね」
「頑張る」
「由美さんなら大丈夫」
「ね、一年前のお礼したいから目をつむって」
宏は言われるままに目を閉じた。
宏の唇に由美の唇が触れた。
幸子の様な化粧の匂いでなく、汗の匂いがした。
宏が目を開けた時には由美は走りだしていた。
「さようなら」
鳩がいきよい良く飛び立った。其の風で埃が舞った。
宏は由美の後を追う事はしなかった。
それ以降由美に逢う事も無かった。
由美が大学に合格したことは新聞で知った。
宏は由美と別れたことに未練はなかった。それを望んでもいた。
ただ幸子への未練はあった。
幸子に貰ったハンカチの蝶の刺繍の糸がほぐれ出し、蝶の羽が半分無くなっていた。
何とか幸子に逢い直してもらいたかった。
しかし幸子に逢う勇気がない。
宏も幸子も逢いたいと思いながらも、相手のことを思い逢えないでいた。
山頂のレストラン
「どこにしますか?」
「どちらでも」
宏は幸子の学校がえりを待ち約束した。
宏は小高い山のレストランに決めた。
カーブを曲がるたびにライトの光が左右に動く。
そのたびに幸子の体は宏の体に触れる。
蝶が上下に飛ぶように、幸子と宏は左右に飛んでいた。
二人とも何か気まずく嬉しくもあった。
レストランに着くと二人はどちらともなく笑いだした。
「なににする」
と歩きながら同時に言いだしたからである。
「今日は僕に御馳走させて下さい」
宏ははっきりと言った。
「ありがとう」
幸子の注文も聞かずにフランス料理のコースを注文した。
「学校どうです」
「大変、でも通ってる生徒皆そうだから頑張れる」
「卒業して下さい」
「もちろんです」
宏は定時制高校の生徒の退学者の多いことを知っていた。
幸子は化粧はしていないが前見たときよりもきれいに感じた。
「高校出たら何になるんですか」
「先生になりたいと思い始めたわ」
「大学に行くんですか」
「そのつもり」
「応援します」
「ありがとう」
宏は幸子の夢の大きさに感動した。
そして自分も頑張らなくてはいけないと感じた。
「この蝶羽が半分なんです、修理してくれますか?」
「これと交換するわ」
幸子は同じハンカチを出した。
上京
宏の勤務している誠美術は東京に新しい店を出すことになった。上野である。
宏はその店に転勤となった。
店を出すのも宏の提案によるものであった。
大学生を使いキャチセールスを考えたのである。
1万円のリトグラフを、学生に2万円で卸、それを4万円で売るのである。
誠美術ではそれを5万円で店に飾っておく。
宏の給料が3万円であるから、学生は月に1枚売ればいい稼ぎになる。
「上野の誠美術ではこれと同じものが5万円です」
と大学生には言うようにと伝えた。
初めは3人の学生から始めて、半年の間に20人の学生を使うまでに当たった。
宏の給料も歩合制となり、3倍ほどになった。
店には美大出の店員も雇い入れた。
美術館も近いせいか、店のお客の出入りは良い。
高額の50万前後の絵も売れ始めた。
宏はお客をつかむため、クラブに出入りするようになった。
ある店で、隣の席にいる女性が見たことのある人に感じた。
幸子である。
レストランで別れて3年経っていた。
客の相手をしているから良くは見えない。
宏は自分の席のホステスに名前を聞いた。
「あかり」と言った。
宏は接待した客が帰ると、あかりを指名した。
「ありがとうございます」
あかりは言いながら宏の隣に座った。
「初めてですね」
「この店では」
「あら、どこかで会いました」
「会ったことがある様な・・・」
「何のお仕事」
「画商さん」
前から席にいるホステスが私のおなじみと言わんばかりに答えた。宏がタバコを口に咥えると、あかりが火をつけた。
2,3回吸うと
「踊ろう」
と宏はあかりを誘った。
背の高さが知りたかった。幸子は肩までだった。
あかりは耳まであった。ハイヒールのせいかとも思った。
あかりはシャンプーの匂いがした。
前からいるホステスとは格段の違いを感じた。
踊り終わって、席に着くと、宏はあかりに1万円のチップを胸に挟んだ。もう一人のホステスにも1万円手渡しした。
幸子かどうか解らないまま店を出た。
幸子は宏であることに気がついた。
大学に進学したとはいえ、生活はどうにもならなくなっていた。
刺繍の腕はあっても仕事がない。サラ金にも30万の借金をしていた。宏が4万円近くの支払いをしているのを見て、よほど声をかけようかとも思った。
アパートに帰ると寝るだけである。
何のための苦労なのかと考える。
宏に「先生になる」と約束したからなのか
いや自分のためなのだ。
車のライトが走馬灯のように窓を過ぎる。
渡良瀬川に笹舟を流したことが思い出された。
きらきら光る夜の川に、宏と2人で流した笹船はどこに辿り着いたのか
逢いたい、逢えない。
宏はデパートで絵の展示会を見ていた。
その中に人物画なのに、シマウマのように斑に色を付けた絵があった。「どうわ」と題名が記されていた。
宏は童話なのか同和なのか迷った。
すぐに作者の意味するものは容易に感じ取ることが出来た。
西山由美と書かれていたのである。
由美とばんな寺で別れてすぐに手紙が来た。
知っているかも知れませんが、私の家は同和なのです。
私は決めました。
せめて別れる前に、思い出は作るのだと
「さようなら」の代わりに「またね」
と言いたかった。
あのくちずけは私の結婚式です。
由美は誰とも結婚しません。
手紙を読んで宏はすぐに手紙を書こうとした。
しかし受験を控えている由美に余計なことは考えさせたくはなかった。
由美の絵は特選に選ばれていた。
宏はどこかに居るのではないかと見たが、由美らしい姿を見ることは出来なかった。
宏は自分が恥ずかしく思えた。
金儲けの事ばかりを考えている。
もしあかりが幸子であれば助けなければならない。
宏はそう考えると居ても立っても居られなかった。
あかりの居る店に電話を入れた。
まだ店の開く時間ではないが、マスターが出た。
宏があかりのことを尋ねると、宏であることを確認してから
「大学生らしいです」
と教えてくれた。
しかし住んでいる所は知らないと言った。
ママが知っているらしいと言うので、店に行くことにした。
「呑んでいって」
教えるのと交換条件になった。
「そのうち来るわよ」
2時間も店にいたがあかりは来なかった。
宏はママから教えてもらったアパートにタクシーを走らせた。
その部屋に表札は無い。
宏は管理人を訪ねた。
「2日見てません。お知り合いですか」
「弟です」
「それは良かった。こんな張り紙がありました」
サラ金の督促である。
翌日幸子とあかりが同一人物と確認した。
サラ金で調べたのである。
幸子の借り入れは全額弁済した。
結婚
宏は病気がちな母を東京に呼ぶことにした。
アパート探しを店員の水田真理恵に頼んだ。
水田は自分の隣の部屋が空いているがどかと教えてくれた。
宏は当分店の二階に泊らなくてはならないので、水田の隣なら何かと都合が良いと考えた。
早速その話を進めて、一ヶ月後には宏の母は転居してきた。
呼び寄せたとは言え、別居であり、初めのうちは毎日顔を出していたが、仕事が遅くなると、面倒になっていた。
まだ東京に馴れないそんな母に、水田は気を使ってくれていた。
宏が2日ぶりに母の所に行くと、水田と母が夕食を食べていた。
「丁度よっかった」
水田は自分の家のように宏の食事を手早く用意してくれた。
「母が世話になっているのに自分まで、ありがとう」
「お給料上げてもらうから・・」
水田は笑いながら言った。
水田が作った八宝菜は美味い。
インスタントか外食だった宏には堪らないほどの美味さであった。
「母さんの味に似ている」
「宏さんのお母さんが作ったんですもの」
「水田さんかと思いました」
「お料理教えていただいてます」
「それはいい、母も退屈しないで済むし」
「宏のお嫁さんになる方でしょう。きちんと紹介しなくては、子供じゃないんですから」
「母さん何言ってるんだ、水田さん迷惑そうにしてるよ」
「母さんの勘違いかい」
「すいません」
宏は水田に謝った。
「嬉しいかも」
水田はまたも笑いながら言うので、宏は戸惑った。
とにかく楽しい夕食であった。
水田が帰ると、母は宏に言った。
「あんな気立てのいい子はいないよ」
「解ってる」
宏は母に言われなくても水田は美人ではないが気にはなっていた。
由美や幸子を知らないで居れば恋人にしたいくらいの子なのだ。
たった一度の失敗が、宏と水田を結びつけてしまった。
宏は客の接待で、少し酒を飲み過ぎた。
母の部屋と水田の部屋を勘違いして、水田の部屋で寝込んでしまった。
水田は自分の布団に宏を寝かせ、自分もその隣に寝た。
宏が目を覚ました時には自分ひとりで寝ていたが、何か記憶の中には若い女が居た。
今までに何回かそんな経験をしていたので、別に気にもしないで朝を迎えた
視界に入ったのは、水田であった。
「どうして」
「部屋を間違えた」
「どうして追い出さなかった」
「すぐに寝てしまったから」
「何かした」
「どうかしら」
またも水田は笑ってごまかした。
「はい。お水」
レモン水であった。
気が利きすぎだ。
「結婚しようか」
宏が水田に言うと
「最高の質問ね。o・k」
後日解ったのだが、部屋は間違えてはいなかった。
母と水田が仕組んだ罠である。
宏はこれほどまで婚約が簡単にいくとは考えてもいなかった。
水田の両親の了解を得たら式を挙げようと考えた。
半年くらい先を予定していた。
その矢先、幸子から電話が店に入った。
幸子はサラ金の返済を宏が完済してくれたことを知り、どうしてもそのお礼がしたかったのである。
幸子はある決意をしていた。
約束の場所はばんな寺である。
宏の返事は『都合がついたらいく』と言うのだった。
4月花冷えのする夜である。
しだれ桜が街灯に照らされて薄ぼんやり見える。
そこに立っていたのは宏であった。
幸子は走り寄った。
「無理言ってごめんなさい」
「ぼくも言いたい話があるんだ」
「お金宏さんでしょう、返してくれたの」
「ハンカチの代金さ」
「ありがとう。そうさせて頂く・・・」
今の幸子には宏の言葉が何よりも嬉しく思えた。
「ね、今夜はなんでも私のいうとおりにして欲しいな」
「いいよ」
宏は幸子の握る手の強さにそう答えてやりたいと感じた。
「前のホテルで食事しましょ」
ばんな寺のすぐ前にある。
手を握り合ったまま歩いた。
ホテルの1階は中華の店である。
「明日の朝帰ればいいわね」
「…実は」
「部屋の予約しておくから」
幸子はロビーに行った。
「最上階が取れた」
「ふた部屋とってくれた」
「心配しないで、コースでいいわね。お酒は」
「ビール」
幸子はボーイに注文した。
「クラブで幸子さんに逢った時は半々だったな」
「私は解っていた」
「名前呼んでくれれば良かったのに」
「恥ずかしいでしょう」
幸子は慣れた手つきでビールを注いでくれた。
「今日は楽しいよ」
「私も」
「初めてあった日のこと覚えてる」
「私が誘ったんですもの」
「今もそうだけれど心臓がドキドキ頭でしていた」
「純情だったのね」
「そう、今も」
「今日は誘惑するかも」
「嬉しいね」
「本気よ」
「ぼくも本気さ」
宏は酔い始めていたのかも知れない。
食事を済ませて部屋に行くと、部屋は1部屋であった。
「これはまずいよ」
「思い出ずくり」
「でも」
宏は婚約していることを言いたかったが、どこかで打ち消したい気持ちもあった。
煙草に火を点けた。
幸子はバスルームに行った。
思い出とは一体何なのか?
宏はいろいろな形をして消えていく、たばこの煙を見ていた。
風呂から上がって来た幸子の裸体はイチョウの葉のように黄金色をしていた。
なぜこれほど美しいのだ。
なぜこんなにも輝いているのだ。
この世にこれほど美しい蝶が居るのか?
宏の体はその羽根に包まれ飛んでいくようであった。
眩しい喜びを感じた。
「きっと教師になりますから」
宏の体も幸子の体も、汗なのか涙なのか全身が濡れていた。
カーテンを開けると星が輝いていた。
水田と婚約していなければ、きっと幸子に水田に言った言葉を言ったはずだと宏は思った。
思い出ずくりとはこうも残酷なのか
宏は煙草に火を点けた。
水田の父親が岩手から上京することになった。
宏との婚約を正式にするためである。この話も宏は5日前に聞いた。すべて宏の母親が進めていた。
宏自身が迷う前に余りに話が早く進んでいるので、宏は考える余裕もなかった。
池之端の料亭で話が持たれた。
「真理恵はご存じでしょうが我が家の一人娘でして、その上1人っ子なんです。ですから出来れば、いや是非とも私どもの婿に迎えたいのです」
「それは、ことらも宏は同じなんです」
「では、性は水田では、生活は当分こちらでという事では」
水田の父親は高校の校長で退職したということだけに、話がトントン進んでいく。
「宏はどうなの?」
「お父さんの言う通りで構わない」
宏はある思いがあった。
性を変えることで自分自身を変えたいと思ったのである。
「宏さんはああ言ってますが」
「本人が良いのですから何も言う事はありません」
「良っかた。結婚式の日取りは」
「わがままですが式は挙げたくないのです」
「それはどうしてです」
「意味はありませんが、その費用をどこかに寄付したいのです」
「そうですか。真理恵、宏さんはしっかり者だ」
宏は咄嗟に出た言葉であった。
性を変えるのも、式をしないのもすべてが幸子へのためらいなのだ。
もし、あの日水田と一緒に寝たとき何もしてない確証があれば約束は破棄したいとも考えた。
水田を嫌いではないだけに今の宏にはどうにもならない。
「お母さん話はまとまりました」
「ありがとうございました」
「今夜固めの杯をしましょう」
水田の父親は嬉しそうに言った。
「明日からでもいい。一緒に暮らしなさい」
その水田の父親の言葉が宏と真理恵の生活の始まりであったかもしれない。
宏は内心ホッとしていた。と言うのは神様や仏様には嘘をつきたくなかったからである。
結婚式を挙げれば当然真理恵だけに愛を誓うことになる。
今の宏にはそれだけの自信がない。
だから今日まで水田とは体の関係は持たなかったのである。
其の夜宏と水田は結ばれた。
東京の騒音の中でがむしゃらな男と女の関係であった。
それは一輪の花も必要としない欲望だけが結び付けた宏と水田の結婚であった。
女の子
幸子は宏と逢ったあの日から数えて3ヵ月後に、体の異常に気がついた。
妊娠したのである。
幸子は大学の4回生の時である。幸子は迷った。
大学はやり直すことが出来る。しかし宏との子はもうこれきりなのだ。
願っていた訳ではなかったが、出来ると嬉しい。
大切にしたいと思う。
子を産む決心をすると、生活の糧を求めなければならない。
手元にある金は、後期の授業料である。
大学に休学届を出した。
その金で刺繍ミシンを購入した。
幸子の住んでいる所は浅草である。
アパートは2階であったが、1階に移った。
ミシンの振動があるからであった。
浅草には手刺繍をやる店が何軒かあった。
相撲の化粧回しなどである。
洋品店や、デパートに行きYシャツやスーツのイニシャルの注文を受けようと歩いた。
木綿の生地にアラビア文字の見本を持って歩いた。
今までは手刺繍でやっていた仕事である。ミシンで出来るのかと不審がる担当者が多い。
幸子は自宅に案内して実演して見せた。
そんな努力と、幸子の明るさで仕事の注文が来始めた。
打ちかけの刺繍も手掛けた経験で、校旗や社旗の見本を作ると、安いフロッキイ加工より見栄えが良いと注文が入った。
幸子の仕事は軌道に乗り出した。
翌年2月2800グラムの女の子が生まれた。
名前を愛とつけた。
幸子27歳であった。
愛を抱き上げるのが幸子一人なのが、覚悟していたはずなのに悲しい、
幸子はその分強くなる決心をした。
宏は浅草の画家を訪ねた帰り、遅い昼飯を食べようと、食堂を探していた。
ガラス戸越しにショウケースがある。その中に刺繍された旗や運動着が飾られていた。
宏は懐かしく思った。同時に幸子を思い出した。
横を向いたまま歩く宏に女の子がぶつかった。その子はそのまま走って宏が見ていた店に入った。
刺繍工房 幸
と看板が出ていた。
宏は戻り店の中を覗いたが人影はなかった。
そのまま歩き食堂を見つけた。
昼の時間帯を外れ客は1人いただけだ。
「いらしゃい」
元気が良い。
「カツ定食」
宏は直ぐに注文した。
さっきの刺繍の店が気になった。
カツ定食を持ってくるのはここのおかみに違いない。
「そこの刺繍店どんな方がやってるか解りますか」
「30くらいの感じのいい人。大学辞めちまって、子が居るのよ。シングルマザー」
「余計なこと言うな」
主人の声だ。
「すみません」
宏は怪しい者ではないとばかりに名刺をおかみに渡した。
「いま、お譲ちゃんが食べてったばかり」
もしかしたらあの子かと思った。
宏は食堂を出ると、刺繍店に戻った。
誰も見えない。
さすがに中に入る勇気はなかった。
1ヵ月後私立探偵から報告が入った。
河内幸子であった。
A市行きのロマンスカーに宏、幸子、愛の3人が乗った。
2時間足らずでA市に着く。
もうすぐで4歳になる愛は宏に初対面なのになついた。
車窓からは稲穂が黄色く見える。久しぶりの里帰りに風景まで宏たちを待っていてくれるようだ。
「認知はさせて欲しい」
「愛が判断できるまで待って」
さっきからこの話だ。宏は楽しい話もしたいがこのことに決着を即けたいと思っていた。
「ホテルに行ったらゆっくり話しましょう」
幸子がそういうので話は終わった。
2人は黙った。
愛がその分はしゃぐので、楽しい雰囲気に戻った。
電車を降りると、すぐホテルがある。
其のラウンジに入った。
渡良瀬川が懐かしい。
「宏さん私に10分の1下さい」
「何なのか解らない」
「1と月に3日来てくれたら愛にパパと呼ばせる」
「それなら約束できる」
「本当よ、それ以上はいいわ」
「いや都合付けてもっと行く」
「いいの、今までの気になれば・・・」
「黙っているから」
「子供が出来たなんて言える」
「・・・・・」
「人の幸せ奪うなんて」
「ぼくは2人とも幸せにするよ」
「奥さんどうかしら」
「絶対解らないようにする」
「きちんと私の事言って欲しい」
「そうか」
ばんな寺のイチョウは黄葉していた。
愛が鳩に餌を撒いている。
愛のはしゃぐ声と鳩の鳴き声が会話をしているようだ。
まるでここはおとぎの国だ。
宏は幸子の肩に腕をまわした。
幸子は顔を宏の胸にもたれた。
1枚の写真を撮ればこのまま永遠に時間は止まる。
静かだ。
何人かの人が居るのに、愛の声も2人には聞こえない。
宏と幸子に聞こえるのはお互いの命の音だ。
「解った。真理恵に本当の事話してみる」
「許してくれなければいいの」
透き通った空だ。
イチョウの葉がひらひら舞っている。
宮古の海
宏は幸子との関係をありのまま真理恵に話した。
「嘘でしょう」
青ざめ、泣き出しながら言った。
「どうしても面倒見なければならない」
「そんなこと言われても、実家に帰って考えます」
宏はもし離婚となれば仕方ないとも考えた。
しかし、母と実の娘の様に仲のいい真理恵を見ていると、それも出来ないと思った。
宏は自分勝手とは思っているが、真理恵と幸子の2人と上手くやって行きたいと考えていた。
「真理恵を愛していることは忘れないでくれ」
宏は確かめるように真理恵に言った。
10月の宮古の海は波が高い。
白い岩の上の松が風に揺れていた。
波しぶきが真理恵の頬に当たる。
いつの間にかそんな近くまで来ていた。
このまま歩いていけばいい。
あの龍泉洞の透明な水を思い出していた。
いくら透明な水であってもいつかは見えなくなる。
真理恵は宏の心は見えていたつもりであった。
悲しい。
見えなくなったら潜ればいい。そうは思っても、自分には息が続かない気がした。
真理恵は愛の最後の言葉が体の結びつきなのだと考えていた。
宏は真理恵の初めての男であった。
衣服は濡れていた。
海の臭いを感じていた。
「おーい」
かすかに聞こえていた。
真理恵が目を開けると宏の顔があった。
いつもの朝だと思った。
「おはよう」
と言いかけて声が上手く出ない。酸素マスクだ。
あのまま歩いていたのだと思いだす。
宏が笑みを浮かべている。愛していてくれた。
海から宏を見つけたのだ。
真理恵はそう感じた。
「宏許してあげるから」
そう伝えたかった。
宏の温かい手が自分の手を握っていることに気がつくと強く握り返した。
宏の胸に顔をうずめて泣きたい。
そして決めようと思う。子供は産まないことを・・・
宏は幸子と愛を愛しがるため、真理恵を追い詰めたことで真理恵の自分に対する愛の深さを知った。
と言っても、幸子が今まで愛の生まれたことさえ黙っていたことに、幸子の愛情も感じていた。
今になればなんと軽率なことであったのかと思う。
一つの命を授かり、一つの命を失う所であった。
約束通り、宏は2人の妻を持つ決心を固めた。
病室の窓からきれいに紅葉したもみじが見えた。
空は青くその深さは遥か遠くにあるのだと感じた。
由美の個展
愛は10歳になった。
幸子、真理恵とも宏は上手くやっていた。
大きな変化と言えば、宏が独立したことである。
キャッチセールスは学生の何人かが独立して、かなり際どいやり方をしたため、マルチ商法に見られて評判を落とした。
社長は嫌気がさし閉店を決めた。
宏は幸子の仕事の関係も考えて。その店を買い取ることにした。1000万円の資金のうち700万円は真理恵の父親が出してくれた。
宏はデパートや会館を借り展示会を開いた。
広告費がかさむが集客は見込めた。
バブルが生まれ始めたころである。
株や土地やマンションが高騰始めた。
高額の絵画も利殖目当てで売れ始めた。
宏はその波に乗った。
3千万円で買ったマンションは2年で6千万円になった。
金の魔力であるのかも知れない。
家族の誰もが幸せそうであった。
宏は画廊の名を愛と改めて、銀座に出店した。
その開店に西山由美の個展を考えていた。
透明感のある色使いは流行りもあって売れだしていた。
まだ1号5万円の評価であるが、宏の店で個展を開くことで、確実に評価は上がるはずである。
気にはかけていたのに何もしてやれなかった。その償いの気持ちであった。
打ち合わせで由美が銀座の店に来てくれた。
30半ばを過ぎたというのに若い。幸子や真理恵より若いとは言え華やかさもあった。
「宜しくね」
「有名にしてあげるよ」
「それよりまだ結婚しないなんて・・」
「誓いを立てたんですから」
「世の男は見る目がないな」
「1人の方が都合のいい時があるのよ」
「束縛はされないからな」
「自由だわね」
「今晩どう」
「お誘いかしら」
「食事さ」
「いいわよ」
宏は由美を誘った。
その日は愛の誕生祝いの日であった。3日早くしたのであった.由美と約束をしてからそのことに気がついた。
どちらを断るのか、宏は悩んだが幸子に電話を入れた。
仕事が大事だと言ってくれた。
仕事とはいえ宏は由美に新鮮な女を感じていた。
大人の男と女が食事だけで済まない事を由美は感じていた。
それなりの支度をした。
香水の香りも男を引き寄せる。
其の夜宏と由美はホテルに入った。
宏に愛という感情は無かった。
もし由美に愛を感じていたなら、そのことは出来なかったはずだ。
由美には高級車を買ってやると言った。
「嬉しいわ」
本当に由美は喜んでいる。
宏はくちずけをして、さようならと言った由美の声を感じた。
「自然は美しいものを作れるのね」
その言葉も思い出していた。
変わってしまったのは自分であると宏は感じた。
由美を道具のように扱った自分を恥じた。
夜空には満月が出ていた。
「今日の月、ブルームーンなのよ.これを見ると幸せになれるのですって」
裸の由美は宏に体を寄せた。
子供のころ蝶を取っては、三角の折り紙に入れてきれいに殺していたことが、今残酷に思えた。
由美も幸子もこのまま少しずつ殺していくのではないかと、ふと宏は感じ始めていた。
宏は由美の個展の計画を立てた。愛画廊の宣伝用雑誌に由美の特集を組んだ。
評論家には普段の3倍のギャラを約束した。中堅の画家にもコメントを寄せてもらった。宏が絵を買い取っている画家たちである。
個展の当日は生花で会場は埋め尽くされたと言っても過言ではない。すべてが宏が手配したのである。
由美も華やかである。絶えず笑みをたたえた顔は、絵を一層引き立てた。
敢えて販売はしないでいた。宏はもう少し評価を上げてから売りに出そうと考えたのだ。
5日間の由美の個展は盛況に終わった。
スタッフ達との打ち上げが終わった。2人だけになった。
「パリに行って勉強してこいよ」
「行きたい」
「1年間は金の面倒は見る。後は好きにしたらいい」
「嬉しい」
宏は由美がブルームーンを見た時、言った言葉が気になっていた。由美を一流の画家に育てて幸せにしてやりたい。
宏は由美から離れようと考えた。
宏は由美とは金で済ませたかった。そのために由美の気持ちを絵に集中させたかった。
その夜も宏は由美を抱いた。別れると決めていながら自分の欲望を抑えられない。今の由美は幸子や真理恵よりも遥かに魅力があった。
誰も悲しむ者がいないなら、由美といつまでもいたい。
宏は幸子の時もそう思っていたことを思い出していた。
愛とは一人の者にしか許されないのか、2人3人と愛の感情を抱いてはいけないものなのか。
由美や幸子や真理恵に男がいれば宏は許せないだろう。
宏は勝手なことを考えていた。
一度捕えた蝶を
網から解き放つ決心をした。
パパと呼ばない
愛の誕生日は過ぎていた。
宏はケーキと花と靴を買って行った。
「おめでとう。遅れてごめん」
「いらない、パパから貰った」
「パパじゃないか」
「パパじゃない。ホントのパパなら毎日一緒だもの」
「愛、何を言ってるの」
幸子が少し気まずそうに言った。
「清水さんにプレゼント頂いたんです」
「そうか」
清水とは幸子の店の従業員である。主に外交をしている。
45歳になるが独身であった。人当たりも良く、女性に縁がないのが不思議なくらい、感じが良い。
幸子の店が大きくなったのも清水の外交力によるところが大きい。
今では刺繍工が5人いるまでになった。
清水は幸子と愛の面倒をよく見ていた。
休みの日には遊園地やら公園に連れて行ってくれた。
幸子は車を運転できないので助かっていた。
「愛は本当に清水をパパと思っているのか?」
「それはないわよ」
「幸子おまえはどうなんだ」
「何を言ってるんです」
「愛が懐いているんだ」
「嫉妬」
宏は幸子の言葉に確かに嫉妬しているのだと思った。
愛が自分の子だとはいえ、今まで何もしてこなかった。
清水の方が幸子や愛に愛情を持って、接していたのは確かだ。
宏は愛や幸子はどこにも逃げては行かないものと信じていたのだ。
ケーキの上に10本のロウソクを立てた。
1本に火をつけ1歳の愛を思い出す
2本、3本、・・・・10本
吹き消す者はいない。
火が消えた時、宏は幸子の顔を見た。
「2年ほど前に結婚してくれって言われました」
「それで」
「考えると言ったまま」
「結婚すればいいさ」
「あっさり言うのね」
「愛情なんて逢わないでいれば薄れていくさ」
「そう、でもこうして逢っていると貴女が欲しい」
「愛が清水をパパと本当に思っているのなら身を引くよ」
宏は幸子と愛の幸せを考えてやりたかった。
ただ別れる前に3人でばんな寺に行きたいと思った。
4月になってすぐ宏はA市の駅に居た。
渡良瀬川に架かる橋を渡りそのまま、真っ直ぐ北に行けばばんな寺である。
暖かな日であった。宏は1人である。15分も歩くとばんな寺に着いた。
桜の花が満開である。
宏はただ手を合わせた。
幸子と由美の事を思い出していた。
あの日の初々しい気持ちが思い出された。
桜の花を見た。周りの木々の緑に映えて色鮮やかである。
美しさには心が洗われる。
宏はここに来てよかったと思った。
それから数日して真理恵が妊娠したと言った。
「お母さんが孫の顔見たいって」
「本当に出来たのか」
宏は真理恵には子供は出来ないと思っていた。
「お医者に診ていただいたから・・・・」
真理恵は38歳になっていた。
「体は大丈夫なのか?」
「高齢出産になるけど心配ないって」
「無理しないでくれよ」
宏は何年振りかに真理恵にいたわりの言葉をかけた。
真理恵も久しぶりに嬉しそうな顔をした。
その日の夕食はいつもの食べ物が出たのであるが、宏には美味く感じた。
母も真理恵もそんな風に見えた。
「幸子、結婚することになった」
まだ幸子からそんなことは聞いてはいないのに、宏は決めたように告げた。
「幸子さん今まで辛抱してくれたね」
母が改めて真理恵に言った。多分母はこの言葉を何百回と言ってきたに違いない。
宏は母と真理恵に心の中で謝っていた。
余りに平凡な真理恵を今日は美しいと宏は思っていた。
愛おしいとも思った。
蝶は飛び続けている
宏と真理恵の子は男の子であった。
5歳になった。
その年に由美は帰国した。由美は帰国後、絵と同時にファッション界にも頭角を現していた。
絵は定期的に宏の所に送られてきた。しかしファッションの事はよく知らなかったのである。
「宏さん、以前刺繍の事話したこと有るわね」
「バイトしてたこと」
「刺繍の出来る方紹介して欲しいの」
「知ってる人はいるが・・・」
{今度のデザインどうしても、刺繍が入れたいの」
宏は幸子を紹介したらと考えた。
幸子にも愛の誕生日以来会ってない。
毎月10万円の金は銀行に振り込んではいるが、こうして幸子の事を思い出してみると、愛に対して親としての愛情がないことに薄情に馴れる自分を淋しく思った。
いや違う、愛がパパと呼ぶ人のためなのだ。
久しぶりに幸子の店に電話を入れた。
「ひろしです」
電話は切られた。
由美さんがじかに連絡した方がよさそうだ。
宏は誰が電話に出たのか知りたかった。
今の宏は幸子にも由美に対しても、男と女の関係は考えないようにしている。
今の由美では余りに有名になりすぎて、すぐにスキャンダルになる。そんなことで由美の将来を汚したくはなかった。
幸子には愛の将来を託したのだ。
宏は自分にそう言い聞かせていた。
自分には真理恵と稔がいる。
由美と幸子のコラボのファッションショウは大盛況であった。
大胆に胸をVにカットしたドレスに袖はレースで蝶の羽を思わせ丸めの大きなゆったりしたデザイン。
無数の蝶が色鮮やかに刺繍されている。
モデルの女性が歩いてターンするとき、袖がひらりと舞い、それは宏には蝶が飛んでいるように見えた。
一度は宏に近づいた蝶であったが、蝶が飛んで戻って行った所は、宏から離れていく感じがした。
レーザー光線、スポットライトが消えると、そこには確かに何かがあるのに、何も見えない。
ざわめきが聞こえる。
2匹の蝶は花に止まらず飛び続けて行くのかも知れない。
宏は会場を出た。




