I'm sorry mom.
気がつくと、私は真っ暗なところに一人で寝そべっていた。
体を動かそうと思ったのに、私の体はちっとも動かない。
そうだ、ママがいないと私は動けないんだった。
ママ、ママ。
私は必死でママを呼んだけど、ママはどこにもいなかった。
悲しくて悲しくて、私は泣き出したい気分になった。
――悪いことばっかりしてたら、ママ林檎のこと嫌いになっちゃうからね。
――よそに林檎のことあげちゃうからね。
私は急に、ママが怒ってたことを思い出した。
私が悪い子だったから、ママを怒らせちゃったんだ。
それでお仕置きに、どこかに閉じ込められちゃったんだ。
ママ、ママ、ごめんなさい。
もう悪いことしないから、許して。
私は、その狭い真っ暗な場所で泣き出した。
本当のことを言うと、ママは私の本当のお母さんじゃない。
私は捨てられっ子で、ママは私を拾って『林檎』って名前を付けてくれた人。
とっても優しい人。
私とママは、色んな話をした。
ママは私に、死んだママの子供のことも教えてくれた。
――リンゴみたいな真っ赤なほっぺたをしてて、とっても可愛かったの。
――死んじゃってママすごく悲しかったのよ。
ママは悲しそうな目で、私の頭を撫でた。
私がいるよ。
私がずっとママのそばにいてあげるからね。
そう言ったら、ママは私をギュッと抱きしめて、背中をポンポンってしてくれた。
――でも私には林檎がいるもんね。
――だからもう寂しくないね。
――心配させてごめんね、林檎。
私はママのことが大好きだった。
毎日一緒にお風呂に入って、毎日一緒のお布団で寝た。
春には一緒にお花見をして、ママは私の大好きなシーチキンのおにぎりをいっぱい作ってくれた。
夏は海に行って、秋には庭で焼き芋をした。
雪が降ったら、ママの方が子供みたいに喜んで、大きな雪だるまを作ったりした。
一年中、私とママは一緒だった。
時々はケンカをすることもあったけど、私がごめんなさいを言ったら、ママはいつも笑って許してくれた。
――いいのよ、ママも悪かったわ。
――ごめんね、林檎。
そう言って私をギュッと抱きしめて、愛してるわって言ってくれる。
ママ、ママ。
ごめんなさい、ごめんなさい。
堪らなく悲しくなって、私は狭い暗闇の中で必死にママを呼んだ。
けれど、ママはちっとも私をそこから出してくれない。
私は泣きつかれて、いつの間にかそこで眠ってしまった。
――林檎、林檎。
――どこにいるの。
不意に、暗闇の中でママの声が聞こえてきた。
けれど、私は自分では動くことが出来ない。
――林檎、早く出てきて。
――ママもう怒ったりしないから。
ママ、ママ。
ごめんなさい、ごめんなさい。
謝りたかったけれど、ママには私の声が聞こえないみたいだった。
――林檎、どこに行っちゃったの。
――お願いよ、ママもう怒ったりしないから、出てきて。
ママの声はもう泣き出しそうで、その声を聞いていたら私もまた泣きたくなった。
ママ、私ここにいるよ。
ママが閉じ込めたのに、私をどこに閉じ込めたのか忘れちゃったの?
早く見つけて、ママ。
――林檎、どこにいるの……。
私には、ママが暗闇の向こうで泣いているのが分かった。
ママは昔、とっても大事にしていた赤ちゃんが死んじゃったから、今度は私がいなくなっちゃうのを怖がっている。
私はママを悲しませたくなんかないのに。
――ねぇ、あなた。
――ウチの林檎を知らない?
――ちょっと目を離した隙にいなくなっちゃったのよ。
ママが泣きながら、誰かにそう尋ねていた。
――林檎ちゃん、川に行くって言ってたよ。
――泳ぎたいって言ってた。
答えたのは小さな女の子の声だった。
私は川に行くなんて言ってないのに、ママはそれを聞いて、すごくビックリして悲鳴みたいな声を出した。
――あの子は私がいないと動けない可哀相な子なのよ。
――一人で川になんて行けないわ。
――だって行くって言ってたもん。
――きっと動けないの治ったんだよ。
女の子の声がムキになってそう言ったら、ママは戸惑ったように言った。
――でも今は冬なのに、川にでも落ちたら大変だわ。
――探しに行かないと。
ママ、私ここにいるよ。
川になんて行ってないよ。
私は必死でそう叫んだけど、その声はやっぱりママには届かなかった。
林檎、林檎って私を呼ぶ声が段々遠くなって、ついにどこかに消えてしまった。
私は悲しくて悲しくて、暗い中でえんえん泣いた。
そうしたら、急に前のママのことを思い出した。
前のママのことを、私はあんまり覚えていないけれど、でも色んなことを覚えていた。
前のママの所にいた時、私には兄弟がいた。
私の方が前のママとずっと一緒にいたから、私の方がお姉ちゃん。
弟と妹がいた。
弟はいつも私の髪の毛を引っ張りまわして、部屋中を引きずって歩いた。
私がいくら止めて止めてって叫んでも、絶対に止めてくれなかった。
私は妹の方が可愛かったけど、妹は私のことを嫌っていた。
妹は私を見るといつもママに抱きついて、私を指差して怖がった。
私は何もしていないのに。
私はママに嫌われていたから、ママに優しく抱き締めてもらえる妹が羨ましかった。
ママは妹や弟にはぎゅってしてあげるのに、私には絶対にしてくれなかった。
あんまり妹が私のことを怖がるから、ママはついにパパに言った。
――ねぇ、アレ、どこかに捨ててきてよ。
――あの子が怖がるのよ。
私が聞いているのを知らないで、ママは私のことをアレって言った。
それから、妹のことをあの子って言った。
多分、私はそこでも、ママの本当の子どもじゃなかったんだと思う。
パパは次のお休みの時に、弟と妹と私を連れてお出かけをした。
動けない私をゴミ捨て場に置き去りにして、パパは行ってしまった。
妹に、もう怖くないよって言いながら。
弟は、最後にもう一度私を小突いて行った。
私は悲しくて悲しくて、ずっと泣いていた。
でも、しばらくしたら優しそうな女の人が来て、捨てられたの? って、私に声をかけた。
私が黙ってたら、その人は可哀想にって言って、ぎゅっと抱きしめてくれた。
だから、私はその人が私の新しいママになってくれた時、本当に嬉しかった。
新しいママは私のことをぎゅって抱き締めてくれるし、いつもおいしいお菓子を作ってくれる。
私はあんまり食べられないからママはいつも少し悲しそうな顔をしてたけど、それでも毎日作ってくれた。
ママ。
私が堪らなくなってそう言った時、頭のほうでガラッて音がして、真っ暗だった暗闇に急に明かりが見えた。
誰か分からないけど、やっと私を見つけてくれたんだと思った。
眩しかったけど、しばらくしたら目が慣れてきて、暗闇に開いた隙間から、女の子が顔を出しているのが見えた。
さっき、ママと話していた子かな。
私はどうしてこんな所に知らない女の子がいるのか分からなかったけど、でもホッとしてその子に言った。
あぁ、良かった。
ねぇ、ママに教えてあげて。
私がここにいるって。
川になんか行ってないって。
その女の子は私の声が聞こえているのかいないのか、何も言ってくれなかい。
ママに伝えに行ってもくれなかった。
「あんた、ウチの子になるんだよ」
ただそう言って、にやりと笑っただけだった。
* * *
気温は低いけれど、日差しが比較的穏やかで過ごしやすい日だった。
晶子がその日の洗濯をようやく終えて、一休みするために家に入ろうとした時だった。
「渡辺さ~ん、回覧板よ~」
妙に間延びした声で玄関から庭を除いていたのは、隣に住んでいる主婦仲間の芝田さんだった。
「あ、はーい」
洗濯カゴを物干し竿の下においたまま、晶子はいそいそと玄関先に向かった。
家事の合間の奥様方との噂話は、晶子の唯一の憂さ晴らしの場であり、情報収集の場であった。
「ねぇねぇ、あの話聞いた?」
その日もいつもの例に漏れず、さっそく新しい話題が持ち込まれた。
「あそこ、ちょっと行ったとこの角の一軒家にさぁ、おばあちゃん住んでたじゃない? あの人、最近見ないと思ってたんだけど、どうも亡くなったらしいわよ」
「えぇ? あそこの変なおばあちゃんでしょ? 亡くなっちゃったの?」
「それがさ、どうも水死体で発見されたらしいのよ。ほら、こないだ隅田川の橋の辺りで何か警察とかが騒いでたじゃない。あれよ」
「嘘、そうだったの?」
日頃からそう頻繁に交流があったわけではないが、近所に住んでいた誰かが変死したなど、あまり気持ちのいい話ではなかった。
「ボケてたのかしら? もう大分お年寄りだったものね」
「あら、違うわよ。ボケてたって言うより、精神異常だったのよ。知らないの? 近所じゃ有名だったのに」
「知ってるわよ、少しなら。いつも独り言喋ってるのよね」
晶子も一度だけ、通りすがりに一人で喋っているのを聞いたことがある。
誰もいないのに、あたかもそこに誰かいるように話していたので何だか気持ちが悪かった。
「違うわよ、アレ人形に話し掛けてたのよ」
「人形?」
人形と聞いて、晶子の脳裏には夜毎髪の毛が伸びていそうな市松人形や、一人で洋館を彷徨っていそうなフランス人形が思い浮かんだ。
どちらにしろ、晶子が大の苦手なホラーでしかない。
そんな人形にいつも一人で語りかけていたなんて。
そこまで思って、晶子はブルっと身震いをした。
「嫌だ、怖い。何それ」
「あの人さ、聞いたところによると昔子ども亡くしてるんだって。それで頭おかしくなっちゃったらしいわよ。拾ってきた人形を本当の子どもみたいにしてさ」
「へぇ、そうだったの。でも溺れちゃったんでしょ? やっぱり少し痴呆も入ってたんじゃないかしら」
「そうかもしれないわね。見た人によるとね、死体で発見される前日に、リンゴ、リンゴって言いながらあの辺徘徊してたらしいわよ」
「リンゴ? 食べたかったのかしら?」
「さぁ、知らないけど。でもそれで命落としてちゃ世話ないわよ」
「それもそうよねぇ。あ、そう言えばウチのエミ、時々あそこの家に遊びに行っていたらしいのよね。嫌だわ、何か変なもの食べさせられたりしてないかしら」
「あら、そうなの? でも大丈夫じゃない? あのおばあちゃん、変な人だったけど一応普通の生活はしてたじゃない」
晶子が噂話に花を咲かせていると、丁度そこに晶子の娘のエミが学校から帰ってきた。
「ただいま」
「あら、お帰りなさい」
エミにそう言ってから、晶子はエミが後ろに友達を連れているのに気がついた。
「こんにちは、おばさん」
「あら、千夏ちゃん。遊びに来たの? いらっしゃい。ゆっくりしていってね」
晶子が愛想のいい顔でそう言うと、千夏は行儀よく礼を言ってエミと一緒に家の中に入っていった。
「エミちゃん、もう帰ってきたの? 早いわね」
「あの子今日学校お昼までなのよ」
「あら、そうなの? じゃあウチの子ももう帰ってくるかしら。嫌だわ、何にも聞いてないのに」
「一年生だけみたいよ。そういえば芝田さんのお子さんはもう五年生よね? 中学校どうするの?」
「そうなのよ、受験させようかさせまいかで今もめてる最中なの」
「大変よねぇ。そういえばこないだ学校でね」
そして主婦二人の噂の話題は、変死した奇妙な老人から、自分の子どもたちの将来について、あっさり切り替わっていった。
「ねぇ、エミちゃん。内緒で見せたいものって何?」
そう言ってエミがクローゼットの奥から取り出してきたものは、少し古ぼけた洋風の人形だった。
「どうしたの? これ、あそこのおばあちゃんが持ってたやつじゃない」
「だって、欲しかったんだもん」
そう言って、エミは人形を持ったままにぃっと笑って見せた。
「だから貰ったの。あのおばあちゃん、いらないって言ったから」
エミは人形を小さな椅子に座らせて、ぶつぶつ独り言を言っていた不気味な老人の姿を思い出した。
「それにね、あのおばあちゃん、気持ち悪いんだもん。だから、この人形はウチに来た方が幸せなんだよ」
自分を信じて疑わない、子どもらしい純粋さで、エミは笑った。
「いいなぁ」
千夏はそんなエミを見て、ただ羨ましいと思っただけだった。
ママ、ママ。
どこにいるの。
どれだけ必死に叫んでも、誰にも私の声は届かない。
誰か、私のママを、知りませんか。
私の腕を掴んで離さない、小さな女の子。
私に向かって、邪悪に微笑んだ。
誰か誰か、私のママを、知りませんか。