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確率論の話

作者: ましろ
掲載日:2026/05/01

「人が死ぬ確率って、知ってる?」



放課後の理科室で、彼女は突然そう言った。


僕はビーカーを洗っていた手を止めた。

蛇口から流れる水だけが、やけに真面目な音を立てている。


「百パーセントだろ」


「つまんない答え」


「でも正解だ」


「正解って、つまんないことが多いよね」


彼女――白石さんは、窓際の席に座って、数学の問題集を開いていた。

でも、ただ開いているだけで、解いてはいない。


「じゃあ、人が恋をする確率は?」


「知らないよ」


「じゃあ、人が同じ人を好きになる確率は?」


「もっと知らない」


「じゃあ、同じ人を好きになった二人が、同じ日に告白しようと決める確率は?」


僕は彼女を見た。

白石さんは、にやりと笑った。


「なんだよ、それ」


「確率論の話」


「数学っぽく言えば、何でも許されると思うなよ」


「思ってるよ。数学って便利だもん。曖昧なことを、賢そうに曖昧にできる」


「それは数学への冒涜だ」


「じゃあ、恋への冒涜?」


「恋はもっと冒涜され慣れてる」


白石さんは笑った。

理科室には僕らしかいなかった。


文化祭の準備期間。

僕と白石さんは、なぜか理科部でもないのに、理科室の後片付けを任されていた。


理由は簡単だ。

僕が断れない性格で、白石さんが断らない性格だったからだ。


「確率ってさ」


白石さんは問題集を閉じた。


「本当は未来を当てるものじゃないんだって」


「へえ」


「未来が外れたときに、言い訳するためのものなんだって」


「誰が言ったんだよ」


「私」


「白石理論か」


「うん。白石確率論」


「弱そう」


「弱いよ。だから当たらない」


彼女はそう言って、机の上に十円玉を置いた。


「表が出たら、私が言う」


「何を?」


「裏が出たら、君が言う」


「だから何を?」


「確率論の話」


「それ、説明になってないからな」


白石さんは十円玉を親指で弾いた。


硬貨は空中でくるくる回り、蛍光灯の光を細かく跳ね返した。


その一瞬、僕は変なことを考えた。


この十円玉が床に落ちるまでの時間と、僕が今日言おうとしていた言葉の重さは、どちらが大きいのだろう。


十円玉は、机の上で回った。


からからから、と頼りない音を立てて、最後に倒れた。


表だった。


「はい、私の勝ち」


白石さんが言った。


「勝ち負けなのか」


「人生はだいたい勝ち負けだよ。勝った人が告白して、負けた人が笑ってごまかす」


僕は喉の奥が詰まった。


白石さんは十円玉を指先で押さえたまま、僕を見た。


「じゃあ、言うね」


「うん」


「私、山岸くんのことが好き」



理科室の時計の秒針が、一秒だけ仕事を忘れた気がした。

いや、たぶん忘れたのは僕の方だ。



「……え」


「え、って何」


「いや、その」


「確率でいうと?」


「え?」


「今、君が同じことを思ってる確率」


僕は答えられなかった。


白石さんは、わざとらしくため息をついた。


「低いか」


「いや」


「ゼロ?」


「ゼロではない」


「じゃあ何パーセント?」


「……かなり高い」


「かなり高いって、ずるいね。降水確率みたい」


「降るかもしれないし、降らないかもしれない」


「でも傘は持ってきた方がいい」


「そういうこと」


「で、君は傘なの? 雨なの?」


「今の流れなら、告白する側だから雨じゃない?」


「雨男」


「ひどい」


「降ってみなよ」


白石さんは、まっすぐ僕を見ていた。


僕はビーカーを置いた。

手が少し濡れていて、ズボンで拭いた。

こういうとき、もっと格好よく言える人間ならよかったのにと思う。


でも、僕は僕なので。


「僕も、白石さんが好きです」


言った。

言ってしまった。


言葉は一度口から出ると、もう確率ではなくなる。

可能性ではなく、事実になる。


白石さんは、数秒間黙った。

それから、小さく笑った。


「ふうん」


「ふうん?」


「いや、思ったより普通だったなって」


「告白に独創性を求めるなよ」


「求めるよ。私たち、文化祭で展示係なんだから」


「関係ある?」


「ある。展示物はインパクトが大事」


「じゃあ、もう一回やる?」


「再告白?」


「僕も、白石さんのことが――」


「やめて。二回目は確率が下がる」


「なんでだよ」


「一回目は偶然。二回目は確認作業」


「確認って大事だろ」


「大事だけど、ときめかない」


「確率論、面倒くさいな」


「恋愛論よりはましだよ」


白石さんは十円玉を持ち上げた。


「でもさ、山岸くん」


「うん」


「さっきのコイントス、実は表が出る確率、五十パーセントじゃないんだよ」


「え?」


「投げる角度、力、回転数、机の材質、空気抵抗。全部決まってたら、結果も決まってる」


「それは確率じゃなくて物理だろ」


「うん。だから確率って、知らないことに名前をつけただけなんだよ」


彼女は十円玉を僕に差し出した。


「私が君を好きになるまでにも、たぶん理由はあった。君が毎日ビーカーを真面目に洗うとか、先生に押し付けられても文句を言いながらやるとか、消しゴムを忘れた人に貸して、そのまま返ってこなくても怒らないとか」


「最後のは怒った方がいい気がする」


「でも、私は全部知ってた」


「……それは、ちょっと恥ずかしい」


「でしょ。確率じゃなくて、観測の話」


「僕は観測されてたのか」


「うん。毎日」


「怖いな」


「恋ってだいたい軽めのストーカーだから」


「名言みたいに言うな」


白石さんは立ち上がって、黒板の前に行った。

チョークを手に取り、さらさらと何かを書いた。



白石+山岸=?



「これ、何」


「証明問題」


「何を証明するんだよ」


「この先、うまくいく確率」


「それこそ分からないだろ」


「うん。分からない」


彼女はチョークを置いた。


「でも、分からないから始めるんじゃない?」


その言葉は、妙に正しかった。


分かっていたら、たぶん怖くない。

分からないから、怖い。

分からないから、面白い。

分からないから、好きだと言える。


「じゃあ」


僕は黒板の式の横に、チョークで小さく書き足した。


白石+山岸=実験中


白石さんはそれを見て、満足そうにうなずいた。


「いいね。理科室っぽい」


「成功するかな」


「確率でいうと?」


「分からない」


「正解」


「つまんない答えじゃない?」


「ううん」


白石さんは、窓の外を見た。


夕焼けが、校庭をオレンジ色に染めていた。

部活帰りの生徒たちの声が遠くから聞こえる。


「分からないって、けっこう楽しい答えだよ」


その日から、僕たちは付き合うことになった。

ただし、白石さんは翌日、僕にこう言った。


「私たちが別れる確率って、どれくらいだと思う?」


「付き合った翌日にする話じゃないだろ」


「大事だよ。リスク管理」


「保険会社か」


「恋愛保険。掛け捨てタイプ」


「何を失うんだよ」


「時間とか、期待とか、変なあだ名で呼び合った記憶とか」


「重いな」


「恋は軽く始まって、重く終わるから」


「終わる前提で話すなよ」


白石さんは笑った。


「でも、死ぬ確率は百パーセントなんでしょ」


「まあ」


「だからって、生きるのをやめる人はいない」


僕は少し考えて、うなずいた。


「じゃあ、別れる確率が何パーセントでも、付き合うのをやめる理由にはならないか」


「そういうこと」


白石さんは僕の手を握った。


「確率論の話って、結局さ」


「うん」


「当たるか外れるかじゃなくて、外れるかもしれないのに選ぶかどうかの話なんだよ」


僕は握り返した。

十円玉は、まだ僕のポケットに入っている。


表が出たから始まった恋だった。

でも本当は、表でも裏でも、僕たちはきっと同じことを言ったのだと思う。


確率は五十パーセント。



だけど、言葉にした瞬間だけは。

百パーセント、好きだった。



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