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転生したら最弱スキルだったが、世界の秘密を一人だけ覚えていた

作者: 終電作家
掲載日:2026/03/20

役に立たないスキルの話です。

戦えません。魔法も使えません。覚えているだけです。

ただ、この世界では、覚えていることが——もしかしたら、何かかもしれません。

お時間があれば、最後までお付き合いください。

 死んだのは、通勤途中だった。


 駅の階段を降りていた。前の人が転んだ。巻き込まれた。頭を打った。それだけのことだった。


 目が覚めると、白かった。


 神様らしきものがいた。光の塊だった。性別も年齢も分からなかった。ただ、そこにあった。


「転生させます」


「はあ」


「スキルを一つ、お渡しします」


 神田マモル、二十六歳、市立図書館司書は、少し考えた。


 チートが欲しかった。剣が使えるとか、魔法が使えるとか、ステータスが異常に高いとか。そういうやつが欲しかった。


「記憶、というスキルはいかがでしょう」


「……記憶?」


「見たものをすべて記憶します。忘れません。永続します」


「戦えますか」


「戦えません」


「魔法は」


「使えません」


「ステータスは上がりますか」


「上がりません」


 マモルは少し間を置いた。


「他に選択肢は」


「ありません」


 そういうものらしかった。


 光の塊は、最後にもう一つだけ言った。


「大切に使ってください」


 その言葉の意味を、マモルはそのとき考えなかった。


    ◆


 異世界は、思ったより普通だった。


 中世ヨーロッパ風の街並み。石畳の道。馬車。露店。剣を持った人間。ローブを着た人間。マモルが読んできたファンタジー小説に、だいたい似ていた。


 ギルドに登録した。


 受付の女性がステータスプレートを確認して、少し表情が止まった。


「……スキルが、記憶、ですか」


「そうです」


「戦闘スキルは」


「ないです」


「魔法は」


「ないです」


「ステータスは——」受付の女性は、プレートをもう一度見た。「平均、ですね」


「そうみたいです」


 女性は困ったような顔をした。困ったが、仕事なので登録した。Fランク冒険者。ギルド史上、初めての「記憶」スキル保持者だった。ただし、それは称賛ではなかった。


 酒場の隅で、誰かが笑った。


「記憶って何だよ。役に立つのかそれ」


「戦えないじゃん。魔物に何するの、覚えるの?」


 笑い声が続いた。


 マモルは聞こえていた。全部、聞こえていた。


 ただ、何も言わなかった。


 言ったところで、どうにもならない。


    ◆


 最初のパーティーは、三人組だった。


 リーダーのカルロスは剣士で、二十二歳だった。肩幅が広く、声が大きく、よく笑った。笑い方に癖があった。おかしいことがあると、まず鼻から息を吐いて、それから声が出た。照れているときは後頭部を掻いた。剣の柄に小さな傷があって、それを指摘したら照れくさそうにした。子どもの頃、初めて買ってもらった剣だと、小声で言った。好きな食べ物は硬いパンだった。なぜかと聞いたら、歯ごたえがあった方が食った気がすると言った。


 仲間のドワーフのゴットは斧使いで、口が悪かったが飯をおごってくれた。髭を毎朝丁寧に整えていた。整えた後、少し鏡を見て満足そうにしていた。弱い酒が好きで、強い酒を飲むと眠くなった。眠くなると機嫌が良くなった。機嫌が良くなると昔話をした。昔話は毎回同じだったが、本人は気づいていなかった。


 魔法使いのシーナは十八歳で、マモルを見るたびに「記憶って本当に何の役にも立たないですよね」と笑いながら言った。悪意はなかった。ただの感想だった。詠唱が速かった。速い代わりに威力が落ちると本人は気にしていたが、速さで補って余りあった。読書が好きで、宿に着くと必ず本を開いた。ただし三ページで眠った。毎晩三ページで眠った。


 マモルはパーティーの荷物持ちとして雇われた。荷物を持った。地図を覚えた。ダンジョンの構造を覚えた。魔物の出現パターンを覚えた。罠の位置を覚えた。


 役には立った。地図係として。索引として。


 ただ、戦えなかった。


 戦闘が始まると、マモルは後ろに下がった。隅で縮こまって、全部を見ていた。全部を、覚えていた。


 カルロスの剣の軌道。ゴットの斧の振り方。シーナの魔法の詠唱。魔物の弱点。攻撃のタイミング。


 全部、覚えた。


 使えなかった。


 マモルには、剣も斧も魔法も、使う力がなかった。覚えても、意味がなかった。


「まあ、いてもいなくても同じか」


 ゴットがある夜、酒を飲みながら言った。悪意はなかった。ただの感想だった。


 マモルは頷いた。


「そうですね」


 否定できなかった。


 そのパーティーには三ヶ月いた。


 四ヶ月目に、カルロスが死んだ。


 Bランクダンジョンの第五層だった。新種の魔物だった。誰も対処できなかった。カルロスが前に出た。時間を稼いだ。マモルたちは逃げた。


 入口まで逃げ切って、振り返ると、カルロスはいなかった。


 ゴットが泣いた。シーナも泣いた。マモルも泣いた。


 三日後。


 ゴットとシーナが、ギルドに新しいパーティーメンバーの募集を出していた。


 マモルは声をかけた。


「カルロスさんのこと、覚えてますか」


 ゴットは首を傾けた。


「カルロス? 誰だ?」


 シーナも首を振った。


「知らないです。知り合いですか?」


 マモルは少し、黙った。


「……なんでもないです」


 それだけ言って、ギルドを出た。


    ◆


 後でギルドの受付に聞いた。


「この世界では、人は死ぬと三日で忘れられます」


 受付の女性は、事務的な口調で言った。


「忘れられる?」


「はい。これは呪いでも病気でもありません。この世界の仕様です。死者の記憶は、周囲の人間から自然に消えていきます。三日かけて、完全に」


「なぜ」


「分かりません。昔からそうなんです」


 受付の女性は少し間を置いた。


「記録には残ります。ギルドの台帳、墓石、手紙。文字にしたものは消えません。ただ、人の頭の中からは消えます。読んでも、ああそういう人がいたのか、と思うだけで、感情が戻ることはありません」


「完全に、消えるんですか」


「完全に」


 マモルは頷いた。


「ありがとうございます」


 ギルドを出た。


 カルロスのことを、思った。


 肩幅が広かった。声が大きかった。よく笑った。鼻から息を吐いてから笑った。照れると後頭部を掻いた。剣の柄に傷があった。硬いパンが好きだった。歯ごたえがあった方が食った気がすると言った。


 全部、覚えていた。


 消えていなかった。


 覚えていても、何も変わらない。


 カルロスは戻らない。


 それでも、消えていなかった。


    ◆


 次のパーティーは五人組だった。


 Cランクの中堅パーティーだった。リーダーのエルナは三十歳の女剣士で、物静かだった。無駄なことを言わなかった。言葉が少ない分、一言一言が重かった。戦闘中は誰より冷静で、誰より正確だった。ただ、飯を食うのが異常に速かった。本人はそれを気にしていた。


 副リーダーのトムは二十五歳の魔法使いで、計算が得意だった。戦闘前に必ず勝率を計算した。六割を下回ると撤退を提案した。その判断は正確で、パーティーの生存率を大幅に上げていた。口癖は「理論上は」だった。理論上は、と言った後、たいてい正しいことを言った。


 あとの二人はルーカスとアンナという兄妹で、二人とも弓使いだった。ルーカスは二十歳で、アンナは十八歳だった。よく言い合いをしていたが、戦闘中は息が合っていた。矢の軌道が互いを補うように動いた。長年一緒にいた人間にしか出来ない連携だった。ルーカスの弓の腕はアンナより少しだけ上だったが、本人はそれを認めなかった。好きな食べ物は肉だった。なんでもいいと言いながら、鶏肉だけは残した。理由を聞いたら、子どもの頃に飼っていたからだと、小声で言った。


 マモルはまた荷物持ちとして雇われた。


 今度は地図係だけでなく、情報整理も任された。ダンジョンの構造、魔物の習性、過去の攻略記録。マモルはそれを全部頭に入れて、必要なときに引き出した。


「便利だな」とエルナは言った。


 褒め言葉だった。


 図書館の索引と同じだ、とマモルは思った。


 半年、一緒にいた。


 ルーカスが死んだのは、半年後だった。


 崖から落ちた。魔物に押された。あっという間だった。


 アンナが泣いた。エルナが泣いた。トムが泣いた。マモルも泣いた。


 三日後。


「ルーカス? 誰だ?」とトムが言った。


「知らない」とエルナが言った。


 アンナだけが、少しだけ首を傾けた。


「……なんか、聞いたことある気がする。でも誰だっけ」


 マモルは何も言わなかった。


 ルーカスのことを、頭の中で思った。


 兄妹だった。アンナと二歳違いだった。よく言い合いをしていたが、戦闘中は息が合っていた。弓の腕はアンナより少しだけ上だったが、本人はそれを認めなかった。鶏肉だけは残した。子どもの頃に飼っていたからだと、小声で言った。


 全部、覚えていた。


 アンナの頭の中から消えた兄を、マモルだけが覚えていた。


    ◆


 三つ目のパーティーに入ったのは、二年目の秋だった。


 そのパーティーには長くいなかった。二ヶ月で二人死んだ。三日後、誰も覚えていなかった。マモルだけが覚えていた。


 四つ目のパーティーには四ヶ月いた。一人死んだ。三日後、誰も覚えていなかった。マモルだけが覚えていた。


 五つ目のパーティーには一ヶ月いた。三人死んだ。三日後、誰も覚えていなかった。マモルだけが覚えていた。


 マモルの頭の中は、少しずつ重くなっていった。


 覚えている人間が、増えていった。


 カルロス。ルーカス。エーリッヒ。ノラ。ハンス。ベアトリス。ヴィルヘルム。サラ。グレタ。


 名前と顔と声と、笑い方と、好きな食べ物と、口癖と、剣の持ち方と、寝るときの姿勢と。


 全部、あった。


 全部、消えていなかった。


 ある夜、宿の一人部屋で、マモルは天井を見上げながら思った。


 これは何のためにあるスキルなのか。


 覚えていても、何も変わらない。カルロスは戻らない。ルーカスも戻らない。誰も戻らない。


 ただ——重い。


 重くなっていく一方だった。


    ◆


 ライラと出会ったのは、三年目の春だった。


 ギルドの掲示板の前で、マモルは依頼票を眺めていた。特に何かを探していたわけではなかった。ただ眺めていた。


 隣に人が来た。


 女だった。二十歳くらいだった。赤い髪を短く切っていた。腰に短剣を二本差していた。ステータスプレートが外から見えていた。Dランク冒険者だった。


「あなた、スキルが記憶ですか」


 マモルは振り返った。


「そうです」


「見ました。プレートが見えたので」


「ああ」


「記憶スキルの人と会うのは初めてです」


 ライラはまっすぐ言った。癖のない話し方だった。遠慮もなかった。


「珍しいですか」


「珍しいというか——」ライラは少し首を傾けた。「一度組んでみたかったんです」


「役に立ちませんよ。戦えないので」


「知ってます。ただ、地図とダンジョン情報を全部覚えていてくれる人がいると、助かることがあるので」


 マモルは少し間を置いた。


「一人ですか」


「一人です」


「なぜ」


「パーティーを組むと、人が死ぬので」


 マモルは黙った。


「死ぬと、みんな忘れるじゃないですか」ライラは掲示板に視線を戻した。「私は忘れるのが嫌で。だったら一人の方がいいと思って、一人でやってます」


「あなたは、忘れないんですか」


 ライラが振り返った。


「忘れます。三日で」ライラは少し間を置いた。「でも、忘れる前に名前だけ書いておくと、少し違うんです。顔は思い出せなくても、名前があると——その人がいたんだな、と思える」


 ライラは腰の小さなポーチから、手帳を取り出した。


 革の手帳だった。使い込まれていた。


「これです」


 マモルは受け取った。


 最初のページに、名前が一つあった。


「三年前に死んだ転生者です」とライラは言った。「顔は覚えていません。声も覚えていません。名前だけ」


 マモルは手帳を返した。


「あなたは、忘れないんですか」ライラが聞いた。


「覚えています。全部」


「死んだ人も」


「死んだ人も」


 ライラはしばらく、マモルを見ていた。


「そうですか」


 それだけ言った。


    ◆


 組むことになった。


 正式なパーティーではなく、依頼ごとの協力という形にした。ライラがそう言った。マモルは頷いた。


 最初の依頼はCランクダンジョンの踏破だった。


 ライラは強かった。短剣二本を使う戦い方で、速かった。魔物の動きを読むのが上手かった。マモルがダンジョンの構造と魔物の出現パターンを伝えると、ライラはそれを正確に使った。無駄がなかった。


「情報が正確ですね」とライラは言った。


「覚えているので」


「どのくらい前から覚えてますか」


「このダンジョンなら、三年前の攻略記録から。ギルドの台帳を一度読んだので」


「一度読んだだけで?」


「忘れないので」


 ライラはしばらく黙った。


「……便利ですね」


「役には立ちます。図書館の索引みたいなものです」


「図書館?」


「元の世界での話です」


「転生者ですか」


「そうです」


「珍しいですね。私が会った転生者は、あなたで二人目です」


「一人目が、手帳の人ですか」


「そうです」


 ダンジョンの奥へ進みながら、ライラは続けた。


「だから、あなたのスキルが羨ましいと思ったんです」


「覚えていても、何も変わりませんよ」


「そうですか」


「変わりません」


「でも」


 ライラが足を止めた。


 前方に魔物がいた。ライラは短剣を抜いた。


「覚えていてくれる人がいるというのは——」


 魔物に向かって踏み込んだ。


「——なんか、違う気がします」


 一瞬で終わった。魔物が倒れた。ライラは短剣を納めた。


 マモルは何も言えなかった。


    ◆


 それから半年、ライラと組み続けた。


 正式なパーティーではないまま、依頼ごとに組んだ。少しずつ依頼のランクが上がっていった。Bランクのダンジョンに入るようになった。


 ライラのことを、マモルは全部覚えていった。


 赤い髪の長さが、季節ごとに少し変わること。短剣の手入れを毎晩欠かさないこと。甘いものが好きだが、好きだと言わないこと。宿の朝食で果物があると、さりげなく多く取ること。疲れているときほど口数が減ること。危険な場面では逆に口数が増えること。笑うとき、少し目を細めること。


 全部、覚えていた。


 忘れない。


 ある夜、宿の食堂で夕飯を食べながら、ライラが言った。


「マモルさんは、覚えていることが辛くないですか」


「辛いです」


 マモルは即答した。ライラが少し驚いた顔をした。


「重いです。ずっと重くなっていきます。忘れられたらどれだけ楽か、と思うことはあります」


「じゃあ、なぜ覚えているんですか」


「スキルなので、忘れられません」


「それは——辛いですね」


「ただ」


 マモルはスープを一口飲んだ。


「覚えていることが、その人が存在した証明になるなら——まあ、いいかとも思っています」


 ライラはしばらく黙った。


「……そうですか」


「気のせいかもしれませんが」


「気のせいじゃないと思います」


 ライラはそう言った。


 はっきりと、そう言った。


 マモルは何も言わなかった。


 スープが、温かかった。


    ◆


 ライラが死んだのは、半年後の冬だった。


 Bランクダンジョンの深層だった。新種の魔物だった。


 素早かった。マモルが気づいたときには、すでに動いていた。


 ライラも気づいていた。マモルより早く。


 前に出た。短剣を両手に構えた。魔物の軌道に、自分の体を割り込ませた。


 音がした。


 それだけだった。


 ライラが倒れた。短剣が一本、床に落ちた。金属の音が響いた。静かなダンジョンに、その音だけが残った。


 マモルは動けなかった。


 ライラの顔が見えた。目が開いていた。天井を見ていた。


 何か言おうとしたのかもしれない。口が少し動いた。


 聞こえなかった。


 声にならなかった。


 魔物は次の瞬間、別の冒険者パーティーに倒された。たまたま同じ層にいた、三人組のパーティーだった。


 その人たちがライラを見た。


「知り合いですか」


 マモルは答えられなかった。


    ◆


 三日後。


 マモルはギルドにいた。


 受付の女性が言った。


「ライラさん、でしたっけ。お悔やみ申し上げます」


「ありがとうございます」


「……ライラさんって、どんな方でしたか」


 受付の女性は少し首を傾けた。困ったような顔だった。


「台帳には名前が残っているんですが、顔が思い出せなくて」


 マモルは少し間を置いた。


「赤い髪でした」


「ああ」


「短く切っていました。短剣を二本持っていました。Dランクから始めて、半年でCランクになりました。甘いものが好きでした。好きだとは言いませんでしたが。朝食で果物があると、さりげなく多く取っていました」


 受付の女性が、静かに聞いていた。


「笑うと、少し目を細めました。疲れているときほど口数が減りました。夜は必ず短剣の手入れをしていました。覚えている人がいることが、なんか違う気がすると——そう言っていました」


 受付の女性は何も言わなかった。


 マモルも黙った。


 しばらく、そのまま黙っていた。


「……ありがとうございます」


 受付の女性が、静かに言った。


「いいえ」


 マモルはギルドを出た。


    ◆


 ライラの荷物の中に、手帳があった。


 マモルはそれを持って、川沿いの道を歩いた。冬の朝だった。息が白かった。


 手帳を開いた。


 最初のページ。三年前に死んだ転生者の名前。


 その下に、ライラの名前を書こうとした。


 書こうとして——止まった。


 二ページ目に、すでに文字があった。


 読んだ。


 ライラ、と書いてあった。


 マモルの字ではなかった。


 ライラの字でもなかった。


 見たことのない字だった。


 マモルは頁をめくった。


 カルロス。


 ルーカス。


 エーリッヒ。ノラ。ハンス。ベアトリス。


 マモルが覚えている、死んだ人間の名前が、全部あった。


 全部、同じ字で。


 全部、すでに書いてあった。


 最後の頁をめくった。


 一行だけ、あった。


 今度こそ、頼む。


 川の音がした。


 冷たかった。


 覚えていても、何も変わらない。


 ただ。


 手帳の中に、知らない字で、名前があった。


 マモルは川を見た。しばらく、見ていた。


 それから、手帳を開いた。


 ペンを取った。


 ライラ、と書いた。


 自分の字で。


 赤い髪。短剣二本。甘いものが好きだったこと。果物をさりげなく多く取ったこと。笑うと目を細めたこと。口が少し動いたこと。声にならなかったこと。覚えていてくれる人がいることが、なんか違う気がする、と言ったこと。


 書いた。全部、書いた。


 書き終えて、ペンを置いた。


 また、歩き始めた。


 どこへ向かうかは、決めていなかった。


 足音が、した。


 石畳に、自分の足音がちゃんとした。


 頭の中に、たくさんの人がいた。


 消えていなかった。


 誰も、消えていなかった。


 手帳の中に、知らない字で書かれた名前があった。


 マモルの字で書いた名前もあった。


 どちらも、同じ名前だった。


 神が言っていた。


 大切に使ってください、と。


 ——それが何を意味するのか。


 マモルには、まだ分からなかった。


 たぶん、しばらく分からない。


 でも。


 また、歩き始めた。

ここまで読んでくださって、ありがとうございます。

書き始めたきっかけは、ささいな疑問でした。

人が死んで、悲しんで、それでも三日後には忘れてしまうとしたら——それは救いなのか、それとも消滅なのか。

忘れられることと、死ぬことは、同じなのか。

答えは出ませんでした。ただ、マモルに一年半歩き続けてもらったら、手帳に知らない字で名前が書いてありました。

マモルがこれから何をするのか、まだ書いていません。でも、また歩き始めたので、たぶん続きます。

感想やコメントをいただけると、続きを書く力になります。またどこかでお会いできたら、うれしいです。

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