「悪役になれ」と言われた娘へ。母はそれを許しません
鏡の前で、娘が小さく背伸びをしていた。
背伸びをしたところで背は伸びない。でも声は、“役”に寄せられるらしい。
「あなたなんて、ふさわしくないわ……」
言い終えた瞬間、娘の肩がきゅっと上がった。
自分でも怖くなる台詞を、自分の口で言ってしまった子の反応だ。
私は部屋の扉の陰から、しばらく動けなかった。
娘の手には折りたたまれた紙。開かれた端から、赤い文字が見えた。添削だ。修正だ。丸と二重丸だ。
……子どもの台詞に、二重丸。
世界が、静かに気持ち悪い。
娘は紙を見て、もう一度。
「泣けばいいと思って?」
声だけは強い。なのに、指先が震えている。
私は息を吸って、扉を開けた。
「リネット」
娘がびくっと振り向く。目が泳いで、紙を背中に隠す。隠し方が下手だ。下手なままでいてほしい。
「お母さま……」
「その紙、見せて」
「……だめ」
小さな抵抗。
悪いことをしている自覚のある抵抗だ。
私は怒鳴らない。ここで怒鳴ったら、娘の中に「私は悪いことをした」が残る。残してはいけないのは、それ。
「だめ、じゃなくて。怖いんでしょう?」
娘の唇が震えた。
「……うん」
私は膝をついて、目線を合わせる。
「見せて。怒らない。約束する」
娘はぎゅっと紙を握りしめ、それから恐る恐る差し出した。
紙には短い台詞が並んでいた。
『あなたなんて、ふさわしくないわ』
『泣けばいいと思って?』
『王太子殿下に近づかないで』
『平民のくせに』
赤い文字で、こう書かれている。
“もっと冷たく”
“笑って言う”
“語尾を強く”
“ここで周囲を見る”
私は紙を閉じた。胸の奥がひやりと冷えるのに、頭は妙に冴えていく。
来た。
舞台が、組み上がり始めた。
娘が小さな声で言う。
「お母さま。わたし……“悪役”にならないといけないんだって」
「誰が?」
「ミレイユ先生が」
家庭教師の名。
娘は続けた。
「みんなが助かるんだって。わたしが悪い人になったら、いい人が光るんだって……」
それは物語の理屈だ。
現実の子どもに押しつける理屈じゃない。
私は娘を抱きしめた。小さな背中が硬い。息が浅い。
「その役、あなたの仕事じゃない」
「でも……」
「でも、じゃない」
私は少しだけ声を強くした。
強くするのは、叱るときじゃなく、守るとき。
「リネット。あなたが悪役になる必要はない。お母さまが、許さない」
娘の体から、ほんの少しだけ力が抜けた。
その“少し”を守るために、私は全部を動かす。
⸻
その日の午後、私は家庭教師ミレイユを呼んだ。
応接室の椅子に座らせ、お茶を出す。お茶は大事だ。喉が潤うと、本音が出る。
「ミレイユ。あなたがリネットに教えたの?」
彼女は背筋を伸ばし、綺麗な笑みを作った。貴族社会で生き残る笑み。
でも、その裏に怯えがあるのを私は見逃さない。
「夫人。お嬢さまは聡明です。社交の場での言葉を――」
「台詞でしょ」
言い切ると、笑みが一瞬止まった。
「……言い方が」
「いいえ。正確よ」
私はテーブルの上に紙を置いた。赤い添削が、光って見える。
「子どもの台詞に二重丸を付ける大人がいるのね」
ミレイユは視線を落とした。
「……夫人。これはお嬢さまのためでもあります」
「“ため”って便利よね。何でも包める」
私は微笑んだ。微笑みは武器だ。怒鳴るより効くことがある。
「誰の意向?」
ミレイユの指先が、カップの取っ手を強く握る。
「……上の方、です」
「王宮?」
返事はない。返事がないことが答えだ。
私は静かに言った。
「つまり、子どもに火をつけて暖を取るのね」
ミレイユが顔を上げた。反論したい顔。でも、反論できない顔でもある。
「夫人。学園の歓迎会では、王太子殿下のご臨席もあります。新しく紹介される令嬢も……注目を浴びるでしょう」
「“聖なる令嬢”の噂の子ね」
彼女の瞳が揺れた。
舞台装置は、もう動いている。
「その場で嫉妬役が必要。そう言われた?」
「……お嬢さまが悪役になることで、周囲がまとまるのだと」
まとまる。
誰が? 大人たちが。
娘の心を踏み台にして。
「ミレイユ」
私は優しい声で呼んだ。優しさは刃にもなる。
「あなたは先生よ。子どもの味方でいる仕事でしょう」
ミレイユは震える息を吐いた。
「……私は、命令に逆らえません」
「なら、命令に従いながら守りなさい。先生なら、それができる」
私は立ち上がった。
「今日から、その台詞の練習は終わり。リネットに謝って」
彼女は一瞬唇を噛み、それから小さく頭を下げた。
「……承知しました」
苦い言葉。でも、ここは通過点。私は本丸に行く。
⸻
夜。娘の部屋。
私はベッドの端に座り、娘の髪を指で梳いた。
リネットは小さな指で毛布の端をいじっている。
「お母さま」
「なあに」
「わたし、悪役にならなかったら……嫌われる?」
胸の奥がきゅっと縮む。
子どもが一番欲しいのは安心だ。嫌われない安心。置いていかれない安心。
私は娘の両手を握った。
「嫌われてもいい」
娘の目が丸くなる。
「え……」
「嫌われたら、お母さまがあなたを好きでいる。もっと強く好きでいる。だから大丈夫」
娘の瞳が潤む。泣くのを堪える顔。
「お父さまも困る?」
その問いが痛い。
娘はもう、大人の都合を嗅いでいる。
私は少しだけ笑ってみせた。ほっこりは盾になる。
「お父さまはね、困っても大丈夫。大人だから」
「大人って、ずるい」
「そう。ずるいの」
私は認めた。
「だから、お母さまはもっとずるくなる。あなたを守るために」
娘が小さく笑った。泣き笑い。
「約束して」
「うん」
「わたし、悪役にならない」
「うん。ならない」
私は額にキスをして、灯りを落とした。
寝息が整うまで、私は動かなかった。
暗闇の中で、舞台の照明が点く音がする気がした。そんな音はしないのに。
間に合う。
間に合わせる。
⸻
翌朝、私は夫ヴィクトルの書斎に入った。
机の上に、王宮の封がされた文書が置かれている。
丁寧な言葉で、断れない形の“お願い”。
夫は顔を上げるなり、私の表情で察したらしい。
「何があった」
「リネットに、“悪役になれ”と言った人がいる」
夫の眉が動く。怒りではない。困惑と嫌な予感が混ざった動き。
「……誰がそんなことを」
「家庭教師の口を借りた、王宮」
夫の口が一瞬止まる。止まった瞬間が、答えだ。
「ヴィクトル。あなた、知っていたの?」
「……はっきりとは」
逃げ道の言葉。私は逃がさない。でも殴らない。
「王宮から頼まれた?」
「頼まれたというより……暗に」
「断れない?」
「公爵家だ。断れば不利益が出る」
不利益。その言葉が、娘の心より先に出る世界。
私は椅子に座らず、机の前に立った。
「一度きりだ、と言うつもり?」
夫は黙った。黙るのは、心当たりがある人の反応。
「あなた、娘に聞いた?」
「……何を」
「やりたいかどうか」
夫の視線が揺れた。
大人の揺れは、子どもの震えより重い。
「セシル……これは家のためだ」
「家のために、娘を燃やすの?」
「言い方が――」
「正確よ」
私は少しだけ声を低くした。
「私は許さない。娘を道具にする人を、味方だとは認めない」
夫の拳が机の端で硬くなる。
「……お前は、どうする気だ」
「舞台を壊す」
「壊す、だと」
「正面から殴らない。降りる」
私は一歩、夫に近づいた。
「リネットを舞台に上げない。欠席させる。静養で領地へ。王宮の出入りも控える」
「それは逃げだ」
「そう」
私はあっさり認めた。
「逃げる。子どもを連れて逃げる。母親だから」
夫の顔に怒りと迷いが混ざる。
悪人ではない。でも圧に弱い。
私は言葉を置いた。夫を敵にしたら、舞台がもっと盛り上がる。
「ヴィクトル。あなたは公爵でいる前に、父親でしょう」
夫の肩が、わずかに落ちた。
「……王宮を敵に回すのか」
「娘の心を敵に回すより、ずっといい」
沈黙。
やがて夫は文書を指で押さえたまま言った。
「……好きにしろ。ただし、責任は――」
「私が取る」
私は即答した。
「母親の責任は、母親が取る」
夫は何も言わなかった。
その沈黙を、私は許可だと受け取った。たぶん後で怒る。怒っていい。今は動く。
⸻
準備は速いほど勝つ。
私は侍女ノエルを呼んだ。ノエルは私の目を見るなり状況を理解した顔になる。理解が早い侍女は、こういうとき神だ。
「夫人、今回は“遠足”ですか」
「遠足にしたい」
「遠足にするなら、おやつは必須です」
「そこは譲れないわ」
ノエルが頷く。
「表向きは静養ですね。医師はどうします」
「診察に来てもらう。熱はなくても、緊張で咳は出る。娘は正直だから」
「……正直が最強の武器になる日が来るとは」
「人生って不思議ね」
私はノエルにもう一つ頼んだ。
「王宮の実務官。今回の舞台を回してる人。調べて」
ノエルは一瞬だけ口角を上げた。
「生活のための情報収集、得意です」
私は頷いた。
舞台を壊す方法は二つ。
降りること。
そして、照明の裏を照らすこと。
⸻
当日。王宮の小さな集まり。
歓迎会の前の顔合わせ、という名の“空気合わせ”。
私はリネットの手を握っていた。娘の指先が冷たい。
正装の袖の内側で、娘は例の紙を握りしめている。
……回収したはずなのに。
子どもは怖いとき、“お守り”を持つ。たとえそれが毒でも。
会場は明るい。明るすぎる。
正義は明るい照明が好きだ。影が消えるから。
実務官が近づいてくる。笑顔。丁寧。柔らかい声。
その柔らかさが、怖い。
「セシル夫人。本日はご多忙のところ――」
「ご丁寧にどうも」
私は笑う。微笑みは武器だ。
実務官はリネットへ視線を落とし、優しく言った。
「リネット様。さあ、例の“言葉”を」
娘の肩が震えた。紙を握りしめる手が硬くなる。呼吸が浅い。
ここ。
私は一歩前に出た。
「その役は、私が引き受けます」
会場がざわっと揺れる。
子どもが悪役をやる前提で整えていた空気に、石を投げ込んだ音。
実務官の笑みが、ほんの一瞬だけ固まった。
「夫人、何を――」
私は首を傾げ、軽く言った。
「子どもに言わせる台詞って、大人が言うと恥ずかしいでしょう?」
周囲から、ふっと笑いが漏れた。
漏れた笑いは照明の線をずらす。正義の形を崩す。
「夫人。これは儀礼の一部で――」
「儀礼なら、なおさら大人がやるべきね」
私は娘の肩に手を置いた。
娘は私の袖を掴み、必死で耐えている。
私は小さく耳打ちした。
「好きなことを言って」
娘の目が揺れる。
「……好きなこと」
「台詞じゃなくて、あなたの言葉」
娘は唇を噛んだ。
それから握っていた紙を、ぎゅっと胸に押し当てた。捨てるのが怖い、という顔。
そして震える声で言った。
「わたし……だれかを泣かせるの、いやです」
会場が静まった。
私は続けた。
「なら、泣かせない役を選びましょう」
無難で、断れなくて、拍手せざるを得ない提案を出す。
「今日の歓迎は、言葉で誰かを刺す形じゃなくていい。孤児院の読み聞かせ会を、皆さんで開きませんか」
ざわめきが変わる。拍手が“正しい反応”として頭に浮かぶ人が多い。浮かんだら、もう止まらない。
「冬支度の支援でもいい。子どもたちの毛布でもいい。……悪役が必要な歓迎なんて、寒すぎます」
誰かが笑って、誰かが頷いて、誰かが拍手をした。
拍手は連鎖する。
実務官の目が細くなる。でも否定したら、今度は彼が悪役になる。
舞台は、ひっくり返った。
リネットの肩から力が抜けた。
娘の目に涙が溜まる。恐怖の涙じゃない。ほどける涙。
私は娘の手を握り返す。
手をつないでいる間は、悪役になれない。
⸻
集まりの後、実務官は私を廊下で呼び止めた。
人目のある場所で丁寧な声で圧をかける。舞台人は、そういうのが上手い。
「夫人。このままでは困ります。あなたの家にも不利益が――」
「困るのは、あなたのほうでしょう」
私は穏やかに言った。
ノエルが集めた情報は短くてよかった。長いと説明になる。短いほうが刺さる。
「“歓迎会の演出”に失敗したら、あなたが責任を負う。そういう立場でしょう」
実務官の瞳が揺れる。
「何の話を――」
「あなたの不手際を隠すために、子どもに悪役をやらせるつもりだった。違いますか」
笑みが少し剥がれた。その下に焦り。
私は最後の一撃を、正義ではなく撤退で置いた。
「娘を守れない舞台に、私は二度と立ちません」
実務官が息を呑む。
「領地へ戻ります。王宮への出入りも控える。必要なら社交もやめる」
「公爵家が?」
「母親が」
私は微笑んだ。
「子どもより大事な舞台はありません」
言えば言うほど自分が悪役になる。実務官は黙るしかない。
そのとき、廊下の向こうから足音がした。
夫ヴィクトルだ。顔色が悪い。板挟みの顔。
でも、彼は私の隣に立った。公爵としてではなく、父として。
「セシル」
「ヴィクトル」
夫はリネットを見た。娘は私の後ろから顔を出し、少し怯えた。
夫は一瞬だけ目を閉じ、それから言った。
「娘の意思を最優先にする」
短い言葉。短いけれど、必要な言葉だ。
実務官は笑みを作り直そうとした。間に合わない。
「……承知しました。では、読み聞かせ会の件は、別途」
「ええ。善意のほうが、広がりやすいですから」
私はそう言って、リネットの手を引いた。
舞台から降りるのは、逃げじゃない。守りだ。
⸻
帰りの馬車の中。
リネットは膝の上で、例の紙をぎゅっと握っていた。
もう必要ないはずなのに、手放せない。毒がお守りになる瞬間がある。
「それ、まだ持ってるの」
私が言うと、娘は小さく頷いた。
「……こわいとき、これがあると、言える気がするから」
「言える“気がする”だけで、言ったら怖くなるでしょ」
「うん……」
私は娘の手から紙を取らず、上からそっと手を重ねた。
「ねえ、リネット」
「なあに」
「こわいなら、手をつなごう」
娘が私を見た。涙の跡が少し残っている。
でも、目はちゃんと前を見ている。
「手をつないでる間は、悪役になれない」
娘が小さく笑った。
「……お母さま、それ、ずるい」
「そう。お母さまはずるいの。あなたを守るために」
娘は紙をゆっくり開いた。赤い添削が見える。
それから紙を折りたたみ、私に差し出した。
「お母さま、これ……いらない」
胸が熱くなった。
私は紙を受け取り、きっちり折って鞄の底にしまった。捨てるのはまだ早い。捨てたら“舞台”が拾ってくる。なら、こちらが管理する。
「えらいね」
「えらい?」
「うん。自分の言葉を選んだ」
リネットは少し考えて、馬車の小さな鏡を覗き込んだ。
鏡の中の自分に向かって、慎重に言う。
「わたしは……わたしの味方でいます」
声はまだ細い。
でも台詞じゃない。自分の言葉だ。
私は笑った。
「それで十分。物語より、あなたが大事」
窓の外で夕日が揺れる。
王宮の照明じゃない光は、やさしい。
舞台がどれだけ明るくても、娘の手のあたたかさには勝てない。
私はその手を握りながら、心の中で決め直した。
悪役なんて、いらない。
この子の人生に、そんな役は最初から用意しない。
母は、それを許さない。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
本作は「悪役令嬢」系のお約束である“断罪の舞台”を、正面から殴り倒すのではなく、すっと避けて降りたらどうなるだろう、という発想から書きました。
舞台は照明が明るいほど「正しそう」に見えます。でも、子どもの心は舞台装置ではありません。拍手や空気のために燃やされるものでもありません。
リネットが握っていたのは、台詞の紙でした。
怖いとき、人は毒でも“お守り”にしてしまう。だから母は奪い取らず、上から手を重ねて、一緒に手放す方を選びました。
「悪役になれ」と言われた子に必要なのは、説教より先に、味方の手。
そんな気持ちが少しでも届いたら嬉しいです。
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ここまで読んでくださって、本当にありがとうございました。




