第21話「憧れ」
けたたましい、クラシックな目覚まし時計のブザー音。
白い天井に反響する電子音を、ベッドの中から伸びた手が止める。
「……うぅ」
布団から顔を出したのは、朝倉ひなた。
ここは、福島区にある、ひなたの自宅マンション。
ワンルームの部屋は、ナチュラルな木目家具で揃えられている。
本棚には、純喫茶風のマグカップ、小型のレコードプレーヤー。
壁には、古い日本映画のポスター。
ひなたの趣味の、昭和レトログッズが並んでいた。
今日は雑誌向けのグラビア撮影。朝が早い。
眠い目を擦りながらシャワーを浴び、髪を乾かす。
鏡の前で、現場向けに薄くメイクを整える。
準備が整った頃、スマホが震えた。
『到着しました』
瀬川翔太からのメッセージ。
「はや……」
バッグを肩にかけ、部屋を出る。
マンション前には、黒いワゴン車。
運転席から降りた翔太が、後部ドアを開けた。
「ひなたさん、どうぞ」
「おはようございます」
軽く会釈して後席へ。
「あれ、今日は希望さんじゃないんだ」
「そうなんすよ。最近希望さん忙しくて。昼くらいには現場入りするって言ってました」
「了解」
車が静かに走り出す。
街を抜け、高速へ。
朝の道路はまだ空いている。
しばらく無言の時間が流れたあと、翔太が口を開いた。
「今日のスタジオ、希望さんセレクトなんですけどいい感じですよ」
「えー、楽しみ」
「郊外の洋館なんですけど。自然光も入るし、雰囲気めちゃくちゃいいらしくて」
「いや、いつもあんだけ忙しいのにこんな趣味のいいとこ見つけてきて。やっぱ希望さん凄いっす」
ひなたは小さく笑う。
「でも、翔太さんも凄いと思うよ。なんか新人離れしてる感じする」
「え、いやいや」
「私、事務所入ったすぐの時は希望さんに叱られまくってたし」
翔太は少し苦笑した。
マネジメント部に入って2年ほど。確かに仕事はきっちりこなす。
ひなたから見ても、希望が翔太を信頼しているのはなんとなく伝わっていた。
「いや、希望さんに比べたら……まだまだですよ」
少し間を置いて。
「でも、最近ちょっと仕事まかせてくれるようになりました」
「希望さんにかかったら、すぐに仕事終わっちゃうんで。自分の仕事あるのか心配してたんですけど」
そして、ぽつりと。
「……めっちゃ尊敬してます」
ハンドルを握ったまま、前を見たまま。
「憧れです。俺の」
その真っ直ぐさに、ひなたは思わず息を詰める。
自分のことではないのに、頬が熱くなる。
「……」
「なんか、翔太さんってそうやってなんでもはっきり言えるの、羨ましいな」
「私なんて……」
言葉が続かない。
自分は、はっきり言えているだろうか。想いも、夢も。
そのとき、車がゆっくりと減速した。
「あ、ここです。着きましたよ」
目の前に現れたのは、立派な二階建ての洋館。
白い外壁、アイアンの門、庭には冬枯れの木々。
「うわ、すご」
車を降り、門をくぐる。
中へ入ると、アンティーク調の家具、重厚なカーテン、磨き込まれた床。
既に数人のスタッフが照明や機材の準備を始めている。
その奥。
カメラを並べ、レンズを交換している男性。
ひなたはぱっと表情を明るくした。
「中村さーん」
振り向いたカメラマン、中村恒一が手を振り返す。
ひなたは足取りを速め、近づき、何かを楽しそうに話し始める。
中村は穏やかに頷きながら応じている。
その様子を、少し離れた場所から翔太は眺めていた。
自然に緩むひなたの頬。
声のトーン。
距離感。
——やっぱ、ひなたちゃん……好きだよな。中村さんのこと。
本人に聞いたわけでもない。
匂わせているわけでもない。
でも、翔太は、なんとなく気づいていた。
白い水着に着替えたひなたが、中村と呼吸を合わせながらポーズをとっている。
撮影は順調に進んでいた。
二階の大きな窓から差し込む冬の光。
白いレースのカーテンが揺れるたび、ひなたの髪に柔らかい陰影が落ちる。
「いいね、そのまま」
中村の声は穏やかだが、的確だった。
ひなたはアンティークのソファに腰掛け、視線を少し外す。
レンズ越しに中村と目が合うと、ほんの一瞬、笑みが深くなる。
シャッター音が重なる。
「はい、お疲れさま。いったん休憩入りましょう」
スタッフが散らばり、空気が少し緩む。
そのタイミングで、入口の方から、低く落ち着いた声。
「お疲れさまです」
グレーのパンツスーツに身を包んだ大橋希望が、静かに現場入りした。
「希望さん」
翔太が小走りで近づく。
「お疲れさまです。順調です」
「そう。ひなたは?」
「今ちょうど休憩です」
希望は軽く頷き、ひなたの様子を遠目に確認する。
中村と並んで、何やら笑いながら話している。
距離は自然。近すぎず、でも柔らかい。
希望の視線は一瞬だけ止まり、すぐに逸れた。
「いい雰囲気ですね」
翔太が小声で言う。
希望は、翔太の方をちらりと見る。
「何がですか?」
少しだけ探るような声音。
翔太はさらに声を落とす。
「……気づいてます? ひなたと中村さん」
間。
希望は、当然のように答える。
「気づいてますよ」
まるで、天気の話をするような口調。
翔太は少し驚いた顔をする。
「やっぱり」
「瀬川くんも、ちゃんと見てるんですね。流石です」
淡々とした評価。
だが、否定も否認もない。
正直、希望がこの件を黙認するのは、意外だった。
翔太は少し迷ったあと、続ける。
「いいんすかね」
「中村さんも、満更じゃない感じしますけど」
希望は腕を組み、数秒だけひなたの方を見つめる。
「まあ、二人とも大人ですしね」
「流れに任せましょう」
そして、少しだけ視線を落とし。
「恋心を押し込めてしまうと、傷が残るかもしれないですしね」
その言葉は、どこか柔らかく、どこか遠い。
翔太は、思わず聞いてしまう。
「それ……実体験ですか」
一瞬。
ほんの一瞬だけ。
希望の目が揺れた。
「……え?」
聞き返すような、小さな声。
いつもの即答ではない。
「いえ、あの……」
言葉が続かない。
ほんのわずかに、語尾が曖昧になる。
「……いや、別に。そういうわけじゃ」
「……想像です」
視線を逸らす。
ほんのわずかに、言葉が早い。
普段なら、完璧に整った返しをする人なのに。
その小さな乱れを、翔太は見逃さなかった。
――あ、そういう顔もするんだ。
冷静で、合理的で、隙のない、完璧な人。
そう思っていた。
でも。
今、目の前にいるのは、一人の女性だった。
そのとき。
「希望さん!」
ひなたが駆け寄ってくる。
「スタジオめっちゃ素敵です! ありがとうございます!」
希望はすぐに表情を整えた。
「気に入ってもらえたなら良かったです」
仕事の顔。
完璧な距離感。
翔太はその横顔を見ながら、思う。
――でも。
完璧じゃない希望さんも、いいよな。
翔太の胸の奥で、何かが静かに形を持ちはじめていた。




