第11話「恋」
開店前のある日の午前中。
テーブルの上には図面と素材サンプルが並べられていた。
来年度からの店のリニューアルの打ち合わせ。
話しているのは、デザインを担当している、三浦直人だった。
24歳。デザイン会社の若手ホープ。話し方も、全く嫌な感じがない。
そして、絵に描いたような清々しいイケメン。
——ええ子やわ。
ひかりは資料を揃え、直人に向き直った。
「今日はありがとうございます」
「まずは全体の動線から確認しましょう」
声は標準語。完全に仕事の顔。
直人はノートを開き、姿勢を正す。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
「入口からカウンターまでの視線誘導、少し工夫できそうですね」
——やっぱり、仕事はできる。
ひかりは内心でそう評価しつつ、会話を進める。
素材、色、照明温度。
直人は要点だけを確認し、無駄なことを言わない。
その時。
「……失礼します」
背後から、みらいの声がした。
ひかりは、資料を見たままでも分かった。
その一歩が、ほんの少しだけ慎重だったこと。
みらいが直人の横顔をちらりと見て、ドリンクを置く。
「こちら、どうぞ」
声はいつも通り落ち着いている。
みらいの声を聞いて、直人は一瞬だけ顔を上げた。
——あ。
ほんの一瞬。でも、ひかりは見逃さなかった。
直人の視線が、ドリンクより先に、みらいの顔にいったこと。
すぐに視線を戻す。
でも、戻すのが、ほんの一拍遅い。
「ありがとうございます」
言い方は丁寧で、いつも通り。
けれど、声のトーンが、少しだけ柔らかい。
みらいは小さくうなずき、そのままバックヤードへ戻っていく。
ひかりは、あえて何も言わない。
——ほう。
みらいの耳が、少し赤い。
直人は、もう一度だけ、背中を目で追ってから、図面に戻った。
完全に無意識。自覚は、たぶん、ない。
でも。
「……カウンターの高さですが」
ひかりが話を戻すと、直人は少しだけ間を置いてから答えた。
「あ……、はい」
「距離が近くなるなら、いいと思います」
——今、ちょっと遅れたな。
ひかりは、内心で小さく笑う。
一目惚れしてるのは、みらいだけじゃない。直人も、ちゃんと引っかかってる。
でも、二人とも、それを仕事の外に出していない。
立場も、空気も、ちゃんと分かっている。
——ああ、これは。
ひかりは、ペンを持ちながら思う。
ちょっと面白いことになってきた。
だからこそ。
言わない。
触れない。
気づかないふり。
「照明は、少し暖色寄りにしたいですね」
「夜の雰囲気が出るので」
ひかりは、何事もなかったように話を続ける。直人も真剣にうなずく。
「それ、いいですね」
「居心地がよくなりそうです」
——ほんま、真面目やな。
だから余計に、この微妙な空気が、可笑しい。
ひかりは心の中で、静かに決めた。
——これは、黙っとこ。
みらいが自分で気づくまで。
直人が自分で踏み出すまで。
今はまだ、仕事が一番きれいな距離や。
ひかりは、プロの顔のまま、打ち合わせを進めた。
「では、次は席配置を詰めましょう」
誰も口には出さない。
でも、この日、確かに始まっていた。
それを分かっているのは、
たぶん——今はひかりだけだった。




