プロローグ
ひっそりと誰も近づかぬ荒れ地に、その建造物は聳えていた。
カーアラーン監獄。
百年の歴史を刻む、地上最悪の牢獄である。
鬼の紋章が刻まれた鉄門――人々はそれを「地獄門」と呼んだ。
ここに足を踏み入れた者で、生きて帰った者はいない。
夜になると、壁の内側から低い唸り声が聞こえる。
罪を悔いる声、怒りに満ちた叫び、そして絶望に溶ける嘆息。
看守たちはそれを「囚人の子守唄」と嘲笑った。
だが、誰も笑ってはいなかった。
この監獄では、囚人も看守も、皆が『何か』に囚われているのだ。
独房棟の一角。
目に光を失った白髪の女が、薄闇の中で背を壁に預けていた。
髪は肩口で絡まり、唇は乾き、肌は月光のように蒼白い。
彼女はその日も、ぽつりと呟いた。
「退屈だわ」
それは毎日繰り返される言葉だった。
誰に聞かせるわけでもない独り言。
しかし、その声の底には静かな炎が潜んでいた。
◆◇◆◇
昼間、監獄では年に一度の「お遊戯会」と呼ばれる催しが行われていた。
看守のみが参加する、強制的な娯楽行事である。
廃れた壁に張り付けられた粗末なダーツボード。
そこには『一から二十』までの数字が雑に貼られていた。
「では次、三号房のマーク」
呼ばれた青年看守が、ため息をつきながら前に出た。
刑務所勤めも三年目。
笑えない冗談と、息の詰まる規律に彼はうんざりしていた。
「こんな茶番……やってられ――」
言いかけた瞬間、背後から腕をねじ上げられる。
場の空気が一瞬で凍りついた。
同僚の年長看守が、耳元で低く囁く。
「おい、上の命令は絶対だ。二度と軽口を叩くな」
カーアラーンでは、三年前の「言論戦争」以来、
たった一つのルールが絶対となっていた。
――『命令には、理由を問うな』。
マークは怒りを抑え、再びボードを見据えた。
右手に握ったダーツを、思い切り投げる。
鋭い音を立てて、矢は『一番』の数字に突き刺さった。
「……一番の囚人、誰だ?」
周囲がざわめく。
古参の看守が、口の端を歪めて笑った。
「知らない方が身のためだ。だが――」
わざと間を置き、彼は囁く。
「女だ。恐ろしく、美しい女だ」
それ以上、誰も口を開かなかった。
マークの胸には、得体の知れぬざわめきが残った。
◆◇◆◇
一番房。
分厚い鉄扉の向こうに、彼女はいた。
手錠と足枷をされたまま、暗闇の中でじっと座っている。
目隠しをされ、視界は閉ざされていた。
だが、耳だけは異様に研ぎ澄まされている。
足音、鉄格子の軋み、遠くの咳払い。
それらをすべて聴き分け、彼女は時間を測っていた。
唯一の楽しみは、食事に添えられるスープの香りを味わうこと。
その味が日々少しずつ変化していることを、彼女は把握していた。
――新しい調理人が来た。
――看守の配置が変わった。
――そして今夜は、月が満ちる。
彼女は口元に微かな笑みを浮かべた。
長い沈黙の果てに、声が漏れる。
「……もうすぐね」
それは、自らに言い聞かせるような声だった。
冷たい牢の壁に吸い込まれ、小さく反響する。
この場所に来て、三年。
無数の夜を越え、彼女は待ち続けていた。
唯一の機会――月が満ちる夜を。
地上の誰も、その事実を知らない。
その夜、カーアラーン監獄に最初の裂け目が刻まれることを。
この地獄に風穴を開ける、彼女の反撃の狼煙が上がることを。
沈黙の果てに、世界はひび割れ始める。
月光は、鉄と血を淡く照らしていた。
伝えるや フォローも星 作者へ
読むだけでは足らず、作者の励みになりません。どうか勇気づけると思っての願いを読んだ句です。




