〜前世社畜の観察眼と交渉術で悪徳貴族を返り討ちにし、ついでに隣国将軍に溺愛されながらやり直す物語〜
気づいたのは、冷たい水を浴びせられた瞬間だった。
「起きろよ、役立たず。朝食の準備もできてねぇのか」
聞き覚えのある、最低最悪の男の声。目を開けると、そこには私の“夫”──レノルト男爵がいた。脂ぎった髪、見下した瞳、そして拳を振り上げる癖まで、ゲームの立ち絵そのままだ。
……ああ、本当に転生したんだ。
だけど私はヒロインでも悪役令嬢でもなく、「悪役令嬢の娘の母」というモブ中のモブ。原作でも数行しか語られず、娘は悪役に仕立てられた挙げ句、処刑ルート一直線。そして私はその前に過労死みたいな扱いで退場する。
前世の記憶が一気に蘇るに従い、胃の奥が冷たくなった。
でも同時に、脳裏に浮かんだのは──前世で心から大切に思っていた「妹のような後輩」の顔。
泣きながら「先輩みたいに強く生きたいです」と言っていたあの子。
(強く……か)
私は一度深呼吸し、濡れた髪を払って立ち上がった。
「レノルト様。申し訳ありません、すぐに支度いたします」
「最初からそう言えばいいんだよ。ほんと怠け者は嫌になるぜ」
男爵は唾を吐くように言い残し、部屋を出ていった。
私は、ゆっくり拳を握った。
(あんたらの天下は、今日で終わりよ)
まだ弱い、まだ逃げられない。だが、今日から逆転の準備を始める。
――私には、二度目の人生があるのだから。
◆
「……ママ……?」
か細い声が聞こえ、振り向けば幼い娘がドアの隙間から覗いていた。まだ六歳のリリア。金の髪に淡い桃色の瞳──将来、嫉妬されるほど美しくなる子だ。
しかし今は、怯えた小動物のように私を見ている。
(この子を、絶対に処刑させたりしない)
心の奥底から強く思った。
「リリア、おいで。抱っこしてあげる」
「……ママ、今日は痛くない……?」
この言葉が、胸に突き刺さる。
「大丈夫。もうママは、ずっと大丈夫よ」
嘘じゃない。大丈夫に“する”。
そのために、まず最初の一歩──夫と義家族の財産管理の穴を見つけることから始めた。
前世で私は長年、ブラック企業の総務として働いていた。経理も法務も雑務も、すべて押しつけられたおかげで異様に詳しい。
(ふふ……この世界の帳簿は甘いのよ。逃げ道はいくらでもある)
私は密かに“家の支出一覧”を作り始めた。男爵家は見栄を張って浪費がひどい。そこに付け込めば、いずれ奴らは自滅する。
「ママ、これ……お花」
リリアが庭で摘んだ花を差し出す。小さな手には泥がついていて、でも花はまっすぐに私へ向けられていた。
「ありがとう。ママの宝物よ」
ほろりと涙がこぼれそうになった。
(絶対に、この子を幸せにする)
だからこそ、これから始めるのは“逃亡”ではない。
──徹底した“計画的復讐”だ。
◆二週間後
「なんだこれは!?」
レノルト男爵が怒鳴り声をあげた。私は淡々と答える。
「今月の支出報告書です。赤字の原因を明確にするため、まとめました」
「余計なことを!」
怒鳴りながらも、男爵は書類を奪い取った。そして、そこに記された“無駄遣いの数字”を見て青ざめた。
「……こんなに?」
「ええ。いずれ領地経営に支障が出ます。改善計画を立てるべきかと」
しばらく沈黙。
男爵は小さく舌打ちした。
「お前……たまには使えるじゃねーか」
(はい、尻尾を掴んだ)
男爵は金にしか興味がない。その金が危険だと思わせれば、私は“必要”になる。必要になるほど、油断が生まれる。
その油断を……私が利用する。
◆その夜
屋敷の外に、黒い兵服が見えた。胸元には隣国の紋章。彼らは“王国の監査官”を装い、密かに問題のある領地を調査している軍人──原作での脇役たちだ。
そしてその先頭には、原作では数ページしか出ないはずの人物がいた。
鋼のような銀髪、凛々しい青い瞳。
隣国第一将軍、ゼクリス・ヴァルハイト。
(なんで将軍本人がこんな僻地に……? 原作と違う)
ゼクリスは屋敷を見上げ、ふと視線が私に止まった。
冷たい夜風が吹く。
その瞳が──なぜか、驚きと、優しさを宿して揺れた。
「……君、怪我は?」
初対面のはずなのに、彼は迷いなく私に歩み寄ってきた。
「え……あの……」
「怯えなくていい。俺は敵じゃない。むしろ……君を助けに来た側だ」
その言葉に、胸が熱くなる。
(助け……? どうして私を……)
ゼクリスは少し口を濁した。
「実は……君を見てから、ずっと胸騒ぎがしていた。理由はまだ説明できないが……」
私の手をそっと握り、真剣に言った。
「君と娘を、守らせてほしい」
あまりに突然の申し出に、返事が喉につかえた。
(この人なら……信じてもいいの?)
私の心が揺れたその瞬間──屋敷の扉が勢いよく開いた。
「おい! 何をしている!」
レノルト男爵が、顔を真っ赤にして怒鳴り出した。
その次に起きたのは、原作にはない──完全に予想外の展開だった。
ゼクリスが、私の肩を抱き寄せ、男爵を鋭く睨みつけたのだ。
「その女は俺が守る。手を出すな」
屋敷中が静まり返る。
その瞬間、私は悟った。
(ああ……この人生、完全に書き換わったんだ)
そして、胸の奥底にしまっていた“本当の願い”が、初めて形を持った。
──娘と私が笑って暮らせる未来を、自分の手で掴みたい。
これはそのための、第一歩だった。
ーーーー
「……行くぞ。君と娘を安全な場所へ」
ゼクリス将軍はそう告げると、私の手を優しく引いた。
「待てよ! 俺の妻を勝手に連れて行くな!」
レノルト男爵が怒号をあげる。だがゼクリスは振り向き、淡々と告げた。
「“妻”を所有物のように扱うのは、この国だけの悪習か?」
「な……!」
「俺の国では、伴侶は守るべき対等な存在だ。暴言や暴力で傷つければ、たとえ貴族でも牢獄行きになる」
屋敷の者たちがざわつく。
レノルトは顔を真っ青にした。
私は初めて知った。
隣国は女性と子どもの権利を守る国。だからゼクリスの言葉は“本気”だ。
「我々は監査官だ。男爵、お前の横領と虐待はすでに調査済みだ」
「っ……!」
「国境を越えた援助金を私物化した罪は重い。覚悟しておけ」
レノルトが震えた瞬間、私はようやく長年の呪縛から解放された気がした。
「ママ……?」
リリアが私のスカートを握る。私は膝をつき、ぎゅっと娘を抱きしめた。
「もう大丈夫よ。怖い思いは、今日で終わり」
「ほんと……?」
「ほんと」
私の声が震えると、ゼクリスがそっと肩に手を置いた。
「行こう。二人を守る場所へ」
私は頷いた。
◆
隣国の領地にあるゼクリスの別邸は、驚くほど広く、そして暖かかった。
リリアはすぐに庭に咲く花々に夢中になり、笑顔を取り戻していった。
その姿を見るたびに、胸がじんわり熱くなる。
(このまま……ここで暮らせたら)
そんな淡い希望が芽生え始めたある日。
「君、少しよろしいか」
ゼクリスが私を呼び止めた。二人きりで話すのは久しぶりだ。
「君が夫にされた暴力や搾取の証言が揃えば、男爵家の財産は没収される。そのうち三割は“被害者支援金”として支払われるはずだ」
「そ、そんな……!」
あまりに急展開で、目を見開く。
「驚くのも無理はない。だが、これは当然の権利だ。君と娘はここからやり直せる」
視線を落とすと、彼の大きな手がそっと重ねられた。
「……だが、できれば“この国で”やり直してほしい。俺の近くで」
心臓が跳ねた。
「な、なぜ私なんか……」
「“なんか”じゃない」
ゼクリスはまっすぐに言い切った。
「初めて出会ったとき、君の目はひどく怯えていた。それでも娘を守るために立っていた。あの強さに……俺は惚れた」
「っ……」
胸が熱くて、言葉が出ない。
「君に無理をさせる気はない。だが……できれば、俺に君と娘の人生を支える役目をさせてくれないか」
真っ直ぐな告白に、喉がきゅっと締まる。
(こんなふうに、大事に扱われたことなんて……)
答えられずにいると、奥でリリアが花の冠を持って走り寄ってきた。
「ママ! ゼクリスおじさんにもあげる!」
ゼクリスが少し驚き、優しく受け取る。
「ありがとう、リリア。……おじさん、なんて優しい響きだな」
リリアが無邪気に笑う。
「ママのこと、いっぱい守ってくれるいい人だよ!」
私は思わず赤面してしまった。
ゼクリスは少し照れながら、私の手をとる。
「リリアの言うとおりだ。これからずっと……守りたい」
その言葉が、胸の奥まで染み込んだ。
私はようやく、答えを絞り出した。
「……はい。お願いします」
ゼクリスが安堵の息を漏らし、微笑んだ。
「ありがとう」
その瞬間、庭に柔らかな風が吹いた。
リリアの笑顔、ゼクリスの手の温もり、満開の花の香り。
(ああ……幸せって、こんなにあったかいんだ)
私はようやく、一歩を踏み出せた気がした。
◆
後日、レノルト男爵と義家族は全員逮捕され、財産は没収。
私は正式に離縁となり、支援金と一部領地の管理権を得た。
ゼクリスはそれを聞き、私の前で息をついた。
「これで、君とリリアの未来は守られた」
「ええ。でも……一つだけ、伝えたいことがあります」
私の言葉に、ゼクリスが目を細める。
「私は……あなたと一緒に未来を作りたい」
顔が熱くなる。でも、逃げなかった。
ゼクリスはゆっくり手を伸ばし、私を抱き寄せた。
「その言葉が聞きたかった。……大切にする。娘ごと愛そう」
胸が熱く、涙があふれた。
リリアが後ろから抱きついてくる。
「ママ、わたしたち、もう幸せになれるね!」
「ええ、リリア。これからずっとよ」
新しい人生が、確かに始まった。
――圧倒的なモブだったはずの私が、娘と共に未来を掴む物語は、ここから本当の意味で動き出したのだった。




