8. 皇帝の裏の顔
私がヴァルトリア城で過ごした日々は、表向きは穏やかだった。
レオニス様は噂に聞くような冷酷さは見せず、少し無口で無愛想ながらも、私の目には誠実に映っていた。
(この人となら、良い関係が築けるかもしれない…)
そんな淡い期待を抱き始めていた夜。
就寝のため自室へ戻る途中、私は彼の父であるヘラルド皇帝陛下の執務室の扉が、わずかに開いていることに気づいた。
中から漏れるのは、聞き覚えのある、陛下の低い声。
そして、その側近の声だった。
(こんな時間に、何を…?)
胸騒ぎを覚え、私は息を殺して、壁際に身を潜めた。
「…して、エレドーラの姫は城でいかがお過ごしかな?」
「はっ。姫は、この国がお気に召されたようでございます。レオニス皇子も姫にまんざらでもないご様子でありますゆえ、婚姻は滞りなく進むかと」
その言葉に、私は少しだけ頬を緩めた。
しかし、次に続いた陛下の言葉に、全身の血が凍りついた。
「結構なことだ。婚姻など、ただの口実に過ぎんがな」
「…と、申されますと?」
「あの娘は真の魔女だ。放っておけば、いずれ我が国の脅威となる存在。ではどうするか?答えは簡単、先にこちらが利用するのだ。
レオニスが懐柔できぬのであれば、その時は城の地下牢に幽閉すればいいだけのこと。あの魔法さえ、我が国の土地に縛り付けておけばよいのだからな」
まるで心臓が鷲掴みにされたかのように痛んだ。
嘘…でしょ…?
「なんと…!では、レオニス王皇子と姫君は…」
「その時が来れば、適当な理由をつけて姫は『病死』したとでも言っておけばよかろう。そしてまた別の、より利用価値のある家の娘を娶らせれば良いだけの話」
立っていられなかった。
壁に手をつき、必死に悲鳴をこらえる。
平和も、同盟も…そしてレオニス様との未来も、全てが嘘。
私はただ、私の魔法を搾り取られるためだけに、この城へ招かれたのだ。
このままでは、私はこの強欲な皇帝陛下に食い潰されてしまう。そう気がついたら、逃げること以外思いつかなかった。
しかし途中で衛兵に見つかってしまい、あの冒頭のシーンに繋がるのである。
◇
「…というのが、あの夜の、全ての真実です」
私の声は、震えていた。
「俺が懐柔できなければ幽閉?病死に見せかける?…信じがたい話だ」
レオニス様の声は、低く、硬かった。
分かっていたはずだった。彼が、忠誠を誓う父を、そう簡単に疑えるわけがないと。それでも、信じてもらえなかったという事実が、胸を締め付けた。
「信じられないのは当然です…。この耳ではっきりと聞いた私ですら、とても戸惑いました」
「君の話を裏付ける、何か証拠になるようなものは?」
そう言った彼の瞳は怒りではなく、苦悩に揺れていた。信じたくないのだ。自分の父親が、そんな卑劣な人間であるとは。
「残念ながら、証拠は…ありません」
「ただ…君の話が本当だとすれば、父上がそこまでしてでも手に入れたいと思えるような魔法が、君にはあるということになる。
君が見せてくれた、あの魔法。花を咲かせたり、食べ物を出したり…
俺は今まで、ありとあらゆる文献を読んできたというのに、そのような魔法は、どの文献にも載っていなかった。あれは一体なんなのだ」
「これは……『祝福の魔法』と呼ばれる、特別な魔法です」
「祝福…?」
「私の家系…エレドーラの王家に、代々受け継がれてきた、少し特殊な力なのです」
そう言って、暖炉の暖かい光に、自分の両手をかざした。
「人を、土地を、生命を育むための力。飢えた人に食べ物を、乾いた土地に潤いを、凍える人に温もりを…。お城の温室で花を咲かせた日を覚えておられますか?あれも、祝福の魔法を使ったのです。そうやって、小さな恵みを分け与えるのが私の魔法です」
攻撃魔法のような派手さはない。敵を打ち倒す力もない。
ただ、そこにある命を、そっと慈しむだけの、ささやかな魔法。故郷で両親からこの魔法の使い方を教わった時のことを思い出しながら、穏やかに語った。
そして、最後にこう付け加えた。
「…レオニス様、私の言うことを全て信じてくださいとは言いません」
私は、彼の紫色の瞳をまっすぐに見つめた。
「ただ、これだけは真実です。私は、あなたと、あなたの国のことが知りたくて、ヴァルトリアの城へ赴きました。そして、あの夜…皇帝陛下のお話を聞いてしまうまで…あなたとなら、良い関係が気づけるのではないかと、本気で思っておりました。あなたのような方の妃に…なりたいと……。それなのに、全てを捨ててでも逃げ出さなければならなかった理由が何だったのか。答えは、あなた自身が見つけてください」
それは、彼に判断を委ねる、私なりの賭けだった。