聖女の奇跡と、王子の一手
セドナ平原を埋め尽くす、何万という民衆の熱狂と期待が、肌を刺すように伝わってくる。
乾ききった大地に建てられた巨大な祭壇の上。私の隣には、寸分の隙もなく、守護役という名の監視役としてレオニスが立っていた。
彼の父、国王陛下は、玉座から満足げに私たちを見下ろしている。
(見ていなさい、国王陛下。あなたの思い通りにはさせない)
私は、民衆の幸せと、レオニスの勝利を、強く、強く、心に願った。
そして、祝福の呪文を、高らかに唱え始める。
私の体から、温かい魔力が穏やかな光となって溢れ出す。
その瞬間、隣に立つレオニスの体から、まるで呼応するかのように、力強い気配が立ち上った。
彼の「獅子の心臓」が、私の魔法と共鳴し、私の想像を遥かに超えるほどの力へと増幅させていくのが分かる!
私の手から放たれた光は、天へと昇り、乾ききっていた空に広がっていた雲を、みるみるうちに集めていく。
やがて、ポツリ、と。
私の頬に、冷たい雫が落ちた。
雨だ。
一滴一滴が、まるで光の粒を含んでいるかのようにキラキラと輝き、大地へと降り注いでいく。
その慈愛に満ちた雨に打たれた人々は、天を仰ぎ、歓喜の声を上げた。
奇跡は、それだけでは終わらない。
恵みの雨が染み込んだ大地から、茶色かった土の間から、次々と、緑色の若葉が芽吹き始めたのだ。
死んでいたはずの平原が、目の前で、鮮やかな生命の色を取り戻していく。
「おお…!」
「聖女様だ!聖女様が、この大地を救ってくださった!」
民衆の熱狂は、最高潮に達した。
国王は、玉座から立ち上がり、満足げに頷いている。彼の実験は成功し、この奇跡は全て自分の手柄になる。そう、確信した表情だった。
だが、その時だった。
レオニスが、一歩前に出た。
そして、魔力で増幅させた、朗々たる声で、民衆に向かって叫んだのだ。
「我がヴァルトリアの民よ!この奇跡を目に焼き付けよ!これは、ただの恵みの雨ではない!聖女アイリス様の、悲しみの涙だ!」
民衆が、ざわ…とどよめいた。
玉座の上の国王が、怪訝な顔で眉をひそめる。
レオニスは、祭壇の上に跪く、疲れ果てた私の方を振り返り、悲痛な表情で続けた。
「見よ!聖女様は、この枯れた大地と、飢えに苦しむ我ら民の姿を深く悲しまれ、ご自身の命を削って、この奇跡を起こしてくださったのだ!何の見返りも求めず、ただ、我らを救いたいという、その一心で!」
彼は、今度は民衆一人一人の顔を見渡すようにして、問いかけた。
「だが、我らはどうだ!この尊い自己犠牲に対し、我らは今まで、聖女様に何をして差し上げた?ただ奇跡を求め、聖女様を祭り上げ、そのお心に寄り添おうとすらしなかったのではないか!」
民衆の間に、罪悪感と、気まずい沈黙が広がる。
「聖女様は、奇跡を起こすための『道具』ではない!我らと共に痛み、共に喜んでくださる、慈愛に満ちたお方なのだ!我らが真に捧げるべきは、熱狂ではない!そのお心を慮り、感謝し、その御身を、これ以上お疲れさせてはならぬという、敬愛の念であるべきだ!」
その演説は、人々の心を強く、強く揺さぶった。
熱狂的な歓声は、静かで、しかし深い、祈りのような拍手へと変わっていく。
民衆の目は、もはや国王ではなく、ただ一人、祭壇の上で静かに微笑む、聖女アイリスにだけ注がれていた。
「聖女様…」「我らのために…」という、感謝と労いの声が、あちこちから聞こえ始める。
国王の顔が、怒りと屈辱に歪むのを、私は確かに見た。
レオニスは、私の功績を国王の手柄にするどころか、「アイリス=自己犠牲の聖女」「奇跡を求める我々(国王含む)=彼女を疲れさせる存在」という構図を、完璧に作り上げたのだ。
これにより、国王は今後、私に無理な奇跡を安易に要求できなくなった。
儀式が終わり、祭壇を降りる、ほんの一瞬。
レオニスが、誰にも聞こえない声で、私にだけ囁いた。
「…まずは、大きな一手だ、アイリス。君はもう、道具じゃない」
その声には、確かな手応えと、しかし、まだ続く戦いへの覚悟が滲んでいた。
私たちは、巨大なチェス盤の上で、民衆の心という、最も強力な駒を、確かに手に入れたのだった。