黒騎士の決意
月明かりだけが頼りの夜道を、一頭の馬が疾風のように駆け抜けていく。
乗り手は、黒髪の騎士アランだ。
彼は、レオニス王子から託された密書を胸に、東のオルデン公爵領を目指していた。
(急がねば。そして、最後まで誰にも見つかるわけにはいかない…)
アランの脳裏に、数日前の主君との会話が蘇る。
◇
「…分かった。お前のせいではない、アラン。全ては、俺が甘かったからだ」
「アラン。お前には、このナイトのように、俺の手足となって、盤面の外を駆けてもらう」
「オルデン公に、俺からの密書を届けてほしい。誰にも気づかれぬよう、お前自身の手で。…彼が俺たちのビショップになってくれるかどうか、確かめてきてくれ」
◇
(殿下は、俺を信じてくださった…)
アランは、唇を強く噛みしめた。
アイリス様を守るべく、お連れした教会でのこと。
殿下は、俺がアイリス様を引き渡した状況について、それ以上何も問わなかった。
だが、あの聡明な主君が、何も疑問に思わなかったはずがない。
それでも、俺を信じ、この国の未来を左右する密命を託してくれたのだ。
(なんとしても、俺はその信頼に、応えなければ…!)
実はあの時、俺は絶望的な状況で、一つの賭けに出ていた。
教会を包囲した近衛騎士団の隊長は、幸いにも、先代王妃に恩義を感じている、話の分かる男だった。
俺は、抵抗して犬死にする代わりに、彼と密約を交わしたのだ。
「アイリス様の身の安全と、丁重な扱いを約束するならば、抵抗はしない」と。
近衛騎士団と共に行動することで、彼は自分の目で、アイリス様が丁重に城へ「保護」されるのを見届けた。
それが、あの状況で唯一の最善策だと判断したのだ。
しかし、そんな内情を、殿下に話すことはできない。
それは、言い訳がましく聞こえるだろう。
騎士は、結果が全て。アイリス様を守れなかったという事実は、どうやっても覆らない。
ならば、行動で示すしかない。
この密命を、完璧に成し遂げることで。
◇
しばらくののち、アランはオルデン公の城館に無事にたどり着いた。
オルデン公は、年の頃は五十代。すでに隠居の身でありながら、その瞳には、今も鋭い知性の光が宿っていた。
妹である、先代王妃によく似た、穏やかな雰囲気も持ち合わせている。
「…レオニス王子殿下からの、密書だと?」
アランから手紙を受け取ったオルデン公は、眉をひそめた。
彼は、現国王のやり方を嫌い、長年、中央の政治から距離を置いていた。
今更、その息子からの手紙に、どんな意味があるというのか。
しかし、手紙を読み進めるうちに、彼の表情は驚きに、そしてやがて、深い悲しみに変わっていった。
そこには、レオニスが知った、国王の非道な計画の全てと、アイリスという姫の存在、そして、国の未来を憂う、甥の悲痛な覚悟が綴られていた。
「ヘラルド国王陛下は、そこまで道を違えられてしまわれたか…」
オルデン公は、静かに目を閉じた。
その脳裏に、優しかった妹の面影が蘇る。
「騎士アランよ。王子殿下に、こう伝えよ」
彼は、ゆっくりと目を開くと、力強い声で言った。
「この老骨、まだ国のために使い道があるのならば、喜んで甥の力になろう、と。オルデン公爵家は、レオニス殿下を、次代の王として支持する、とな!」
その言葉を聞いた瞬間、アランは、胸の奥から熱いものが込み上げてくるのを感じた。
(殿下…やりました!)
殿下にとって、最初の、そして最も強力な味方が、今、ここに生まれたのだ。
自分の働きが、確かに、主君の力になった。その事実が、何よりの喜びだった。
夜明けは、まだ遠い。
しかし、暗闇の中を照らす、確かな松明は、今、この手に灯されたのだ。
アランは、オルデン公に深々と頭を下げると、その吉報を届けるため、再び、闇夜の道へと、その身を投じた。