聖女の初仕事
「聖女アイリス様、お召し替えの時間でございます」
感情の読めない侍女の声で、私はまどろみから引き戻される。
あの日、王城の一室に連れてこられてから、私の一日は、こうして始まるようになった。
豪華だが、自由のない鳥かごの中。侍女たちの笑顔は完璧な仮面のようで、その瞳の奥には、常に私を監視する冷たい光が宿っていた。
国王に故郷を人質に取られている今、私にできることは、従順な聖女を演じることだけ。
しかし、ただ無力に飼いならされるつもりはなかった。
(見ていなさい。あなたの思う通りには、ならないわ)
心の中で、国王への反抗の炎を静かに燃やし続ける。
そんなある日、ついに国王から最初の「仕事」が言い渡された。
「中庭にある『嘆きの白バラ』を、咲かせてみせよ」
侍女長を通して伝えられた命令。
嘆きの白バラとは、建国の際に植えられたと伝えられる伝説の古木で、ここ数年、原因不明のまま枯れかけているという。
それを蘇らせることで、「聖女の奇跡」を城の者たちに知らしめ、私の力を誇示するのが狙いだろう。
私は、大勢の侍女や神官、そして国王の息がかかった騎士たちに囲まれながら、中庭へと連れていかれた。
噂の白バラは、まるで枯れ枝のように痩せ細り、見るからに生気がなかった。
「さあ、聖女殿。奇跡を見せていただこうか」
遠巻きに見つめる貴族たちの中から、国王の側近の声が飛ぶ。
誰もが、私がどんな派手な魔法を使うのかと、好奇と侮蔑の入り混じった目で見ている。
私は、そんな視線を無視し、ゆっくりと白バラの木の前に跪いた。
そして、そっと、その枯れ枝のような幹に両手で触れる。
(ごめんなさい。苦しかったでしょう…)
私は、派手な光を放つような魔法は使わなかった。
ただ、目を閉じ、この木が感じてきたであろう、長い年月の痛みと孤独に、静かに心を寄り添わせる。
私の祝福の魔法は、支配する力じゃない。
生命と対話し、その声を聞き、癒すための力だ。
私の体から、温かい魔力が、穏やかな光となって木の幹へと伝わっていく。
すると、奇跡が起こった。
枯れ枝のようだった幹に、みるみるうちに瑞々しさが戻り、茶色い樹皮は若々しい緑色へと変わっていく。
硬く閉ざされていた蕾が、ゆっくりと、しかし確実にほころび始め、やがて、芳しい香りと共に、純白の大輪の花を咲かせた。
それだけではなかった。
私の祝福は、バラの木だけでなく、その周辺一帯に満ち溢れた。
元気をなくしていた周囲の草花は色鮮やかさを取り戻し、どこからともなく現れた小鳥たちが、楽しげに歌いながら枝に止まる。
まるで、その一角だけ、春が訪れたかのようだった。
「おお…!」
「なんと…!」
どよめきが起こる。
彼らが期待していたのは、雷鳴のような派手な奇跡だっただろう。
しかし、目の前で起きたのは、あまりにも静かで、穏やかで、そして慈愛に満ちた、生命そのものの息吹だった。
監視していた侍女たちの中に、何人か、そっと胸の前で十字を切る者がいた。
彼女たちの瞳から、監視の色が消え、純粋な信仰の光が宿り始めていたのを、私は見逃さなかった。
これが、私の戦い方だ。力ではなく、心で、この鳥かごの中から仲間を増やす。
その日の夜、部屋で一人、今日の出来事を思い返していると、一人の若い侍女が、夜食のハーブティーを運んできた。
彼女は、昼間、胸の前で十字を切っていた侍女の一人だった。
「アイリス様。お見事でございました」
彼女は、小声で、しかし熱のこもった声で言った。
そして、トレイを差し出すふりをしながら、私の耳にだけ聞こえる声で、そっと囁いた。
「…先ほど、王子殿下の側近である、黒髪のアラン騎士に、動きがあったと」
「…!」
侍女は、それだけを告げると、意味ありげに私に一度だけ頷き、静かに部屋を去っていった。
私の心臓が、大きく音を立てた。
アラン。
私を、国王の騎士たちに引き渡した、あの騎士。
彼が、動いた…?
それは、レオニスの指示によるものなのか。
それとも、国王の命令で、次なる罠を仕掛けるための動きなのか。
今の私には、何も分からない。
彼が敵なのか、味方なのかすらも。
確かなのは、水面下で、何かが動き出したということだけ。
それは、希望の兆しなのか、それとも、さらなる絶望の始まりなのか。
私は、まだ湯気の立つハーブティーを、震える手で握りしめた。
この鳥かごの中で、私はただ、運命の歯車がどちらに回るのかを、待つことしかできないのだ。