王子の仮面と、第一の駒
父王に謁見したあの日から、俺は再び「冷酷で、従順な王子」の仮面を被ることにした。
焦り、怒り、今すぐにでも父に剣を突きつけたい衝動に駆られる。
だが、そんなことをすれば、全てが終わる。俺も、そしてアイリスも。
(…今は、耐える時だ)
俺は父の前で、アイリスの発見を喜び、聖女の帰還が国にもたらす栄光を称える、完璧な王子を演じきった。
その従順な姿に満足したのか、父は俺への警戒を少しだけ解いたようだった。
その夜、自室で一人、チェス盤に向かい合っていた。
黒いキングは、絶対的な力を持つ父王。
白いクイーンは、囚われの身となったアイリス。
そして、無力な白いキングである俺は、どう動けばこの盤面を覆せるのか。
(…駒が、足りない)
今の俺には、信頼できる、味方の駒が必要だ。
コンコン、と扉をノックする音がした。
入ってきたのは、黒髪の騎士、アランだった。
彼は、隠し通路を通って俺の部屋へ来てくれたのだ。
その顔に、怪我の一つも見当たらない。それどころか、その表情には、任務をやり遂げたかのような、奇妙なほどの落ち着きがあった。
俺は、込み上げる激情を押し殺し、静かに問うた。
「…アラン。何があった。なぜ、アイリスは捕まった」
アランは、その場に片膝をつくと、深く頭を垂れた。
「…申し訳ありません。修道院に着いて間もなく、近衛騎士たちが…。俺の力が及ばず、アイリス様を…」
その声は、驚くほど平坦で、感情が読み取れなかった。
「…そうか」
俺は、それ以上何も言わなかった。
彼が俺を裏切るはずがない。
だが、万が一、父上が彼の家族などを人質に取ったのだとしたら…?
いや、今は考えるな。
俺が彼を疑えば、もう誰も信じられなくなる。
今は、彼を信じるしかない。彼が、俺の唯一の駒なのだから。
「…分かった。お前のせいではない、アラン。全ては、俺が甘かったからだ」
俺は、心の奥底に生まれた、小さな、しかし消えない疑念の棘に蓋をすると、チェス盤の上で、白いナイトの駒を手に取った。
「アラン。お前には、このナイトのように、俺の手足となって、盤面の外を駆けてもらう」
「…はっ」
俺は、ナイトの駒をアランの前に滑らせた。
「…母上が亡くなられた後も、父上のやり方に異を唱え、中央から退いた貴族たちがいるはずだ。特に、母上の実家であった、オルデン公爵家は」
「…オルデン公は、先代王妃様の兄君。今は領地で隠居同然の暮らしを送っておられますが…」
「そのオルデン公に、俺からの密書を届けてほしい。誰にも気づかれぬよう、お前自身の手で。…彼が俺たちのビショップになってくれるかどうか、確かめてきてくれ」
俺は、あらかじめ用意しておいた、蝋で封をされた手紙をアランに渡した。
彼が味方についてくれれば、これほど心強いことはない。
「…承知いたしました。このアラン、命に代えても」
アランは、密書を恭しく受け取ると、音もなく闇の中へと消えていった。
水面下の戦いが、今、始まった。
アイリス、どうか無事でいてくれ。
俺が、必ずこの盤面をひっくり返してみせる。
俺は一人、静かな部屋で、チェックメイトへの道をただひたすらに模索し続けた。