追われる魔女と、王子の手
「はぁっ、はぁっ…!」
息が切れ、意識も朦朧とし始めていた。
足元はドレスの裾が、木の枝に引っかかって、何度もつまずきそうになる。それでも、私は、必死に足を前に動かした。
◇
隣国ヴァルトリアからの、突然の縁談話があったのは少し前のこと。
顔も知らない王子、そして訪れたことのない国へ、ただ嫁ぐことなど、私にはできなかった。
私は、自らの目で、未来の夫となる人と、その国が、本当に信頼できるのかを確かめるため、最小限の供だけを連れ、お忍びでこの地を訪れた。
婚約者候補である第一王子レオニスは、噂とは違う、誠実な瞳をした人。淡い期待を抱き始めた、その矢先ーー。私は、彼の父であるハラルド国王陛下の、恐るべき企みを耳にしてしまい、故郷であるアストライアに帰ることを決意した。
私を逃がすため、盾となった仲間たちを背に、私は、たった一人で、闇の中を駆けた。
◇
背後から迫る複数の軍靴の音と、鎧の擦れる不気味な金属音。それは私を捕えようとする追手ーー隣国ヴァルトリアの騎士団。その先頭に立つのは、冷酷だと噂の第一王子、レオニスだった。
「魔女を逃がすな!囲い込め!」
彼の鋭い声が、すぐ背後から突き刺さる。
(お願い、もうやめて…!)
私はただ、故郷に帰りたいだけ。
転移魔法で故郷に帰りたいのだけれど、この魔法は術者の心の状態に大きく左右される。
特に、長距離移動の場合、高度な術になるので、心が極度に乱れている状態では、決して発動しないのだ。
国王の裏切りを知った恐怖と、追われる焦り。今の私には、魔法を発動できるだけの冷静さが、まだ足りない。だから、走るしかなかった。少しでも時間を稼ぎ、心を落ち着かせるために。
(…あと、少し…!この森の奥なら…!)
ようやく追っ手の声が遠のき、わずかな静寂が訪れる。今しかない。私は、唇の端で、最後の希望である転移魔法の呪文を紡ぐ。故郷、アストライアの城へーー。
あの清らかな光の満ちる場所へ、心を飛ばす。
詠唱が完了する、その瞬間だった。
ガシッ!
「…っ!」
強い力で腕を掴まれ、私の体はバランスを崩した。振り返ると、そこには憎むべき彼の顔。月光を浴びて銀色に輝く髪、そして全てを見透かすような、冷たい紫色の瞳。
「捕らえたぞ、魔女め」
彼の唇が、勝利を確信してわずかに歪む。違う、私は魔女なんかじゃない!
アストライアの姫、アイリスよ。
「お願い、離して…!」懇願するように、私は言った。「あなたを、巻き込みたくないの」
私の言葉に、彼は怪訝な表情を浮かべた。当然だ。彼には、私の言葉の意味が分かるはずもない。もう魔法は止められない。このままでは、彼も一緒にーー。
「何を…」
彼が言い終わる前に、私たちの体を白い光が包み込む。
彼の腕を振りほどく間もなく、強烈な浮遊感が全身を襲い、私たちの視界は真っ白に染まった。