9.晩酌
晩酌をよくする。
テレビはつけるが消音にして、代わりにオーディオをかける。つまみはチーズかナッツ類を少しだけ。
だが、今日は違う。
テーブルの上には配達してもらった魚介のパエリアが置いてある。
そして、ウイスキー。
魚介に合わないのはわかっている。セラーにはふさわしい酒がいくらでもある。アルバリーニョの白ワイン、軽めのカヴァ、辛口のシェリー。
だが、今日はどうしてもウイスキーが飲みたかった。飲みたい酒を。どうせなら、目の冴えるものがよかった。
『待たせたな』
スピーカー越しに、衝馬の声が聞こえてきた。
あの日、思歩から婚前契約書がはじめて届いた日に連絡を取ってから、予定がない日曜の夕食時に繋いで雑談を挟むようになった。
きっかけは衝馬の一言だった。
『そういやお前、どうせまた休日まともに食ってないだろ』
またその話か、と顔をしかめてしまう。声だけでなければ見咎められたところだ。それにしても、図星を突かれると人はなぜ言い訳したくなるのか。
「そんなことない。みんなよく付き合ってくれるよ」
『そういう話じゃない。今日は一人だったんだろ。何食ったか言ってみろ』
ウイスキーのグラスを傾けながら、過去を辿るように目を細める。
何かを口にした覚えはなかった。胃にわずかな満足感があるから、何かは食べたのだろう。だが、それが何だったか思い出せない。
「忘れた」
『ほらな。どうせプロテインバーとかナッツとかだろ』
記憶が一気に戻ってくる。
ゴミ箱に捨てた個包装の袋が脳裏によみがえった。
「ああ、そういえばそうだった。よくわかったな」
『なんも変わってねえじゃねえか。……日曜だったら農場は人が引く。一人で食いそうなときは繋げよ。そん時に食べろ』
「はは。ありがたいね」
そんな会話のあった週の日曜日だ。約束通り、衝馬は電話に応じた。
それだけで、今日はちゃんとした夕食を摂ろうという気になった。
誰かとの予定がないと、食べることを忘れてしまう。空腹に耐えられなくなったら食べるだろうと人は言う。そうだったらよかったな、とおれ自身も昔から思っている。
結局、誰かと食事の予定を組むまでは、カロリーのある飲み物と間食で済ませてしまう。
そんなおれの悪癖を、衝馬はよく知っている。
『そんな食い方してたら、逆に肥るぞ』
「それは嫌だな。登れなくなる」
『好きだねえ。何ならこっち来いよ。登れそうな岩なんかいくらでもあるぜ』
「ロッククライミングもいいな」
衝馬は例によって、マチャコスの農場にある休憩小屋から通話しているらしい。
おれはしばらく衝馬の近況を聞いてから、話を切り出した。
「……会ってきたよ。思歩と」
『そうか』
衝馬がぽつりとつぶやく。
少し間を置いて、静かに笑うような声がした。その笑みは容易に想像できた。
『それで、受けるのか? 〈契約〉を』
「提案には乗った。受ける方向で話を進めるつもりではある。けど……」
おれはウイスキーを一口飲んだ。
アイリッシュの穏やかな香りが、パエリアの焦げた米の香ばしさを引き立てた。バーボンなら甘さが勝ちすぎるだろうと思ったのに、この一本は不思議なほど馴染んだ。
「彼女は、鷹津とうまくやっていけるだろうか。そういうの、まったく考えなかった。考慮するべきだったのに。……おまえにとっても無関係な話じゃないのにな。軽率だったかもしれない」
『軽率、ねえ。それを見極めるための精密調査をこれからやるって話なんじゃないのか?』
言いながら、笑っているのがわかった。どこか呆れたような笑いだった。
『ま、もう向き合うしかねえからな。ちゃんとやれよ。双方合意で結ばれる契約ってのは、それなりに美しいもんだ』