8.プレナップを届けた後
──さて、と。
思歩はタブレットを閉じ、カフェのソファ席にもたれかかった。
昼下がりのカフェは、平日のわりに賑やかだった。通りに面した窓からは、まだ強い日差しが差し込んでいる。
待ち合わせより少し早く着いたのをいいことに、ずっと編集を続けていた〈婚前契約書〉の文面を見直していた。
先週、バーで時仁さんに草案を見せた。
今朝、清書したPDFを送信して──これで、ひとまず準備は整った。
おかしいな、軽く見直すつもりだったのに。
思歩は苦笑しながら、ようやくタブレットから視線を切った。
ちょうどそのタイミングで、扉のベルがからりと鳴る。
振り返ると、昼休みを抜けてきた柊木がこちらに手を振っていた。
彼女は同じ事務所に勤める弁護士補助だ。
思歩より一つ年上。しっかり者で、何より耳が早い。
「おつかれー。……って、なにそれ?」
席につくなり、柊木はテーブル脇のタブレットを覗き込み、目を細めた。画面には、編集したばかりの契約書が映っている。
「契約書?」
「うん。婚前契約書の草案」
サラリと返すと、柊木がこちらを向いた。
「プレナップ!? えっ。マジ?」
「マジマジ。先方には直接交渉済み。……いやあ、緊張したなぁ」
笑ってはみたが、昨夜のやり取りを思い出すと、手のひらにかすかに汗がにじむ気がした。
「直接交渉!? てか、え、えっ!? 結婚すんの?」
「したいね」
「したいの!? 相手だれ!? まさか社内の──」
「ちがうちがう。お兄ちゃんの友達」
「お兄ちゃんの友達! ちょうどいい距離感!」
思歩は、ふっと息を抜いて笑った。
ちょうどいい。──ほんとうに?
近すぎず、遠すぎず、絶妙な隔たりがあるようにも思える。
柊木は両手で頭を押さえながら呻いた。
「あ、ちょっと待って。テンパってきた……」
「揉めごとは先に契約で潰す。大人のたしなみってやつよね」
口ではそう言いながら、思歩は心の中で付け加える。
――本当は、怖いだけかもしれない。
最初に決めておけばいい。揉める前に、線を引いておけば。
そう思っている時点で、かなり臆病だ。
「いやいやいや。もうちょいこう、恋愛っぽい手順踏もうよ。プロポーズとか、デートとかさ」
「んー、モデルプランを、お財布分担パターン別で三案出す予定だけど」
仕事じゃないんだから、とつぶやいて柊木がメニューに顔を突っ伏す。
「うわ~……。ほんとに結婚するつもりじゃん……」
彼女の声がこもって聞こえたあと、ひょこっと顔だけ持ち上げてこちらを見た。
「で? どんな人なの?」
ふいに真面目な顔になるから困る。
思歩は一瞬だけまばたきし、それからゆっくりと口を開いた。
「たまに抜けてるけど、なぜかちゃんとした人に見えちゃうんだよね」
「なるほどね。それって、好きじゃん?」
ずばりと言われて、思歩は黙ったまま、紅茶のカップに触れた。
「……契約書って、いちばん誠実なラブレターじゃない?」
その言葉に、柊木は一瞬ぽかんとして──次の瞬間、声を張り上げた。
「やっぱ好きなんじゃん!!」
「そういう話じゃないんだけどな」
思歩はカップを持ち上げ、紅茶で口元をごまかした。