7.契約のはじまり
「よければ、紙でどうぞ」
そう言って思歩が差し出してきたのは、PDFを印刷したものだった。
薄い。A4サイズでたった七ページしかない。そのうちの一ページは別紙だから、実質六ページに収まっているということになる。
だが、薄くても契約書には違いはない。
見開きに記された〈第2条(目的)〉の一文を読んで、思わず姿勢を正した。
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第2条(目的)
本契約は、婚姻生活における意思決定の透明性を高め、家計・財産・責任の分担を明確にし、紛争の未然防止と迅速な解決に資することを目的とします。
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紛争の未然防止。迅速な解決。
「第2条は、争わないために契約をしましょう、という目的の確認ですね」
「たとえ争うことになったとしても、迅速に解決するための手段として契約書を使う、と」
「そうです」
つまり、この契約書は、夫婦関係が破綻することを前提に組まれている。
契約書というのは、確かにそういうものではあるのだが。
──これは、ふざけて出されたものではない。
いや、もちろんわかっていた。だが、ここにきてようやく、彼女の本気度をじわじわと実感してくる。
「……ほんとに、マジの契約書だな」
「そう言ったじゃないですか?」
思歩はどこか嬉しそうだ。
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第3条(適用範囲と関係法令)
1 本契約は、甲乙間の内部関係を定めるものであり、第三者に当然に対抗する効力を有するものではありません。
2 第三者に対抗する必要がある事項は、必要に応じて民法その他の法令に従い、手続(例:夫婦財産契約の登記)を行います。
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第三者に当然に対抗しない。
「第3条は、これはふたりの間にだけ通用するルールですよ、ということです」
それを〈正式な書面〉でやるという選択は思歩らしい。
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第4条(基本原則)
1 甲乙は、相互の人格を尊重し、誠実に協議します。
2 本契約の解釈に疑義が生じた場合、信義則および条項相互の整合性に配慮して合理的に解決します。
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読みながら、思わず笑ってしまった。
信義則――相互に相手方の信頼を裏切らないよう誠実に行動しなければならないという原則。これを〈婚活〉の文脈で突き付けられるとは思わなかった。
これは、信用できない相手に突きつける契約ではない。
むしろ、誠実であろうとすればこそ、こういう形で明言する契約が必要なのかもしれない。
「話し合いで解決か。契約を締結した後でも?」
「契約書っていうのは都度、見直すものですよ。状況はいくらでも変わりますし、何事も完璧にはやれませんからね」
完璧に振る舞えないこと。感情に左右されてしまうこと。
活字の羅列は冷たくみえるが、それらをすべてを許容して、包みこむことを約束している。
そのぶん、現実には合ってる。
おれは六ページ目――別紙を除いた契約の最終ページをめくった。
「全部で十九条か。意外と少ないな」
思歩はモスコミュールを一口飲んでから言った。
「最初は三十四条だったんですからね。だいぶ絞りましたよ」
最後のほうで、ふと目が止まった。
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第18条(婚前契約であることの確認)
本契約は婚前に締結されたものであり、婚姻中の夫婦間の契約の取消しに関する特則の適用対象ではないことを、当事者は確認します。
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「……『契約の取消しに関する特則』ってなに?」
思歩は、ちょっと嬉しそうに、待ってましたとばかりに言った。
「あ、気になります?」
「『適用対象ではない』。契約に対してそんなことが書けるのか」
「書けますよ。宣言というよりは、『そもそも適用外ですからね』っていう確認ですから。民法754条はご存じですか?」
「いや」
「民法754条はですね、簡単にいうと『婚姻中に締結された夫婦間の契約は、どんな契約であれ、夫婦の一方から取り消せますよ』っていう条文です」
何を言っているのか、一瞬飲み込めなかった。
「一方的に? 取り消せる? ……契約を?」
「はい。たとえば、夫婦間で『財産分与はしない』って契約を結んだ場合でも、どちらかが『やっぱり財産分与を求める』と後から主張したりね。できたんです。夫婦関係が破綻していないときだけ使える〈特別ルール〉ですね」
「そんなことが? 関係が良好だとしても理不尽すぎやしないか。契約の意味がないじゃないか」
「そうなる可能性はありますね。だから、民法754条が有効なうちは、プレナップは婚姻前に締結するんですよ。婚姻中に契約したら、後から取り消せる可能性がありますから」
そう言って、思歩はグラスに口をつけた。
「これからは、少し事情が変わると思います。二〇二六年までに条文削除が決まっているので。でも、施行はまだですから」
「……この契約は、未来のおれたちが、いまの合意を踏みにじらないように作るんだな」
「その通りです」
思歩はにっこりと微笑んだ。
「それで。いかがでしょうか。このプロジェクトに乗ってみませんか?」
言葉は軽やかだったが、ふざけた調子ではない。
俺は思わず、契約書に視線を落とした。
「この契約書づくりに付き合えってことかな」
思歩はうなずく。
「そうです。……婚姻届を出すことも含めて」
グラスの氷が溶けて、カランと音を立てる。
水滴が滴り、袖を伝うのもかまわずに、残りを飲み干す。喉を通る冷たさが、さっきまで現実感のなかった「契約」の二文字を、急に現実の重みに変えてきた。
形式張ってはいたが、根っこは誠実だった。
思歩らしい、律儀な冗談。
だが、ここに書かれていることは、冗談では済まない。
済ませる気がない。
もう一度、思歩を見た。
「いいよ。乗る」
口の端が勝手に上がった。
挑発してるみたいな顔になってるかな。
「……プロジェクトって言ったな? なら途中で投げ出さないでくれよ。おれもそうする」
一瞬、彼女は驚いたように目を見開いたが、すぐに笑いかえしてきた。
「はい。言質いただきました」
快活で、どこか小賢しい笑い方だった。
その笑いが残る口元でグラスに手を伸ばしかけて、思歩はふと視線を横に流した。
卓上の伝票が、いつのまにか片付けられている。
「あれ? もしかして払っちゃったんですか」
「そりゃあね」
思歩は数秒だけ黙り、口をへの字に曲げた。
「払うつもりだったのに。男性側が奢るって今では古い価値観なんですよ?」
「おれはね、ただの男じゃなくって、君のお兄ちゃんの友達なの。払わせるわけないだろ」
彼女はまだちょっと悔しそうだったが、やがて諦めたように息を吐いた。そのあと、少し肩の力を抜いたように笑った。
「……まあ、ではありがたく。ごちそうさまでした」