66.レセプション
春先の夜気はまだうっすらと冷たい。
ホテルのエントランスに入ると、柔らかな照明が視界に広がった。
おれは胸元に手を添える。今夜はタキシードだ。拝絹のショールカラーに黒の蝶ネクタイ、白いリネンのチーフ。足元はプレーントゥの革靴。左手の薬指には白金が光っている。
時計のストラップは、思歩からもらったネイビーに付け替えた。文字盤は裏返してある。今後、妻とのデートではずっとそうするだろう。彼女と過ごすのに、時刻を確認する必要はない。
隣に立つ思歩は、ミッドナイトブルーのショール襟ジャケットに、黒のシルク・カラム。ボートネックの上でダイヤが輝いている。薄いブラックストッキングに、足元は黒いパンプス。手には黒いクラッチ。髪は低いシニヨンにまとめている。
凛とした美しさもあるが、何よりもかっこいい。
「緊張してない?」
「少しだけ。でも、あなたがいれば平気ですよ」
「嬉しいことをいってくれる」
エントランスのスタッフに名を告げ、バッジを受け取る。
ガラス越しに大広間が見えた。背の高い装花と、白を基調にした丸卓が等間隔で並ぶ。壁際では同時通訳のブースの青いインジケーターが点っていて、上の壇には省庁と経済団体のロゴが掲げられていた。
入ってすぐに、知った顔が目に入った。
「お久しぶりです、香邑さま」
昼餐会のときにも顔を合わせた、父の古い友人。今は文化財団の評議員として経団連の会合に顔を出しているから、もちろんこのレセプションにも参加していると思っていた。
おれからの挨拶に、彼は微笑んで応じてくれる。
「やあ、時仁くん。――おや」
視線が隣で止まる。
「ご紹介します。妻の思歩です」
「鷹津の次男坊も、ようやく落ち着いたか。――奥さま、今夜の装いは凛々しくてよろしい」
「ありがとうございます」
彼の場慣れした微笑と差し出された手を取り、握手がほどけるころには、相手の目はいくらか柔らいでいた。
次の卓へ。北米線を抱える海運の営業本部長、化学メーカーのサステナビリティ担当役員。
そして、あの夜ビリヤードを打ったPEファンドのプリンシパル。
「お久しぶりです、鷹津さん」
「ええ、先日はお世話になりました」
プリンシパルは思歩のほうに目をやる。
「奥さまにようやくお会いできて嬉しいですよ」
余計なことを。嬉しさのような、気恥ずかしさのような感情が込み上げるが、口角を少し上げるだけで止める。思歩は、少し首を傾げるだけだった。
肩書きだけで終わらないやり取りが、卓をまたいでいく。思歩は過不足なく受け、必要なときだけ一歩前に出る。それ以外では、おれの半歩うしろで微笑んで、相手の言葉をきちんと聞いていた。
ふいに、背後から名を呼ばれる。
「時仁」
振り向くと、黒のタキシードに、結び目の乱れひとつない黒蝶。その姿を目にした瞬間、思わず声が弾んでしまう。
「――兄さん!」
「なかなか顔を見せられなくて済まない。昨年はいろいろ押し付けてしまったな」
「とんでもない。お役に立てて、良かったです」
「ああ。――結婚、おめでとう」
真正面から言われると、どうにもくすぐったい。うまく笑えなくて、短く礼を言う。無意識に蝶ネクタイを指先で確かめてしまう。
「ご挨拶が遅れました。妻の思歩です」
「ご丁寧に。鷹津 紀雅と申します。時仁の兄です。どうぞよろしく」
そう言って、兄は思歩と握手を交わす。彼女の装いを見て、兄は目尻をやわらげた。
「今夜は人が多いですからね。挨拶が終わったら、あとはゆっくりなさるといい」
「はい。ありがとうございます」
「時仁を、よろしく頼みます」
思歩は静かにうなずく。短い言葉の積み方が、記憶にある兄と何も変わらなかった。
兄は胸ポケットにちらと目を落としてから「では失礼」と去ろうとして、ふと歩みを止める。
「時仁」
「はい」
「幸せそうでよかった」
それだけ言って、兄は人の波に消えた。
背中が小さくなるまで目で追ってから、やっと息を吐く。しばらくその方向から目が離せなかった。
――兄さんの背中は、いまも遠い。
歳が十も離れているからだろう。おれが物心ついたころにはもう立派な兄だった。ずっと、あの背中を見続けている。
その後も二、三の会話を捌いてから、名札を返して、外へ出る。廊下の曲がり角を抜けた先、窓の外には春の夜がひろがっていた。
「お疲れさま」
「お疲れさまです。楽しい場所ですね」
「……頼もしい言葉だ」
エレベーターホールの手前、人が途切れた場所で立ち止まる。
「ありがとう、思歩」
それだけでは足りなかった。言葉を選ぶまえに、口から気持ちがこぼれる。
「愛している。……君を愛し続ける。そのためなら、おれは何でもする」
思歩はゆっくりと頷いた。
「愛しています。……私は、あなたと同じ場所に立って、同じものが見たい。わかり合えないことも、分かち合いたい。――この関係を続けましょう。きっと、できます」
ふたりで視線を落とす。そこに並んだ指輪が、窓外の光を小さく受け止めている。
おれは彼女の手を取って、静かにエレベーターへ向かった。




